備後守 連枝・一門衆 那古屋織田・末盛織田の家臣団

那古屋城(信長)・

⇔ 織田信長 (1534~1582)上総介・第六天魔王。母は土田政久の娘(報春院)。織田信秀の嫡男。原田直政の妹婿。土方雄久の娘婿。1547年に吉良大浜初陣。1548年平手政秀の才覚により斉藤秀龍娘婿となる。1551年父・信秀の死により織田家相続。1556年「長良川の合戦」に義父・秀龍が義龍に討たれる。1560年「桶狭間の合戦」で今川義元に勝利。

<池田政秀の娘・養徳院が乳母。養徳院は池田(瀧川)恒利の室。><織田信長は父が畿内の三好政権を意識しての「長」なのではないでしょうか。反三好的な伊勢の情勢から、三好家からも織田と結んで挟み撃ちにするという外交政策があったのではないのでしょうか。尾張統一直前に尾張守任官を目指しての信長の上洛は、将軍・足利義輝に会うよりも三好長慶に会う為の上洛なのではなかったのでしょうか。足利義輝は斎藤義龍を重用しているし、上杉謙信を重用しているし、信長は六角や三好に近い立場だったのでは。六角が中立なので上洛の道が安全だったのでは・・。>

末盛城 織田(信行)の家臣団
1557年清洲城中にて誅殺され家臣団解体。

織田信行 (*~1558)土田・勘十郎・武蔵守・(織田信勝)・建成・信成・達成。母、土田氏。織田信秀の息。1556(弘治2)年兄に叛心あり、柴田勝家の讒言により信長の命で黒幌衆の筆頭・川尻秀隆に誅殺される。津田信澄の実父。末盛城主。

<親父・信秀殿から佐久間盛重、柴田勝家と織田家中きっての猛将を付属されているわりに、津々木氏を重用してしまう。><晩年は弾正忠達成を名乗り兄と対抗したようです。><達成と名乗っているのですが、一時的にでも大和守・達勝の養子となって、兄の信長よりも主筋の養子として自覚することがあったりしてないでしょうか(妄想)。それで信友の斯波「武衛」殿の謀殺事件に、信勝の軍から柴田隊が派遣されたのでは。><もしくは因幡守家・信友が主家を相続したので、玉突きで因幡守・達広の跡を継承したとか。><名前が信行から信勝になったかと思えば、否定されてまた信行に出戻りしました。武田重臣の馬場信春も信房になったり違うとなったり。歴史ってなかなか一筋縄ではいかないものなのだなという事がわかりますね。これからの皆さん、まだまだ研究していけますよお~。><三河の中根氏は最前線で非常に重要な存在。桜井松平と縁戚でもある野田(菅沼)定盈も、織田信光との繋がりで重要な武士団一党の縁なのでは。武田・織田に両属する勢力はいずれどちらかを選択することに・・。>

柴田勝家 (*~1583)権六。筆頭家老。1555年斯波義統の仇討ちで「安食の合戦(中市場合戦)」、清洲衆との合戦に軍功。1556年「稲生の合戦」に織田信長軍に敗北し降服。再び叛意を抱いた信勝に疑念を持ち兄・信長に謀反を密告する。

<俺が一番じゃないとだめなのだ!という嫉妬癖があります。プライドで生きてる武士です。>

⇔佐久間盛重 (*~1560)大学。次席家老。<西三河に勢力を持つ佐久間家の代表。>

佐久間* (*)次右衛門。三番家老。<佐久間信盛とは別人のようです・・。普通併記してるとき坂井や林兄弟みたいな感じだとおもうので、次右衛門は盛重弟・佐久間盛次のことじゃないのかなあと思います。それか1560年「桶狭間戦」盛重の戦死後は五器所は佐久間与六郎・家勝が継承するようなので、家勝のことでは?>

長谷川* (*)四番家老。<長谷川一族は織田信長に通じているようですね。のち側近・長谷川秀一を輩出する系統でしょうか。><藤原系の長谷川氏とすると同族に坪内、磯貝、村瀬氏がいるようです。>

山田* (*)五番家老。<目立ちませんが地力のある山田一族です。生駒家のように半商人なんでしょうか?山田氏は織田信忠の侍大将として伊勢長島に活躍します。>

津々木* (*~1557)(筒木)・蔵人。織田信勝の側近となる。柴田勝家と対立。<織田信勝さんの一番のお気に入りです。柴田勝家が嫉妬します。柴田家と張り合うほどの勢力を持っていたのでしょうか?。>

連枝・一門衆 那古屋織田家、末盛織田家(熱田支配か)

2016年10月03日