琉球国の人物誌

琉球国・沖縄の豪族と家臣団
「首里おはる てだこが おもいこの遊び
 見もん…。」
―聞得大君― (きこえおおきみ:チフィジン)

祝女=神女:ノロ 沖縄・奄美地方の女性司祭、祈り場「御嶽」の管理者。王家の神女。久高島出身女性に限られる。

ノロ選出儀式:イザイホー 10年に1回。 
巫女=巫(カンナギ):ユタ 民衆の祈祷師。宮古諸島ではカンカカリャ又は、カンヌプトゥと呼ばれる。
御嶽=聖地:ウタキ
『おもろそうし』1531~1623年頃に成立。沖縄最古の古謡集。
<流求島>7世紀
607年遣隋使小野妹子曰く「流求は食人国」(英雄の魂を自身の肉体に取り込み、同一とする為の行為・・。風習の誤解では?。)
8世紀
753年「阿兒奈波」現地語での音の当て字、漂着した遣唐使が記す。
894年遣唐使を廃止。外交途絶、阿兒奈波(沖縄)は孤島となり12世紀頃まで状況不明。

‐阿兒奈波(あこなわ)島‐
根人/ニーンチュ(家長)=豪族
マキヨ(群)=庶民

ー信仰ー
<ニライカナイ> 異界の聖地。文字表記は「儀来河内」。
東方大主 (*)アガリカタウフヌシ。ニライカナイ・聖地の最高神。
君手摩 (*)キミテズリ。王就任の際に聖地から現れる神。

<下界>
▽アカッチュミ (*)久高島伊敷浜の住人。シマリバと夫婦。ニライカナイから流れた五穀の壺を拾う。農耕を始める。
▽シマリバ (*)久高島伊敷浜の住人。アカッチュミと夫婦。ニライカナイから流れた五穀の壺を拾う。
<八重山諸島・石垣島>
イリキヤマアリ (*)神。15世紀末の豪族・アケヤアカハチが信仰。
<久高島> 天孫氏降臨・阿摩祖・天須・天主
日神 (*)天帝・一世神。アマミキヨ、シネリキヨに島々と人間を造るように命じる。<ナルコ神のナルは太陽を意味するらしい。>
アマミキヨ (*)天孫・アマミク・アマミキュ。始祖神・女神。シネリキヨと兄妹。阿兒奈波(沖縄)を開拓。<アメノ一族か、阿毎氏か・・。奄美大島も同一文化圏ならば奄美キヨ・海見キヨ・阿麻弥キヨとも呼べるか?>
シネリキヨ (*)シネリク・シネリキュ。始祖神・男神。浜比嘉島に降臨。アマミキヨと姉妹。アマミキヨと共に人間を造る。3人の男と2人の女が誕生し、それぞれ王・按司・百姓・聞得大君(チフィジン)・村神官になった。<アイヌの巫者の幽体離脱的な予言儀式をシノチという・・。根底は一緒なんじゃないでしょうか?>
<奄美郡島>
テルクミ (*)テルコ。始祖神。奄美大島・伊平屋島地方の神。
ナルクミ (*)ナルコ。始祖神。奄美大島・伊平屋島地方の神。
10世紀以降
<南海の海賊>
藤原純友 (*~941)伊予掾家。元官人。越智流・高橋友久の息。伊予掾・藤原良範の跡職を継承。伊予宇和島、板島を本拠とする。936年千余艘を率いて官物資財を略奪。淡路・讃岐・周防・土佐の沿海を略奪。941年「博多津の海戦」に敗北。本拠地・日振島にて最後を遂げる。
 
<南海の海賊>
↑▽源ノ義親 (*~*1108)対馬守。義家の次男(義家の長男は早世)。前述したが、正当な嫡男として評価されていない。義綱を寵用する白河院に反抗する。対馬から九州各地に海賊行為を行い、大宰大弐・大江匡房が朝廷に訴える。1101年に追討令が出され、義家の郎党・藤原資通を殺害(義親に同心し反乱に加わったとも)。1106年父・八幡太郎・義家が死没。隠岐に配流されるが、出雲に上陸し叛乱、平ノ正盛に討伐される。<鎮西八郎(源ノ為朝)が義親の築いた九州の地盤を継承していたかもしれませんね。大蔵氏との関係が気になります。>
<清盛の孫世代。西海の覇者>
1185年平家の落ち武者、屋久島、喜界島、大島に上陸。
(重盛流)
⇔平ノ資盛 (*)諸鈍/ショドンに拠点を置く。1185年平家落ち武者伝説。
平ノ資盛 (1157*1161~1185)小松資盛・小松新三位中将。重盛の次男(当初嫡男、のち廃嫡される)。13歳の頃、藤原基房に下馬の礼をとらず争いとなる。1181年近江後詰軍の副将。平ノ重衡の与力。「三草山の合戦(1184)」「屋島の合戦」で義経に敗れる。「壇ノ浦」で入水自害。<本(古)中将が重衡、新中将が資盛。資盛の息・盛時を北条時政が養育し、得宗内管領・平ノ頼綱、長崎円喜へと繋がる歴史の不思議。><沖縄に落ちるか>
⇔平ノ有盛 (*)浦上/うらかみに拠点を置く。1185年平家落ち武者伝説。
平ノ有盛 (1164~1185)小松有盛。少将。重盛の四男。母は藤原家成の娘。「三草山の合戦」「屋島の合戦」で義経に敗れる。「壇ノ浦」で入水自害。<沖縄に落ちる(逃亡する)か>
(基盛流)
⇔平ノ行盛 (*)戸口/とぐちに拠点を置く。1185年平家落ち武者伝説。
平ノ行盛 (*~1185)左馬頭。平ノ基盛(1162年:事故死)の長男。1180年以仁王、源ノ頼政の謀反を鎮圧する。1181年北陸道追討使の後詰軍の副将。平ノ教経の与力。北陸木曾義仲討伐軍。「倶利伽羅」に参軍。1184年「一ノ谷の合戦」にて一ノ谷陣を守備。「三草山の合戦」「屋島の合戦」で義経に敗れる。従兄弟の資盛・有盛と共に「壇ノ浦」で入水自害。<沖縄に落ちるか>
平ノ維俊 (*)平ノ基盛の息。
<鎌倉幕府の平家追討使>
*天野遠景 (*~*1203)足立遠景・藤原・藤内・民部丞・入道。藤原南家。伊豆国の住人。藤原(天野)景光の息。足立遠元の養子。弟に光家。頼朝の不遇時代(1167~1180)に友人として育ち、頼朝の信任厚い。1180年伊東祐親を捕縛。1184年甲斐の一条忠頼を討つ。1184年8月鎌倉に召集され頼朝出陣式。1184年、中国攻め範頼軍。1186年「九州総追捕使」、以降10年近く宇都宮信房と平家残党狩りに活躍する。九州で圧制を強いたため召還される。1199年梶原景時糾弾の連判に署名。息に政景。<同族に吉川(橘川)氏。>
宇都宮信房 (1156~1234)藤原信房・中原・所ノ・大和守。下野蔵人所衆。宇都宮(中原)宗房の息。兄弟に中原宗隆、野仲重房、山田政房、深水興房、西郷業政、廣澤直房、那須有家、江里口業俊。1180の頼朝挙兵に呼応する。1183年「志田義広の挙兵」を鎮圧。1185年豊前に領地を拝領する。1187年鬼界島の平家残党を追討。1192年豊後・日向に所領を得る。のち出家遁世。79歳。
按司/アヂ =豪族
間切/マギリ =村
御宿/グスク =城塞 
13世紀石積みの城/グスクが百以上存在。
<天孫氏> アマミキヨの後裔。
世ノ主 (*)天孫(てんそん)・よのぬし・テダ。天孫氏25代目。家臣・利勇の謀反により死去。<『記紀』では、景行天皇の代に「四道将軍」になった丹波道主王の登場が、「主」のつく最初かと思いますが。四道将軍の派遣部隊が琉球まで進んでいれば面白いですが。>
▽利勇 (*~1187)天孫王家の家臣。謀反を起こし主25代・世ノ主を討つ。1187年浦添按司・源ノ舜天により討たれる。
(浦添按司・源氏王朝伝説)
⇔↓源ノ為朝 (1139~1177*)為義の息。兄に義朝。1156年「保元の乱」に敗北し伊豆大島に流罪。敗戦後、今帰仁に上陸。沖縄の大里按司の妹婿。
源ノ為朝 (1139~1177*)筑紫・鎮西八郎。為義の八男。尾張権守・家遠が後見人。13歳で九州に送られ肥後の国人領主・阿蘇忠景の婿となり、鎮西総追捕使を名乗り、豊後を本拠に諸国を侵害する。3年間で20の合戦5・60の城を攻略し九州を征服する。「保元の乱:1156年」に参戦し、強弓で名を馳せる。平ノ清盛家人、伊藤忠直・山田伊行。源ノ義朝家人、深巣清国・大庭景義・塩見五郎を倒す。近江国坂田辺りで捕縛され(捕縛したのは八島重成の弟・源ノ重貞・重定)、腕の腱を切られ伊豆大島に流されるという。<1183年九州に残した息子が平家に追討される。><為朝の28騎という旗元(旗本)が常に付いてまわっていたという、項羽の四面楚歌でも最後まで従ったのは20騎余だったきがします。>
12世紀(舜天 王統三代)
▽源ノ舜天 (1166~1237)しゅんてん・浦添按司・尊敦(そんとん)。為朝の息。舜天王朝の始祖。15歳で浦添按司。1187年謀反し利勇を討つ。22歳で中山王を称す。のち沖縄を統一し世ノ主・舜天を称する。息に舜馬。72歳。
▽源ノ舜馬 (1185~1248)しゅんば・浦添按司・順煕(じゅんき)。舜天の息。舜天王朝の二代。1238年家督継承。息に義本。
▽源ノ義本 (1206~1259)浦添按司・熈継。舜馬の息。舜天王朝の三代。1249年家督継承(44歳)。摂政・英祖に禅譲する。54歳時に行方不明となる。
琉球国・沖縄の諸郡

1242年 貿易船難破・留学生の慶成曰く 「勇敢で潜りが巧み」
(浦添按司・英王朝)玉城天孫氏 1274・1281年「元寇」中国・朝鮮軍の侵略戦争
英祖 (1260~1299)浦添按司。按司主(世ノ主)になり統一。久米島、慶良間、伊平屋、奄美諸島を支配下に置き朝貢を受ける。英王朝初代。1291年元寇6千兵、撃退。1296年再度の元寇130名を捕虜とし引き上げる。浦添城主。
▽禅鑑 (*)日本僧。漂着し英祖に保護される。極楽寺を建立。
大成 (1247~1308)浦添按司・英祖の息。英王朝。二代目。1300年家督継承。
英慈 (1268~1313)浦添按司・大成の息(次男)。英王朝。三代目。弟に勝連。1308年家督継承。
玉城 (1296~1336)玉城王・浦添按司主。英慈の息(三男)。英王朝。四代目。1313年家督継承。英祖の後裔。四代目按司主(世ノ主)。息に西威王。41歳。浦添城主。
<奄美大島> 12世紀北条家得宗領
千竈* (*)雨見島按司世。島津家家臣。奄美郡島の豪族。<1266年英祖王に入貢とも。>
<群雄割拠> 有力按司
浦添・うらぞえ
読谷・よみたん
中城・なかぐすく
勝連・かつれん
佐敷・さしき
今帰仁・なきじん
1350年英祖王朝末期 南山、中山、北山の分立「三山時代」、中山王・察度の台頭。
<南山王朝・大里按司>(1380~1420*1429年)南部(知念・摩文仁・喜屋武・具志頭)
承察度 (*~1398*)温沙道・大里・うふさと。南山王朝初代。1380年明に使者を送る。1385年「山南王」の冊封。汪英紫の謀反により大里を追われる。島添大里城主。
▽汪英紫 (1388~1402*)おうえいじ。大里按司。大里二代目。承察度の叔父。のち謀反し甥を追放する。島尻大里城主。
汪応祖 (*~1413)おうおうそ。大里三代目。息に他魯毎。豊見城を築城。
▽達勃期 (*)たふち。汪応祖の弟。1413年兄に謀反。のち甥の他魯毎により討たれる。
他魯毎 (1413~1429)たるみい。大里四代目。汪応祖の息。叔父・達勃期を討ち王位継承。1415年山南王として冊封され、南山王朝の最後の王となる。1429年尚巴志により討たれる。島尻大里城主。

玉城天孫氏、後裔
<中山王朝>(*~1406)中部(那覇・浦添・中白・読谷)
西威 (*~1349)英王朝。母の後見により王位。早世する。跡職は察度が継承。
謝名もい (*)むい・じゃなもい・世ノ主・察度。奥間大親の息。勝連按司の婿養子。1372年明の皇帝の使者・楊載が来訪。朝貢を即され、弟・泰期を代表に明に朝貢。のち首里城主。1350~1395年間中山察度王。
<北山王朝>(*~1416)北部(国頭・羽地・金武)
今帰仁の按司。沖永良部島・与論島・徳之島を支配。尚氏の攻撃により滅ぶ。
怕尼芝 (*~1395*)はにじ・羽地按司・兼次按司・(ハク アマシバ)。英祖次男・湧川按司の孫。北山王朝の初代。1322年家督継承。1383年明の永楽帝の琉球諸王国間の即時停戦の命令に従い朝貢。息に珉。今帰仁城主。<英祖の次男、湧川按司の孫という説。羽地で怕(は)、按司で尼芝(あじ)と理解できそうな気もします。>
珉 (*~1400)みん。羽地按司。北山王朝のニ代。1393年家督継承。息に攀安知(ハンアンチ)。今帰仁城主。<怕が姓であれば、怕珉か。>
攀安知 (1401~1416)はんあんち・(キョ ヤストモ)。北山王朝の三代。珉の息。1401年家督継承。今帰仁城主。<羽地按司=はんあんち?、攀安知(はにじあじ?)>
▽本部平原 (*~1416)もとぶ・ていばら・(ホンブ ヒラハラ)。北山王の家臣。羽地・国頭・名護の按司と抗争。北山王から尚巴志方に離反するが攀安知により討たれる。

島ノ主* (*)加那志・がなし。沖永良部島の豪族。北山王朝の一門。西目祝女の縁戚。尚氏の北征により滅ぶ。息に真松千代(次男)。子孫は世並蔵を称する。<諸国停戦の命の時の抗争者か。>
西世之主* (*)恩太良金。尚氏により徳之島大親に任命される。
中山王家(*~1406)尚氏により滅ぼされる。
<中山世ノ主>
↑察度 (*~1395)さっと・世ノ主・謝名もい。中山王家。弟に泰期。西威王の死により継承。1372年使者の到来により明に朝貢することを決める。75歳。首里城主。
▽泰期 (*)たいき。中山王家。察度の弟。1372年明朝への朝貢の使者となる。
▽武寧 (1396~1405*1406)ぶねい。察度の息。41歳で家督継承。南山王を追放する。1405年南部の佐敷按司・巴志の反乱。1406年尚巴志に敗北し中山王家滅亡。

<南朝軍>
懐良親王 (*1329~1383)阿蘇宮・中務卿・征西将軍・九州探題。後醍醐天皇の息。母は中納言為道の娘。1336年比叡山籠城。1337年伊予国忽那島上陸。1339年父・後醍醐天皇の命で九州に派遣される。五条頼元・中院義定ら12人が補佐。1340年豊後に侵入。1342年薩摩谷山城を拠点とする。1348年肥後菊池家の宇都津に迎えられる。1355年一色範氏・直氏を追放し博多を占拠。1359年少弐頼尚を「大保原の合戦」に破る。1361年大宰府を占拠。菊池武光、菊池武政の後見で北九州を制圧する。1369年甥の後村上天皇皇子・良成親王を河野通直のもとへ派遣。1371年九州探題に今川貞世が着任。1372年大宰府を攻略される。1375年征西将軍職を後村上天皇皇子・良成親王に移譲する。筑後に隠居し死没。
名和長年 (*~1336)又太郎・伯耆守。「三木一草のひとり」。伯耆国名和湊の海賊。隠岐配流の天皇を援助し、船上山に籠城。隠岐守護・佐々木清高を撃退する。1333年「建武新政」の恩賞方、三番局。山陽道・山陰道・畿内担当。1334年10月天皇の命で護良親王を捕縛。1335年西園寺公宗を誅殺する。1336年1月京都に進駐した足利軍を兵糧攻め。尊氏を西国に落とす。東上する足利軍に「湊川の合戦」に敗北。1336年新田義貞とともに出陣し、仁木頼章、上杉重能軍との「六条大宮の合戦」に草野秀永に討たれ戦死。
▽名和義高 (*~1338)検非違使・左衛門督・判官。名和長年の長男。三条富小路に居館を与えられる。楠木正成、結城親光と並び後醍醐天皇の親衛隊。1338年に高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れ北畠顕家とともに戦死。跡職は義興が継承。
名和義重 (*~1338)1338年に高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れ北畠顕家とともに戦死。
名和義高 (*~1338)1338年に高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れ北畠顕家とともに戦死。
名和長生 (*)大井・長和・長重。1338年に高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れる。1352年5月後村上天皇の男山八幡脱出に奮戦し武功。
名和顕興 (*)左衛門尉・判官・弾正大弼・検非違使。八代荘地頭職。名和氏14代。基長の息。1338年13代で叔父・義高の跡職を相続。肥後に入植。懐良親王を擁立する、菊池武光に与力。1359年「大保原の合戦」に従軍。右翼軍5500人大将。 1387年良成親王を迎える。1388年今川貞世に降伏。息に顕年。古麓城主。
≪個人的感想≫ 王家が孤高の将軍・懐良親王の血を引いていたらと思います。懐良親王の子供(名和氏の姫とも婚姻して)を連れて名和氏の誰かが遠くへ落ち延びてくれていればと願います。 名和氏⇔尚氏説を信じたい。
1429年 中山王家、三山統一。「第一尚氏」
<尚氏・しょうし>
尚思紹 (*)ししょう。佐敷按司。息に巴志。武寧王の跡職を継承し中山王。1411年明人・王茂を国相とする。1416年北山王を討つ。息に巴志、尚忠。<名和思紹? 「なわしろ」に通じると民俗の先生がおっしゃってました。>
▽王茂 (*)明人。尚氏に出仕。1411年尚思紹により国相。
尚巴志 (*)佐敷按司・はし。1406年武寧王に謀反し中山王。1416年按司連合軍を率い北山王を討つ。1422年父・思紹の跡職を継承。1425年冊封使・紫山から中山王に任じられる。1429年南山王を滅ぼし統一。68歳。<名和巴志?>
▽尚忠 (*)北山監守。巴志の息(次男)。北山王朝攻略後に置かれた北山番頭の官職名。
▽懐機 (*)かいき。明人。尚巴志により国相。
▽鄭和橋 (*)ていわきょう。明人。懐機と共に尚巴志により国相。
▽護佐丸 (*~1458)毛氏・読谷山按司・盛春。恩納村出身、首里士族。1416年尚巴志に従い今帰仁城を攻略。阿摩和利が護佐丸に謀反の準備ありと泰久に讒言。居城で月見中に討たれる。中城城主。

<尚氏王朝>
尚忠 (*)巴志の息。二代目。息に尚思達。
尚恩 (*)尚思達。巴志の息。三代目。1447年奄美大島を攻略。1455年から1462年にかけて喜界島を攻撃。<思達か。>
尚金福 (*~1453)巴志の息。尚忠の弟。思達の叔父。四代目。息に志魯。執政に懐機。56歳。
尚志魯 (*)金福の息(長男)。弟・布里と家督を争い死去。
尚布里 (*)巴志の息(6男)。(尚金福の弟とも)兄・志魯と家督を争い死去。
尚泰久 (*~1461)六代目。尚巴志の息(7男)。兄達の死により家督相続。1458年有力按司の護佐丸、阿摩和利を討ち政権を固める。三男の尚徳が跡職を継承。
▽阿摩和利 (*~1458)阿麻和利・あまわり。勝連の按司。北谷間切屋良村出身。尚泰久の娘(百十踏揚)婿。茂知附按司を倒し勝連を支配。有力者の護佐丸を討つ。のち義父・尚泰久により討たれる。勝連城城主。<天孫氏の後裔か?天孫氏を打倒した利勇の「利」の字を継承する点、何か縁があるのでは。>
↓▽金丸 (*)内間金丸・うちまかねまる・尚円。西原の豪族。尚泰久の家来頭。尚徳の代は引退。尚徳の死後、那覇安里大親により擁立され56歳にして中山王。尚徳の跡職を継いで尚円と称する。第二次尚氏王朝始祖。
▽鬼大城 (*~1469)おにうふぐすく・大城賢雄・越来親方。中山軍所属。1458年護佐丸の乱、阿摩和利の乱に勝連城攻略の大将。尚泰久の娘を救出。のち尚泰久の娘(百十踏揚)婿。1469年金丸と対立し、安谷屋按司・伊波按司と共に北谷間切に国直城築城。敗戦し知花城に戦死する。勝連城主。

尚徳 (*~1467*1469)七代目。泰久の息。1466年三千兵を率い喜界島を征服。室町幕府の足利将軍に謁見。若くして死去する。29歳。跡職は金丸氏が継承(金丸の謀反による第一次尚氏断絶とも)。<久高島に旅行中に居城を奪われたとも。>
「 きょうのふくらしや なうにぎやなたてるちぶでおる はなぬちゆきやたるごつ。」―新城親方―

第二尚氏 1469~1879年  そして廃藩置県
(西原按司・金丸王朝)
↑▽金丸 (*)内間金丸・うちまかねまる・尚円。西原の豪族。尚泰久の家来頭。尚徳の代は引退。尚徳の死後、那覇安里大親により擁立され56歳にして中山王。尚徳の跡職を継いで尚円と称する。跡職は弟・宣威が継承。室にオギヤカ。
▽安里親方 (*)金丸を支持する。
宣威 (*)尚円の弟。第二代。ノロの聞得大君との権力抗争が激化する。オギヤカの娘は聞得大君。
尚真王 (*~1526)尚円とオギヤカの息。第三代。1500年八重山のオヤケ赤蜂を討伐。軍船46隻兵士3000人を率いる。1522年与那国の鬼虎を宮古に討たせ先島諸島を統一。62歳。
尚清王 (*)室にマセニガネ。四代目。1537年奄美の反乱を鎮圧。59歳。
尚元王 (*~1572)1556年跡職継承。五代目。45歳。
尚永王 (*~1588)六代目。30歳。
尚寧王 (*~1622)七代目。26歳で即位。秀吉政権の朝鮮派兵への催促、重臣・謝名親方の反対。島津家の沖縄制圧。57歳。

琉球王朝の五氏族(王族「御殿」、士族「殿内」)

①向氏 :第二尚王家の分家。尚真王を祖とする王族。
②翁氏 :尚王家の高官を輩出する。国頭親方の盛順を祖とする士族。「伊舎堂」家は中城間切の総地頭職。「永山」家は中城間切の津覇村の脇地頭。
③馬氏 :浦添親方の良憲を祖とする士族。小禄間切の総地頭職。
④毛氏池城 :新城親方の安基を祖とする士族。羽地間切の総地頭職。
⑤毛氏豊見城 :護佐丸を祖とする士族。豊見城親方。豊見城間切の総地頭。

沿革

2019年3月
ヤフージオシティーズ閉鎖により移設