備後守 外様・準一門

<三河桜井、尾張品野 松平家>
<尾張品野城> 1519年坂井秀忠から奪取(織田家と結び平和裏に継承したかも)

⇔○桜井松平信定 (*~1538*1537?)matsudaira.nobusada・桜井・松平・内膳。松平長親の息。松平信忠の弟。親織田(西条吉良)派。守山城主・織田信光は娘婿。織田信定の娘婿。岡崎執事。阿部定吉と昵懇。1529年「岩崎城攻略」に子息・清定とともに先陣の武功。清康亡き後、清康祖父、松平長親の命で松平の盟主となり、広忠を岡崎から追放。刈屋・水野、大給・長沢の松平と婚姻関係。清康の弟・三木信孝と鵜殿康孝も従う。1537年不在時に岡崎城を奪取される。家老・石川康長、その息・石川康利、康定兄弟は殺害される。尾張品野城主。

<いちはやく今川家から織田に乗り換えたということでしょう。>

⇔▽桜井松平清定 (*~1545*1543)matsudaira.kiyosada・桜井・松平・家重。信定の息。父に従い尾張品野城攻略、三河吉田城攻略に軍功。1545年坂井忠尚、榊原長政とのぞんだ、松平広忠との「広畔畷の合戦」に敗北。尾張品野城主。息に家次。

<翌年に坂井忠尚が品野城を奪取し、清定は降伏するようです。>

▽桜井松平家次 (*~1563)matudaira.ietsugu・桜井・松平・品野・家次・監物丞。桜井松平嫡流。松平清定の息。義元直属。1545年松平広忠に敗北。与力に酒井忠尚、榊原長政。1553年東条松平忠茂と抗争。1556年今川義元は東条家を厚遇。1560年「大高城救援」に従軍。尾張品野城主。1563年三河一向一揆に一向宗側として叛乱。息に忠正、忠吉。娘婿に野田(菅沼)定盈。

<桜井松平は代々、宗家に対抗する強力な分家。><福釜家とは因縁の仲。><今川義元の松平分裂策か。><織田家に従う家康と、吉良家を奉じる家次と、最後の決戦をしたということでしょう。><明智光秀の婿に桜井家次という人物がいることが、すごく気になります。>

長江景則 (*~1560)nagae.kagenori・景隆。利景の後裔。元・美濃の又守護代家。尾張春日井郡の豪族。品野城の桜井家次に従う。1560年信長軍の侵攻により落城。息に景隆。桑下城主。

<美濃の守護又代・長江家の生き残りということは美濃板取の長屋家と縁戚か?>

今川の尾張支配に関与した三河衆(松平)でした。

≪個人的感想≫ 『三河物語』は、一向宗による「一揆」、ではなく、吉良党による「一揆」なのを隠蔽しているのではないのでしょうか。『三河物語』こそ、あやしすぎ。江戸300年のバイブルですから・・。
佐久間家の祖の直次やら、家次やら、信次やら、西三河関係で「次」の字がどこから来ているのか、この慣習が気になるところです。

2016年10月02日