上総介信長の旗元衆1(親衛隊)黒幌衆

織田家臣団、織田信秀の馬廻衆、信長の馬廻衆「親衛隊(赤幌衆と黒幌「母衣」衆)」・尺限廻番衆・旗元(旗本)馬廻五奉行(隊長旗頭)・小姓衆・弓(鉄砲)衆・相撲取り(力士)衆のページです

織田信長の家臣団と軍団

尾張国守護斯波家家臣。尾張守護代清州城大和守家三奉行のひとつ。津島勝幡城織田家創設者。

織田弾正忠信秀の次男(兄・信広の今川家捕虜事件・嫡男失脚のち、信秀嫡男となり継承)

<黒幌(黒母衣)衆>       凡例 ⇔ 他ページにも登場。
「当代記」1567(永禄12)年頃に黒・赤あわせて20名(10名+10名で欠員がでた際の補充で追加メンハ゛ー増)。
<メンバーは小領主的な土豪で、寄騎(単騎の侍)を従える、馬廻衆隊長格から選抜されているようです。>
赤幌よりやや上の世代の経験値を積んだ実戦派が多いと思われます(1535年以前の生まれか、信長と同年代くらいの世代かと)。谷口克弘氏の「信長と織田軍団」によれば『高木文書』「渥美~」に掲載されることから1559(永禄2)年頃に赤10名・黒10名とあるので、1559~1567年間にメンバーの入れ替えを行いつつ存続した親衛隊かと思われます。
 最初は黒は馬廻り、赤は小姓から選抜されたのが、後半は戸田勝成に前田利家の言うように武功の20人から「くじ引き」で赤か黒となったのかもしれません。渥美氏が「公記」などに公式に名前が残らない理由は、1573年に戦死した明智光秀与力の人物に関連することかもしれませんね。

⇔↑① 川尻秀隆 /kawajiri,hidetaka(*1527~1582)河尻秀隆・与兵衛・肥前守・鎮吉・重遠。愛知郡岩崎村出身。親重の息。織田一門とも。母は織田信敏(秀敏の誤?)の娘。甥に毛利長秀。16歳で織田信秀に従い1542年「小豆坂の合戦」に武功あり。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌筆頭のエース)。池田恒興とともに織田信忠の後見人。1558年信長の命で織田信勝を成敗。1560年「桶狭間」従軍。「堂洞城攻囲」に従軍。1564年美濃「猿啄城攻略」に丹羽長秀とともに軍功。1564年「堂洞城攻略」に一番槍。1569年対北畠氏の「伊勢侵攻」に従軍。1570年「姉川合戦」に従軍。1574年池田恒興とともに東美濃「明智城救援」に出動。「長篠の合戦」で鉄砲隊指揮官。1575年「岩村城攻略」に軍功。11月岩村城主として武田家に備える。1582年2月「甲斐乱入」に軍功。甲斐守護、府中城主。関東方面軍副将。<16歳初陣「小豆坂」が第一次(1542)か二次(1548)かで年齢が変わって来るんでしょう。><清洲・織田大和守家の家臣の名門・河尻(左馬丞家)を継承。信忠軍団に配属。肥前守は息子・秀長も名乗っている。><織田信忠の軍団 信忠主力軍その2 川尻秀隆の軍団 ⇔織田信長の六大軍団長と近衛軍のページも参照して下さい。>

⇔② 中川重政 /nakagawa,sigemasa(*~*1582)織田忠政・中河・八郎右(左)衛門・駿河守・入道土玄。織田一族。中川治部左衛門・伊治の養子。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー2)。南近江安土城主。「勇武倫を絶す」と伝わる。1568年入洛後、京都の諸政を木下秀吉・明智光秀・丹羽長秀と分担する。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1570年近江安土城主。1572年に柴田勝家と領地争いがあり、弟が・信重(入道盛月)代官を切り改易。家康に仕えるという。「見方ヶ原の合戦」に参加。以後消息不明。<織田越前守の候補のひとり><本能寺の変後、吉田兼和(兼見)をゆすりに京都にあらわれたとか・・。><斯波家家老の那古屋氏と縁が深い簗田家とも関係有か。中川重政の娘婿となった那古屋高久の息子は織田九右衛門(那古屋山三郎)と名乗ります。>

⇔③ 佐々成政 /saxtusa,narimasa(1535*1539~1588)内蔵助・陸奥守。本拠地は南尾張清洲の東方の春日郡・比良城城主。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー3)。1561年美濃「十四条の夜合戦」に池田恒興とともに軍功。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1570年浅井長政との合戦に簗田広正・中条家忠とともに殿軍を勤める軍功。1575年「長篠の合戦」で鉄砲隊指揮官。越前府中三人衆として、小丸城城主。1577年9月「手取川の合戦」に敗北。1578年「荒木征伐」に従軍、攝津に半年ほど在番。1580年9月越中に乱入。北陸方面軍目付。越中守護。息に松千代。<のちに柴田軍団に配属。黒幌衆筆頭としては年齢が若すぎる。兄二人の事績が混同されるか?。佐々成政の母は余語氏の娘であることから、余語家を通じて坂井政尚とは縁戚。><母は堀場氏出身とも。><『武功夜話』では佐々・簗田・中条は春日井衆で一括される。>

⇔▽矢島* (*)五郎右衛門。佐々成政家臣。<矢島六人衆の四郎右衛門と一族か?。>

⇔④ 津田信重 /tuda,nobusige(*~1593)織田・左馬允・隼人正・四郎左衛門・盛月。中川重政の弟。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー4(兄弟で②と④を持つ))。1568年足利義昭の護衛として本圀寺で三好三人衆と戦う。1570年柴田勝家と領地争いがあり、代官を切り逐電。後、羽柴秀吉に仕える。息に信任。<羽柴軍団に配属(信長様の許しを得ず、かってに仕官とも)。惟任軍の那波、斉藤利三と同じような立場です。前田利家のような、再仕官の為の、いわゆる「陣借り」だったのでしょうか。>

⇔⑤ 毛利秀高 /mouri,hidetaka(*~1582)毛利良勝・新助・(十郎?)・新左衛門。毛利秀頼を養育。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー5)。1560年「桶狭間」に今川義元を討つ。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1579年大和国薬師寺の代官。1582年3月の「甲州乱入」に従軍。信忠側近。1582年6月二条御所で討死。<毛利十郎と同一人物らしい。今川義元を討ち取った、幸運の武将。織田家に福をよびます。信忠軍団に配属。>

⇔↓⑥ 平井長康 /hirai,nagayasu(*~1582)平出・久右衛門・久左衛門。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー6)。のち信長直属の「弓衆」の隊長。清洲同盟後の三河西加茂郡侵攻で武功。<最後まで一番そばにいた黒幌衆ですね。詳しくは織田信長の近衛軍のページを参照してください。>

平手* (*)久左衛門。信長家臣。<平井久左衛門の表記が誤りか?>

⇔⑦ 伊東 * /itou,*(*~1569)武兵衛。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー7)。坂井迫道という人物を殺め逐電し今川家に仕える。徳川家康との掛川城の攻防で戦没。尾張の祭りで弁慶役を務める。<弟の伊東長久は赤幌衆から、のち中国方面の羽柴秀吉の与力。>(のち伊東は逐電、中川・津田兄弟失脚。)

⇔⑧ 水野忠光 /mizuno,tadamitu(*)帯刀左衛門・<忠広カ>。三河出身。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー8)。<水野忠広は1560年「桶狭間の合戦」に丹下砦を守備する。1561年「軽海の合戦」に従軍。以後消息不明。<事績が伝わらないのは、水野信元がらみでしょうか、それとも「本能寺の変」で明智に協力した水野直盛の関係でしょうか(小笠原長忠の様に謀反人として事績抹消とか)。水野家は複雑です。それとも1582年「本能寺の変」にて討死を遂げる水野九蔵はこの方の血脈でしょうか。家系断絶で事績が伝わらないのか。><明智に与した一族も居たので不都合は消されるか>

⇔⑨ 松岡高光 /matuoka,takamitu (*)九郎次郎・九郎二郎。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー9)。1561年「軽海の合戦」に従軍。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。変後は秀吉に出仕。1584年淀城留守居役。<津田宗及の茶会によく招待される。>

⇔↓⑩ 生駒* /ikoma,*(*)(土田)・勝介・勝助・正之助・庄之助。生駒摂津守・久通の息。生駒親重(親正の父)の甥。元・犬山織田信清の家臣。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(黒幌ナンバー10)。「浮野の合戦」に武功。信長に仕官。黒幌衆に選抜される。1569年伊勢北畠氏攻略に「大河内城攻囲」尺限廻番衆に選抜。以降経歴不明。<生駒家長・親正の従兄弟ということになります・・。><同じ尺限廻番衆に生駒平左衛門が併記される。下記の廻番衆を参照してください。>

⇔⑪ 蜂屋頼隆 /hachiya,yoritaka(*1534~1589)(土岐・般若ノ介?)・兵庫頭・出羽守。和泉守護。美濃出身・金森長近と同郷。丹羽長秀の妹婿。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(補充・追加のメンバー)。<1556年美濃蜂屋氏は道三側に属したため義龍軍に討伐される。>1568年「上洛戦」に従軍。入洛後は柴田勝家・森可成・坂井政尚と諸政を分担する。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1572年信忠初陣「江北出兵」に従軍。1573年「足利義昭追放」に従軍。1573年朝倉・浅井征伐に従軍。1573年「北伊勢一揆攻略」に従軍。1575年「越前一向一揆平定」に従軍。1576年「石山本願寺攻囲」に従軍。1577年近江肥田城主。1577年「紀伊雑賀攻略」に従軍。1578年4月「本願寺攻囲」に従軍、5月「尼子救援・別所征伐」に従軍。1578年10月「荒木征伐」に従軍。四国方面軍目付。のち秀吉に出仕し敦賀支配。<三好・惟住軍団に配属。「般若ノ介」って名乗りはいいセンスです。中川重政さんの跡職(近江肥田)、佐久間信盛さんの跡職(紀伊方面)と追放された方々の「穴埋め」を堅実に勤めながら出世していきます。丹羽長秀の妹婿・大津長昌(~1579)戦死後、遺された長昌室の婿に迎えられ、丹羽一門として南海方面軍で四国に渡るようです。「代役人生」まっしぐら。リリーフかピンチヒッターの貴重な人材です。><⇔織田信長の近衛軍のページを参照して下さい。>

⇔⑫ 野々村正成 /nonomura,masanari(*~1582)三十郎。美濃出身。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(補充・追加のメンバー)(『武家事記』では赤の8番)。1561年「軽海の合戦」に斎藤側として参陣し、織田信益を討取る。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1575年「長篠の合戦」で鉄砲隊指揮官。信長側近ののち信忠側近か。1582年「本能寺の変」に二条御所で討死。<紀州雑賀攻略で軍事指揮。堀秀政さんとともに一方の旗頭の地位にあるようです。根来襲撃で輝きをはなちます。川尻秀隆や毛利秀頼が地方領主として信忠の傍から離れて以降の補佐役として、信長様から付属されたのでしょうか。><⇔織田信長の近衛軍のページを参照して下さい。同時代人の野々村三十郎・正幸と事績がよく混同されます。>

⇔⑬ 中島 * /nakajima,*(*)主水正。犬山衆。織田信清の家臣。堀秀重(1532~1606)の娘婿。堀秀政の義兄弟。織田信長馬廻兼親衛隊・黒幌衆のひとり(補充・追加のメンバー)。1557年織田信清とともに信長方として出陣、岩倉衆と「浮野の合戦」に軍功。犬山落城により織田信長直属か。<元・陪臣ですが、武勇にきこえていたので、特別枠とかでしょうか。意外に若手。中島豊後守や中島勝太の一門でしょう。><1573年近江志賀郡堅田攻めに明智光秀の一手で戦死する中嶋あり。>

≪個人的感想≫ 佐々成政の生没年が黒幌衆にしては、遅生まれ過ぎて、まして筆頭なんて怪しいのではないかと。兄達が桶狭間などで立て続けに戦死するので、黒幌が兄からどんどん継承されて成政でおちついてるのかなあと思っています。飯尾家や下方家の場合もそうなんじゃないかと・・。
 黒幌は一騎駆けの武士ではなく、家臣団(寄騎)を持つ小身(小名)の隊長格のから選抜されているので、隊長(当主・寄親)が死んだ場合は家督を継いだその一門の子弟が(よっぽど武辺不甲斐無い者でなければ)許されて相伝の母衣を受け継いだのではないのでしょうか。人物を認めるというよりは、その武士団の一党の代表として評価がされて黒幌なのではないでしょうか。
  蜂屋・野々村は欠員(出奔・戦死)がでた時に追加されたメンバーです。
尾張衆の失脚により元美濃衆にもチャンスが与えれれる効果でしょうか。
 黒幌衆、赤幌衆のその後の配置を見ていくと、各軍団長の与力(監視役の目付け)として、均等に配分されていってるような気がします。羽柴秀吉のもとにも木下(中川重政の弟)・伊東は信長様の意向で配置されてるのではないでしょうか。
 明智(惟任)光秀の軍団にも目付けとして、黒か赤の内から絶対に誰かが派遣されていたと推測されます。
この後の 水野、生駒、松岡、中島の配属先が気になります。
*1559年2月に信長 初上洛。『言継卿記』には「(信長家臣)異形の者多し」と記される。

(黒幌衆の関係者
⇔↑生駒家長 /ikoma,ienaga(*~1607)八右衛門。尾張の丹羽郡小折村の豪商・生駒家宗の息。生駒親重(親正の父)の甥。炭・油の商いを家業とす。信長が妹婿。信長正室の兄。はじめ犬山城主織田信清の被官。1558年「浮野の合戦」に従軍。1561年「森部合戦」に殊勲。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍<尺限廻番衆に生駒勝介あり。1570年朝倉攻めに負傷、「姉川合戦」に参戦。のち北畠信雄の後見人。伊勢長島城主。<元祖・黒幌保有者か?別名、勝介・正之助だったりしないのでしょうか?。><近江で刺客に狙われたとき信長様の楯となり負傷するほど傍にいたということで、黒幌のひとりだったのではないかと推測してみました(妄想です)。><それと生駒一門では、信長様に何かの理由で勘当され、瀧川一益与力(武功を挙げて赦免されるための陣借り?)となり戦死する生駒将監も気になる人物です。>

⇔↑ 飯尾定宗 /ikoma,sadamune(*~1560)(織田定宗)・近江守。織田信秀の従兄弟(または叔父)。飯尾家に養子。尾張国奥田城主。馬廻衆として重きをなす。子息・信宗(尚清)は信長赤幌衆のひとり。尾張の祭りで弁慶役を務める。1556年6月守山城攻略に従軍。1560年5月今川家に備え鷲津砦を守備。尾張国中島郡。娘婿に柴田勝家。<幕府奉公衆飯尾氏一門か?。今川氏に従って尾張那古屋今川氏の与力だったか?><元祖・黒幌保有者か?><柴田・飯尾・長谷川ネットワーク。柴田勝家との関係は未確認情報です。>

⇔↑佐々成吉 /saxtusa,nariyosi(*1525~1560)佐々政次・隼人正・下野守・長盛。元は尾張北守護代(岩倉)家の家臣。佐々盛政の息、佐々成政の兄。織田信秀の馬廻衆。1542年第1次「小豆坂の合戦」に武功、1548年第2次「小豆坂の合戦」小豆坂七本槍の一人。1560年「桶狭間の合戦」に信長本軍の別働隊として、千秋季忠とともに討死。娘婿に松原直元。<元祖・黒幌保有者か?><この人の死後、佐々家離反の噂がたったようです。あいついで一門に戦死者がでるのに不遇だったからかなあ・・。風評は敵の離間策かもですけど。><佐々成政家臣の松原直元(政次の娘婿)と濃い縁戚関係です。>

⇔↑佐々成経 /saxtusa,naritune(*1527~1556)佐々・孫介・盛種。佐々成政の兄。織田信秀の馬廻衆。1542年第1次「小豆坂の合戦」に武功、1548年第2次「小豆坂の合戦」小豆坂七本槍の一人。矢島六人衆のひとり。1556年織田信勝と信長の跡継ぎ争い「稲生の合戦」に信長側で柴田勝家勢と戦い討死。<元祖・黒幌保有者か?>

⇔×▽水野信政 /mizuno,nobumasa(*~1575)藤四郎・十郎左衛門・信正。水野信元の長男(惣領・水野信近の息を養子とするか)。織田信長家臣。水野家惣領・刈谷水野信近の跡職を継承。1570年上洛。1575年父の罪に連座し自害。<1560年「桶狭間の合戦」時に水野氏の動向が気になります。岡部が退却時に刈谷を襲撃して落としたのは何故。義元本隊の位置を連絡していたのは・・。><信長様の勘気により、武功、事績の消される武将です。水野家でも恨みが募っての「本能寺の変」の怪しい動きなのでしょうか。><馬廻りとして信長に近い忠重が惣領を継ぐという、前田利家の家督相続と同じような状況が作り出されたか。>

<赤幌(赤母衣)衆> 「当代記」1567年頃に黒・赤20名(10名+10名で欠員がでた際の補充で追加メンハ゛ー増)。
側近や小姓衆から選抜されている。(*=生没年が疑わしい)<メンバーは一騎掛けの側近から選ばれているようです。>
(従来の金森長近の年齢に違和感があります誤りではないでしょうか)。
信長のお気に入り弟分達という感じでしょう(1535~1545年生まれくらいが主と考えられます)。

⇔① 前田利家 /maeda,tosiie(1537*1538~1599)(菅原)・犬千代・孫四郎・又左衛門・加賀大納言。尾張海東郡の豪族、荒子城主、前田利昌の四男。幼年から小姓として信長に出仕。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり(赤のエース・筆頭)。(『武家事記』では赤の2番)1552年「萱津の合戦」に軍功。一時信長の元から出奔。1560年「桶狭間の合戦」、「森部の合戦」に軍功を挙げ帰参。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1573年朝倉・浅井征伐に従軍。1573年「伊勢一揆征伐」に従軍。1575年「長篠の合戦」で鉄砲隊指揮官。のち越前府中三人衆。能登守護。1577年9月「手取川の合戦」に敗北。1578年「荒木征伐」に従軍、半年間攝津に在陣。1581年「能登平定」に従軍、飯山城番。のち能登国拝領。畠山家家老・長連龍を与力とする。北陸方面軍目付。<柴田軍団に配属。柴田、羽柴の橋渡し役。>

⇔② 浅井政澄 /asai,masazumi(*~1580*1581)新八郎・政貞・信広。中島郡苅安賀の豪族。毛利秀頼(長秀)の妹婿。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。1568年京都上洛に従軍、7月「箕作城攻略」に軍功。「小谷城攻囲」、「長島一揆征伐」に従軍。のちに織田信忠の直臣。1578年信忠に従い播磨三木表に出陣。子息・田宮丸(苅安賀長時)は北畠信雄の家老。<信忠軍団に配属。熱田・浅井備中守の一門でしょうか、尾張の津島の祭りで黒鬼役を浅井備中守の家来衆が勤めている(平手内膳の家来衆が赤鬼)。「稲生の合戦」に武功。備中守の娘婿は千秋季信)。><浅井政高が木全征詮を破り家臣に加え、息・木全忠澄は浅井政澄の家臣。のち木全忠澄が瀧川氏の家老となるのは浅井家が何かの理由で没落したためか。>

⇔③ 木下嘉俊 /kinosita,yositosi(*~1584)(織田嘉俊)・津田・雅楽助・周防守・薩摩守。中川重政・津田盛月の弟。1560年「桶狭間」、「森部の合戦」に従軍。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1572年重政失脚に連座か。のち羽柴秀吉に出仕。<羽柴軍団に配属。1581年馬揃えの一門衆に織田周防守。赦免されていたのか・・・。木下姓は誰から継承したのか気になるところです。堀秀政さんとともに中国親征の先陣として派遣された中国陣にあり、「本能寺の変」から秀吉さんと行動をともにし次第に臣下として組み込まれたのでしょうか。後世に最初から秀吉家臣と誤解されたとか。>

 羽柴秀吉・中国方面軍<木下・伊東は、前田・佐々のように中国地方方面軍の軍監か?>
⇔④ 伊東長久 /itou,nagahisa(*~1585)(堀江長久)・清蔵・七蔵・祐之。今川家に出奔した黒幌・伊東武兵衛の弟。信長の『槍三本』のひとり。ある時、兜なく編笠で戦闘にのぞみ「編笠清蔵」の異名あり。1570年「小谷城攻囲」に軍功。1573年「小谷攻略」にも軍功。のちに秀吉の旗奉行となる。<羽柴軍団に配属。>

⑤ 岩室重休 /iwamuro,sigeyasu(*~1561*1562)(東加藤)・長門守。信長に寵用される。1560年「桶狭間の合戦」に従った五小姓のひとり。1562年織田信清の支城、中島豊後守の「小口城攻撃」に討死。子息に岩室小十蔵がいる。<桶狭間に従った五小姓はみんな、後の戦いで戦死してます~。凄まじきかな。><信秀の側室が岩室殿とよばれるそうです。関係ありでしょうか。尾張熱田と縁があったのでしょう。>

⑥ 山口* /yamaguchi,*(*~1572)飛騨守。1560年「桶狭間の合戦」に従った五小姓のひとり。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。長谷川橋介・佐脇良之・加藤弥三郎とともに信長から追放され、家康に仕える<永禄末年頃、赤川景弘(坂井)事件に連座したものか>。「三方ヶ原の合戦」で討死。<尾張に勢力を張り、鳴海城を守備した山口教継の一族カ>

⇔⑦ 佐脇良之 /sawaki,yosiyuki(*~1572)(前田良之)・藤八・藤八郎・利之。荒子城主・前田利昌の五男。前田利家の弟。清洲衆・佐脇藤右衛門の養子。1557年7月「浮野の合戦」に岩倉衆の旗頭・林弥一郎を倒す武功。1560年「桶狭間の合戦」に従った五小姓のひとり。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。その後、長谷川橋介・山口飛騨・加藤弥三郎とともに信長から追放され、家康に仕える<永禄末年頃、赤川景弘(坂井)事件に連座したものか>。「三方ヶ原の合戦」で討死。<佐脇家は清洲衆でも名門らしいです。前田家の本拠地は南尾張の沿岸部「荒子城」。一族からは、のちに歌舞伎者で有名な前田慶次も輩出されます。>

⇔⑧ 毛利秀頼 /mouri,hideyori(*1541~1593)(斯波秀頼)・河内守・長秀。斯波一族。尾張守護・斯波義統の息。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり(『武家事記』では赤の7番)。1554年清洲城主・織田彦五郎の斯波氏攻撃の際に、毛利十郎(新助)に助けられ成人するという。川尻秀隆の甥とも。1560年「桶狭間の合戦」に従軍。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1570年9月「本願寺戦」にて敵将を討取る。信忠直臣となる。1575年「岩村城攻略」に従軍。石山本願寺戦に武功。織田信忠の「甲州乱入」に従い、南信濃守護・伊奈一郡を与えられる。関東方面軍目付。信濃飯田城主。妹婿に浅井政澄。<織田信忠軍団に配属。><斯波家の系譜である毛利秀頼にとって、川尻秀隆が叔父という事は、清州織田家の侍大将・河尻氏と秀隆は、やはり一族という事か。>

⇔↑⑨ 飯尾尚清 /iio,naokiyo(*1528~1591)(織田)・茂助・隠岐守・出羽守・信宗。尾張豪族。柴田勝家とは義理の兄弟。長谷川秀一は娘婿。父・定宗は桶狭間に戦死。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。(『武家事記』では赤の3番)。1555年織田信次の守山城攻囲に従軍。1574年伊勢「一向一揆征伐」に従軍。1577年4月大坂城の付城構築の奉行。1578年4月播磨三木城の付城普請奉行。64歳。<小姓から選抜された赤幌衆としては高齢すぎ、生年に疑問あり。山口教吉と同じく信長と同世代くらいでは?><⇔織田信長の近衛軍のページを参照して下さい。>

⇔⑩ 長谷川* /hasegawa,*(*~1572)橋介・右近・好秀。長谷川丹波守(嘉竹)の弟。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。1560年「桶狭間の合戦」に信長の五小姓として従軍。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。その後、加藤弥三郎・山口飛騨・佐脇良之と共に信長から追放され、家康に仕える<永禄末年頃、赤川景弘(坂井)事件に連座したものか>。「三方ヶ原の合戦」で討死。<甥は長谷川秀一ということになります。><今川家家臣団にも長谷川氏はいますし、東海道である程度の勢力(広がり)を持つ武家なのでしょうか。>
(前田逐電、木下兄失脚に連座?、1561・2年岩室戦死、山口・佐脇・長谷川逐電。)

⇔↓⑪ 福富秀勝 (*~1582)福住・福角・平左衛門・行清・定次。愛知郡岩塚村出身。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。(『武家事記』では赤の4番)。1561年「軽海の合戦」に従軍。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1570年「越前侵攻」に従軍。1573年8月「朝倉征伐戦」に軍功。1575年「長篠の合戦」で鉄砲隊指揮官。紀州雑賀攻撃に従軍。1578年「有岡城攻囲」に軍監。中川清秀の誘降に尽くす。近江国安土城城下の都督(警察長官)。1581年「能登平定」に従軍、富来城番。1582年「本能寺の変」に二条御所にて討死。<福住といえば伊賀の忍者の頭領の・・・(安直ですが服部半蔵的な役割でしょうか、まさか(笑。><川口(河口)宗勝は娘婿。>

⇔⑫ 原田直政 (*~1576)塙・九郎左衛門・備中守・重友・正勝。柴田勝家の妹婿。直政の姉(妹?)は信長の室。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。(『武家事記』では赤の5番)。南山城守護。大和守護。柴田勝家と縁戚。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1574年山城国守護に就任。1575年河内国「高屋城攻略」に従軍、「長篠の合戦」で鉄砲隊指揮官。1575年大和守護兼任。1575年「越前一向一揆平定」に従軍。1576年「石山本願寺攻囲」に従軍。石山合戦で討死。<⇔織田信長の近衛軍のページを参照して下さい。織田信忠と南畿方面軍のページを参照して下さい。><光秀さんの妹が信長側室という話があるので、畿内は信長様の義理の兄弟の原田・明智の両将に懸かっていたという感じですね。><原田直政は赤幌衆の出世株でした。
 
⑬ 渥美 * (*不詳)熱海・刑部丞・入道曽干。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。のち美濃の高木氏に出仕。<1596年以降に渥美入道が「黒・赤幌衆名簿」を残した。苗字から三河渥美の出身カ。三河の高木清秀系なのかもなあ~。小瀬甫庵によれば特別に信長に認められて立身出世した武将とされる高木小左衛門も気になっています。><渥美氏の姓つながりでは、1570年「姉川の合戦」に参陣した高天神城城主・小笠原長忠の与力に渥美源五郎あり、のち大須賀康高の横須賀党の与力として、数々の武勲をたてています。徳川家に赤幌・黒幌出身の軍監が派遣されていたとすれば、最前線の高天神六砦に在陣していたのではないでしょうか。渥美源五郎の親戚には青木一門があり刑部、民部と称する人物がいますが・・。武辺者の家系であることは確かです。><大河内元綱の養女「於富」の実父が青木の姓だとか。大河内繋がりで徳川家の歴史から排除されるか。><1573年近江志賀郡堅田攻めに明智光秀の一手で戦死する尾張・三河衆らしき人物あり。>

⇔⑭ 金森長近 (*1525~1608)(土岐)・五郎八・兵部卿法印・素玄。越前府中三人衆。美濃出身・蜂屋頼隆と同郷。斎藤道三の娘婿、織田信長の義兄弟。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。1570年頃京畿の政治に係わり木下秀吉・丹羽長秀と書状に連署する。「槙島城攻囲」、「越前侵攻」、「小谷城攻囲」、「伊勢長島城攻囲」に従軍。1575年「長篠の合戦」に別働隊・酒井忠次の与力として働き鳶巣城奇襲に軍功。1575年8月「越前一揆征伐」では別働隊として美濃口より越前に侵攻。大野郡を平定し、領地を拝領。柴田勝家の与力。北陸方面軍目付となる。摂津「有岡城攻囲」、播磨「三木表」にも出陣。飛騨方面に度々働く。「本能寺の変」に際しては越前大野にあり美濃の佐藤秀方と善後策を検討している。<濃姫の姉妹の婿ということで、この方も信長様の義理の兄弟です。><柴田軍団に配属。生年に疑問あり。越中に出陣の際は信忠軍団の斎藤長龍、遊撃的な佐藤・飯沼が与力カ?。本能寺時点に越中の柴田軍団とは完全に別行動をしており、飛騨方面の旗頭となっていたのではないでしょうか。>

⇔⑮ 猪子一時 (1542~1626)次左衛門・三左衛門・内匠助・内匠頭・一成。信長側近。犬山城主・織田信清の元家臣。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり(『武家事記』では赤の9番)。18歳で赤幌衆に選抜される。<猪子兵助の兄とも。><⇔織田信長の近衛軍のページを参照して下さい。>

⑯ 織田 * (*)越前守。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。(『武家事記』では赤のエース・筆頭。前田が2番。)<織田家一門・中川重政の一族カ、兄・織田信広の婿、丹羽長秀が後年 越前守となりますが・・(時代が違い過ぎるか)。渥美入道が「黒・赤幌衆名簿」の文書の記した1596年当時に織田越前守と認識されていたのが(丹羽長秀)越前守さんだったとか・・。惟任と対の惟住の姓がうっとうしくなって、「羽柴姓」を配布される前に、長秀さんが織田と名乗ることはなかったのでしょうか。><藤左衛門分家の津田信張さんも一時、織田越前守を名乗る様子です。こちらのほうが、五郎左さんよりも有力候補か。><織田親族の中では楽田の津田掃部助・一安がその抜擢ぶり(原田直政なみの抜擢)から幌衆であってもおかしくないですよね。>

⑰ 加藤 * (*~1572)(東加藤・岩室)・弥三郎・勘右衛門。尾張熱田の豪商・(東)加藤順盛(1514~1588)の次男、順政の弟。徳川家康の尾張人質時代を共に過ごす。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。1560年「桶狭間の合戦」に従った五小姓のひとり。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。永禄末年頃、赤川景弘(坂井通盛)を斬る。長谷川橋介・山口飛騨・佐脇良之とともに信長から追放され、家康に仕える。「三方ヶ原の合戦」で討死。

⑱ 黒田 * (*)次右衛門・次左衛門。三河衆。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。(『武家事記』では赤の6番)<黒田半平は稲生合戦で左手損傷。><小瀬甫庵によれば特別に信長に認められて立身出世した武将とされています。>
 
飯尾、木下(織田周防)、猪子、伊東、渥美、黒田の配属先が気になります。


≪個人的感想≫ 前田利家も、一時、若気のいたりで出奔したりしています。他の人達と違って帰参できてよかった。将来的には皆100万石級の大名になってもおかしくないメンバーなのかなあ(妄想w)。岩室長門守が信長様のお気に入りだったので、長生きしてたらどうなってたかな~と思います。
 金森長近や蜂屋頼隆は、信長様が若かりし頃の上洛で、『信長公記』では「(金森)五郎八」や「(蜂屋)般若介」と気軽に呼ばれているので、いま伝承されている年齢よりも、もそっと若かったんと違うかなと考えています。金森さんは、信長小姓から選ばれる赤幌衆にいるし・・。
 出世コースは、官僚として中央政治に残るか、地方領主として諸侯に列席するか、二つの道だったのだろうと推測されます。「一所懸命」で大領主となることが出世という考え方は、認識が間違っている気がします。宣教師から当然ヨーロッパの政治体制を学習していると推測され、信長様なら聡明な頭脳で仕組みを理解して、「皇帝と官僚」の支配関係を中世日本でも実現しようとしていたかもしれません。
 勝家が「自分は越前の遠方にいるので、仲介ができない」とか手紙に書いたり、瀧川一益が関東に置かれて「茶の湯冥加がつきた」と哀愁をにじませてるのは、ある意味、「方面軍軍団長」とは左遷されたようなものだという感じなのではないのでしょうか。
 惟住長秀や、福富秀勝は中央に居座り続けられた分、勝家や一益よりも上位にあった武将といえないでしょうか。
⇔大須賀康高(千葉胤高)の軍団<大須賀康高は渥美ともに、徳川家康との距離感より、織田信長と直接の距離感が感じられるのですが・・。山陽方面での尼子党(山中鹿ノ介代表)のようなかんじで、東海道方面の横須賀党があったのでは?? 江戸時代の都合で、本来は織田家に直接つながっていた武将の経歴が消えていってるのではないでしょうか。>

1560年「桶狭間の合戦」従軍 馬廻衆 『信長公記』
武功をたてたものとして幌衆の前田・佐々・木下・毛利親子ほか、

* (*)小介。信長馬廻衆。1560年「桶狭間の合戦」で軍功。<事績詳細不明。森可成一門のどなたかでしょうか。それとも清洲斯波衆の森一門でしょうか><伊勢長島の森氏とも関連ありか?。>

安食定政 (*)弥太郎。信長馬廻衆。1560年「桶狭間の合戦」で軍功。のち丹羽長秀与力。1584年越前の庶政にあたる。

魚住* (*)隼人正。信長馬廻衆。尾張時代から馬廻衆として戦場でも働く。1560年「桶狭間の合戦」に武功。1568年摂津池田の攻城戦に負傷。1580年4月木下祐久とともに加賀の柴田勝家軍の軍監。越前、加賀、能登の奉行を務める。変後、前田家家臣。<一族代表の信長様小姓の魚住氏は本能寺にて戦死。>

佐久間盛経 (*)弥太郎。五器所・山崎佐久間氏。佐久間信盛の叔父。1560年「桶狭間の合戦」に軍功。1569年伊勢北畠「大河内城攻囲」に尺限廻番衆のひとり。「使番(幌?)衆、新規メンバー№7」。息に盛重、盛次。孫に盛昭。<『信長家臣人名辞典』で発見しました。・・・叔父ということで世代の差。同じ佐久間弥太郎、孫の奥山弥太郎と事跡を精査しないといけませんね・・。ややこし。>

⇔↓佐久間盛昭 (*)奥山・弥太郎・佐渡守・重定。愛知郡五器所村出身。佐久間盛重の長男。1560年「桶狭間の合戦」で軍功。1567~1569頃の信長馬廻衆。1569年伊勢北畠「大河内城攻囲」に尺限廻番衆のひとり。「使番(幌?)衆、新規メンバー№7」。丹羽長秀の家老。のち秀吉に太田一吉とともに出仕。<佐久間一族の大学助系の本家。わけありで改姓させられたのでしょうか。丹羽長秀の家老です。>

⇔↓中川 * (*)金右衛門。1560年「桶狭間の合戦」で軍功。1569年伊勢北畠「大河内城攻囲」に尺限廻番衆のひとり。「使番(幌?)衆、新規メンバー№6」。<中川八郎右衛門・重政は別記されている。別人のようです。溝口金右衛門や、森川(堀部)氏俊も金右衛門のようですが・・。>

<尺限廻番衆> 1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍した馬廻の内から選抜されたもの。
*黒幌・赤幌メンバーを除いた場合。
<一般的に「さくぎわ」と読まれている。私的には刻限で定期的に陣中を見回る、軍監的な意味で「尺限(しゃくげん)」かと思ってた。勘違いのようですw (とりあえず後半期の幌衆なら、前田利家が戸田氏の質問に答えたように、くじ引きで赤か黒に便宜的に分かれていたかもしれませんね)。>

↓① 菅屋長頼 (*~1582)(織田長行)・御長・九右衛門・九郎右衛門・長行。織田造酒佐(造酒丞・信房)の息、矢部家定は姉婿。父は1560年「桶狭間」に先陣を勤めた武功派。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。「尺限廻番衆筆頭」。1570年「志賀の陣」朝倉義景に決戦の使者。1575年越前平定後の諸奉行。1579年5月「安土宗論」奉行。1580年伴天連屋敷造営奉行。1581年能登平定後の七尾城番、諸奉行を務める。前田利家の能登転封後に越前府中拝領。北陸方面担当(能登・越中派遣組)。1582年安土にて穴山・徳川接待役。<菅屋=矢部ライン(北伊勢と縁があります。)><「赤幌筆頭・織田越前守」、丹羽さんでもなく、まさにこの人物のことだったりして・・。>

⇔▽小瀬清長 (*~1574)(織田清長)・三郎五郎・三郎次郎・長清。織田造酒佐の息、菅屋長頼の兄。小瀬家の養子となる。守山城主・織田信光の息・津田信成の家老。1574年「伊勢一揆討伐戦」に主とともに討死。<柴田勝家から盛んに家中にこないかと声をかけられたらしい。><矢島六人衆の小瀬氏と関連ありか?。>

⇔② 生駒 * (*)平左衛門。1569年伊勢「北畠氏征伐」に「尺限廻番衆」に選抜される。「使番(幌?)衆、新規メンバー№2」。<生駒親正の弟、市左衛門の誤記か。><⇔織田信長の近衛軍のページを参照して下さい。><黒幌衆・生駒勝介の一門でしょうか。>

⇔③ 湯浅直宗 (1545~1582)甚助。1569年伊勢「北畠氏征伐」に「尺限廻番衆」に選抜される。「使番(幌?)衆、新規メンバー№3」。<→近衛軍のページ。信長馬廻衆の勇士、黒幌をしょってたらしいです。武勇を認められていたのでしょう。本能寺に駆け込み討死。>

⇔④ 村井清次 (*~1582)新四郎。村井貞勝の息。貞成の弟。1569年伊勢「北畠氏征伐」に「尺限廻番衆」に選抜される。「使番(幌?)衆、新規メンバー№4(兄より上位)」。1582年「本能寺の変」に対応が遅れ、「二条御所」にて討死。<→近衛軍のページ。わざわざ兄から分離されて部隊を率いるということは将才を認められていたのでしょう。>

⇔⑤ 村井貞成 (*~1582)作右衛門。村井貞勝の息。清次の兄。「使番(幌?)衆、新規メンバー№5」。1569年伊勢「北畠氏征伐」に「尺限廻番衆」に選抜される。1573年父・貞勝が京都所司代となり、補佐役。のちに京都の都督として治安維持。1578年荒木村重の謀反により「有岡城攻囲」に従軍。1579年2月信長の上洛に粟田口警固。1581年「京都馬揃え」に山城衆を率いる。1582年「本能寺の変」に対応が遅れ、「二条御所」にて討死。<→近衛軍のページ。京都の司令官。のちに天下を左右する人物になっていたかもしれませんねえ。>

⇔↑⑥ 中川 * (*)金右衛門。1560年「桶狭間の合戦」で軍功。1569年伊勢北畠「大河内城攻囲」に尺限廻番衆のひとり。「使番(幌?)衆、新規メンバー№6」。<中川八郎右衛門重政は別記されている。別人。>

⇔↑⑦ 佐久間盛昭 (*)奥山盛昭・弥太郎・佐渡守・重定。愛知郡五器所村出身。佐久間盛重の長男。1560年「桶狭間の合戦」で軍功。1567~1569頃の信長馬廻衆。1569年伊勢北畠「大河内城攻囲」に尺限廻番衆のひとり。「使番(幌?)衆、新規メンバー№7」。丹羽長秀の家老。のち秀吉に太田一吉とともに出仕。<佐久間一族の大学助系の本家。わけありで改姓させられたのでしょうか。丹羽長秀の家老です。>

⑧ 神戸 * (*)賀介・がのすけ。1569年伊勢北畠「大河内城攻囲」に尺限廻番衆のひとり。「使番(幌?)衆、新規メンバー№8」。<神戸信孝の一門か。信秀の馬廻衆で小豆坂に従軍した、神戸市左衛門の関係者カ、神戸平四郎は稲生合戦で討死。><神戸氏は関氏分流。>

⑨ 荒川頼季 (*~1574)新八郎。信長の馬廻衆。兜の前立に「運在天死定」。1556年柴田勝家とともに三河国境の福谷城を攻撃。1569年伊勢北畠「大河内城攻囲」に尺限廻番衆のひとり。「使番(幌?)衆、新規メンバー№9」。1574年伊勢長島に討死。<松平清康の尾張侵攻に抗したのは荒川氏だったらしいので、尾張の旧族・荒川氏ということでしょうか。><尾張衆。荒川一族。前田、佐久間、山口の与力に荒川あり。><三河一向一揆で徳川家康におわれ出奔した荒川一族と関係ありでしょうか。>

⑩ 猪子 * (*)賀介・がのすけ。1569年伊勢北畠「大河内城攻囲」に尺限廻番衆のひとり。「使番(幌?)衆、新規メンバー№10」。<猪子兵介の関係者か?のちに神戸「がのすけ」と名が重複するのを避けたのでしょうか。>

⇔⑪ 野々村幸政 (*~1584)主水助・入道宗玄。1569年伊勢北畠「大河内城攻囲」に尺限廻番衆のひとり。「使番(幌?)衆、新規メンバー№11」。1570年小谷城退却戦に佐々勢。1577~1582年にかけて津田宗及茶会に列席。のち佐々成政の与力。前田利家の能登末森城を攻撃し戦死。<黒幌衆・三十郎正成とよく間違われる人。『武家事記』赤幌衆追加の野々村はこの人物との混同か。ずっと畿内で活動しているので1582年までは信長馬廻衆で、変後に旧縁で北陸に流れたか。>

↑⑫ 山田 * (*)弥太郎。1569年伊勢北畠「大河内城攻囲」に尺限廻番衆のひとり。「使番(幌?)衆、新規メンバー№12」。<尾張衆。山田一族。信秀の古渡・那古屋の奉行、山田弥右衛門の関係者カ、織田信勝(信行)の家老にも山田氏あり。本能寺戦死の小姓衆に同名あり。><尾張岡田氏は山田氏の分流とも。>

⇔⑬ 山田* (*)左衛門尉。信長馬廻衆。1569年伊勢「大河内城攻囲」に従軍。「使番(幌?)衆、新規メンバー№13」。<山田勝盛とは別人説浮上(平成28年)。

⇔山田勝盛 (1538~1574)三左衛門・左衛門佐・左衛門尉。信長馬廻衆。弓衆100人頭。1570年比叡山焼き討ち、1571年伊勢長島攻囲に従軍。1572年河内「交野城攻囲」に従軍。1574年織田信忠軍団に配属され「伊勢長島攻囲」に戦死する。37歳。<尾張衆。山田一族。次代を担う織田信忠の補佐役だったのでしょう。><伊勢従軍は左衛門尉の事績という事で。>

⇔⑭ 瀧川 * (*)彦右衛門。瀧川一益の関係者。1566年佐久間信盛とともに美濃出征。1569年大河内攻略戦。「使番(幌?)衆、新規メンバー№14」。1572年佐久間信盛と徳川家康の援軍「味方ケ原の合戦」。1573年大高城攻めに参加後、消息が不明。<1572年味方ケ原に出陣したのは瀧川一益ではなくこの方のようです。 瀧川一益の長男の事がよくわからないのですが、この人とするには突拍子すぎるでしょうか・・。家督ではないのは庶流の為か、もしくは1571~72年に信長に一時勘当されており流浪中に廃嫡されたのではないでしょうか。伊勢峰城主の滝川益重は (*不詳)儀太夫・益氏。儀太夫益重は天正10年~15年にかけて活躍が伝わり、それ以前の事跡が不明瞭です。更に、一益甥の佐治益重と同名のため事跡が混同されている可能性あり、この人物が「彦右衛門」に一番該当する人物なのかなあと思います。1575・76年の瀧川伊予守も一益ではなく一益の長男を指しているかと・・。>

<明智(惟任)光秀の軍団に誰か目付けとして派遣されていたかもしれませんね。光秀の謀反の際には機密漏えい防止の為に、明智軍の内部で即刻に殺害されてそうですけど。 明智の姓を与えられた溝尾勝兵衛、更にその前は三沢秀次と名乗る武士の存在がすごく気になります。1573年からの越前支配の三奉行の一人なのですが、もともと信長様の奉行だったぽく思われます・・>


1570年「小谷城撤退戦」殿軍衆
信長馬廻衆から選抜。『甫庵信長記』による。

簗田広正 (*)別喜広正・左衛門太郎。信長馬廻衆。1570年「小谷城撤退戦」殿軍三大将のひとり。<斯波家家老の那古屋氏と縁が深い様子です。中川重政の娘婿となった那古屋高久の息子は織田九右衛門(那古屋山三郎)と名乗ります。>

佐々成政 (*)内蔵介。黒幌衆。信長馬廻衆。1570年「小谷城撤退戦」殿軍三大将のひとり。

⇔↑中条家忠 (*~*1577)小一郎・将監。信長馬廻衆。尾張春日井郡の豪族。1552年「海津の合戦」に従軍。「浮野の合戦」、「桶狭間の合戦」、1570年「小谷城撤退戦」殿軍三大将のひとり。負傷するが、一門の中条又兵衛奮戦。「姉川の合戦」、「伊勢長島一向一揆討伐」に従軍。1577年「紀州雑賀征伐」に従軍後は消息不明。<横山党・中条家の末裔か。小野氏を同祖とする越後の揚北衆のリーダー中条藤資との関係はどうだったのでしょう?親戚付き合いはあったのでしょうか。中条流剣術は誰が相伝していたのでしょう。伊東一刀斎(前原弥五郎)や、佐々木小次郎とも何か縁が・・。><三河広見城主・中条秀政との関係が気になります。>

織田順元 (*)信長馬廻衆。1570年「小谷城撤退戦」殿軍参加(陣抜け参戦)。<柴田勝家与力。柴田軍団参照。軍監として派遣されるか。>

生駒家長 (*)信長馬廻衆。1570年「小谷城撤退戦」殿軍参加(陣抜け参戦)。

戸田勝成 (*)信長馬廻衆。1570年「小谷城撤退戦」殿軍参加(陣抜け参戦)。<丹羽長秀与力。>

平野 * (*)甚右衛門。信長馬廻衆。兄は「稲生の合戦」に戦死。1570年「小谷城撤退戦」殿軍参加(陣抜け参戦)。<上杉謙信に臣従。「ちょっぽり甚右衛門」。><『金松覚書』に前田・佐々を抑え一番の侍。>

高木左吉 (*)信長馬廻衆。1570年「小谷城撤退戦」殿軍参加(陣抜け参戦)。

野々村 * (*)主水正。信長馬廻衆。1570年「小谷城撤退戦」殿軍参加(陣抜け参戦)。<野々村幸政?>

土肥 * (*)助次郎。信長馬廻衆。1570年「小谷城撤退戦」殿軍参加(陣抜け参戦)。

山田* (*)半兵衛。信長馬廻衆。1570年「小谷城撤退戦」殿軍参加(陣抜け参戦)。<山田勝盛の一門?>

* (*)喜三郎。信長馬廻衆。1570年「小谷城撤退戦」殿軍参加(陣抜け参戦)。<原田直政の与力。>

太田 * (*)牛一・孫右衛門。信長馬廻衆。1570年「小谷城撤退戦」殿軍参加(陣抜け参戦)。簗田隊に参加。軍功により恩賞。<『信長公記』にもしっかり自分の活躍をカキコミ。>

<反骨の元馬廻衆>
川崎 * (*)金右衛門・筑紫川崎。筑紫国出身の武者。信長馬廻衆。のち勘当。<『金松覚書』に前田・佐々を抑え弐番の侍。><「匹夫の魁殿をトクル勇士。」の意味が不明。 匹夫は何かの誤字じゃないでしょうか・・。「匹夫(剛勇?)の魁(先駆け)、殿軍をとげられる勇士」などの意味では?>
 ←北九州の動向。川崎が浪人し上京する事件が何かあったのか・・。

鎌田 * (*)五左衛門。信長馬廻衆。のち勘当。織田信忠に再出仕。

井戸将元 (*)才介。1570年本願寺一揆との合戦に軍功。安土にて弓衆・福田与一邸の出火から、馬廻衆の強制移住開始。美濃に留まり、のち誅殺される。

《個人的感想》 「尺限」=「さくぎわ」の読みがやっぱりピンとこないので、、、
『公記』の中では別のところで柵(さく)は、柵とちゃんと書かれていますし(信忠の諏訪城攻めとか)、
「限」も意味がわからない。漢字にはキワ=「際」の字がありますし。「柵際」でよかったのでは。あえてなぜ「尺限」の当て字にしたのか。
 信長馬廻衆の参加した摂津方面の攻城・攻囲戦ばかりでなく、高天神や鳥取城攻めでも、「尺限」はでてこないのに、1569年北畠攻めだけに何故この部隊が登場するのか・・・。
シャクゲンで検索すると、長さの単位の「尺間」が出てきます。 
一間が三尺六寸とか担当を決めた事務的な意味合いの「尺間」という表現なら、後の世の攻城戦に「尺間」の言葉が残りそうですが。
尺間は単位とかの別の意味で、尺間(シャクマ)とも呼べるそうで、
「尺間」は、「釈魔(魔を釈(と)く)」魔をはらうという意味に通じるそうです。
<かつて源ノ義家が朝廷で退魔の為に、鏑矢を放つ儀式をしていたように、
 武勇の武者には「ケガレ」や「邪な物」を追い払える効果があるというのが頭をよぎりました。>
北畠家には伊勢の神聖なものが後ろ盾でついてるようで、「神戦(かみいくさ)に候」といわれるくらいですから、
攻撃する側に「神と戦う」かなりの覚悟が必要だったのでは・・。それに対して熱田や津島牛頭天神の加護が必要だったのでは、
北畠につく伊賀・甲賀衆の妖しい術や、神の「怖れ」に怯える兵士をなだめる為に編成された、
武勇の「尺限廻番衆」=「尺間(釈魔)廻番衆」の意味だったりしないものでしょうか(妄想。<タイミングよく永禄・元亀年間に天台宗の僧が豊後の尺間山に何故か神社を建てて、現在に残るって不思議じゃないですか。戦国時代に尺間が流行する何かがあったのでしょう。>
宗教的な意味合いで名付けられた今回限りの部隊だったとか。(尾張のどこかの神社に手掛かりはのこってないものでしょうか。)
あまり効果がなかった、もしくは本願寺との戦いで仏敵路線となったので、廃止され、
普通に馬廻衆にもどって(もしくは仏敵の第六天魔王を意識した軍)、
更に近衛軍=安土衆(平安楽土を実現する神の軍団)に発展したかもですね。
宣教師さんも来てますし、信長様の思想の片隅に、西洋的な影響もあったんじゃないでしょうか(妄想妄想。

元祖・五奉行 馬廻五隊長・信長側近衆>①~⑧の武将で回り持ち、欠員がでれば補充。
↓神の軍団(笑)=右近衛大将の近衛軍=「安土衆」を率いる隊長達
 天下人信長の側近衆は信長の言葉を伝えるものとして家中に隠然とした力を有していた。勝家・秀吉・光秀も恐れていたらしい上洛後に育った官僚グループです(次世代メンバーなので、1545~1560年生まれくらいが主と考えられます)。

⇔↑① 福富秀勝 (*~1582)福住・平左衛門。元・赤幌衆。1561年「軽海の合戦」に参加。リーダー格。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1574年佐久間才四郎、毛利長秀とともに河内国「信貴山城番手」。1575年「長篠の合戦」で鉄砲隊指揮官。1577年「紀伊雑賀攻略」、1578年「摂津荒木攻め」に従軍。安土奉行として集住した武家(常備軍)の管理。1581年「能登平定」に従軍、富来城番。二条御所で討死。<堀さんだけでなく、福富・菅屋さんも北陸では指揮官として部隊を率いていたんでしょうか。><津島大橋家の繋がりの河口宗勝の父・河口宗吉の事績で「10人の沙汰人のうちなり」『寛永伝』とあるらしいので(福富さんの事績を混同しているようでもありますが)、信長様の部下に後世に伝承として残る「10人の特別な地位の側近」がいたのかもしれませんね。>

⇔▽河口宗勝 (1548~1612)(福富宗勝)・川口・久助。河口宗吉の息。福富秀勝の娘婿。水野信元旧臣。1577年尾張沓掛城主。のち織田信雄に出仕。<浪人時代があったというのは1560年頃の今川軍の影響でしょうか。尾張在住の様子なので信元追放後は、織田信忠軍団に配属されていたのでしょうか。宗勝室の父・福富秀勝さんの年齢が推測できそうです。><父・宗吉の事績など明らかに福富秀勝と混同されているようです。><大河内元綱の娘(養女)「於富」を通じて大河内家と関連あることが徳川の歴史から抹消される原因でしょうか。>

《個人的感想》 室町幕府所司代の伊勢貞孝の跡職を継承するのは、織田家では村井貞勝の息子・貞成か、福富秀勝かという感じでしょうか。

② 大津長昌 (*~1579)伝十郎・長治。丹羽長秀の妹婿。1569年入京後より奉行として活躍。南禅寺の代官。天竜寺の意足軒周悦の取次ぎ。ルイスフロイスを岐阜で取次ぎ。1576年猪子高就と天王寺城(砦)に派遣。5月原田直政戦死事件。1578年播磨神吉城攻略に派遣される。1578年奥州伊達氏の家老・遠藤基信との取次ぎ。越後上杉への軍事活動を要請。1578年摂津有岡城主・荒木村重の説得に失敗、高山右近を内応させ、高槻城番。1579年摂津有岡城攻略の陣中にて病没。<幌衆には選抜されていませんが、おしい。おしい人を亡くしました・・・。><堀秀政を養育したらしいです。ということは、世代的には1530~40年代の生まれか。><三河衆に大津家があります。信秀時代に織田に従った一族でしょうか。>

③ 万見重元 (1549~1578)織田・仙千代。小幡織田氏(または神子田長門守の息とも)。1575年12月信忠に家督譲渡後の側近。翌年、二条御所・安土城築城開始。1578年相撲奉行を務める。東北の大名南部家との取次ぎ役。太田道誉、南部政直の使者を接待。⇔東北の戦国大名の家臣団 1578年堺にて大船見物に従軍。1578年荒木村重の説得に失敗。12月堀秀政、菅屋長頼と三人で鉄砲衆を率い「有岡(伊丹)城攻略」中に討死。安土城の万見屋敷、その跡職は長谷川秀一が引き継ぐ。<幌衆には選抜されていませんが馬廻衆を率いる隊長です。>

近藤重勝 (1553~1604)源五・四郎右衛門・織部佐。万見重元、堀秀政に出仕。<万見=堀ライン>

↑④ 菅屋長頼 (*~1582)(織田長頼)・九右衛門。織田酒造丞信房の息。1569年伊勢「北畠氏征伐」に「尺限廻番衆」に選抜される。1579年5月「安土宗論」奉行。1580年伴天連屋敷造営奉行。1582年安土にて穴山・徳川接待役。<上述した後年の馬廻衆の隊長。>

岩越吉久 (*)小兵衛・庄兵衛。菅屋長頼の家老。1580年菅屋長頼の代理で北陸方面軍の前線に赴く。1581年元・畠山家臣の温井景隆、三宅長盛等の能登国人に、信長への出仕(上洛)を促す。<信秀に従い美濃で戦死した岩越喜三郎の一門か。>

⇔⑤ 堀 秀政 (1553~1590)菊千代・久太郎・左衛門督。堀秀重の息。13歳で信長の小姓に。1568年入京後の側近。京都の足利義昭御座所、本圀寺普請奉行。1573年「小谷攻囲戦」に朝倉義景に決戦の使者。1577年「紀伊雑賀攻略」に従軍。1578年「摂津荒木攻め」に従軍。1578年近江坂田郡に25000石知行。1579年5月「安土宗論」奉行。1579年7月出羽の遠野家臣・石田主計、前田利信を取次ぎ。⇔東北の戦国大名の家臣団 1580年伴天連屋敷造営奉行。1581年伊賀攻略に近江衆を率いて大将。近江長浜城拝領。1582年5月に備中に派遣される。山陽道方面担当(播磨派遣組)。秀吉との関係良好。越前北ノ庄18万石。小田原の陣中に没す。息に秀治、親良。<大津長昌に養育されたらしいです。><秀吉に危険視されていた実力者。><弟の関係で近江の多賀氏と縁戚。><堀秀政陣立てに記された「不断衆」という存在が気になりますw。秀政の命のもと死地に向かう覚悟はできてる精鋭という感じ?>

堀 直政 (1547~1608)三左衛門・三右衛門・監物。奥田直純の息、堀秀政の従兄弟・腹心。<もともと藤原系で堀家とは別系だったようです。幼少の頃(大津家で養成されていた時代でしょうか?)に、どちらか出世したほうの部下になって助け合うという約束があったとか。>

⇔▽田那部* (*)式部。美濃出身。浅井の勇将・遠藤直経の妹婿。今井、浅井、堀秀政に出仕。<堀家は美濃侍といわれてますが北近江と強力なパイプがあるようです。>

⇔▽多賀貞能 (*~1587)新右衛門・信濃守。豊後守・貞隆の息。1572年織田信長に従い江北出陣、虎御前山に従軍。近江高島郡に所領。堀秀政の弟、多賀秀種(1565~1616)を養子とする。<浅井家の多賀常則さんとよくごっちゃになります。ややこしや~。><「甲州乱入」のちに堀秀政とともに湯治を許可された多賀氏はこのひとでしょう。><変後に明智光秀に属し、蒲生氏郷を調略し所領没収となったのは常則のほうか?><多賀家は京極家の守護代で北近江の名門です。>

多賀秀種 (1565~1616)(堀)・源千代・源助・出雲守・秀家・政藤。堀秀重の息(次男)。多賀貞能の娘婿。多賀氏を継承。兄・秀政に属して2000石。のち豊臣秀長、秀吉に出仕。甥・堀秀治のもとで隠居。52歳。<変後、秀吉からお咎めなしだったのは、こちらの多賀さんか。><堀家から養子の秀種さんは兄が兄ですから、もうバリバリですね。>

⑥ 矢部家定 (*~*1591)善七郎・康信・広佳・光佳。菅屋長頼の姉婿。幼少から長谷川秀一とともに信長に出仕するという。北伊勢の雲林院(氏井)氏と縁戚。雲林院祐基の娘婿。祐基の息・祐光は瀧川一益の娘婿。1570年頃から側近として登場。1578年荒木村重説得の使者。1579年2月信長に先じて上洛、山科言継へ伝令。1579年5月「安土宗論」長谷川秀一と安土宗論の奉行を務める。1580年本願寺との和睦がなると津田信澄とともに石山に滞在。1581年には猪子高就とともに勝竜寺城在番。変後、秀吉との関係不良。南陽道方面担当(四国派遣組)。<信長様の一字をもらって「康信」でしょうか?><織田信包のもとから出奔した氏井(雲林院)家を、信長直属の直参に呼び戻したりしてます。五奉行ではマイナーな方ですが予想以上に力をもっていたかも。秀吉と相性が悪かったために、変後は冷遇されてしまったのでしょう。><雲林院氏つながりで瀧川一益派閥の信長側近です。>

 ⑦長谷川秀一 (*~1594)織田・可竹・御竹・貞長・藤五郎。長谷川嘉竹の養子or実子。赤幌衆・長谷川橋介の甥。飯尾尚清の娘婿。織田信秀の庶子とも。1575年「長篠の合戦」に従軍。1575年12月信忠に家督譲渡後の側近。翌年、二条御所・安土城築城開始。1578年万見邸に移り跡職継承。長谷川屋敷は高橋虎松に。1579年2月信長に先じて上洛、山科言継へ伝令。1579年5月「安土宗論」矢部家定と安土宗論の奉行を務める。1580年伴天連屋敷造営奉行。1581年京都「馬揃え」の通信など秀吉との関係良好。1582年安土にて穴山・徳川接待役。接待中の家康と伊賀越え。東海道・関東方面担当(徳川・穴山目付け)。越前敦賀(東郷城主)11万石。和泉国淡輪水軍との取次ぎ役。<一門代表の側近として、同じく一門の万見さんの跡職を継承したのか。><1581年~本能寺前は近江比田(肥田?)城を与えられていたようです。比田=肥田ならば、蜂屋頼隆の和泉半国守護栄転により与えられたものでしょうか。><織田家を代表する「お竹」・・。彼の無礼な態度が荒木村重の謀反の原因ともいわれる。>

⇔○▽長谷川与次 (*~1599)丹波守・可竹・嘉竹・興次。赤幌衆の長谷川橋介は弟。信長側近として各種奉行を務める。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1570年8~9月三好三人衆の「野田・福島城攻撃」に従軍。1570年9月江北出陣。1571年5月伊勢長島一向一揆征伐に従軍。1574年伊勢長島に従軍。1578年安土信長茶会11人衆のひとり。1582年甲州征伐に従軍し「恵林寺焼き討ち」奉行のひとり。岐阜城城代。のち秀吉に出仕、越前に所領を有す。長谷川秀一の養父。<織田信忠の家老職(後見人)に。><信長・信忠親子のパイプ役でもあります。>

 ⑧森 成利 (1565~1582)蘭丸・乱丸・長定。林家と親戚。1575年12月信忠に家督譲渡後の側近。1576年二条御所・安土城築城開始。1579年頃から諸奉行として活躍。4月に摂津国・塩川長満のもとに使者として派遣される。1582年信長に従い「甲斐乱入」に供奉。信濃の小笠原信嶺への使者を務める。秀吉との関係良好。光秀との関係不良。兄の所領、美濃兼山城を預かる。本能寺で討死。18歳。近江坂本拝領予定。山陰道方面担当ヵ。<信忠さんの腹心・団忠正さんとも仲良しw その存在は信長様と信忠さんとの重要なパイプ役だったことでしょう。>

▽森 長隆 (1566~1582)坊丸。 織田信長家臣。1582年頃の側近。森可成の四男。「本能寺の変」に討死。<森乱の弟です。>

▽森 長氏 (*~1582)力丸。 織田信長家臣。1582年頃の側近。森可成の「本能寺の変」に討死。<森乱の弟です。>

≪個人的感想≫
「無類の合戦上手」堀秀政。大須賀康高の率いる高天神を落とした前線精鋭部隊「横須賀衆」も、堀さん率いる天下の精鋭部隊には歯が立ちませんでした。さすが最強。
 「雑賀攻め」、「伊賀攻め」に小身ながら独自の一部隊を持つ様子。その上で各馬廻衆の旗頭のようです。やっぱり近江の堀氏(堀秀村・樋口直房)を追い出した跡の継承者なんじゃないでしょうか・・。 1574年「長島一揆攻め」に織田軍は大砲を使用。馬廻衆の重火器装備が一層進んでいます。豊臣時代に堺の町では1日鉄砲15丁、年間5000丁の生産が可能だったらしいです。


≪個人的感想≫ 丹羽長秀の婚姻関係が注目されます、次世代の武将に布石を打っているというか、山陽道の池田家家老や、稲葉家の跡取り等、縁戚関係で光秀の縁戚関係を上回るほどの政略結婚が推し進められています。
 畿内では、信長の婿となった山陽道の中川秀政や、筒井順慶の養子・筒井定次、織田信忠の外戚となった塩川一門があり。明智の縁戚関係が荒木村重の失脚等で弱体化し、薄くなっていくことと対照的です。
 織田家臣団の中では美濃系の血が薄まり、尾張系の結びつきが強くなってきていたのではないでしょうか。信長様の息子達が成長するにつれ、畿内は織田一門で固められていく傾向が見られ、津田信澄と国境を接する、光秀さんも領土乗っ取りの危機感を胸に抱いていたのかもしれません。
織田家中にて、取り残されそうで焦る光秀さんの危機感も わからいでもないかな。
 蒲生氏郷が奥州に飛ばされて嘆いたように、瀧川一益が関東に飛ばされて「茶の湯冥利も尽きた」といったように、前線の遠方の方面軍軍団長となることはある意味、左遷だったりするかもですね。 本人の受け止め方次第なのかな・・。
 堀秀政と長谷川秀一がやっぱり好きです。大津・万見のコンビは荒木攻めの時なにか失態があったのか、二人の死には裏があるような気がします。
津田坊丸(信澄)との関わりはどうだったことでしょう。
菅屋長頼や、子飼側近の奉行衆は本能寺の変がなかったら、いずれ皆、大名となる器を持っていたことでしょう。

織田 信長の近衛軍安土衆・子飼衆/kogaisyuu

≪旗本弓(鉄砲)衆(信長直属の隊長)≫ 弓衆は皆、「本能寺の変」で討死したんじゃないでしょうか。

⇔↑▽平井長康 (*~*1582)(平出)・久右衛門・(長安)。信長の家督相続時頃、中野・浅野とともに「弓三張」のひとり。1561年4月信長の三河「梅ケ坪城攻囲」に従軍し武功。1578(天正6)年荒木村重の「有岡城攻囲」。1581年2月「京都馬揃え」に弓衆を率いて入場。1582年伊勢大神宮の上部貞永の要請で大神宮再建の奉行を務める。<「武功夜話」には柏井衆・佐々成政とのつながりがあるようです。1582年以降は消息不明。><姓の「平出」は誤字か?><『戦国時代人物辞典』で「長康」発見。信長様なりのギャグで一康・長康のコンビならありえそうですね。吉良家の家老の富永忠康と松平清康にかけてたらおもしろいですね(妄想。><三河吉良家の重臣、冨永忠安と松平清康のような、安・康コンビもありえそうです。>

↑▽中野一安 (1526~*1582)又兵衛・(一康)。織田信秀からの臣。1542年8月に「小豆坂の合戦」に17歳で従軍。小豆坂の七本槍のひとり。信長の家督相続時頃、「弓三張」のひとり。信長の信頼厚い勇士。1570年三好三人衆の「野田・福島城攻撃」に従軍。1578(天正6)年荒木村重の有岡城攻囲。1581年2月「京都馬揃え」に弓衆を率いて入場。愛知郡中村。<(重吉)奥さんは今川家の姫です!。事績は徳川家康の家臣・中野七蔵重吉と混同されているとも。>

芝山* (*)柴山・次大夫。尾張柴山氏。1578(天正6)年荒木村重の有岡城攻囲。平井、中野の次の頭。<荒木村重家中の柴山監物とは別系統。>

浅野長勝 (*)又右衛門。浅野長政の養父。信長の家督相続時頃、「弓三張」のひとり。

鯰江 * (*)又一郎。元・お抱え相撲力士。1570年(元亀元)年の「常楽寺相撲大会」に出場。青地とライバル。のち相撲奉行。<力士衆からの出世頭。>

福田* (*)与一。安土にて邸宅出火。妻子を尾張に置く。弓衆60人・馬廻衆60人の強制移住開始。

<坂東武者>
矢代 * (*~1582)屋代・勝介。乗馬の名手。関東(北信濃)から上洛し仕官、信長直参家臣となる。1581年「京都馬揃え」で達人技を披露。直参御番衆。<北信濃の屋代氏の一門か。>

<小姓(子飼い)衆> 
人質兼、育成した側近。きっと古代からこの作法が日本には根付いていたのでしょう。
<信長様付き>
①青山忠元 (*)虎 伊賀守。織田信長家臣。丹羽長秀の側近・青山宗勝の息。信長の小姓として育つ。1575年12月信忠に家督譲渡後の側近。翌年、二条御所・安土城築城開始。1578年年賀の席で矢部家定、大津長昌とともに給仕。1580年「石山本願寺和睦」の際の奉行。「本能寺の変」以降も生存。<父親との年齢が10も離れてない計算になるので養子とかなんでしょうか。>

②青木 * (*)鶴 織田信長家臣。1575年12月信忠に家督譲渡後の側近。翌年、二条御所・安土城築城開始。1579年摂津国高槻城に派遣され、高山友照を越前に護送する。 1582年頃の側近。「本能寺の変」時の動向は不明。<伊賀攻略の際、堀秀政の与力一手武将・青木玄蕃は一門か。><1579年以降の動向が不明との事なのですが、森可成の娘婿・青木秀重が「本能寺の変」に戦死しているとのことなので、実は同一人物で、成人して小姓から馬廻に格上げされてたりして名が違うのではないのかなと(妄想。>

③小河 * (*~1582)愛平 織田信長家臣。1582年頃の側近。信長の小々姓。本能寺に没。<一族と推測される小河源四郎は、二条御所で信忠に殉じる。>

④高橋 * (*~1582)虎松 織田信長家臣。1579年安土城内の「長谷川秀一の屋敷」を与えられる。高橋屋敷は馬廻衆の遠山新九郎が継承。1582年頃の側近。本能寺に没。

⑤菅屋 * (*~1582)角蔵。 織田信長家臣。1582年頃の側近。菅屋長頼の息。<本能寺がなければ、将来は執権政治とかやる大人物に育ったかも。>

⑥魚住 * (*)勝七 織田信長家臣。1582年頃の側近。<馬廻・魚住隼人さんの息子でしょう。>

⑦武田 * (*)喜太郎 織田信長家臣。1582年頃の側近。<若狭の武田系?馬廻兼奉行・武田佐吉さんの息子でしょうか。まさか甲斐・武田系(ぇ。>

⑧大塚 * (*)又一郎 織田信長家臣。生駒親正の娘婿(生駒氏は信長の室・生駒殿の縁戚で、信頼厚く旗本の中核となる一族)。

⑨大塚 * (*)孫三 織田信長家臣。1582年頃の側近。
⑩狩野 * (*)又九郎 織田信長家臣。1582年頃の側近。
⑪薄田 * (*)与五郎 織田信長家臣。1582年頃の側近。
⑫今川 * (*)孫二郎 織田信長家臣。1582年頃の側近。<今川氏真さんの血脈もとりたててあげてたのでしょうか。>
⑬落合 * (*)小八郎 織田信長家臣。1582年頃の側近。
⑭伊藤 * (*)彦作 織田信長家臣。1582年頃の側近。<幌衆の伊東一族と関連ありでしょうか。>
⑮久々利 * (*)亀 織田信長家臣。1582年頃の側近。
⑯種田 * (*)おいだ・亀 織田信長家臣。1582年頃の側近。<美濃出身でしょうか。>
⑰山田 * (*)弥太郎 織田信長家臣。1582年頃の側近。<尺限廻番衆・山田の跡取り?>
⑱飯河 * (*)宮松 織田信長家臣。1582年頃の側近。
⑲祖父江 * (*)孫 織田信長家臣。1582年頃の側近。津島牛頭天王社の神官一族。兄、助五郎・治家は1574年伊勢長島攻撃に討死。「本能寺の変」に討死。
⑳柏原 * (*)鍋 織田信長家臣。1582年頃の側近。

≪個人的感想≫ 古代、筑紫の君磐井が、近江毛野や物部麁鹿火に向かって「寝食を伴にし同じ釜の飯を食った仲ではないか」と二人に言い放ったのは、大王のもとで人質(小姓)として生活を共にしてきた日々の事を言っているのではないでしょうか。苦労を共にすることで仲間意識を高めていたのだと思います。
 信長様と、家康の関係もこれに近かったのではないでしょうか、そこで芽生えた二人の信頼関係だったのでしょう。

2016年10月03日