ピックアップ 戦国甲州武田家の家臣団と軍団

武田信虎の家臣団、武田信玄(武田晴信)、諏訪勝頼の家臣団と軍団
武田晴信(武田信玄)公 肖像のつもり。
「 人は城 人は石垣 人は堀 情は味方 仇は敵なり 」
  ‐武田晴信(入道信玄)‐
<武田騎馬隊はあった!!>
 「戦国時代に武将は馬に乗って戦わない、だから騎馬隊はなかった」という流言がCMで流されているが、これでいいのか日本と思いましたので、自分の考えを書きます。
 その根拠としている宣教師の証言ですが、宣教師たちは荒野で行われた大規模な合戦の戦場に居たのか?ということ、畿内から東の関東・奥州の戦闘を見たのか?ということが疑問です。
 大友や毛利に三好の居る西国では、船が馬に替わる手段で、もとから馬はそれほど必要ありません。大陸の「南船北馬」の様に、軍役帳を見比べれば戦国日本も比率的に「西船東馬」だったのでは?。宣教師がまずどこの地域の戦争の事を言ってるのか検討すべきでは?。
 宣教師は畿内以西の豪族の小競り合いを見て来たのではないでしょうか。(しかし、島津軍は関ケ原で馬上から火縄銃を撃っていますが・・)
 それに戦国末の信長による統一期には、本格的に鉄砲の運用が始まり、戦闘方法が従来のものでは通用しなくなり、武将は鉄砲の標的となるのを避けて下馬し隠れる事もあったのでは?。明治以降の戦いに騎兵隊は必要でしたか?騎兵は鉄砲の的になるのでは?。
 馬上指揮をする武将自身の命がかかっているのですから(だから鉄砲伝来以前の室町武将は騎乗の絵が多いのでは)、鉄砲を持つ相手を前に大将格が隠れるのは当然です。まして畿内では、強力な根来・雑賀の鉄砲衆の前では馬から降りる戦いは必然では?。織田家では森可成と坂井政尚が地面に伏せない柴田勝家に命が惜しくないのかと言っています。ある意味立っている事さえ度胸試しの戦国末期です。荒木村重の籠城する有岡城攻めでは瀧川・丹羽は塹壕を掘って土盛りの玉除けを造って、工兵隊を駆使して既に現代の戦いの様なことをしています。
 西国では鉄砲戦の戦いに戦(いくさ)の形が進化し、それを取り入れ近世風に進化した信長軍に武田軍は長篠で敗れたと思っています。宣教師は戦(いくさ)の転換期にあって鉄砲戦に適用していく戦国武将の姿をみていたのではないですか?。
 関東の上杉、北条などは南北朝・室町からの戦い方を継続している訳ですから、武田に対抗するためにそれなりの騎馬を揃えていたはずです。信玄は棒道を整備し「足長」と言われるほど坂東で神出鬼没で有名なのは馬の運用があったからこそでは?。
 それに古代から、信濃や甲斐、上州では馬と共に生活していく環境がありました。信濃望月氏などは千五百頭の馬を常時飼っていたといいます。
鎌倉時代からの流鏑馬や、それを伝える六角家や小笠原家、信長の重用した信濃の騎馬の名人、現代に伝わる相馬の馬追い、これをみて馬に乗らないとどうして言えましょう。相馬の馬等は密集陣形状態でも平常心を保てます。
 馬は敗戦の際に逃げる手段でもありますし、侍(武士)の必需品だったと思います。武田の城には馬出し曲輪の名や、河内の城域の現代地名にも馬場という地名が残っています。武田攻めの前に織田信忠が美濃長良川沿いに馬場を構築して練習したり、信長が京都で馬揃えしたり、島津が関ケ原で徳川軍に突撃したり、戦国時代の野戦の必需品だったと思います。
 混血種サラブレットは当時いないのは当たり前。しかし、当時の日本人の身長からすれば大きな馬である必要があるのか?です。
 現代のドラマ撮影なら、現代人の中でも高身長(180㎝程)の役者さんが乗るなら比率的にはドラマのような馬との見栄えの重視でも良いのでは?。イメージの再現なのですから。木曽馬が150㎝前後なら昔の日本人は130㎝前後でしょうか。
 それに、木曽馬は気性が荒いものは人をかみ殺すと聞きます。戦場でも噛みつかれる足軽がいたんじゃないでしょうか。実際に信長の甥・津田信澄は馬に罪人をかみ殺させています。現在の大人しい木曽馬は、荷物運搬や農作業の為に江戸三百年でより一層家畜化されたものなのでは?。
 鎌倉・室町・戦国期に飼育された、蹴る、かみ殺す、体当たりする凶暴な馬が向かってくるだけでも徒歩の人間には恐怖です。戦場では搦め手(横槍)部隊として、騎馬隊が側面から突入して戦況を覆すこともあったのでは?上杉謙信は佐野城救援に少数で敵中を走り抜いて城内に入ったこともあったようです。これは馬がなければ出来ないことでは?(関東の上杉・北条・武田の馬所有比率が近いのは同じような環境なので当たり前なのでは?。武田家は更に一極集中する運用が出来たからこそ「馬一筋に力攻めしてくる」と言われているのでは?)。
 武田家の敗戦・滅亡の「言い訳の書」である『甲陽軍鑑』では諸将の軍役の持ち騎馬数を誇らしげに書きつつも(計一万頭近く)、長篠では歩兵が主力だった等「矛盾する」ことを書いているのは、何故でしょうか?。
 江戸時代に徳川家の軍法書とされた時に、馬で押す戦法は時代遅れとされる(江戸)時代ゆえ、武田騎馬隊を否定する文が追加されているのでは?『甲陽軍鑑』を用いるならば、江戸時代創作者の意図を深く良く読み取る必要性があると思えます。
 更に、武田家を滅ぼした後の「小牧長久手」での森長可の死に方こそ、戦(いくさ)がより鉄砲重視になって行った結果の戦死だったのではないでしょうか。
 「武田騎馬隊はなかった」とか、単純でインパクトはあるのかもしれませんが、声を大きくして全てを否定するそういう定説の覆し方はおかしいと思います。もう少し前後の歴史と広く列島(東西の地域性)を見て、深く検討する必要があるんじゃないでしょうか(戦国の終わった秀吉天下統一後の均一化された職業軍人の集団戦・足軽歩兵隊主役の時期なら馬に乗らなかったかもしれませんが、戦国末と秀吉の天下では微妙に時期が違いませんか?)。宣伝する方々は、どこかの国から歴史を歪曲するように融資されているのですか?という見方をしてしまいますね・・。
 というか、騎馬武者がいないのなら馬防柵さえいらなくなりますね。『甲陽軍鑑』だけでなく『信長公記』も全否定ですか?そのうち「織田信長はいなかった」とまで行きつくかもしれませんね・・・。
 在野の私が言うのもなんですが、これはアカンと思います(H29春)。

新羅三郎義光流の源氏 (家宝)日の丸の御旗、楯無鎧。
武田信虎の家臣団 1515年大井信達攻めに敗退。

 
⇔武田信虎 (1494~1574)五郎・左京大夫・陸奥守・信直。幕府相番衆・甲斐守護。武田信縄の息。母は岩下氏。武田晴信の実父。父・信縄は叔父・油川信恵(信昌次男)と抗争。1507年家督相続。1508年惣領を巡り、油川信恵、岩手縄美(信昌3男)と抗争、小山田氏も離反。「坊ケ峯合戦」に勝利。1515年大井信達・信業親子との「富田城表の合戦」に敗退。1519年信濃平賀進攻。1521年今川軍の福島正成の甲斐進入を「上條河原の合戦」で撃退。離反した波木井義実を討つ。1522年大井攻めに敗退。飯富、今井信元が離反。1531年大井信業を討つ。1532年今井信元を降伏臣従させ甲斐を統一する。扇谷上杉家の上杉朝興と同盟。晴信の室に扇谷殿を迎える。1531年今川氏親、氏輝親子の内紛に介入。北条氏綱の後詰に敗退。今川義元を娘婿とする。諏訪頼重を娘婿に迎える。1536年信濃佐久進攻。滋野氏と抗争。弟に勝沼信友。娘婿に小山田信有、穴山信友。正室に大井氏。側室に今井、楠浦、工藤、松尾氏。81歳。<「甲斐の虎」とはこの方のことです!自身直属の足軽大将衆を強化した点、信長に通じるものがあるかもしれません。>



<信虎 御親類(一門)衆> 赤文字・敵対者(◆家臣ではない) 信虎が意外にも、敵対者(有力国人)一門を赦免しています。
◆大井信達 (1474~1552)宗芸。大井信包の息。今川氏親と結んで信虎に対抗。1515年「富田城表の合戦」に勝利。1517年信虎と和解し娘婿に迎える。1520年再び抗争勃発。逸見、栗原氏と同盟。「今諏訪の合戦」に敗北。1531年息・信業が武田家に敗北し戦死。降伏臣従。上野城主。富田城主。息に信業(*~1531)、信常、信尭。娘婿に武田信虎。<大井氏は関東公方・足利持氏の代に信頼厚く、室町幕府中央の勢力と対抗するため関東一円に所領を多く与えられる。>

▽大井信業 (*~1531)左衛門督。信達の息(嫡男)。室に瀬名(今川)一秀の娘。息に信為。
▽▽大井信為 (1530~1549)次郎・為信。信業の息。病死の為、跡職は信常の息・信舜が継承。
▽大井信常 (1496~1538*1551)信経。信達の息(次男)。1531年兄・信業の戦死により家督。武田家に従う。兄の嫡男で信虎の娘婿・大井為信(1530~1549)を後見。武田家に従い、1544年小笠原長時討伐に従軍。1547年信堯とともに三条西実枝を接待。1550年「砥石城攻め」に従軍。息に信舜、(吉田)信家、信稟。跡職は信舜が継承する。
▽大井信尭 (1502~1553)武藤。信達の息(3男)。武田家に従う。1547年信常とともに三条西実枝を接待。弟に虎昌、虎成、(武藤)常昭(*1509~1587)。<武藤常昭は武藤(真田)昌幸の別家を建てる。>
▽大井虎昌 (1504~1560)信達の息(4男)。弟に虎成(1505~1561)。息に昌次。
◆油川信恵 (1476~1508)武田・彦八郎・刑部少輔。武田信昌の息(次男)。信縄の弟。信虎は甥。父・信昌と栗原、穴山、小山田、加藤氏により兄に替わり惣領に擁立される。1494年信虎に敗北。1495年伊勢長氏の介入で和睦。1505年信昌・信縄の死により家督争い再燃。岩手縄実、栗原昌種、小山田氏、工藤氏に擁立される。弟・岩手縄実とともに、信縄の息・信虎(信直)と抗争。1508年信虎に敗北戦死。勝山城主。息に信貞、信守。
▽油川信守 (1496~1550)刑部助・信盛。信恵の息。兄・信貞の戦死により家督。娘婿に武田晴信。孫に仁科盛信。
◆岩手縄実 (1477~1508)武田・四郎・治部・縄真。武田信昌の息。信縄の弟。信虎は甥。信虎に勝山城を攻略され戦死。
▽岩手信友 (1497~1550)武田・信行。縄美の息。油川信恵を擁立し、信虎と抗争。父・縄美の戦死により家督。武田家に降伏臣従。旗奉行。息に胤秀、信盛。
▽秋山光任 (*)油川信恵を擁立し、信虎と抗争。息に信任。<孫に秋山信友。>
▽秋山信任 (1507~1548)秋山光任の息。光任の跡職を継承。信虎に降伏臣従。
加賀美虎光 (1490~1529)1529年武田信虎に誅殺される。<名門、加賀美氏。>
南部宗秀 (1490~*1549)下野守。甲斐南部荘の豪族。南部定秀の息。1523年穴山信永を討ち小山城を奪取。のち1548年に追放される。甲斐南部城主。息に(河西)満秀。
小山田信隆 (*~1515)弥太郎・大和守。郡内の領主。小山田信長の息。葛山維貞の娘婿。油川信恵(信縄の弟)を擁立し信虎と抗争。1510年武田信虎の攻撃に降伏臣従。1515年武田信虎に従い大井氏を攻撃。「上野城表の合戦」に戦死。<出羽守は小山田信隆のことでしょうか。>
▽小山田信有 (1488~1533*1541)弥三郎・越中守。郡内の領主。小山田信隆の息。武田信虎の妹婿。1520年頃に惣領。1521年中津森館を信虎が訪問。1530年北条氏と「矢坪坂合戦」に敗北。息に虎親(1508~1541)、出羽守・信有。勝山城主。
▽小林昌喜 (1490~1550)尾張守。道光の息。小山田家家臣。
穴山信懸 (*)(武田)。油川信恵(信縄の弟)を擁立し信虎と抗争。1508年信虎に敗北し降伏臣従。一門の穴山信永に害され死去。
穴山信綱 (1480~1531)(武田)・八郎・甲斐守。信懸の息。1523年穴山信永が南部氏に小山城を奪われる。1531年甲斐国人との「河原辺の合戦」に戦死。息に信友。河内下山城主。
▽穴山信友 (*1506~1560)(武田)・彦六郎・彦太郎・伊豆守・幡龍斎。穴山信綱の息。武田信虎の娘婿(晴信の姉)。1531年父の戦死により家督相続。1542年諏訪頼重との抗争に軍功。息に穴山信君。河内下山城主。<1560年は第四次「川中島」の年。息子の信君の名は彦六郎。>
逸見信親 (1498~1560)武田・辺見。武田家嫡流家。諏訪頼満の娘婿。若神子城主。<源氏の貴種です。晴信の息・龍宝(1541~1582)も武田信親と同姓同名。>

(武田信虎 一門衆) 1531年韮崎「河原辺の合戦」前後に今井備州・栗原兵庫・大井信業等を討ち甲斐統一。
松尾信賢 (1478~1538)武田信賢。信昌の息(4男)。弟に両角虎定。娘婿に信虎。武田信虎を後見。信虎の息、信是を養子とする。
⇔勝沼信友 (1495~1535)武田信友・次郎五郎・五郎・左衛門大夫・安芸守。信縄の息(次男・2男)。兄に信虎(信直)。弟に桜井信貞。勝沼を領し小山田氏の抑え。1535年今川・北条家との抗争で氏綱軍に敗れ戦死。息に信元(1526~1560)、加藤信厚(信原)。娘婿に小山田信有。<1560年に息子・信元は上杉家に通じた罪で誅殺される。>
⇔↓▽勝沼信元 (*~1560)武田・丹波守・五郎・信光。信友の息。信虎の甥。弟に加藤信厚(信原)。1535年父が北条氏綱との合戦に戦死。1560年関東管領に就任した上杉謙信に呼応し謀反。討伐される。息に信就、信定、信景。
▽加藤信厚 (*)武田・勝沼・次郎左衛門尉・丹後守・信原・信景。信友の息(次男)。兄に信元。上野原の加藤氏(景忠の跡職)を継承する。妹(今井氏とも)婿に雨宮氏。<加藤景忠と事績が混同されているかもしれません。>
▽岩崎勝秀 (1500~1550)1457年跡部氏との合戦で岩崎家衰退。信虎に仕え勝沼信友の与力。<元・甲斐の有力豪族。守護代・跡部家の敵は武田家の味方でしょうか。><駒井政武も岩崎氏出身。>
桜井信貞 (*)武田信貞・河内守。武田信縄の息(4男)。兄に信虎、信友、(僧侶)大泉寺英心。
浅利虎在 (1506*1508~1564)伊予守。八代郡浅利郷の豪族。武田信縄の娘婿。信虎の義兄弟。息に信種、義益。<息子の代に譜代家老に格下げ?。孫の昌種は本多忠勝の家臣。>
今井信房 (*~1515)(武田)・(栗原)・右衛門佐。今井信形の息。1515年武田信虎に従い大井氏を攻撃。「上野城表の合戦」に戦死。<栗原氏と縁戚。>
今井信甫 (1488~1575)(武田)・(栗原)・(勝沼?)・相模守。今井信形の息。1515年大井家との抗争での兄・信房の死により家督相続。武田家の信頼厚く、勝沼信友の跡職を継承。1536年信濃佐久進攻に従軍。息に信良。<信虎の側近。下曽根の「羽州」に今井の「相州」で双璧。>
⇔▽今井信良 (*~1560)(武田)・(五郎?)・安芸守。信甫の息。1560年関東管領に就任した上杉謙信に呼応し謀反。討伐される。
今井虎甫 (1489~1575)(武田)・(栗原)。今井信形の息。信甫の弟。1536年信濃佐久進攻に従軍。
◆今井信是 (*~1531)(武田)・江草。今井信慶の息。油川信恵と結ぶ。のち諏訪頼満と結び反乱。弟の今井信元、栗原兵庫、飯富虎昌とともに信虎と抗争。1531年戦死する。弟の信元、信隣は信虎に臣従。獅子吼城主。息に虎意、貞恵。<今井備州。>
今井信元 (*)浦ノ信本。油川信恵と結ぶ。兄の今井信是、栗原兵庫、飯富虎昌とともに信虎と抗争。1532年兄の戦死後に、獅子吼城主。江草一門を率いて籠城。のち降伏臣従する。
▽今井虎意 (1497~1548)(武田)・江草。今井信是の息。弟の貞恵とともに1532年武田家に降伏臣従。1536年信濃佐久進攻に従軍。巨摩郡小倉、浦城主。
▼今井信昌 (1503~1575)(武田)・江草。今井信隣の息。武田晴信に仕え、「旗本武者奉行」。1536年信濃佐久進攻に従軍。
飯富* (*~1515)入道道悦。1515年武田信虎に従い大井氏を攻撃。「上野城表の合戦」に戦死。
飯富* (*~1515)源四郎。1515年武田信虎に従い大井氏を攻撃。「上野城表の合戦」に戦死。
↓▽飯富虎昌 300騎(1504~1565)源内・兵部。昌義の息。義信後見役。山県昌景の兄。1528年諏訪家に通じる。1329年頃、信虎の代に今井信元、栗原兵庫とともに反乱。1536年北条家との「御殿場の合戦」に先陣を勤め北条軍を破る。1565年主・晴信に謀反を企てるが発覚。切腹する。信濃国小諸城主。小諸跡職は小山田昌辰、高坂昌信、武田信豊に継承される。<世に武田「オブの赤備え」で勇名。「甲山の猛虎」の名は秋山信友に継承されるか。>
◆栗原信遠 (*~1501)(武田)・民部大輔。武田一門。出羽守の息。油川信恵の臣。1501年の合戦に敗北し自害。
◆栗原* (*~1531)(武田)・兵庫。武田一門。今井信是、栗原兵庫、飯富虎昌とともに信虎と抗争。1531年韮崎「河原辺の合戦」に敗北し戦死。
◆栗原信真 (*~1531)(武田)・巨海・次郎・兵部。武田一門。栗原信尊の息。弟に昌種。1531年飯富氏とともに信虎に反乱。息に信友、信盛(正清)。<一門に三河の豪族・巨海道源。><栗原兵庫助と同一人物?>
▽栗原信友 (1504~1575)(武田)・伊豆守。武田一門。信真の息。正清の兄。詮冬が家督継承。
↓▽栗原正清 200騎(1505~1552)左衛門佐・信盛・昌清。武田一門。甲斐栗原郷領主、栗原信真の息(次男)。譜代家老家。1543年「小田井原の合戦」に軍功。1550年「地蔵峠の合戦」に軍功。信濃「常田の合戦」に傷をおい死亡。息に詮冬(信盛?)。<「速攻の栗原」。なんだかんだで譜代家老に格下げされているような・・。>
於曾* (*~1515)(板垣)。1515年武田信虎に従い大井氏を攻撃。「上野城表の合戦」に戦死。板垣信斎の息・信経が跡職を継承。<子孫は板垣氏を継承して板垣信安。>
 板垣* (*~1515)伯耆守。武田一門。1515年武田信虎に従い大井氏を攻撃。「上野城表の合戦」に板垣備州とともに戦死。跡職は板垣右兵衛尉・信泰が継承。
板垣信泰 (*)右兵衛尉・信斉。武田一門。1520年信虎に従い「今諏訪の合戦」に従軍。息に板垣信方、直方(室住虎登)。
▽板垣信形 (1494~1548)駿河守・信方。武田一門。晴信後見役。譜代家老家。1536年信濃佐久進攻に従軍。1538年主・信虎を追放。信濃国諏訪城主。1548年「上田原の合戦」に討死。上原(高島)城主。息に信憲。上原跡職は室住虎定、長坂虎房、吉田信生、市川昌房、今福昌和に継承される。<譜代家老に格下げ?。>
▽荻原昌明 (1509~1581)板垣昌明・弥右衛門・兵部丞。祖父に荻原昌勝。昌忠の息。板垣信形の与力。息に昌之(1529~1600)。
室住虎定 200騎(1480~1561)武田・諸角・両住・豊後守・昌清・虎光。侍大将。武田信昌の息(6男)。松尾信賢の弟。室住虎城の養子となり跡職を継承。板垣の後、諏訪郡代・上原城主。1561年「川中島の合戦」に武田信繁とともに戦死。家臣に石黒五郎兵衛、成瀬正一。
↓▽室住虎登 (1495*1500~1564)板垣直方・諸角・玄蕃允。士隊将家。侍大将。虎定の養子。弟の板垣信経とともに兄・信形を補佐。上原城留守居。信濃国柏鉢城主。息に昌守、本田重政。<譜代家老に格下げ?。>
甘利* (*~1515)一条流武田分家。1515年武田信虎に従い大井氏を攻撃。「上野城表の合戦」に戦死。
▽甘利虎泰 (1494~1548)九衛門・備前守。一条流武田分家。甘利宗信の息。譜代家老家。1536年信濃佐久進攻に従軍。1538年主・信虎を追放。1548年「上田原の合戦」に討死。弟に虎忠。息に信益(1518~1542)、昌忠(1534~)、信康。<世に「猛り狂う野牛を野に放つが如し」と畏怖される猛将。><譜代家老に格下げ?。>
▽曾雌虎忠 (1505~1560)甘利虎忠。甘利宗信の息。虎泰を補佐。1536年信濃佐久進攻に従軍。
<信虎 譜代家老衆>

<信虎 譜代家老衆> 敵対者を赦免するわりに譜代家老衆(中堅豪族)を次々と手打ちに・・
 馬場虎定 (1490~1529)(武田)・伊豆守・虎貞。譜代家老家。1522年村上義清の後援での平賀源心(大井成頼)の甲斐進入を撃退。1529年加賀美虎光討伐に反対し、山県虎清とともに信虎に諌言し誅殺される。1546年教来石信房が馬場家を継承。
 山県虎清 (1495~1529)河内守・昌常。譜代家老家。信喬の息(次男)。1529年加賀美虎光討伐に反対し、馬場虎定とともに信虎に諌言し誅殺される。
前島氏虎 (*~1536)譜代家老衆。1536年今川氏の福島正成に通じ反乱。<事績は抹消されるか。味方ケ原に従軍する前島氏あり。>
工藤虎豊 (1490~1537)下総守。譜代家老家。祐包の息。1536年信濃佐久進攻に従軍。1537年内藤虎資とともに信虎の今川出兵に反対し誅殺される。白山城主。息に昌祐(1520~1582)、祐長(内藤昌豊:1522~1575)。
内藤虎資 (1495~1537)譜代家老家。昌盈の息。1536年信濃佐久進攻に従軍。1537年工藤虎豊とともに信虎の今川出兵に反対し誅殺される。息に落合昌貞(1515~1582)、青木昌基(1517~1582)。
跡部昌虎 (1490~1541)譜代家老家。利勝の息。息に昌直、昌辰。<小身の跡部家のほう。>
跡部信秋 (1500~1560*1570)(小笠原)・伊賀守。甲斐守護代家。譜代家老家。跡部上野助・信長の息。武田晴信の側近、奏者。1553年信濃香坂氏への使者。息に(尾張守)勝資、昌秀。<大身の跡部家のほう。幕府任命の守護代家として対外的な立場が尊重されるか。>
 原 昌俊 (1488~1549)加賀守・国房・胤元・胤之。譜代家老家。武田信虎の陣場奉行。1536年信濃佐久進攻に従軍。跡職は昌胤(1526~1575)が継承。親子2代で両職を勤める。<池田元助と同じで元と之の・・・。>
土屋昌遠 (1480~1540)信遠の息。武田信虎の側近。譜代家老家。武川衆・柳沢貞興とともに駿河に同行する。
春日* (1496~1561)大隈。甲斐石和の豪族。息に高坂昌信。<甲斐石和といえば武田の元嫡流の本拠地。>
▽↓春日虎綱 (1527~1578)高坂昌信・(香坂)・源助・源五郎・弾正。<のち北信濃の豪族・高坂氏を継承する。1494年生まれの信虎に仕えて「虎」字を賜るとすれば、1541年に追放される直前に出仕していたか。>
駒井政武 (1480~*)岩崎・高白斎・昌武。岩崎政時の息。譜代家老家。武田信虎の側近、祐筆。息に駒井政直(昌直:1542~1595)。<『高白斎記』を記す。>
小宮山虎景 (1520~*)弥八。小宮山虎泰の息。譜代家老家。<一門の小宮山昌友(虎高)は二俣城攻めに戦死。惣領は息の友晴(友信)に。>
勝津野昌忠 (1519~1570)鹿角・和野。勝忠の息。譜代家老家。息に昌世。

<信虎 士隊・足軽大将衆>
<信虎 士隊・足軽大将衆> 譜代家老を務める中堅豪族の勢力を削いで、自身の手足となる足軽衆を強化していたのでしょう。
▲青木義虎 (*1460~1511)武川衆。弟に柳沢信興。息に信種(*~1541)、信定。甲斐白山城主。
下曽根信利 (1498~1540)(逸見)・曽根・出羽守。信友の息。足軽大将家。信虎の足軽大将。旗本武者奉行。息に昌利(政利)。<武田御親類衆の血脈だが、足軽大将と役職が低い。何かの罰か。>
▽下曽根昌利 (1518~1583)(逸見)・曽根・出羽守・政利・覚雲斎。信利の息。親子ともに足軽大将。旗本武者奉行。小諸城主。のち織田家に通じ武田信豊を討つ。
曽根昌長 (1483~1540)孫四郎・三河守。足軽大将家。曽根虎長の父。信昌・信虎からの家臣、足軽大将衆。上野国、安中氏との取次ぎ。息に縄長。曽根昌世は孫。<武田御親類衆の血脈だが、足軽大将と役職が低い。何かの罰か。>
▽曽根縄長 (1503~1531)昌長の息(長男)。1531年戦死する。
▽曽根虎長 (1504*1505~1560*1573)中務大輔・三河守。昌長の息(次男)。1531年兄・縄長の跡職を継承。息に昌世。<事績が昌世と混同される部分があるかもしれません。>
▽曽根虎盛 (1505*1509~1565)昌長の息(3男)。1564年長坂勝繁とともに武田義信を擁立し、武田晴信に誅殺される。<義信に連座した周防守(昌世の息)のことでしょうか。>
▽曽根虎吉 (1507~1582)孫之助。昌長の息(4男)。兄・虎長の与力。
↓横田高松 30騎+100(1488*1490~1550)備中守。足軽大将家。足軽大将四天王のひとり。1550年「砥石城攻略」に原とともに偵察軍。
小幡盛次 (1471~1519)入道日浄。足軽大将家。小幡定高の息。信虎家臣。足軽大将。荻原隊相備え。1515年「大井の合戦」に従軍。1518年「今井信是の反乱」の鎮圧戦に戦死。
↓小幡虎盛 15騎+75(1490*1505~1561)足軽大将家。足軽大将四天王のひとり。生涯36度の合戦で常に軍功あり。1561年第4次「川中島の合戦」にて戦死。<病死説もあり>
多田常昌 (1480~1510)武田信昌・信虎の家臣。諏訪氏との抗争に軍功。信濃方面の前線に配置される。息に多田満頼。
↓多田満頼 (1501~1563)淡路守・三八。1540年村上義清との抗争に「小荒間の合戦」で軍功。足軽大将四天王のひとり。息に昌治(1524~1575)、昌頼、昌俊。<夜襲を得意戦術とすることで有名。>
↓原 虎胤 35騎+100(1497~1564)鬼美濃・美濃守。足軽大将家。足軽大将四天王のひとり。1553年一時北条家に出奔する。1550年「砥石城攻略」に横田とともに偵察軍。1561年「割ケ厳城攻略戦」に負傷、第4次「川中島の合戦」には不参加。
金丸虎嗣 (1491~1550)(一色)・(武田)・若狭守。一色藤次の息。武田分家金丸氏を継承。士隊将家。息に虎義。<三河分郡守護の一色と栗原分家の三河・巨海氏とのつながりでしょうか。>
日向昌時 (1491~1582*1590)大和守・是吉・虎頭。昌吉の息。1536年信濃佐久進攻に従軍。日向一門衆に虎忠、秀泰、虎顕。海尻城主。<松平信康は娘婿。>
石原守繁 (1490~1550)石原守種の息。弟に三枝守綱。
三枝守綱 (1491~1564)石原守綱・丹波守・丹後守。石原守種の息(次男)。三枝定久の養子。甲斐の豪族、三枝家を継承。士隊将家。守繁の弟。
↓三枝虎吉 (1511~1584)石原守綱・源八郎・元久。士隊将家。守綱の息。息に守友。
長坂昌房 (1493~1531)頼信の息。信昌、信虎の家臣。室は武田晴信の乳母。長坂城主。
↓長坂光堅 50騎+45(1513*1524~1582)長坂虎房・左衛門・釣閑斎・長閑斎・(虎房)。足軽大将。家1536年信濃佐久進攻に従軍。1561年「川中島の合戦」に従軍。1575年「長篠の合戦」に従軍。1582年武田家滅亡の際に織田軍の捕虜となり処刑。長男・源五郎(昌国)は武田義信の側近。自身は勝頼後見役。<事績が先代と混同されているかもしれません。>
初鹿野高利 (1505~1548)伝右衛門。1548年「上田原の合戦」に村上義清に討たれる。跡職の忠次は「川中島の合戦」に戦死。<忠次の跡職は加藤虎景の息・昌次が継承。>
教来石信保 (*)1536年信濃佐久進攻に従軍。自元寺城主。
↓教来石信房 (1514*1515~1575)馬場信春・民部少輔・美濃守・景政・信勝・信房。武川衆出身。直属の120騎士隊将に抜擢される。「四天王」のひとり。1536年信濃佐久進攻に従軍。1568年今川征伐に先鋒を務め軍功。1572年美濃岩村城攻略に活躍。1572年「三方ケ原の合戦」に軍功。信濃国牧之島城。深志城主。座右の銘「戦場常在」。1575年「長篠の合戦」に討死。62歳。飛騨方面旗頭。
▽教来石信頼 (*)1536年信濃佐久進攻に従軍。
楠浦昌勝 (1485~1540)刑部少輔・政勝。楠浦昌胤の息。信虎の義兄弟。<信昌の代から家中に重きをなす重臣。>
↓楠浦虎常 (1509~1565)丹波守。義信の補佐役。1565年義信事件に連座し自害。
↓漆戸虎光 (1512~1575)義信の補佐役。
布施信慶 (1485~1540)信経の息。武田信虎家臣。
青沼昌世 (*)1536年信濃佐久進攻に従軍。
小沢昌光 (*)1536年信濃佐久進攻に従軍。
青木信種 (*)義虎の息。叔父に柳沢氏。1536年信濃佐久進攻に従軍。青木一門衆に信立、満懸、信定、昌基。<三河・尾張にも青木氏あり。一門に渥美氏か。>
山寺信明 (*)1536年信濃佐久進攻に従軍。
柳沢貞興 (*)一門に青木氏。1536年信濃佐久進攻に従軍。柳沢一門衆に信房、信景。
落合昌貞 (*)1536年信濃佐久進攻に従軍。
曲淵吉景 (*)1536年信濃佐久進攻に従軍。
広瀬景昌 (*)1536年信濃佐久進攻に従軍。
鯰江頼母 (*)1536年信濃佐久進攻に従軍。<鯰江と言えば近江の佐々木一門。森川氏や堀部氏、森氏も一族か。>
(武田信虎の側近・軍師)

(武田信虎の側近・軍師)
▲荻原昌勝 (1461~1533*1535)常陸介。武田信虎の傅役。信虎の側近。息に虎重(1490~1541)。<「甲陽軍鑑」に登場。「甘利虎泰と並ぶ剛の武者。」>
飯田虎春 (1490~1550)(武田)・逸見・但馬守。昌有の息。信虎の側近。武田晴信の弓指南役。1536年信濃佐久進攻に従軍。息に有信。
▽飯田有信 (*)(武田)・逸見。虎春の息。1536年信濃佐久進攻に従軍。
加藤虎景 (1492~1560*1566)駿河守・信邦。信虎の側近。旗本武者奉行。武田晴信の弓指南役。1536年信濃佐久進攻に従軍。息に初鹿野信昌、加藤景忠。
(信虎 外様衆) 信濃佐久郡の協力者。晴信の代には譜代扱いか。
上原虎満 (1494~*1552)伊賀守。信濃国佐久郡平賀の豪族。足軽大将家。1536年信濃佐久進攻に従軍。1546年内山城の大井貞清を攻略。信虎の信濃攻略に従い軍功。息に(小山田)昌辰。<信濃「常田の合戦」に戦死するのはこの方か。小山田備中昌辰はもと上原氏。>
↓▽小山田昌辰 (1514~1579)上原昌辰・(石田)小山田・古備中・虎満。譜代家老衆。1536年信濃佐久進攻に従軍。飯富虎昌の跡職を継承し内山城主。1567年に隠居。息に小山田昌行(昌成)。内山城主。<「赤備え」は継承できたのでしょうか。山県昌景さんとの間柄も気になるところです。>
上原昌成 (*)1536年信濃佐久進攻に従軍。
上原昌貞 (*)1536年信濃佐久進攻に従軍。
上原盛昌 (*)1536年信濃佐久進攻に従軍。
伴野貞慶 (*~1527*)信濃佐久郡の豪族。信虎の同盟者。1527年大井家(大井貞隆)との抗争に武田信虎の後詰要請。敗北により失領。前山城主。
伴野貞元 (1471~1559)友野・刑部少輔・貞祥。信濃佐久郡の豪族。光信の息。1548年村上義清に従う。のち、信濃に進攻した武田晴信の家臣。

《個人的感想》 個人的な妄想ですが、信虎の代に、主家に対抗する勢力を持つ有力な一門衆は、一門から譜代に格下げされ、家臣化されつつも、家門のプライドを保つために「旗頭(部隊長)」となるグループを形成、
 「旗頭」となるのその家門数は固定されていて、家臣の中でも身分格差を加え、「旗頭」となりえる武将はこの家格をもつ者からしか選ばれないという格式のようなものがあり統制される。
 そのため、信玄の代では更に格下の家出身の優秀な侍は、「旗頭」階級の「家門」に婿養子入りするなりして家督を継承して、「旗頭(部隊長)」グループの姓を冠しないと、「旗頭」になりえないような、暗黙の身分格差的な堅苦しいしきたりがあるのかもしれません。
 信玄の代に馬場や、山県や、内藤や、小山田等、姓を代えて跡職を継いでいます。信玄曰く、「人は城、人は石垣」という言葉に表されるように、昔から名の通った武家の苗字の家臣たちを戦列に揃えることで「名前で勝つ!」というか、戦う前から敵をびびらせて、抑止の力とするというか、戦意を削ぎ、自軍の被害を抑える意味があったのかもしれません。
安芸武田氏のページ→戦国中国地方の豪族家臣団 ・ 毛利家の家臣団
武田晴信(武田信玄)の家臣団  1555年鉄砲300丁実戦投入。『武田家軍役帳』 緑文字は1582年織田信忠の「甲州乱入」で滅亡の際、離反する者。
武田晴信 (1521~1573)勝千代・信濃守・大膳大夫。守役は板垣信形。1533年上杉朝興の娘と婚姻。三条公頼の娘婿。1536年信州海口城に初陣。1541年父を追放して家督相続。1542年7月信濃侵攻「上原城・桑原城攻略戦」。9月「安国寺前の合戦」。1543年「長窪城攻略」。1544年11月「荒神山城攻撃」。1545年4月「高遠城攻略」。6月「福与城攻略」。8月今川家救援、対北条戦。1546年5月「内山城攻略」。1547年8月「小田井原の合戦」。1547年8月「志賀城攻略」。1548年2月「上田原の合戦」。7月「塩尻峠の合戦」。1550年「林城・深志城攻略」。1551年5月「戸石城攻略」。10月「平瀬城攻略」。1552年8月「小岩嶽城攻略」。1553年4月「葛尾城攻略」。1553年8月「塩田城攻略」。8月「第一次川中島の合戦」。1554年3月対北条家「刈屋川の合戦」。7月「鈴岡城・神尾城攻略」。1555年7月「第二次川中島の合戦」。1556年上野国「瓶尻の合戦」に勝利。8月「福島城攻略」。1557年2月「葛山城攻略」。8月「第三次川中島の合戦」。1558年「越後侵攻」。1561年9月「第四次川中島の合戦」に上杉輝虎と激戦。11月上野国「国峰城攻略」。12月「倉賀野城攻略」。1563年2月「松井田城攻略」。4月信濃国「飯山城攻撃」。10月上野国「岩柩城攻略」。12月「和田城攻略」。1564年5月上野国「安中・松井田城攻略」「倉賀野城攻略」。8月「第五次川中島の合戦」。2月「倉賀野城攻略」。1566年9月「箕輪城攻略」。1568年駿河国に侵攻。12月「駿府城・掛川城攻略」。1月「薩捶峠の合戦」。9月武蔵国「鉢形城攻撃」。10月相模国「小田原城攻略」。10月「三増峠の合戦」。11月「興津城攻略」。12月「蒲原城攻略」。1570年6月「深沢城防衛戦」。8月「韮山城攻撃」。1571年1月駿河「興国寺城・深沢城攻略」。3月「高天神城攻撃」。4月三河国「足助城・野田城攻略」。1572年1月「石倉城防衛戦」。3月「利根川の対陣」。10月「飯田城攻略」。11月美濃国「岩村城攻略」。12月「二俣城攻略」。対織田・徳川連合軍、「三方(味方)ケ原の合戦」。1573年2月「野田城攻略」。4月(上洛途中)陣中に病死。53歳。
<晴信 御親類(一門)衆>1520年世代  [三方ヶ原以前に死亡] 1575年「長篠の合戦」で戦死
<晴信 御親類(一門)衆>1520年世代  [三方ヶ原以前に死亡] 1575年「長篠の合戦」で戦死
[武田信繁] 200騎(1525~1561)(吉田信繁)・次郎・左馬助・典厩。晴信弟。武田家副将。1561年第4回「川中島の合戦」に討死。
[松尾信是] 200騎(*~1571)武田信是・源十郎・民部少輔・信俊。信虎の息(5男)。外祖父、松尾信賢の養子に行く。河窪信実の息・信俊が遺領を継ぐ。山県昌景相備え。
武田信廉 80騎(1525*1532~1582)孫六・刑部少輔・逍遥軒・信綱・のぶかど。晴信の弟。1541年兄のクーデターに従う。1561年兄・信繁の死により一門筆頭。1570年信濃高遠城主のち、信濃大島城主。晴信の影武者を勤めたと伝わる。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1575年「長篠の合戦」に従軍。穴山信君とともに撤退。1582年織田家の森長可軍により処刑される。息に信澄。
▽工藤昌祐 (1520~1582)長門守。工藤虎豊の息。父の死により武田家を出奔。晴信の家督により甲斐に復帰。武田信廉の家老。弟に祐長(内藤昌豊)。息に祐久。
河窪信実 200騎(1544~1575)武田信実・川窪・兵庫助。西山梨郡川窪領主。信虎の7男(10男とも)・晴信弟。武蔵雁坂口を守る。松尾信是の遺領を継ぐ。のち浪人衆313騎を率いる。1575年鷲津砦を守備し酒井忠次、金森長近の別働隊と抗戦し戦死。甲斐河窪(川窪)城主。息に信俊。
▽五味高重 (*~1575)与三兵衛・与惣兵衛・貞成。越後浪人。河窪(武田)信実の与力。飯尾助友、名和宗安とともに浪人衆頭三人のひとり。
▽井伊* (*)飯尾助友・弥四右衛門・与四郎。河窪(武田)信実の与力。五味高重、名和宗安とともに浪人衆頭三人のひとり。<遠江、井伊の出でしょうか。没落した飯尾氏でしょうか。>
一条信龍 200騎(*~1582)武田信龍・右衛門大夫。信虎八男・晴信弟。甲斐西八代郡を領す。信玄の後備えに終始したため武功は具体的に伝わらない。山県昌景評では「伊達者にして、華麗を好む」とされる。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。「長篠の合戦」では勝頼の退却為、殿軍で奮戦した。甲斐上野城主、駿河田中城主。武田家滅亡の際、勝頼に忠節を尽くし奮戦する。甲斐上野城主。<山県昌景さんほどの男が嫉妬する男前なんでしょうかね?>
武田信友 100騎(*~1582)六郎・左京亮・上野介・信基。武田信虎の息(晴信庶子とも)。瀬名貞綱の娘婿。1575年「長篠の合戦」に従軍。1582年織田信忠により誅殺される。<1575年「長篠」に活躍した武田左衛門の父上。信友ということで穴山・栗原(武田姓)家の信友と同名なので、こちらもよく事績が混同されてややこしい人物です。><武田姓を許されるのは末子相続の風習の名残でしょうか。家名存続の為の保険?。><出自はっきりしません(信玄の叔父とも)。>
▽板垣信憲 200騎(*1511~1552)弥次郎・信重。武田一門。信形の息。1551年甘利昌忠と連署で文書を発給。1552年晴信に誅殺される。諏訪城主。
甘利信益 (1518~1542)甘利虎泰の息(長男)。諏訪攻略戦に戦死。
⇔↑勝沼信元 (*~1560)武田・丹波守・五郎・信光。信友の息。信虎の甥。弟に加藤信厚(信原)。1535年父が北条氏綱との合戦に戦死。1560年関東管領に就任した上杉謙信に呼応し謀反。討伐される。息に信就、信定、信景。

信豊、信廉の方面軍制  <長篠合戦による人材不足で瓦解。>
 

武田義信 御親類(一門)衆 (第二世代) 1530年世代 養子縁組政策
武田義信 80騎(1538~1567)太郎。晴信の嫡男。守役は飯富虎昌。1554年初陣、南信濃知久氏攻略。1561年第4回「川中島の合戦」に敗走。今川との同盟をめぐり晴信と対立し牢死、30歳。長坂虎房(長閑斎)、長坂源五郎(昌国)、曽根周防(昌世の息、虎盛?)が同心。
↑▽楠浦虎常 (1509~1565)丹波守・若狭守。昌勝の息(次男)。義信の補佐役。<信昌の代から武田家中に重きをなす重臣の家柄。>
↑▽漆戸虎光 (1512~1575)義信の補佐役。
▽跡部勝忠 50騎(*~1582)九郎右衛門・美作守・(昌忠?)。泰忠の息。元・武田義信の側近。使番12人衆のひとり。近習番帳頭。士隊将のひとり。侍大将家。勘定奉行。陣場兵糧奉行。息に昌忠(1544~1606)。<小身の跡部家のほう。>
▽長坂昌国 40騎+50(*~1567)源五郎。釣閑斎の息(養子か?)。足軽大将家。武田義信の小姓。義信と供に誅殺された。<昌国は今川一門で義信が今川氏から室を迎えた際に、今川家から付随された付家老とも。>⇔▽雨宮家次 70騎(*~1575)十兵衛。信濃国人。元・村上家家臣。はじめ武田義信の側近。1567年義信事件に連座し出奔、北条氏に仕えるが武田家に復帰し、高坂相備え。1575年「長篠の合戦」に討死。 <1560年勝沼氏の謀反有、勝沼氏の室と離縁。雨宮は不遇です。>
▽勝津野昌世 (*~1567)鹿角・和野。昌忠の息。譜代家老家。武田義信の側近。1567年義信事件に連座し自害。跡職は真田信昌が継承。
海野信親 (1541~1582)二郎・龍芳。晴信次男。盲目のため出家。武田義信の弟。のち塔原氏の養子となり海野姓。 武田信豊 200騎(*~1582)(吉田信豊)・六郎次郎・左馬助・信元・典厩。信繁の嫡男・晴信甥。武田義信の義兄弟。1561年父の戦死後、信濃小諸城主。1572年「味方ケ原の合戦」に従軍。1582年城代・下曽根覚雲斎に謀殺される。
板垣信安 120騎(*)於曽・源八郎・左京亮。於曾氏。板垣信形の娘婿。1552年信憲が失脚。1558年板垣姓を与えられる。高島城主。のち駿河国田中城主。息に修理亮、隼人。対・徳川に徹底。
甘利昌忠 100騎(1533~1569*1572)藤蔵・左衛門・晴吉。一条流武田分家。甘利郷領主、虎泰の息。1551年板垣信憲と連名で文書を発給。1553年小笠原長時との「桔梗原の合戦」に軍功。1561年第4次「川中島の合戦」に従軍。1562年北条氏と武蔵国松山城攻略に負傷。1564年落馬し、1572年病死とも。上野箕輪城主。与力に米倉宗継。<甘利信忠に相当するか。>
甘利信康 150騎(*~1575)三郎四郎・信景・吉利・利重・晴吉。一条流武田分家。虎泰の息、昌忠没後に家督。1572年「味方ケ原の合戦」に従軍。1575年「長篠の合戦」に討死。上野箕輪城主。与力の米倉宗継も討死。
▽米倉重継 (1519~1575)丹後守・宗継。武田一門。甘利隊の与力。20人衆徒歩若党のひとり。旗本五人衆、足軽大将七人衆。1551年甘利虎泰に従い信濃国「刈屋原城攻略」に従軍。甘利信康に属し1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1575年「長篠の合戦」に討死。<鉄砲玉避けの「竹束」を考案。><甘利家家臣。陪臣から直参か。>
⇔↓曽根昌世 15騎+30(*)孫次郎・内匠助・下野守。虎長の息。「奥近習六人」のひとり。足軽大将衆。士隊将のひとり。1565年(息子?)・周防が義信とともに誅殺される。1569年「三増峠の合戦」で浅利信種の戦死後その部隊を纏め殿軍。真田昌幸とともに「信玄の両眼」と評される。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。駿河興国寺城主。1582年武田氏滅亡後、徳川家に出仕。武田旧臣の惣領として家康に起請文。徳川家では冷遇されたのか、のちに蒲生氏郷に出仕。<瀧川一益の軍団のページ参照してください。>
⇔↓駒井昌直 115騎(1511*1542~1595)右京亮・右京進。武田親類衆。甲州巨摩郡駒井領主、駒井政武(高白斎)の息。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。駿河深沢城主。伊豆北条氏に備える。のちに織田家に臣従。のち榊原康政に出仕。息に親直、昌時。<徳川家康の軍団のページ参照してください。>  

(小山田投石部隊 想像図)
小山田信茂 250騎(1539~1582)弥三郎・左兵衛尉・越前守。郡内(都留郡)の領主。岩殿山城城主。小山田家は信虎の代に武田家と同盟を締結。1572年「味方ケ原の合戦」に軍功。甲斐谷村城主。与力に上原氏。
▽上原* (*)能登守。小山田信茂に属し1572年「味方ケ原合戦」に従軍。

⇔↓穴山信君 200騎(1541~1582)武田信君・勝千代・左衛門大夫・玄蕃頭・陸奥守・梅雪斎。甲斐国河内(西八代郡・南巨摩郡)領主、晴信の婿、甥でもある。甲斐下山城主。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。駿河興津城代、1575年・駿河江尻城主。弟の信邦は「義信事件」に連座し自害。のちに織田家に臣従。息に信治(1572~1587)。<織田信忠の軍団のページ参照してください。>

⇔↓木曽義昌 200騎(1540~1595)晴信婿。木曽義康の息。1555年以降同盟、臣従。信玄3女と婚姻する。1560年飛騨三木氏の攻撃を撃退。のちに織田家に臣従。福島城主。<織田信忠の軍団のページ参照してください。>

<諏訪勝頼 御親類(一門)衆 (第二.五世代)>1550年世代

諏訪勝頼 (1546~1582)伊奈・四郎。晴信の息(4男)、母は諏訪頼重の娘。守役は跡部勝資。1562年伊奈郡、高遠城主。信濃諏訪家養子。1572年遠江「二俣城攻略」に軍功。「味方ケ原」の合戦に軍功。1581年遠江高天神城を奪取される。信濃高遠城主、甲斐新府城主。<「味方ケ原」で山県隊を救援して貸しをつくったとも。山県隊はそう簡単に崩れるとは思えませんから徳川家の創作かも。>
 
河窪信俊 313騎(1564~1639)武田信俊・川窪・新十郎・与左衛門尉。河窪信実の息。松尾信是の娘婿。松尾信是の死後に遺領を継承。1575年父の戦死後に家督。武蔵方面の抑え。のちに徳川家康に出仕。
一条信就 (*~1582)武田信就。一条信龍の息。武田信堯とともに駿河田中城を守備。1582年戦死。
葛山信貞 200騎(*~1582)(武田信貞)・十郎。晴信六男。1567年駿河国国人領主、葛山氏元の婿養子。1568年養父・氏元は武田氏に臣従し、1569年頃に家督継承。1582年信長に誅殺される。
望月信頼 60騎(1547~1564*1569)(武田信頼)・三郎・遠江守・昌頼。信繁の次男、晴信甥。信濃佐久郡の望月盛時(信雅)養子、望月城主。1569年病死。
▽望月信永 60騎(1551~1575)(武田信永)・遠江守・信長・(信雅?)。信繁の三男、晴信甥。信濃佐久郡の望月盛時(信雅)二人目の養子、北佐久郡、望月城主。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1575年「長篠の合戦」に討死。  
仁科盛信 100騎(1557~1582)(武田盛信)・五郎。晴信五男。甲州油川原に住す。信濃安曇郡北部の豪族、仁科家(仁科盛政)の養子。織田軍の侵入時に、信濃高遠城主。防戦し自害。
武田信澄 (1560~1576)平太郎。武田信廉の息。義兄弟に仁科盛信、河窪信俊、小笠原(松尾)信嶺。
武田信尭 100騎(1554~1582)左衛門佐・信光。武田左京亮・信友の息。小山田信茂の妹婿。晴信の甥。1572年「味方ケ原の合戦」に従軍。1575年「長篠の合戦」に従軍。1582年織田信忠により誅殺される。義兄弟に三浦貴久。<左衛門については現代でも穴山氏の左衛門と混同されている本がよくあります。事績の不確かな武将です。>
武田信清 (*)海野勝信。出家し僧籍にあったが還俗。海野領を守備する。1582年上杉家に逃亡。景勝に臣従し勝信と改名。


 

武田晴信 譜代家老衆 信虎の圧力で勢力を削がれていた豪族(譜代家老)衆が晴信を擁立するか。
『甲陽軍監』の内容では、譜代家老>侍大将>足軽大将>外様 の階級壁が、家柄血統重視で以外に分厚い様子なので注意してみました。世襲による人材登用の風通しの悪さが武田家敗北の原因とも考えられていたようです。信濃・上野の国人は武田中枢に食い込む事は至難の技だったのでしょう。
1575年:赤字は「長篠の合戦」で戦死。

 ↑馬場信春 120騎(1514*1515~1575)教来石信房・民部少輔・美濃守・景政・信勝。武川衆出身。直属の士隊将に抜擢される。譜代家老家。「四天王」のひとり。1568年今川征伐に先鋒を務め軍功。1572年美濃岩村城攻略に活躍。1572年「三方ケ原の合戦」に軍功。信濃国更科郡牧之島城主。のち深志城主。座右の銘「戦場常在」。1575年「長篠の合戦」に討死。62歳。飛騨方面旗頭。息に民部少輔。<最近、文書がみつからないとかでその存在と地位が危ぶまれる渦中のひとです。『甲陽軍鑑』、『信長公記』に登場しているのだから侍大将なのは確実なのでしょう。負傷して指がないとか、覚える気がなくて字が書けなかった武功派老臣とかありえないんでしょうか。あと地方への担当領域や役職により文書に登場する回数も違うし。織田家も地方の旗頭と、中央の官僚では文書の残る場所が違うとおもうのですが、てゆうか甲府の館が燃えてたら宿老達の本当の中央文書は残らないのでは?。いかがでしょう?。古文書に触れることが許されるような専門家じゃないし、よくわかりませんが、このHPは伝説も検証するという俗説視点なので宿老の地位でいるということで、 m( _ _ )mペコリ ><1560年桶狭間に従軍する馬場民部とは信春のことでしょうか。援軍として派遣されていれば面白いですね。>
▽岡部* (*)治部。駿河衆・岡部正綱の弟。馬場信春に属し1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
▽落合* (*)市之丞。甲斐国西八代郡市川大門の豪族。馬場信春に属し1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
 内藤昌豊 250~300騎(1522*1524~1575)工藤祐長・源左衛門尉・修理亮・昌秀。工藤虎豊の息。武田信虎に一族が誅殺され諸国を流浪。晴信の代に帰参し、1568年内藤家相続。譜代家老家。「四天王」のひとり。勝頼の許可を得て、保科正俊の息を養子とする。1572年「味方ケ原の合戦」に従軍。1575年「長篠の合戦」に討死。のち馬場に代わり深志城主。浅利信種戦死後、上野国箕輪城主。上野方面旗頭。52歳または54歳とも。養子に内藤(保科)昌月。
 ↑高坂昌信 150(450)騎(1527~1578)春日虎綱・香坂・源助・弾正忠・晴久・昌宣。石和の大農家、春日大隈の息。16歳のときに出仕。近習小姓。使番衆から城持ちに出世。譜代家老家。「四天王」のひとり。世に「逃げ弾正」と讃えられる。信濃安曇郡香坂氏の養子。嫡子・昌澄は1575年「長篠の合戦」に討死。小諸城主、尻飾城主、信濃国埴科郡、海津城主。北信濃方面旗頭。北信濃川中島四郡(埴科・水内・高井・更科郡)の代官。息に昌澄、信達(駿河三枚橋城主。)。<信玄とは6歳違い。「虎」字の武将ですから、もともと信虎の小姓から信玄に通じ信虎周辺の情報を流していたのでしょうか。><源助という名乗りは別人ではという説あり。>
 原 昌胤 120騎(1526~1575)隼人佐・昌勝。陣場奉行・昌俊の息。譜代家老家。諏訪勝頼の補佐役。1575年「長篠の合戦」に討死。息に昌引。<信玄曰く「陣取りは昌胤に任せよ」。>
▽原 昌引 (*)宗一郎。昌胤の息。1572年「味方ケ原の合戦」に従軍。
浅利信種 120騎(*~1569)式部丞・式部少輔・右馬介・右馬助・信音。浅利郷領主、浅利伊予守虎在の息。譜代家老家。甘利昌忠の後、上野箕輪城主。上野方面旗頭。1569年相模「三増峠の合戦」に討死。跡職は昌種が継承。<なんだかんだで一門から譜代家老に降格か。>
跡部勝資 300騎(*~1582)大炊助・尾張守。譜代家老家。信秋の息。弟に昌秀。1570年家督。勝頼後見・補佐役、原昌胤とともに両職。長男・又八郎(信業)は上野国和田業繁の婿。甲斐宮地塚郷。1561年第4次「川中島の合戦」に従軍。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1572年信玄の死後、勝頼の重職として活躍。1582年諏訪で討死。諏訪方面旗頭。娘婿に朝比奈信良。息に昌勝。<甲斐守護代家の跡部氏の末らしい。><大身の跡部家のほう。>
栗原詮冬 100騎(1525~*)左兵衛・左衛門・(信盛?)。甲斐栗原郷領主、信盛(昌清)の息。譜代家老家。父・信盛は譜代家老衆200騎持。<事績が先代と混同されているかもしれません。><なんだかんだで一門から譜代家老に降格か。>
小山田昌行 70騎(*~1582)(上原昌行)・備中守・御備中・昌成。譜代家老家。(上原)古備中・昌辰(虎満)の息。小山田信茂の一族(分家し独立した別家)。真田幸隆を補佐し信濃雨飾(尼飾)城主。1568年蒲原城攻略に武功。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1575年「長篠の合戦」に松平主殿助・伊忠を討取。高遠城にて仁科盛信とともに討死。<もともとは飯富家の与力かもしれませんね。>
▽小山田昌重 (*~1582)(上原)・六左衛門・大学(助)・信常・昌貞。昌行の弟。1568年蒲原城攻略に武功。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1582年高遠城にて仁科盛信とともに討死。<上原流の小山田の一門のようです。>
↑室住虎登 50騎(1495*1500~1564)板垣直方・諸角・玄蕃允。士隊将家。侍大将。豊後守・昌清(虎定)の養子。弟の板垣信経とともに兄・信形を補佐。上原城留守居。信濃国柏鉢城主。息に昌守、本田重政。<譜代家老に格下げ?。><事績が先代と混同されているかもしれません。><1570年に諸角助四郎は原盛胤と乱闘。>
▽成瀬正一 (*)吉左衛門。武田家臣、諸角与力。のち徳川家に帰参。
今福友清 70騎(*1513~1582)(武田)・石見守・浄閑斎。譜代家老家。公事(罪人を裁く係り)四奉行のひとり。1567年駿河久能山城。息に虎孝、昌和、昌常。信濃狩谷原城主。
↑金丸虎義 (*~1572)(一色)・筑前守。武田家準一門。足軽大将家。幼少より晴信に仕える。「使番12人衆」のひとり。士隊将のひとり。侍大将家。
↑小宮山昌友 30騎(*~1572)丹後守・虎高。信濃国南佐久郡の土豪。昌清の息。譜代家老家。諸住虎定の戦死後、一時上原(高島)城主、のち上野国の松井田城主。1572年遠江「二俣城攻略」に戦死。弟に昌照。跡職は友晴が継承。<馬場信房と先陣を競い戦死する。><二俣攻略は勝頼の大将としての武名がかかっているようなので奮闘し無理してしまったのでしょうか。>
▽小宮山昌照 (*)民部。信濃国南佐久郡の土豪。昌清の息。兄に昌友。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
初鹿野忠次 (*~1561)源五郎。使番12人衆のひとり。侍大将家。1561年第4次「川中島の合戦」にて戦死。跡職は加藤昌次(昌久)が継承。
  山県昌景 300騎(1529*1530~1575)飯富昌景・源四郎・三郎兵衛。飯富虎昌の弟。晴信補佐役。「四天王」のひとり。近習小姓、使番、士隊将となる。譜代家老家。1565年兄・飯富虎昌を讒言。1572年上洛軍の別働隊を率いる。1572年「味方ケ原の合戦」に軍功。1575年「長篠の合戦」に討死。47歳。駿河庵原郡、江尻城主。駿河方面旗頭。息に昌満(駿河田中城主)。養子に三枝守友(山県昌貞)、荻原定昌(山県定昌)。<秋山信友と同年代生まれの友、それともライバル。><1575年3月に高野山に登り信玄の位牌を奉納したらしい・・。織田領は偵察してまわれたのでしょうか。>
▽小菅忠元 (*~1582)(山県)。山県昌景の一族。1569年「三増峠の合戦」に武功。1575年山県昌景の与力から、足軽大将となる。1582年信濃高遠城の攻防で戦死。
↑秋山信友 50~350騎(1527*1531~1575)晴近・伯耆守・虎繁。伊奈郡大島城主。1572年「味方ケ原の合戦」に軍功。美濃岩村城主。「長篠の合戦」ののち織田信忠軍団3万の攻囲をうける。籠城5ヶ月、一命をもって城兵の助命と交換で開城する。美濃方面旗頭。<山県昌景と同年代生まれの友、それともライバル。>
加藤景忠 (*~1575)上野原の加藤氏。虎景の息。1561年上杉家と抗争する北条氏康の援軍要請に応え武蔵国由井へ後詰の将。弟は初鹿野家を継承する。跡職は養子の勝沼信厚が継承。上野原城主。
 

 1569年掛川城の今川氏真降伏。
<武田譜代家老(侍大将)衆 第2世代> 1530年代 1582年武田滅亡後も在命
<晴信が家督を相続できた地盤が譜代家老衆にあり、譜代家老家の保護を是とするしかなかったのか。 世襲制度は江戸時代のように秩序が守られますが、外界の激しい変化に晒された時には、規格外の人物を登用する必要がある。ということでしょうか、初期の養子相続での馬場や内藤や高坂の登用や、士隊将の地位の設定は、信玄なりの苦肉の策での人材登用術なのかもしれません。>

三枝昌吉 (1550~1624)源八郎・善八郎・平右衛門・土佐守・守勝。虎吉の息。守友が山県家の養子となり家督。「奥近習六人」のひとり。「使番12人衆」のひとり。士隊将のひとり。侍大将家。のち徳川家康に出仕する。
 三枝守友 30騎+70(1537~1575)山県昌貞・宗四郎・勘解由左衛門尉・善右衛門。北巨摩郡東向の豪族。足軽大将家。三枝虎吉の嫡男、山県昌景養子となる。譜代家老家。「奥近習六人」のひとり。駿河花沢城攻略に一番槍。1575年「長篠の合戦」に討死。<昌景の見込んだ猛将。同世代のようですが養子というのは・・。>
▽山県定昌 (*)荻原・板垣。荻原昌明の息(4男)。山県昌景の養子に迎えられる。
▽山県昌満 (*~1582)譜代家老家。1575年山県昌景と、その養子・三枝守友(山県昌貞)も戦死した為、山県家家督を継承する。遠江国諏訪原城主。勝頼に従い天目山に討死。
 高坂昌澄 (*~1575)(香坂)・(春日)・昌貞。高坂昌信の嫡男。譜代家老家。1575年東駿河沼津城主。1575年「長篠の合戦」に討死。与力に雨宮家次。<父・弾正は1575年以前に家督を譲渡していたものか>
▽高坂昌元 (*~1582)(香坂)・(春日)・源五郎・信達。高坂昌信の次男。譜代家老家。1578年に海津城主。1582年甲州に退却するが織田氏との内通を疑われ信濃に戻る。織田軍に降服し森長可配下。1582年「本能寺の変」の後、北条氏直に通じていたため、徳川家康に誅殺される。海津城主。
加藤信景 (1542~1582)丹後守。甲斐国上野原城主、加藤景忠の息。1582年相模北条氏に備え津久井口にて戦死。安部勝宝は加藤家のもと与力。<与力がいるということは譜代家老の地位にいたということでしょうか。>
▽安部勝宝 (*~1582)五郎左衛門・加賀守・貞村・定村。使番12人衆のひとり。加藤隊与力。高坂家に替わり一時信濃国海津城主。1582年勝頼を護衛し討死。
初鹿野昌次 (*~1624)加藤昌次・弥五郎・伝右衛門・昌久。加藤信邦の末子。忠次が1561年第4次「川中島の合戦」にて戦死し、信玄の命で初鹿野家を相続。使番12人衆のひとり。諏訪勝頼側近。
金丸昌直 (1540~1560)(一色)・平三郎。武田家準一門。金丸虎義の嫡男。侍大将家。恨みから家中の落合彦助に討たれる。弟・定光(昌義)が宗家を継承する。
金丸昌義 (*~1582)(一色)・助六郎・定光。武田家準一門。金丸家嫡流。侍大将家。兄の死後、虎義四男だが家督。勝頼に従い天目山に討死。
 土屋昌次 100騎・200騎(1545~1575)(一色)・金丸・右衛門尉・昌続。巨摩郡島上条の豪族。武田家準一門。金丸(一色)虎義の次男。「奥近習六人」のひとり。川中島の合戦に軍功あり、土屋家を継承。譜代家老家。信濃先方衆七組の旗頭となる。1572年「味方ケ原の合戦」に鳥居信元(忠元)を討取。島上条郷領主。1575年「長篠の合戦」に佐久間信盛隊に突撃し討死。
▽土屋昌恒 (1556~1582)(一色)・金丸・惣三・昌忠。武田家準一門。金丸(一色)虎義の五男。駿河先方衆・土屋貞綱(岡部正綱)の婿養子。1575年兄・昌次戦死後、跡職家督を継承する。諏訪勝頼側近。勝頼に従い天目山に討死。
 内藤昌月 (*~1588)保科・源蔵・修理亮・大和守・秋宣。保科正俊の次男、内藤昌豊の養子となる。譜代家老家。上野国箕輪城主。のちに織田家に臣従。
浅利昌種 120騎(*)彦次郎・式部丞。浅利信種の息、1569年家督。譜代家老家。寄騎を220騎から120騎に減ぜられた。武田滅亡後、本多忠勝与力(本多家中で高坂衆より冷遇される)。
小宮山友晴 30騎(*~1582)元信濃国の土豪。父・昌友は上野松井田城主。叔父に昌照。譜代家老家。1572年父の戦死により家督。勝頼に従い天目山に討死。
跡部昌勝 (*)大炊助。跡部勝資の息。叔父に昌秀。兄に和田信業。義兄弟に朝比奈信良。譜代家老家。のち徳川家家臣。兄弟に和田信業。<大身の跡部家の方。昌出と同一人物か?。>
跡部昌忠 (1544~1606)九郎・右衛門尉・修理亮。跡部勝忠の息(長男)。譜代家老家。近習番頭。のち徳川家家臣。徳川「甲斐四奉行」までに引き立てられる。<小身の跡部家のほう。>
今福虎孝 (*~1582)善九郎・丹後守・(丹波守)。浄閑斎の息(嫡男)。信濃狩谷原城主。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1577年駿河国安倍郡、久能山城主。武田氏滅亡時に城を維持できず弟・昌和とともに自害。家督は弟・昌常が継承。
今福昌和 40騎(*~1582)市左衛門尉・筑前守。今福浄閑の息(次男)。士隊長。侍大将家。小宮山氏の跡、信濃諏訪上原(高島)城主。1582年離反した木曽義昌を攻撃し織田信忠軍の甲斐進攻で島井峠に討死。
今福昌常 15騎+10(*)新右衛門・和泉守。今福浄閑の息(3男)。御槍奉行。のちに徳川家家臣。
青沼忠吉 15騎+30(*)助兵衛・忠重。父、飛騨守は駿河興国寺城主。侍大将家。勘定奉行。1560年北条氏援軍に出征。のちに徳川家家臣。

 
 

武田晴信 譜代(足軽大将)衆 足軽大将の登用が少ないのは、晴信が相続したこと、領土が広がったことで、意味が変わってしまったのかもしれませんね。
↑長坂光堅 50騎+45(1513~1582)左衛門・釣閑斎・長閑斎・鈞閑斎・(虎房)。北巨摩郡長坂上条の豪族。足軽大将家。1561年「川中島の合戦」に従軍。1572年「味方ケ原の合戦」に従軍。1575年「長篠の合戦」に従軍。1582年武田家滅亡の際に織田軍の捕虜となり処刑。長男・源五郎は武田義信の側近。自身は勝頼後見役。<事績が先代と混同されているかもしれません。>
横田康景 30騎+100(1524~1575)彦十郎・十郎兵衛・綱松。足軽大将家。原美濃守虎胤の長男。横田高松の娘婿・養子。1550年村上義清との「戸石の合戦」にて武功。1575年「長篠の合戦」に討死。<1553年父の北条家出奔の為、横田姓か?>
原 盛胤 35騎+100(*~1575)足軽大将家。原美濃守虎胤の次男。1570年諸角助四郎と乱闘し領地を召し上げられる。1575年「長篠の合戦」に討死。<1560年頃原虎胤が北条家から復帰し、1561年負傷の為、原家家督か?>
下曽根信恒 20騎+40(*)康景。足軽大将家。旗本武者奉行。<1582年信濃小諸城主、下曽根覚雲斎が武田信豊を謀殺し織田に降伏する。同一人物か?>
⇔↓武藤昌幸 20騎+30(*)真田昌幸・喜兵衛。奥近習六人衆。足軽大将家。真田幸隆の息(3男)。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
小幡昌盛 12騎+65(1533~1583)孫次郎・右衛門。足軽大将家。1554年北条氏康との「富士大宮の合戦」に武功。海津城主・高坂昌信の与力。1561年「川中島の合戦」の追撃戦に軍功。その後、難病の為病死49歳。信濃海津城副将。<息子に甲州流軍学者の小幡景憲。>
小幡光盛 (*)弥左衛門・山城守・下野守・虎昌・貞長。足軽大将家。昌盛の弟。使番12人衆のひとり。兄に替わり信濃海津城副将。「本能寺の変」の後、上杉景勝に出仕。<甥に小幡景憲。>
市川等長 10騎+50(*)市河・梅隠斎。小幡虎盛の娘婿。1553年一時信濃海津城主、のち信濃長沼城主。<市川昌信の一門か。>
市川昌信 30騎(*~1575)市河・宮内助・昌房・昌衡。足軽大将家。信濃高島城主。信濃諏訪城代。のち上野国の松井田城主。勘定奉行。1575年「長篠の合戦」に討死。<市川等長の一門か。><勝頼の側近か。><味方ケ原従軍者は市川宮内国貞(諏訪城代)。おそらく同一人物。>
三枝守直 3+10騎(*)守置。足軽大将家。三枝虎吉の息。足軽大将。<守友が山県家の養子となったので家督か。>

<新参衆(譜代扱い)> 上杉家臣団TOP
城 景茂 10騎+30(*1522~1587*1610)玉虫・次郎左衛門・和泉守。越後衆。越後国人、玉虫貞茂の息。元上杉謙信の家臣。足軽大将家。駿河国深沢城主。鉄砲衆を率いる。
日向宗立 (1521~1608)越後衆。越後上杉家の家臣、新津右京亮の息。日向是吉の婿となる。足軽大将家。のち平岩親吉に出仕。
大熊朝秀 (*)越後衆。上杉家旧臣。父・政秀は上杉家の財務奉行。輝虎初期の家老として活躍するが、本庄実乃と対立し、武田家に出奔する。元・越後箕冠城主。足軽大将家。
原 胤歳 10騎+50(*)半左衛門・勝重。関東下総衆。子息、胤従と供に武田家に出仕。のちに徳川家に出仕し、1590年関東に戻る。


<武田譜代(足軽大将)衆> 第二世代  1582年武田滅亡後も在命
横田尹松 (1555~1635)甚五郎。横田康景の息。足軽大将家。1575年父の戦死後、家督。遠江国高天神城城番。武田家滅亡後は徳川家に臣従。
城 昌茂 (1552~1626)和泉守。景茂の息。足軽大将家。のち徳川家康に出仕する。
大熊長秀 30騎+50(*~1582)備前守。越後衆。越後国人、大熊朝秀息。元上杉謙信の家臣。1556年武田氏に降る。1563年に甲斐に招かれ、山県昌景の与力。のち足軽大将に抜擢され遠江国能満寺城主、小山城主。足軽大将家。勝頼に従い天目山に討死。<大熊朝秀本人としては生年が長すぎる気がします、2世代目では?>
曽根* (*)七郎兵衛。足軽大将衆。上野国、石倉城城主。


<晴信側近衆>  1582年武田滅亡後も在命
山本晴幸 (*~1561)勘介・菅助・道鬼。1543年、武田晴信に登用される。「学問なくとも物識りというはこの勘介ならん、これただ智と申すものなり」。1561年第4次「川中島の合戦」にて戦死。息に信共。69歳。
今井信昌 (*)(武田)。武田家一門。今井信元の甥、一族は武田信虎に粛清された。山城守・信隣の息。旗本武者奉行。<1560年一族の勝沼今井信良が上杉謙信に応じ謀反するとも。>
▽今井信俊 10騎(1521~1595)(武田)・信衡。武田家一門。信昌の息。「使番12人衆」のひとり。駿河田中城主。公事奉行。徳川家に出仕。養子・高尾昌俊は足軽大将衆。
岩手信盛 (*~1583)(武田)・蔵人佐・能登守。武田家一門。岩手郷の領主。岩手縄美の息。御旗奉行。
岩手信景 (*~1582)(武田)・右衛門。武田家一門。岩手郷の領主。岩手信盛の息。御旗奉行。1582年織田信忠の「甲州乱入」に討死。弟に信政。
安西有味 (*)御槍奉行。
↓加津野信昌 15+10騎(*~1632)真田信伊・市右衛門・信伊。真田幸隆の息、加津野氏養子。御槍奉行。徳川家康に出仕する。
桜井信忠 (1529~1611)(武田)・安芸守。信定の息。母は信虎妹。小幡虎盛の娘婿。公事奉行。徳川家康に出仕、のち徳川「甲斐四奉行」まで引き立てられる。<準一門です。>
武藤常昭 (1509~1587)大井常昭・神右衛門尉・新右衛門尉。大井信達の息。公事奉行。
曽根* (*)与市之助。「奥近習六人」の一人。「百足捺物衆」のひとり。のち勝頼に誅殺される。<義信側近の曽根周防といい、曽根家はけっこう・・。>

 

<外様国人衆・先方衆>  1582年武田滅亡後も在命
   佐竹、結城家の家臣団   北条氏康の家臣団
(武蔵先方衆) <旗頭> 河窪信実?
永井政実 (*~1582?)長井・昌実。元・山内上杉家家臣の足利長尾家家臣。武蔵衆。鬼石の豪族。清法寺城を築城。北条家に従う。安保氏から御嶽城を奪取。武田軍の侵攻に降伏臣従。のち上野国島名、三ツ山城主。1582年武田家滅亡により越後落ち。息に信実。御嶽城主。<名門の安保氏があああ(涙。>
小幡景宗 (*)三河守。武蔵衆。元・上杉家家臣。<長野氏に従う宇田城主・小幡景定の一門でしょうか。ややこしいです。>
浪合胤成 (*~1575)千葉・原・波合・備前<小幡図書介・景純、養子に信之>守。原(浪合)胤光の弟。1575年「長篠の合戦」従軍。和気宗勝、大戸直光、倉賀野秀景とともに久間山砦を守備。
平屋* (1539~1575)玄蕃。
由井* (1542~1575)由比・市之丞。<元・今川家臣で徳川に従わなかった方の由井(由比)家でしょうか。>
駒場* (1537~1575)丹後守。


(西上野先方衆) <旗頭> 内藤昌豊 小幡・那波は同盟関係 
1575年「長篠の合戦」で戦死 瀧川一益の家臣団 TOP

<上州の赤備え>
小幡憲重 500騎(*~1575)重定。上野国の豪族。長野業政の娘婿。弟の小幡貞政(景定)の離反により国峯城を失う。1560年反乱が起こり失領するが武田を頼り、1561年に旧領を回復し上野衆、武田家の有力な同盟者となる。1575年「長篠の合戦」に戦死。<国峯小幡氏と抗争した小幡図書助貞政(景純?・景定?)の一門でしょうか。ある意味、図書介家が小幡嫡流なのかもしれませんね。>
小幡信貞 500騎(1541~1592)上総介・上野守・信定・信真。上野国の豪族、小幡憲重(*~1575:長篠で討死)の息。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1575年父の死により家督、上野小幡城主。武田家とは同盟関係。1582年織田家に臣従。その後真田家に出仕。国峰城主。<一門に白倉重家。>
▽小幡昌定 (*)又八郎・昌貞。1572年「味方ケ原合戦」に従軍し、負傷する。
小幡信尚 100騎(*)鷹巣信尚・三河守。小幡一門分家。1561年長尾景虎に従い関東管領就任式従軍。1582年織田家に臣従。のち北条氏に内通し誅殺される。鷹巣城主。<1552年上杉憲政の越後落ちに随行したのは先代でしょうか。><一時、図書に従い、のち信貞に従うようです。>

安中重繁 150騎(*~1575)左近大夫・景繁。上野衆。元・山内上杉の家臣。上杉謙信に従う。上野国碓井郡の豪族。1560年から武田家に出仕。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1575年「長篠の合戦」に戦死。上野安中城主。<景繁はこの方(重繁)に該当するか?。>
安中久繁 150騎(*~*1590)左近大夫・広盛・(景繁?)。上野衆。父・重繁(景繁)は1562年武田家に臣従し1575年「長篠の合戦」戦死。父の戦死後に家督。上野安中城主。1582年織田家に臣従。のち北条家に出仕。<景繁は重繁の別称か?>
和田業繁 30騎(*~1575)関東管領上杉家旧臣。上野和田城主。1575年「長篠の合戦」に戦死。
和田信業 30騎(1560~1617)(跡部昌業)・八郎・右衛門大夫・石見守。跡部勝資の息。和田業繁の婿養子。1582年織田家に臣従。

<河窪与力衆> 河窪信実
那波宗安 70騎(*~1575)名和宗安・無理之介。上野国人。宗元の息(長男)。長尾景虎に追われ浪人。武田親族衆・河窪相備え。弟に顕宗。<那波宗俊の弟、那須宗元(*)は織田家に臣従。><縄で作った陣羽織。初鹿野昌次と先陣争い。>

<内藤与力衆> 内藤昌豊
後閑信純 60騎(*~*1579)新田信純・宮内少輔・伊勢守。上野国丹生城主・新田主水正・景純の息。1556~1560年間に後閑北条政時から後閑を奪う。1561年小幡氏と争い失領。武田家に臣従し旧領回復。内藤相備え。1579年隠居し嫡男・弥太郎、次男・善次郎に領地を二分する。<後閑信久は織田家に臣従。>
高山満重 50騎(*)遠江守。高山城主。内藤相備え。長尾為景に追放された越後守護・上杉房能の息を養育、家督を譲り高山山城守・行重。実子に光重、重俊、定重。
▽高山行重 (*)山城守。上杉憲房の意向で高山家を継承。満重の実子・光重(長尾又次郎)は長尾景虎(上杉謙信)に従い家中分裂。
▽高山重成 (*~1590)彦兵衛・遠江守・定重。高山満重の息(末子)。家督は上杉家からの養子・行重が継承。1582年織田家に臣従。息に重虎。
倉賀野秀景 50騎(*~1590)金井秀景・淡路守。1559年武田氏に臣従。1570年倉賀野城主となり改姓。内藤相備え。1575年「長篠の合戦」に従軍。1582年織田家に臣従。のち北条家に出仕。
木部範虎 50騎(1510~1582)駿河守。長野業政の娘婿。1561年降伏臣従。内藤相備え。<木部真利(*)宮内少輔は織田家に臣従。>
白倉重家 50騎(*)(小幡重家)。1560年上杉謙信に降伏。1563年武田に降伏臣従。国峯小幡一門。上野の豪族。内藤相備え。1590年「小田原籠城」に参加。弟に重高。白倉(麻場)城主。<白倉左衛門佐は織田家に臣従。>
多比羅友定 40騎(*~*1590)たいら・多比良・豊後守。長野業政の従兄弟。1563年武田に降伏臣従。内藤相備え。1590年「小田原攻め」に上杉軍に攻略され落城。多比良(新堀)城主。



(駿河先方衆) <旗頭> 山県昌景・馬場
 駿河国要所図。
葛山氏元 (*~*1569)八郎・元氏・備中守。駿河国東部葛山の豪族。元今川氏真の家臣。葛山氏は北条家の関東進出に大きく貢献する。1568年武田家の南進により臣従。翌年、穴山信君と同陣。駿河衆。葛山信貞を養子に迎える。<養子縁組政策により武田親族衆に>
小原鎮実 20騎(*)肥前守。今川家臣。義元により三河国吉田城主。三河奉行に派遣される。駿河花沢城主。
⇔岡部元綱 10騎(*~1581)小次郎・五郎兵衛・丹波守・興行・真幸・長教・元信。岡部左京進・親綱の息。岡部正綱の従兄弟。高天神城主。1559年山口氏に代わり鳴海入城。最前線の尾張鳴海城主。1560年「桶狭間の合戦」のち義元の首級を預かる。撤兵の際に水野氏の「刈谷城攻略」。水野信近を討つ。1569年武田家に臣従。駿河先方衆、遠江高天神城主となり、1581年徳川家康に攻略され戦死。息に真尭、元昌。
⇔庵原忠胤 (*)由比忠胤・安房守。由比忠任の息。庵原忠職(忠次とも)の養子。今川氏真の家臣。1568年「薩垂山の合戦」に従軍。庵原城主。

<山県与力衆>
⇔朝比奈信置 150騎(1528~1582)藤三郎・兵衛大夫・駿河守・政貞。駿河衆。元今川氏真の家臣。朝比奈元長の息。母は今川義元の娘。飯尾乗連の娘婿。松井宗信、飯尾連龍は義兄弟。1568年武田家の南進により臣従。山県相備え。徳川軍に攻囲され、息・信良とともに自害。持舟城主。矢部、久野、庵原氏が同心衆。息に宗利。
▽朝比奈信良 (*~1582)信置の息(嫡子)。跡部勝資の娘婿。1582年信忠軍に敗れ諏訪、又は甲府で自害。城主。息に(跡部)良保。
▽朝比奈宗利 (*)信置の息。1582年降伏。瀧川一益家臣。のち酒井忠次、徳川家康旗本。持舟城主。
三浦員久 40騎(*)右馬介。駿河衆。武田信友の娘婿。武田信堯の義兄弟。山県相備え。駿河田中城主。<武田の準一門に組み込まれて厚遇されています。><江戸幕臣となった三浦正勝の系統か。><桶狭間で戦死した三浦義就の官位は左馬介。>
三浦義鏡 20騎(*)兵部。山県相備え。持舟城主。<江戸幕臣となった三浦氏俊の系統か。>
孕石元泰 2騎(*~1581)藤六・主水佑・和泉守。光尚の息。元・今川家の家臣。駿河先方衆。山県相備え。1581年高天神城の籠城戦に敗北。息に元成(土佐山内家家臣)。<1572年「味方ケ原の合戦」に従軍した源右衛門は同一人物か?。>
<馬場与力衆>
岡部正綱 50騎(1542~1583)次郎右衛門。美濃守・信綱(久綱)の息。三浦氏員の娘婿。妹婿に伊丹康直。弟に長秋、忠兵衛。駿河衆。今川家の勇将。1569年武田家の南進により臣従。1572年「味方ケ原の合戦」、1574年「高天神城攻略」に従軍。その後・徳川家康に出仕「本能寺の変」後、甲斐乱入に武功を立てる。北条家との「若神子の合戦」で軍功。42歳で急死する。子息・長盛はのち5万石で大垣城主。左京進家の岡部元信は親戚。娘婿に朝比奈宗利、岡部宣貞。息に長盛、康綱。清水城主。
▽大塚* (*)兵右衛門。岡部正綱に属し1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
武田海賊衆(水軍)
武田海賊衆(水軍)
 武田松姫が安宅船の模型を所有。
⇔伊丹康直 (1523~1596)権大夫・雅勝・秀虎・康明。雅興(元扶)の息。母は野間(間野?)時秋の娘。元・摂津国の豪族。伊丹氏。岡部正綱の妹婿。1529年伊丹城落城に元扶が戦死。1558年今川義元に出仕し同朋衆。氏真の代に海賊奉行となる。のち武田家に従い武田水軍の船大将。関船5艘。家康に仕え「康」の偏諱。息に康勝、虎康、勝久、直勝、虎重、重好。娘婿に大草正重、坂井昌明。<母方が気になります。摂津和泉の水軍と言えば沼野氏もしくは野間氏、秀吉の水軍に真野氏。どちらかの関係者か?。>
伊丹* (*)づあみ・大隈守。元・僧侶。今川氏真家臣、同朋衆。花沢守将。降伏して武田家臣。水軍の旗頭に抜擢される。<摂津・伊丹氏の分流が初めから駿河国に居たか?。>
間宮* (*)武兵衛。1573年頃北条・伊豆水軍から離反。関船10艘。
間宮信高 (*)造酒丞。1573年頃北条・伊豆水軍から離反。関船5艘。
小浜景隆 (*)民部左衛門・伊勢守。元・伊勢北畠家臣。志摩水軍。小浜城主。織田家と結んだ九鬼氏に敗北。1569~1571年頃武田家に出仕。安宅船1艘、小早船10~15艘。<九鬼嘉隆とはライバルの様です。浦氏が九鬼家と同祖ならば、九鬼一族の根が深い戦いだったのかもしれません。>
⇔向井正重 (*)伊兵衛・政重。元・伊勢北畠家臣。関船5艘。養子に(長谷川長久の息)正勝。跡職は正綱が継承。持舟城主。のち興国寺城主。<北畠家臣となる前は、田丸(玉丸山)城の愛洲氏の家臣。愛洲氏は八幡船団を率いて大陸まで進出していた。愛洲氏が北畠家から養子をとったことで陪臣とされるが、出奔したということでしょう。>
⇔▽長谷川長久 (*)元・今川家家臣。向井家親類。武田滅亡後は向井正綱とともに徳川家に出仕。息子の正勝は向井正重の養子。息に正勝、長盛、長綱(1543~1604)、長次。<伊勢大湊の長谷川氏との関係も気になりますし、今川氏親を保護した長谷川長者との関係も気になる武将です。>
⇔岡部貞綱 (*~1575)土屋貞綱・忠兵衛・豊前守。岡部親綱の息。今川家臣。水軍の将。のち武田家に従い武田水軍の船大将。関船12艘。1575年「長篠の合戦」に戦死。息に長綱、貞次、娘婿に川村重忠。<岡部元信の方の岡部氏の一族らしい。元信の弟のようです。>
⇔岡部* (*)土屋・忠兵衛・備前守。武田晴信により優遇される。 <北条氏援軍>
⇔大森高直 (*~1572)左衛門。北条家の侍大将。氏康の家臣。援軍として派遣される。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
⇔清水正次 (*)太郎左衛門。北条水軍衆。氏政の家臣。援軍として派遣される。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。のち上野国にて由良氏に代わり金山城主。
実効支配(遠江先方衆)
(遠江先方衆)  遠江国要所図。
⇔天野景貫 100騎(*)宮内右衛門・真景。遠江衆。元・今川氏真の家臣。犬居城主。徳川家から武田家に臣従したため、武田滅亡後は北条家に出仕。1572年味方ケ原合戦に武田方。
⇔小笠原長忠 (*~1590)与八郎・信興。今川旧臣、徳川家康(織田信長直参か)に臣従し、遠江衆の旗頭。1570年「姉川の合戦」に武功。高天神城主。1574年武田家に降服し、1582年武田滅亡後は北条家に出仕。1590年徳川家康に誅殺される。
⇔▽渡辺 照 (1532~1582)金大夫。遠江衆。高天神城主。小笠原長忠の与力。1570年「姉川の合戦」に武功。「姉川七本槍」のひとり。高天神落城の際、武田家に臣従。1582年織田信忠の「甲州乱入」を高遠城で迎え撃ち戦死。51歳。
⇔▽松井宗恒 (*)(横地?)・八郎・山城守。宗信の息。遠江中央国人。松井家は元・横地家家老職。1548年「小豆坂の合戦」に従軍、殿軍を務め上げた。1565年「遠州錯乱」に飯尾氏とともに反乱。のち氏真に降伏。1568年徳川家康の「遠江乱入」に反抗。遠江二股城主。のち武田家に従うも一族分裂し没落。<庶流の宗保の子孫が江戸幕府幕臣。><のち中根正照が二俣城主。> (その他、1572年「味方ケ原合戦」従軍者)
大矢* (*)武右衛門。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
岡部* (*)忠次郎。駿河衆。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
⇔室賀信俊 (*)山城守・入道一葉軒。信濃国小県郡、室賀の豪族。元・村上家家臣。1553年武田家に降伏臣従。晴信より「信」字を与えられる。1562年「川中島の合戦」に従軍。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。駿河田中副城主。長篠城主、酒井隊の奇襲をうけ戦死。家督は屋代正国の弟・満正が継承。信濃室賀城主。<楽岩寺家は村上義清の筆頭家老家。>
屋代勝正 (*)安芸守。信濃国埴科郡、屋代の豪族。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。<正長と同一人物か。跡職は秀正(勝永)が継承。>
山本清頼 (*)土佐守。甲斐国北巨摩郡、上条東割の豪族。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
依田* (*)市兵衛。信濃国佐久郡、柏木の豪族。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。栗田永寿 (*)1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
栗原* (*)左兵衛。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
小杉* (*)右近。信玄の近臣。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。<徳川方殿軍を勤めた本多忠勝を評して「家康に過ぎたるものが二つあり、唐頭(兜)に本多平八」の迷言を残す。後世の創作か。奮戦したのは忠真か?。>
下曽根信辰 (*)源六郎。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。のち徳川配下。
近藤助真 (*)出羽。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
高田憲頼 (*)小次郎。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
辻 盛昌 (*)弥兵衛。甲斐国東八代郡、野呂の豪族。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
貫名* (*)藤五郎。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
保科正俊 (*)弾正忠。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
水科* (*)平内。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。<三科形幸と同一人物か?。>
早川* (*)豊後守。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
早川幸豊 (1533~1600)弥三・左衛門・三左衛門。東八代郡、中尾の豪族。弟に半兵衛。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。のちに井伊家家老職。
有泉* (*)大学助。穴山氏与力。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
芦沢元辰 (*)伊賀守。穴山氏与力。
穂坂* (*)造酒之助。穴山氏与力。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
穂坂忠文 (1538~1585)常陸介。穴山氏与力。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
穂坂* (*)掃部。穴山氏与力。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
前島則弘 (*)和泉守。甲斐国人。親今川派。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。<1536年に信虎により前島繁勝は征伐される。>
前島則盛 (*)加賀守。甲斐国人。親今川派。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
実効支配(三河先方衆)
(三河先方衆) <旗頭> 山県昌景
⇔菅沼定盈 (1542~1604)野田菅沼・富永。奥三河衆。元今川氏真の家臣。奥三河の豪族。山県相備え。明智光秀の婿。武田から離反。徳川方にて東三河制圧に貢献。
高木* (*~1572)善右衛門尉。三河衆。1572年味方ケ原の合戦に従軍。戦死する。
河出良則 (*)主水。主水助・景隆の息。山県昌景の与力。三河国河出城主。

<山家三方衆>
⇔奥平貞能 150騎(1537~1598)作手・仙千代・美作守・定能。三河国亀山城主。奥三河衆、山家三方衆のひとり。田代城主。元・今川氏真の家臣、貞勝の息。1571年武田家に降伏臣従。1572年「味方ケ原の合戦」に従軍。山県相備え。1573年徳川家に臣従し、武田家から離反する。三河国設楽郡、作手(つくで)城主。息に貞昌(信昌)。
田峯定吉 40騎(*~1582)菅沼定忠・刑部少輔。三河北設楽郡の豪族。1571年から武田家に臣従。1572年「味方ケ原の合戦」に従軍。1575年「長篠の合戦」に従軍。山県相備え。武田家に忠節す。長篠の敗戦で、叔父・定直に城を奪われ、甲州に落ちる。武田滅亡後、徳川家康により誅殺される。田峯(段峰)城主。
長篠正貞 30騎(*)菅沼政定・新九郎・正定。南設楽郡の豪族。田峯菅沼分家。奥三河衆、山家三方衆のひとり。定忠とともに武田家に出仕。1572年「味方ケ原の合戦」に従軍。山県相備え。長篠城主。
▽成瀬正一 (*)吉左衛門。武田家臣、諸角与力。のち徳川家に帰参。

<一条信龍の与力「三河浪人衆」>
中根* (*)七右衛門。三河国衆。武田家に従う。織田・徳川方に残る一族あり。一条信龍の与力「浪人衆」。1579年上野「膳城攻め」に軍功。
浅見* (*)清太夫。三河国衆。武田家に従う。織田・徳川方に残る一族あり。一条信龍の与力「浪人衆」。1579年上野「膳城攻め」に軍功。
堀* (*)無手右衛門。三河国衆。武田家に従う。織田・徳川方に残る一族あり。一条信龍の与力「浪人衆」。1579年上野「膳城攻め」に軍功。
(越中先方衆)
(越中先方衆) <旗頭> 馬場信房  上杉方の神保・小島氏と対立する。
椎名康胤 170騎(*~1569)越中国の豪族、新川郡守護代。越中守護代、富山城主・神保長職と長く対立する。はじめ親上杉派のち転じて武田派となり、謙信に討伐される。長尾景虎は1560年1562年の2度に亘り椎名家の為に出動する。1568年一向一揆と提携し、武田信玄と結ぶ。能登国の守護畠山氏と温井総貞との対立では畠山義綱を後援する。1569年上杉謙信の攻撃を受け滅亡。松倉城主。馬場相備え。
実効支配地(飛騨先方衆)
(飛騨先方衆) 
<旗頭> 馬場信房  織田方の三木氏と対立する。

広瀬宗城 (*~*1583)飛騨国衆。1558年三木氏と結び高山氏を討つ。江間氏と結び三木良頼と抗争。1583年三木自綱に暗殺される。広瀬高堂城主。息に宗直。
▽広瀬宗直 (*)宗城の息。

江間時盛 150騎(*)飛騨国衆。広瀬氏と結び三木良頼と抗争。1573年上杉謙信と結ぶ。
▽江間輝盛 150騎(*~1582)常陸介。飛騨国衆、江間時盛の息。1572年武田信玄の西上作戦に連動し援軍として木曽家家老・山村良利が飛騨侵入。1573(*1578とも)年父を暗殺し家督、高原諏訪城主。武田家に臣従する。馬場相備え。1582年「本能寺の変」に乗じて南下し三木自綱と「八日町の合戦」に戦死する。
▽江間* (*~1581)右馬丞・善立寺円成。1564年人質として甲府に送られる。還俗し、信玄の足軽大将。1581年遠江「高天神城籠城戦」に落城、戦死。
武田晴信の親衛隊奥近習六人衆
武田晴信の親衛隊奥近習六人衆
↑甘利昌忠 (1534~*)奥近習。
金丸昌直 (1540~1560)奥近習。
土屋昌次 (1544~1575)奥近習。
↑三枝守友 (1537~1575)奥近習。
三枝昌吉 (1550~1624)奥近習。使番。
↑曽根昌世 (*)奥近習。
⇔武藤昌幸 (1547~1611)真田昌幸。奥近習。信濃 真田昌幸の家臣団のページTOP
長坂昌国 (*)奥近習。
曽根与市 (*)奥近習。使番。
温井景長 (*~1572)近習頭。温井景宗の弟。駿河侵攻に従軍。1572年「味方ケ原の合戦」に従軍。小宮山昌友とともに戦死。
▽温井景宗 (1539~1582)常陸介。武田晴信の側近。勝頼側近。信勝の傅役・後見人。

武田晴信の親衛隊 百足捺物衆(使番十二人衆)
百足捺物衆(使番十二人衆) 

士隊将
山県昌景 (1529~1575)使番。使番十二人衆のひとり。
小幡光盛 (*)使番。使番十二人衆のひとり。
小宮山友晴 (*~1582)使番。使番十二人衆のひとり。
今井信俊 (1522~1595)使番。使番十二人衆のひとり。
安倍勝宝 (*)使番。使番十二人衆のひとり。
跡部昌忠 (1544~1606)使番。使番十二人衆のひとり。
初鹿野昌次 (1545~1624)加藤昌久。使番。 使番十二人衆のひとり。

≪個人的感想≫   武田信虎・晴信世代の重臣では、板垣・甘利のコンビが好きです! 信虎の育てた歴戦の「虎」の字軍団は、隣国からみれば「戦慣れした集団」として恐ろしいほどの威圧感があったことでしょう。武田信玄と義信の家臣では、義信後見人の飯富虎昌が好きです。義信の事件さえおきなければ、武田の重鎮になっていたと思います。 信玄は家臣に昌の字を与えているようですが、先祖の信昌の流れが尊重されたのでしょうか。信縄・信恵の名が回避されてるような。安芸武田系か、甲斐武田系か、若狭武田系か、三河武田(東条)系か、血の流れの証明の意味でもあるのでしょうか。 勝頼の代では、信玄が育てた重臣達が活躍して、山県・内藤・秋山・馬場・高坂等の綺羅星の将がいますが。もうちょっと下っ端の信玄使番衆から侍大将に出世した人達が、どちらかというと気になる世代です。 使番衆では曽根昌世や、駒井昌直が好きです。三枝守友も山県昌景の養子になる程ですから、突撃武将として能力が高かったのでしょう。真田昌幸のような「知」から守友のような「武」まで、信玄配下は次の世代も本当に粒ぞろい。信玄から直々に薫陶を受けて育った武将たちが、徳川家康の家臣団に吸収され、合戦での天下取りに貢献したと思います。この人達を束ねる、カリスマなんでしょうね。問題は・・・。 信濃・上野の国人がなかなか中枢に登用されない状況をみていると、隣国の織田家では大軍団長に外様でも登用される様子をみて、当主の器の差を外様家臣団は感じていたかもしれませんね。同じ時代に「織田信長」という一代の駿馬がいたことが、武田にとって不幸でしたね。  信長年表と親衛隊のページ TOP それにしても武田家滅亡後に、高坂昌信の一族がどうして信長・秀吉・家康の時代を無事に生き延びているのでしょうか。信長の凄まじい残党狩りから、何故逃れえたのでしょう? 素朴な疑問です。 内通して信長の赦しを得ていて、『甲陽軍鑑』には自分に不具合なことは書いていないだけなのか、ずっと疑問に思っています。そのうち調べようと思います。  1569年織田・武田に両属する勢力。足利義昭支持の下、同盟関係。
信濃諏訪家 諏訪勝頼傍衆
諏訪勝頼 (1546~1582)伊奈・四郎。晴信四男、母は諏訪頼重の娘。守役は跡部勝資。1562年高遠城主。信濃諏訪家養子。1581年遠江高天神城を奪取される。信濃高遠城主、甲斐新府城主。

(勝頼側近8将)
▽跡部昌忠 (*)右衛門尉。勘定奉行・跡部勝忠の嫡男。勝頼側近8将のひとり。
▽秋山光継 (*)紀伊守・光綱。武田信勝の後見。勝頼側近8将のひとり。
▽阿倍勝宝 (*)安倍・加賀守・宗貞・貞村。勝頼側近8将のひとり。
▽小原広勝 (*)下総守・忠国。古屋満忠の孫。小原満長の息。諏訪勝頼の側近。勝頼側近8将のひとり。天目山にて討死。
▽小原忠次 (*)丹後守・継忠。古屋満忠の孫。小原満長の息。小原広勝の弟。諏訪勝頼の側近。勝頼側近8将のひとり。天目山にて討死。
▽竹之内* (*)与五左衛門。勝頼側近8将のひとり。
▽向山* (*)出雲守。勝頼側近8将のひとり。
▽小田切* (*)孫右衛門尉。 勝頼側近8将のひとり。

(勝頼旗本) 土屋・金丸・小宮山・小山田
▽多田昌綱 (*~1582)久蔵・久三。昌俊の息。弟に昌繁。諏訪勝頼の側近。勝頼旗本。天目山にて討死。
▽河村* (*)下総守。勝頼旗本。
▽安西* (*)伊賀守。勝頼旗本。
▽岩下* (*)総六郎。勝頼旗本。
▽山野井* (*)源蔵。武田信勝の後見。勝頼旗本。
▽神林* (*)清十郎・刑部少輔。勝頼旗本。
▽有賀* (*)善左衛門。勝頼旗本。
▽穴沢* (*)次大夫。勝頼旗本。
▽薬袋* (*)小助。武田信勝の後見。勝頼旗本。
▽貫井* (*)新蔵。勝頼旗本。<温井氏?>
→ 1582年徳川家康の甲信侵食。 旧領主を復活させて織田勢力を駆逐。徳川譜代は領地横領をカモフラージュするため前面に出さず。
<徳川家に吸収された赤備え> 井伊直政隊 3600人 関ヶ原の合戦:1600年。
(山県昌景隊の子孫)
↑早川幸豊広瀬景房 (*)清八・郷左衛門・美濃守。元・板垣家臣。「飯富の赤備え」出身。1582年三科とともに井伊直政与力。養子に将義。<広瀬美濃守景房、信玄曰く「軽薄なる事なき勇士」。>
仁科形幸 (*)伝右衛門。「飯富の赤備え」出身。1582年広瀬とともに井伊直政与力。<三科肥前守形幸>
石黒* (*)将監。武田家臣。1582年井伊直政与力。
石黒* (*)五郎左衛門。1582年井伊直政与力。<石黒主膳>
(上州:小幡信貞隊の子孫)
⇔小幡信実 (*)「上野小幡の赤備え」出身。(その他 武田家臣)
小幡景憲 (1572~1663)勘兵衛・道牛。小幡昌盛の息(3男)。1600年井伊直政に属し軍功。養子に(横田)縄松。軍学者として弟子に富永勝由、北条氏長、近藤正純、梶 定良。