(三河守) 連枝・一門衆 三河安祥織田家の家臣団

<織田信秀の家臣団> 赤文字は信長家督前後に死亡<信長の意向により抹殺された者か・・>

織田信広 (*~1574)oda.nobuhiro・津田・三郎五郎・大隈守。織田信秀の長男。1540年三河国安祥城主。1548(1549)年今川家に捕虜になる。松平元康と人質交換で尾張に戻る。信長に対して1557(弘治3)年美濃の斉藤義龍(もしくは龍興)と結び反逆するが、降服。1570年「比叡山攻囲」。美濃岩村城城番。1573年足利義昭との和睦交渉を成立させる。1574(天正2)年「伊勢長島」に戦死。娘は丹羽長秀の室。

<本願寺一揆おそるべし。結局、三河の安祥の所領は誰の手に・・・。><織田家嫡流の「広」の名を名乗っているということは・・。それに、伊勢神宮に寄進し信秀が朝廷から拝領した官位名「三河守」は、信広に与える為のものだった気がするのですが・・。のちに家康が、徳川三河守を名乗るので「勝者の歴史」ということで、織田の三河守は消されたのでしょうか。>

⇔▽佐久間重行 (*~1549?)sakuma.shigeyuki・九郎左衛門・入道全孝。尾張衆。1533年三河加茂郡広瀬城主に抜擢される。1540年~1548年安祥城主・織田信広の三河経営に協力。1549年岡崎城主・松平広忠を暗殺する。息・長七郎の代に三宅貞保、高貞、光貞等の三宅一族の攻撃で落城。跡職は佐久間信盛の弟・信直が継承。

<織田信秀の命で三河支配に配置されるか。信長の兄の三河安祥城主・織田信広を後見していたのかもしれませんね。><勢力基盤の重複する桜井松平との関連がきになるところです。><1533年の足利義晴の近江幕府と、足利義維の堺幕府の軋轢が、三河の局地戦に波及しているような気がしますが・・。佐久間家が伊勢神宮と親しいのは流通の縁の関係からでしょうか>

⇔▽武藤雄政 (*)mutou.katsumasa・掃部助。織田信秀家臣。信秀の那古屋城奪取後、尾張勝幡(塩畑)城主。 1555年野夫城主。

<勝幡を預けられるほどに信秀の信任厚い。><信長の重臣・武藤舜秀と関連ありか>

<弾正忠家一門衆> 1533年頃『言継卿記』中より抜粋
織田定信 (*)貞信。織田信秀家臣。
織田光清 (*)息に達種。織田信秀家臣。
織田達種 (*)みちたね。光清息。織田信秀家臣。
織田頼秀 (*)織田信秀家臣。
⇔織田広孝 (*)織田信秀家臣。
織田* (*)兵部丞。織田信秀家臣。

<弾正忠家家老衆>
△矢野寛倫 (*)息に勝倫。弾正忠家家老衆。織田信秀家臣。
瀧川雄景 (*)彦九郎。弾正忠家家老衆。織田信秀家臣。
斎藤勝秀 (*)弾正忠家家老衆。織田信秀家臣。
小瀬秀実 (*)弾正忠家家老衆。織田信秀家臣。
矢野勝倫 (*)寛倫の息。弾正忠家家老衆。織田信秀家臣。
伴 兼久 (*)九郎兵衛。弾正忠家家老衆。織田信秀家臣。
雑賀* (*)右京進。弾正忠家家老衆。織田信秀家臣。

三河国安祥城の織田家(「三河守」信秀時代、一時西三河の領主(実効支配)か

2016年10月03日