戦国大名 今川義元・氏真の家臣団

東海道の大名・今川義元の家臣団と軍団

「 尾張半国 当方(今川家) 分国。 」
-連歌師・柴屋軒宗長曰く-(1522年)今川義忠・氏親の門客。 <信長様の先祖、尾張那古屋今川家の津島代官疑惑(え。>


「尾張半国、当方(今川)分国。」
斯波義達の敗戦により今川那古屋家の支配。<那古屋城主・今川氏豊の、織田信秀への信頼は何?>
 今川義元の時代、領内では永高制という貨幣を基準とする流通が確立されていたそうです。「永楽銭(永楽通寶)」が流通の基軸となるということです。最近、函館工業高等専門学校の埋蔵文化財研究会の皆さんが「永楽銭」の制銭、鐚(ヒ゛タ)銭の成分分析を行い、スズの含まれない鐚銭でも精巧な鋳造品があることを確認されたそうです。
 ということは、「銭」の流通に今川氏親の代からの基盤があり、東海道で中国銭の「永楽銭」を定着させるために、手に入らない分は、精巧な鋳造が日本国内のどこかで行われ、やがて関東一円(後北条氏領内でも)にそれが広がっていくという流れとなります。
 尾張の織田弾正忠家の旗印は信秀の代から「永楽銭」。尾張の今川家支配の頃に、弾正忠家が津島で何をしてたことやら・・、突然に。信長の父・織田信秀がなぜに多くの銭を朝廷や、伊勢神宮に寄進できたのか?
 尾張下守護代の清洲三奉行の中から、ひとつ跳び抜けた存在となる織田弾正忠家は、今川家の命で、尾張津島で、「永楽通寶」を生産していたんじゃないのか?そして信長の代に天下に飛躍するのも、「永楽銭」が重要な鍵を握っているのでは?
丹羽氏の語源の「丹生」の名や、佐久間氏配下の山口(多々良)氏など、鉱山関係の名を持つ家臣がいるのも、ただの偶然ではないのではないでしょうか。これからの展開が楽しみです。
今川家は京都幕府寄りの姿勢で、関東公方が謀反を起こすと、幕府軍主力となって信濃小笠原氏とともに度々関東に乱入しています。管領・細川政元や彼の擁立した堀越公方の遺児・足利義澄の意向で、伊勢宗瑞を後援し関東に幕府に従う勢力を築くつもりだったとみられます。


    
今川義元の家臣団 ≪武田晴信・徳川家康の領土侵食により崩壊する≫ 1560年桶狭間にて討死。


今川義元  (1516*1519~1560)梅岳承芳・上総介・治部大輔。今川氏親の三男(五男とも)。母は中御門宣胤の娘「寿桂尼」。武田信虎の娘婿。もと富士郡善徳寺の僧侶。太原雪斎の弟子。1536年兄・氏輝と彦五郎の死去。「花倉の乱」で異母兄・良真(玄広恵探)を擁立する福島氏と抗争。瀬名氏貞、朝比奈泰以、由比光規、岡部親綱、三浦元辰、平野、孕石氏に援助される。1537年2月武田信虎の娘婿となり同盟。親武田路線、反北条路線を選択。1540年織田信秀に三河国安祥城を奪取される。1541年武田晴信の下克上に加担。1542年尾張の織田信秀と第一次「小豆坂の合戦」。1545年北条と講和。1548年第二次「小豆坂の合戦」。1549年松平広忠死去、三河支配。1554年武田・北条と三国軍事同盟。1555年雪斎死去。1558年隠居し三河進出。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。42*45歳。弟に氏豊(世代的には氏親の弟のような)。義弟に鵜殿長持、関口氏広、小笠原春儀、瀬名氏俊、中御門宣綱、北条氏康、牟礼郷右衛門。<今川家の陣代である伊勢長氏(入道宗瑞)や太原雪斎と同じように、嫡子・氏真の為に、旗頭として軍勢を率いて出陣したのが間違いの始まりでした。松平元信や岡部元信に前線は任せて信長に圧力を加え続ければ、いずれ自然に尾張を統一できたでしょう。何を焦ったのか・・。やはり上洛を視野に?>


今川氏真 (1538~1614)品川・彦五郎・上総介・治部大輔・刑部大輔。義元の息。母は武田信虎の娘(定恵院殿)。氏康の娘婿。1558年に家督を譲られる。1560年今川義元の戦死により今川家惣領職。1568年武田信玄・徳川家康の同盟により、遠江・駿河、今川館を失う。1569年1月掛川城に入城し籠城するが、5月降参。相模に退去。のち徳川家康から捨扶持を武蔵品川に与えられる。蹴鞠の名手。義弟に朝比奈元長、武田義信、牟礼勝重、浅井政敏。弟に今川長得。
▽川井* (*)(河井)・与四郎。今川氏真の側近。離反した遠江久野城の久能氏を説得。勢力を分裂させる。<庵原氏の外戚に川井氏あり。>
▽中川通秀 (*)吉右衛門。今川氏真の臣。1568年「薩垂山の合戦」に従軍。


 足利一門(血縁)御由緒衆 (遠江国衆・堀越今川家)
 足利幕府の変遷。
堀越氏延 (*~1563)(今川氏延)・源六郎・宗三郎・左京大夫。元、遠江守護家。今川家一門衆。堀越貞基の息。1537年「河東一乱」に連動し、父・貞基は義元の命で天野虎景により討たれる。弟に吉良貞朝(氏朝)。武田家に通じ今川氏真に討伐される。遠江見付端城主。
⇔*▽吉良氏朝 (1543~1603)(足利・蒔田・今川・堀越)・左兵衛督。遠江今川氏。北条氏の客将、蒔田殿と呼ばれる。北条氏綱の娘婿・堀越貞基(今川家臣)の息。のち蒔田殿・吉良頼康の養子。妻は北条氏康の娘。北条一門衆として待遇される。後北条氏の関東支配の正統性と家格・権威を高める為に擁立される。武蔵国世田谷城主。

▽堀越氏直 (*)(今川氏直)・宗三郎・民部少輔・貞忠。元、遠江守護家。今川家一門衆。堀越氏延の息。父・氏延は武田家に通じ討伐される。遠江見付端城主。
 斯波氏との係争の地、遠江国。守護代は甲斐氏。


 今川一門(血縁)御由緒衆 小鹿・瀬名・関口・新野・入野・名児耶・葛山。
(今川一門、瀬名・関口家)
△瀬名氏貞 (1497~1538)今川・源五郎・陸奥守。遠江今川氏。一秀の息。氏輝死後の家督争いに、朝比奈泰以・由比助四郎とともに今川義元を擁立。息に氏俊、義広(関口親永)、娘婿に武田左衛門尉。庵原郡の瀬名城主。<兄弟の堀越貞基は敵対。><孫に「築山殿」。>
瀬名氏俊 (*)今川・源五郎・左衛門佐・伊予守・貞綱・氏栓。遠江今川氏。今川家一門衆。瀬名氏貞の息。弟に瀬名(関口)氏広。今川氏親の娘婿。一時今川家を出奔するがのち帰参。1560年「桶狭間の合戦」に従軍。息に信輝。堀越城主。
▽瀬名氏明 (*)今川・源五郎右衛門。遠江今川氏。今川家一門衆。葛山備中守の娘婿。関口親永の甥。妹婿に三浦上総守。<子孫は江戸幕府幕臣。>

関口氏広 (1518~1562)(瀬名)・今川・助五郎・伊予守・刑部少輔・親永・親氏・義広。遠江今川氏。今川家一門衆。今川氏親の娘婿。義元の妹婿。瀬名氏俊の弟。妹婿に三浦一右衛門。娘婿に松平元康(徳川家康)。1555年3月松平元康(元信)元服に立会。元康を娘(築山殿)婿に迎える。もう一人の娘婿に牟礼勝重。今川氏真を国外追放する計画に加担し切腹。花沢城主。持舟(用宗)城主。
↓関口氏経 (*~1560)(瀬名)・今川・越中守・親将。遠江今川氏。遠江の井伊家の目付け。井伊直虎(*~1582)とともに徳政令を出す。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。<井伊家家老・小野道好(*~1570)を重用するか?>
 


 準一門 (駿河国衆・朝比奈家)
↓▲朝比奈俊永 (*)(今川)・丹波守。今川家一門衆。駿河朝比奈家惣領。朝比奈元長の父。<遠江懸川・朝比奈、備中守家は丹波守家から分かれたものでしょうか。>
↓朝比奈元長 (*~1566)(今川)・右兵衛尉・丹波守・駿河守・親徳。今川家一門衆。駿河朝比奈家惣領。今川義元の娘婿。丹波守・俊永の息。駿河東部の旗頭。1546年以降の三河経営にも参画。太原雪斎とともに奉行。1548年泰能、息・信置とともに第二次「小豆坂の合戦」に従軍。1559年松平元康に取り次ぎの指示を与える。1560年「桶狭間の合戦」に従軍。息に信置。<対・北条の重鎮か。太原雪斎とともに今川義元の双璧の将。>
↓⇔▽朝比奈信置 (1528~1582)(今川)・駿河守。今川家一門衆。駿河朝比奈家惣領。朝比奈元長(親徳)の息。今川氏真の従兄弟。駿河東部の旗頭。1548年第二次「小豆坂の合戦」に従軍。1560年「桶狭間の合戦」に従軍。1566年家督相続。1569年武田家に降伏、庵原を安堵される。山県昌景配下。1580年持舟城。息に信良、宗利。駿河持舟城主。<↓駿河西に配置。> 武田信玄の家臣団
↓⇔▽朝比奈信良 (*~1582)朝比奈信置の息(嫡子)。跡部勝資の娘婿。義兄弟に跡部良直。1582年信忠に敗れ自害。諏訪もしくは甲府とも。息に(跡部)良保。
↓⇔▽朝比奈宗利 (*)朝比奈信置の息。1582年織田家に降伏し瀧川一益家臣。のち徳川家家臣。

↓江尻親良 (*~1560)今川・民部。今川家一門衆。駿河国衆。<その姓から、駿河の久能家一門か。><桶狭間に義元の旗元(旗本)として戦死する江尻氏あり。>
↓蒲原氏徳 (*~1560)今川・宮内少輔。満氏の息。今川一門衆。1549年「安祥城表の合戦」に軍功。1560年「桶狭間の合戦」に従軍戦死。息に徳兼。
▽蒲原徳兼 (*)氏徳の息。1560年父の戦死により家督。1560年今川氏真の命で反乱した高林源兵衛を討伐する軍功。


 準一門 外戚(遠江国衆・掛川、朝比奈家)
↓▲朝比奈泰煕 (*~1512)備中守。遠江朝比奈惣領家。朝比奈泰永の息(吉俊の息とも)。備中守・泰能の父。遠江掛川城主。<遠江懸川・朝比奈、備中守家は丹波守家から分かれたものでしょうか。>
↓朝比奈泰能 (*~1557)(中御門)・弥次郎・左京亮・備中守。遠江朝比奈惣領家。朝比奈備中守・泰煕の息。東遠江国人。中御門宣秀の妹婿。1512年父の病死により、叔父・泰以の補佐を得て家督。1513年吉良の将・大河内貞綱、斯波義達と結んだ井伊次郎・直平が反乱。1548年副将として尾張侵攻「第二次小豆坂の合戦」。泰朝が継承。遠江掛川(懸川)城主。<今川氏親の両翼のひとりでしょう。>
⇔▽↓朝比奈泰朝 (1538~*)(中御門)・左京亮・備中守。東遠江国人。遠江朝比奈惣領家。泰能の息。母は中御門宣秀の妹。今川氏真の側近。1560年「桶狭間」に従軍し鷲津砦を攻略する。1562年井伊直親を氏真の命で誅殺する。駿河に侵攻した武田家と徹底抗戦し、氏真とともに北条氏のもとに行く。遠江掛川(懸川)城主。息に泰基(泰元)。<子孫は庄内酒井家家臣。>

(遠江国衆・新野家)
↓新野親矩 (*~1562*1564)今川・入野・(井伊)。今川家一門衆。井伊家の縁戚。井伊直親の友人、1563年直親の死により息・井伊万千代(直政)を養育する。1562年飯尾連竜の拠る遠江引馬城攻囲戦に戦死。遠江新野城主。<関口氏経とともに西遠江支配の重鎮か。>
▽新野* (*)式部少輔。今川氏真の家臣。1568年「薩垂山の合戦」に従軍。武田軍との合戦に先陣を勤める。


 準一門 (三河国衆・上ノ郷鵜殿家)
▲鵜殿長持 (1513~1557*1562)(今川)・藤太郎・長門守。三河蒲郡上ノ郷の国人領主。義元の妹婿。1516年鵜殿長将、没。親今川派として三河支配の重鎮。娘は徳川家康の側室(蓮葉院)に。三河上郷城主。1562年徳川軍に攻囲され戦死。<形原・五井・竹谷などの信光流の松平氏が周辺に存在します。松平諸家は、いつからそこにいるのか。もともとは鵜殿家の家臣として、その周辺の城主だったりしないのでしょうか。>
↓鵜殿長照 (1531~1562)(今川)・蔵太郎。今川家一門衆。三河蒲郡上ノ郷の国人領主。長持(1513~1562)の息。父・長持は義元の妹婿。三河上郷城。尾張大高城主。今川家に忠節を尽くす。1560年「桶狭間の合戦」以降、三河国にて今川勢力として奮闘するが父は戦死し、弟とともに捕虜となる。人質交換として徳川信康が解放され、今川家に戻る。1562年徳川軍に攻囲され戦死。三河西郡城主。
≪個人的感想≫ 鵜殿家にも多数分家あり。

 


足利同族 <三河守護・吉良家>  吉良家が今川家に圧倒され、家臣団は解体。 1536年今川家内紛。家督争い、「花倉の乱」。

⇔吉良義安 (*~1554)吉良義康・上野介・義泰。伊勢・東条吉良氏。吉良持広の養子。松平清康の妹婿。1554年今川義元に攻略され降服。<父の代では、遠江まで勢力を伸ばし飯尾・大河内家を束ねていたようです。富永忠安(忠康)、松平清康、吉良義安(義康)の名は、ただの偶然ではないはず。>

⇔↓吉良義昭 (*~1563)東条。元・西尾城主。1554年兄・義安が今川家の捕虜となり吉良家督。当初、親今川派。今川義元との同盟者。1556年織田信長と結び今川家に謀反。西尾城を奪われる。1560年「桶狭間」にて義元戦死。1561年三河統一戦に松平元康に「藤波畷の合戦」に敗北。1563年三河一向一揆に旗頭として徳川家康と対立。東条城主。
↓▽富永忠元 (1537~1561)伴・五郎・忠元。東条吉良義昭の家老職。富永忠安(忠康)の息。1561年上野城主・深溝松平好景を討つ。深溝松平伊忠と抗争。1561年「西尾城の攻防」に敗戦。続いて東条城表「藤波畷の合戦」に本多広孝・酒井正親・小笠原長常・松井忠次に討たれる。弟・徳玄も戦死。室城主。25歳。<吉良家の勇将。義元の「元」の字を与えられている様子。1554年頃に義安に従った父が戦死しているとすれば、人質生活を送っていたかもしれませんね。>

⇔▽↓荒川義広 (*)(吉良義広)・甲斐守・義弘・頼持・義等・義虎・頼時。八面城主。東条吉良一門。吉良持清の息。兄に吉良持広。酒井忠尚の妹婿。徳川家康の妹婿。1539年親今川派として兄・吉良持広(義堯の息・義郷と混同か?)とその家老・富永忠安(忠康)を討つ。1563年三河一向一揆に与し反・徳川家康。1564年三河を出奔。河内国に隠居。<隣国の尾張でも荒川一族がたくさん登場してきます。>


 尾張 準一門 (尾張国衆・戸部家)
↓戸部政直 (*~1557*1560)(今川)・新左衛門。今川家一門衆。尾張今川衆の旗頭。今川義元の妹婿。1557~1560年間義元から忠節を疑われ誅殺される。尾張戸部城主。<熱田の南側、鳴海すぐそばの豪族です。那古屋今川氏の一門衆だったりしているのかも。><鳴海城主の山口義継とはどういった関係だったのかが気になります。>
≪個人的感想≫ 今川氏親を幼少時に匿った長谷川氏が、何処の出自によるかですが、尾張の長谷川氏に同族がいるとすれば、信秀に奪取される前の那古屋城に出仕する、今川家に属す長谷川氏もいたかもしれません。

 信長の年表と信長初期家老、小笠原長忠の軍団、織田水軍
 尾張 準一門 (他国衆・浅井家)尾張熱田浅井家? 刈安賀浅井家は近江浅井の分流とも。

尾張支配時代にどちらかの尾張浅井氏が那古屋氏豊の配下になったりしてないのでしょうか。
浅井政敏 (*~1560)(今川)・小四郎。今川家一門衆。今川氏親の娘婿。義元妹婿。飯尾豊前、葛山播磨、三浦左馬と義元の側近奉行として活躍。1553年尾張沓掛城主。1560年「桶狭間」に従軍。<刈安賀の浅井氏は北伊勢・美濃寄りに拠点。あれは別系か?>
<近江の六角氏討伐に従った、織田家の家臣となって尾張に土着した近江侍でしょうか。1582年信長の甲州帰還に東海道筋の茶屋で接待する浅井氏あり。>
<浅井亮政が嫡流を相続した際に追い出された浅井氏一門がいるのかもしれません。>


 駿河 外戚一門 (駿河国衆・葛山家) 親後北条氏、のち親武田氏。
▲葛山春吉 (*~1516)備中守・春義・惟貞・維貞・氏時。伊勢氏一門衆。葛山備中守は1489年伊勢長氏を娘婿に加える。1491年北条早雲の伊豆討ち入りに協力した豪族。<葛山氏堯と同一人物か。>
⇔△葛山氏広 (*~1539)(伊勢)・備中守・中務大輔・氏時・氏貞。伊勢氏一門衆。駿河東の国人、葛山城主。葛山氏堯の養子。伊勢長氏(早雲)の三男。今川義元の家臣。駿府に屋敷を与えられる。1516年家督相続。1537年今川義元から離反。「河東一乱」に北条氏綱に従う。武田信貞を氏元の養子に迎える。北条氏綱・氏康の家臣団

○葛山氏元 (*~*1573)(伊勢)・八郎・備中守・元氏。伊勢氏一門衆。駿河東部の国人領主、氏広の息。実父は葛山貞氏とも。北条氏綱の娘婿。1568年武田家の駿河侵攻に降伏。1569年駿河大宮城の富士氏攻略に従軍。娘婿に武田信玄六男・葛山信貞。1573年武田信玄の命により誅殺されるとも。駿東郡葛山城主。
葛山長嘉 (*~1560)(伊勢)・播磨守・長義・長吉。伊勢氏一門衆。駿河東部の国人領主。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。今川軍後陣旗頭。
▽葛山元清 (*~1560)(伊勢)・安房守。伊勢氏一門衆。駿河東部の国人領主。

葛山頼秀 (*)甚左衛門。大宮葛山氏。今川義元家臣。富士浅間神社大宮司。1561年今川氏真により大宮司職を没収される。大宮城主。
⇔▽葛山信貞 200騎(*~1582)(武田)・十郎。武田家一門衆。晴信の息(六男)。1567年駿河国国人領主、葛山氏元の婿養子。1568年養父・氏元は武田氏に臣従し、1569年頃に家督継承。穴山信君の与力。1582年信長に誅殺される。 武田信玄の家臣団TOP
⇔▽御宿友綱 (*~*1582)葛山・監物。駿東郡御宿領主。御宿信貞(綱治)の息。母は跡部越中守の妹。葛山一族。叔父に御宿綱清、御宿氏元。1537年武田家に臣従。1567年以降・葛山信貞を補佐して駿東支配。武田家滅亡後も在命。弟に御宿信名。妹婿に甲斐国人の小山田信茂、武田信尭。


<今川家宿老> 三浦・庵原・由比・(両)朝比奈 (朝比奈備中守は伊勢長氏と協力して今川氏親を当主に据えた)
⇔▽伊勢長氏 (1432~1519)新九郎・盛時・氏茂・早雲庵・宗瑞・「北条早雲」。大和在原又は山城宇治出身。足利義視、今川義忠(~1476)、今川氏親に出仕。義忠室(北川殿)の兄として甥・氏親の家督相続に活躍する。興国寺城主。小笠原氏、葛山氏から室を迎える。1491年伊豆侵攻。「深根城の攻囲戦」興国寺城城主・伊勢長氏が、堀越公方・足利政知が死亡した後、後継者の足利茶々丸を追って伊豆侵略、深根城を守備する関戸吉信を打倒し伊豆国を統一する。1491年韮山城主。1494年小田原城奪取。小田原城主。1518年三浦家を滅す。88歳。<備中出身、父・伊勢盛定、母・伊勢貞国娘とも。>息に氏綱、氏時、葛山氏広、長綱。

北条早雲(伊勢長氏)の家臣団
▽高橋* (*)修理進。今川家家臣。駿河興国寺城代。伊勢長氏に従う。<北条家老、高橋将監、平左衛門ほか、氏康の五色備えの将、北条(高橋)綱高に繋がるか。>
▽蒲原満氏 (*~1536)今川。今川一門衆。貞氏の息。1489年伊勢長氏とともに伊豆国堀越御所を攻略。息に氏徳。蒲原城主。

太原雪斎 (1496~1555)(庵原・興津)・崇孚。駿河の清見寺、善徳寺、長慶寺の住職。今川氏親が建立した大竜山臨済寺開祖(二代目住職とも)。今川義元の軍師。父は庵原政盛、母は興津正信の娘。1536年「花倉の乱」に義元を家督に擁立。1547年「田原城攻略」。1548年大将として尾張侵攻「第二次小豆坂の合戦」。1549年織田信広を捕虜とする。1553年今川仮名目録。1554年三国同盟の成立に尽力する。60歳。<朝比奈元長とともに今川義元の双璧の将。>


 駿河 譜代家老衆
<駿河国 城持衆> 駿府城(館)を中心に支配。 *後由緒家
(駿河東部)戸倉、長久保、葛山、興国寺、大宮城。富士川より東。
▲三浦範高 (*)次郎左衛門。範永の息。三浦氏員の父。今川義忠の家臣。今川氏親の筆頭家老。その地位を「今川仮名目録」明記される。息に氏員。
△三浦氏員 (*)(伊勢)・上野介・範時。三浦範高の息。伊勢長氏(長時)の娘婿。北条氏綱、葛山氏広と義兄弟。娘婿に岡部正綱。今川氏親の家臣。1545年冷泉為和を招き自邸にて歌会開催。横山城主。息に正勝、貞勝、氏満。娘婿に岡部正綱。
三浦正勝 (*)(伊勢)・二郎左衛門。三浦氏員の息(長男)。伊勢長氏(長時)の孫。梶原一伯の妹婿。今川義元の家臣。弟に貞勝、氏満。義兄弟に岡部正綱。息に正次。<子孫は江戸幕府幕臣。>
三浦貞勝 (*)(伊勢)・上野介。三浦氏員の息(次男)。伊勢長氏(長時)の孫。今川義元の家臣。弟に氏満。義兄弟に岡部正綱。
⇔三浦氏満 (*~1630)(伊勢)・次郎左衛門尉・氏俊・入道三休。三浦氏員の息(三男)。伊勢長氏(長時)の孫。今川義元の家臣、氏真の側近。武田、北条、徳川に出仕し、幕府旗本。義兄弟に岡部正綱。息に氏正、氏義、儀持、儀俊、氏秀、氏忠。
↓三浦義就 (*~1560)左馬助・左馬介。駿河旗頭。1551年頃から山口氏の要請により、岡部・浅井・飯尾・葛山とともに五将で尾張に出征。1551年尾張笠寺城城主。「桶狭間」に従軍し戦死とも。1562年板倉重定とともに八幡砦を守備し酒井忠次と抗争するとも。
三浦* (*)備後守。「桶狭間」に従軍。<朝比奈備中と両旗頭を勤め、別働隊500~3000兵の部隊を率いるとも。>

富士信忠 (*)兵部少輔。富士浅間神社大宮司家。富士信盛の息。息に信通、信重、孕石信定(孕石元泰の養子)。1569年後北条氏の後援を得て葛山氏元・穴山(武田)信君と抗争。のち降伏臣従。
⇔▽富士信通 (*)蔵人。富士信忠の息。武田家に臣従。大宮城主。

(安倍七騎) 駿河在地の武士・七騎に入れ替わりありのようです。
朝倉在重 (1545~1615)善右衛門・六兵衛・河内守。越前朝倉氏一門・朝倉景高の息。父は謀反により越前を追われる。駿河国安倍郡柿島に領地。今川家直参・安部七騎のひとり。義兄弟に大石五郎右衛門。のち武田、徳川に出仕。
大石* (*)(大村?)・五郎右衛門・五郎左衛門。今川家直参・安部七騎のひとり。柿島村(上落合)の領主。義兄弟に朝倉在重。<関東管領配下の武蔵・大石氏の分家でしょうか。>
末高* (*)半左衛門・石見守。平野村(村岡村とも)の領主。
杉山* (*)小兵衛・仁左衛門。俵峰村の領主。
望月* (*)海野・総右衛門・四郎右衛門。郷島(中村・津度野村とも)村の領主。<海野氏と望月は信濃源氏の同族でしょう。>
長嶋* (*)長倉・甚太右衛門・佐渡守。腰越村(内匠村とも)の領主。
狩野* (*)落合・九郎兵衛。落合村の領主。<後北条氏の・・。>
石貝* (*)石谷・重郎左衛門・五左衛門。足久保村の領主。<後北条氏の・・。>
遠藤* (*)五太夫。新田村の領主。


 駿河 譜代家老衆
(駿河中部)蒲原、川入、横山、駿府城。安倍川より東。
*蒲原氏徳 (*~1560)今川・宮内少輔・氏政。蒲原満氏の息。今川義元の叔父。1536年に家督を継承する。蒲原城主。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。息に徳兼。
▲由比光詔 (*~1541)周防守。1536年氏輝死後の家督争いに、朝比奈泰以・瀬名氏貞とともに「花倉の乱」に義元に加勢。1541年信濃にて武田軍に敗北し戦死。常円寺(川入)城主。
由比光教 (*~1560)助四郎・民部丞。周防守・光詔の息。1541年光詔が武田軍に破れ戦死し家督。息に光広(寧広)。由比城主。<今川家の先陣侍大将として、林家や、富永家と同じような役割を果たすようです。>
▽由比光広 (*)岩辺・寧広。光教の息。岩辺郷右衛門と称する。由比城主。
由比正信 (*~1560)美作守。由比安忠の息。光教の一門。川入城。田中城主。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。息に正純、景国。<今川家の先陣侍大将。>
▽由比正純 (*~1569)出羽守・源左衛門。正信の息。1560年父の死により家督。今川氏真の臣。1569年「掛川城の合戦」に戦死。子孫は太郎左衛門を名乗る。川入城主。
伊東元実 (*)今橋城。今川家譜代家老。<信長の黒幌衆だった伊東武兵衛が、駿河に仕官するのは親戚がいたからとかでしょうか。>

▲久能宗隆 (*)佐渡守。中遠の有力国人。今川氏親の家臣。曳馬城主で家老・三好為連とともに遠江守護・斯波義達と抗争。遠江の久能城主。
久能元宗 (*~1560)三郎太郎。久能忠宗の息。宗能の兄。「桶狭間」に従軍。久能城。<遠江と駿河の両方に久能(久野城)を築くようです。>
久能元経 (*~1560)三郎四郎。久能忠宗の息。宗能の兄。「桶狭間」に従軍。
*久能氏忠 (*~1560)半内。今川義元の甥。久能半内・宗衡の息か。1560年「桶狭間」に従軍。
▽久能宗政 (*)弾正忠。久能宗能の従兄弟。宗能を追放と家康への謀反を企むが、家康の依頼を受けた三宅氏の介入により宗政は掛川城に蟄居。
⇔▽久能宗能 (1527~1609)三郎左衛門・弾正。中遠の有力国人。久能忠宗の息。元経の戦死により家督。1568年「遠江乱入」の徳川家康に臣従。駿河の久能城主。のち下総佐倉1万3千石。

▽本間義季 (*)十右衛門。久能宗能の家老。久能弾正・宗政の一味の謀反を宗能に通報。<南北朝に活躍した名門・本間家も他家の家臣となるようです。><高天神の将に本間氏あり。>
室町 東近畿/higasikinki・北陸/hokurikuの守護・国人
 駿河 譜代家老衆
(駿河西部)丸子、持舟、朝比奈、花沢、朝日山、田中城。大井川より東。
↑⇔○朝比奈信置 (1528~1582)兵衛大夫・駿河守。駿河・朝比奈家。丹波守元長(親徳)の息。母は今川義元の娘。飯尾乗連の娘婿。松井宗信、飯尾連龍は義兄弟。1569年武田家に臣従。駿河持舟城主となる。1582年武田滅亡の際に自害。息に宗利。<信長の命により自害させられたことになっている。><1560年代半ばの飯尾・松井の「遠江錯乱」の頃は肩身が狭かったかもしれませんね。>
⇔▽朝比奈信良 (*~1582)三郎右兵衛尉。朝比奈信置の息(嫡子)。跡部勝資の娘婿。兄弟に元永、宗利、信清。義兄弟に跡部良直。1582年信忠に敗れ自害。諏訪もしくは甲府とも。息に(跡部)良保。
⇔▽朝比奈宗利 (*)朝比奈信置の息。1582年織田家に降伏し瀧川一益家臣。のち徳川家家臣。
↓朝比奈元智 (*~1581)肥後守。遠江朝比奈家庶流。朝比奈下野守・時茂の息(3男)。兄に親孝、氏泰。天野景連に代り三河に派遣される。渥美郡の戸田氏の抑えとして三河国田原城。1560年「桶狭間の合戦」に従軍。

萩 清誉 (*~1568)小次郎。駿河北松野城主。甲斐との玄関口の領主。1568年武田軍の「駿河侵攻」を迎え撃ち戦死。<荻慶徳は1521年福島正成に従い戦死。>
⇔久貝正勝 (*~1587)市右衛門。遠江国富部城主。のち徳川家康に従い、本多忠勝の与力。「味方ケ原の合戦」に従軍。
安部信貞 (*~1564)刑部大夫・正真・信真。息に元真。持舟城。
⇔○安倍元真 (1513~1587)大蔵丞。武田家の駿河進攻に駿府城にて防戦。のち遠江に退去。徳川家に臣従し、1577年駿府で武田勢と争う。のち遠江伯耆塚城主。息に信勝。
▽安倍信勝 (1552~1600)弥一郎。元真の息。水野忠重の娘婿。父とともに徳川家に出仕。
一宮宗是 (*~1560)出羽守。用宗城。1554年武田晴信の援軍として信濃に派遣される。1560年「桶狭間」にて戦死。息に一宮元実とも。

庵原之政 (*~1560)美作守・元政。国人領主。1560年「桶狭間」に従軍。今川義元御旗奉行。庵原城主。<太原雪斎の父親は庵原氏の庵原政盛。><忠職の息、忠康と同一人物か。忠康は福島左馬助の娘婿。>
庵原忠縁 (*~1560)将監。忠職の息。政盛の孫。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。<庵原元景のこと?>
庵原忠春 (*~1560)右近。忠職の息。忠縁の弟。1560年「桶狭間」にて戦死。
庵原忠良 (*~1560)彦次郎。忠職の息。忠縁の弟。1560年「桶狭間」にて戦死。
▽庵原忠胤 (*)由比・安房守。由比忠任の息。忠職(忠次とも)の養子。今川氏真の家臣。1568年「薩垂山の合戦」に従軍。庵原城主。

⇔岡部信綱 (*)次郎・美濃守・久綱。岡部石見守良綱の孫。仲綱の息。1548年先陣として尾張侵攻「第二次小豆坂の合戦」に軍功、敗色を覆す横槍を入れる。良綱弟の系統が左京進家。丸子城主。<小豆坂では岡部元信が突撃したことになっているが世代的におかしいので、事跡が混同されているようです。><朝比奈氏の分家とも。>
⇔○岡部正綱 (1541*1542~1583)次郎右衛門。美濃守・信綱(久綱)の息。三浦氏員の娘婿。妹婿に伊丹康直。弟に長秋、忠兵衛。1569年武田家に臣従。駿河先方衆。清水城主。武田勝頼の命で高天神城攻略に軍功。1582年「本能寺の変」後、大須賀康高に協力し曽根昌世とともに甲州平定に活躍。北条家との「若神子の合戦」で軍功。42歳で急死する。子息・長盛はのち5万石で大垣城主。左京進家の岡部元信は親戚。娘婿に朝比奈宗利、岡部宣貞。息に長盛、康綱。 武田信玄の家臣団TOP
▽岡部長秋 (*)治部右衛門。美濃守・信綱(久綱)の息。岡部美濃守家庶流。岡部正綱の弟。息に宣貞。
▽岡部* (*)忠次郎。高天神城攻略に従軍。岡部正綱を射落とした本間左衛門を、鉄砲で射殺する軍功。
⇔○岡部元信 (*~1581)小次郎・五郎兵衛・丹波守・長教・興行・真幸・元綱。岡部左京進・親綱の息。岡部正綱の親戚。1559年山口氏に代わり鳴海入城。最前線の尾張鳴海城主。1560年「桶狭間の合戦」のち義元の首級を預かる。撤兵の際に水野氏の「刈谷城攻略」。水野信近を討つ。1569年武田家に臣従。駿河先方衆、遠江高天神城主となり、1581年織田・徳川軍と敢闘し戦死。息に真尭、元昌。尾張鳴海城主。

(焼津小川・長谷川長者の系譜、法永長者)
⇔長谷川元長 (*~1560)(藤原・加納・下河辺)・伊賀守。元宣の息。今川家家臣。1560年今川義元とともに戦死。<政宣と同一人物か、それとも、父に政宣、祖父に長重か。><名族・下河辺氏の後裔。その独立性から幕府直参の奉公衆か、それとも関東公方の直参か。その立場で伊勢長氏との関係性も見えてくる重要人物です。>
⇔長谷川正長 (1536~1573)(藤原・加納・下河辺)・紀伊守。長谷川元長の息。母は岩本正亮の娘。加納氏一門。駿河一色城主。1570年武田信玄に従う。兄弟に能長、正久、中川惣次郎。駿河国小川城主。<先祖は今川氏親を保護し、今川家の恩人。><家康の側室を送り出した、伊勢の長谷川家との関連も気になります。>
▲篠原* (*~1536)刑部少輔。駿河興津の豪族。今川氏輝家臣。遠江に派遣され勝田城番。福島正成に協力して遠江方上城を攻略。今川良真(玄広恵探)を擁立し敗北。

(駿河奥山氏)
奥山貞益 (*~1569)駿河奥山氏。弟に貞茂、貞吉。1569年信濃の遠山景直に攻撃を受けて落城。久頭郷城主。
▽奥山貞茂 (*)駿河奥山氏。1572年武田家に降伏。兄に貞益。水巻城主。
▽奥山貞吉 (*)駿河奥山氏。1572年武田家に降伏。息に吉兼。大洞若子城主。
▽奥山貞友 (*)駿河奥山氏。1572年武田家に降伏。小川城主。


<甲斐国>
⇔大井信達 (*)入道宗芸。甲斐国西郡の豪族。上野城主。大井信包の息。1515年今川氏親と結び、武田信虎と抗争。今川家から援軍に朝比奈・葛山・庵原・福島が2000兵で出陣。1520年武田信虎に敗北。娘婿に今井信元。息に大井信業、信常。

<駿河海賊衆> 外様。
⇔伊丹康直 (1523~1596)雅興の息。母は野間時秋の娘。岡部正綱の妹婿。1558年今川義元に出仕し同朋衆。氏真の代に海賊奉行となる。のち武田家に従い武田水軍の船大将。息に康勝、虎康、勝久、直勝、虎重、重好。
⇔岡部貞綱 (*~1575)土屋貞綱・忠兵衛・豊前守。岡部親綱の息。水軍の将。のち武田家に従い武田水軍の船大将。1575年「長篠の合戦」に戦死。息に長綱、貞次、娘婿に川村重忠。<岡部元信の方の岡部氏の一族らしい。元信の弟のようです。>


 
 元・斯波家領国
 遠江国要所図
 遠江 譜代家老衆 守護代・甲斐氏  1476年今川義忠の遠征失敗。
<遠江国 城持衆> 1504年伊勢長氏の侵攻。1512年朝比奈泰煕が斯波義達から曳馬城を奪取し統一。1548年織田信秀と「第二次小豆坂の合戦」。
(遠江東部)高天神、掛川(懸川)、天方、諏訪原、飯田、勝坂、犬居、只来、馬伏塚、二俣城。大井川より東。
↑新野親矩 (*~1562)今川・(井伊)。今川家一門衆。東遠江国人。遠江新野城主。井伊直親の息、万千代を養育する。1562年遠江引馬城攻囲戦に戦死。<のち井伊家の子孫が新野を名乗り家門再興。>
↑関口氏経 (*~1560)(瀬名)・今川・越中守・親将。遠江の井伊家の目付け。井伊直虎(*~1582)とともに徳政令を出す。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。<井伊家家老・小野道好(*~1570)を重用するか?>
 徳川家康の軍団
室町 今川貞世の家臣団
 遠江 譜代家老衆
<東遠江国人衆>
▲猪田直員 (*~1512)遠江掛川城主。<居城は朝比奈家が遠江の拠点に。>
↑▲朝比奈泰煕 (*~1512)備中守。遠江朝比奈惣領家。朝比奈泰永の息。備中守・泰能の父。遠江掛川城主。<遠江懸川・朝比奈、備中守家は丹波守家から分かれたものでしょうか。>
↑朝比奈泰能 (*~1557)(中御門)・弥次郎・左京亮・備中守。遠江朝比奈惣領家。朝比奈備中守・泰煕の息。東遠江国人。中御門宣秀の娘婿。1512年父の病死により、叔父・泰以の補佐を得て家督。1513年吉良の将・大河内貞綱、斯波義達と結んだ井伊次郎・直平が反乱。1548年副将として尾張侵攻「第二次小豆坂の合戦」。泰朝が継承。遠江掛川(懸川)城主。<今川氏親の両翼のひとりでしょう。>
⇔▽↓朝比奈泰朝 (1538~*)(中御門)・左京亮・備中守。東遠江国人。遠江朝比奈惣領家。泰能の息。母は中御門宣秀の妹。今川氏真の側近。1560年「桶狭間」に従軍し鷲津砦を攻略する。1562年井伊直親を氏真の命で誅殺する。駿河に侵攻した武田家と徹底抗戦し、氏真とともに北条氏のもとに行く。遠江掛川(懸川)城主。息に泰基(泰元)。<子孫は庄内酒井家家臣。><桶狭間に三浦備後守と両旗頭として、別働隊を2000兵を率いるとも。>

(遠江 小笠原) 伊勢早雲からの北条の外戚である中央の小笠原家との関連はないのでしょうか。もしくは一色家の三河守護代ながら謀反を起こした小笠原氏の子孫など。
⇔▲小笠原長高 (1488~1544)信濃守。信濃深志小笠原一門。小笠原長棟と家督争いに敗北。吉良家の客将。今川氏に出仕。遠江浅羽荘を与えられ国人領主。遠江馬伏塚城。<斯波義達の「遠江遠征」に従う信濃衆か。離反、離反を繰り返し、のし上がるか。>
△小笠原春儀 (*)右京進・春茂。今川氏親の家臣。遠江守護・斯波義達と抗争。遠江志津城を大沢基房とともに守備。遠江馬伏塚城。
⇔小笠原氏興 (*)彦五郎・与八郎・左京進・美作守。東遠江国人。遠江馬伏塚城。小笠原春茂(春義)の嫡男、長忠の父。惣領家は長忠が継承。1568年徳川家康に通じる。遠江国高天神城主。息に信興。<今川家にとって強力な外様国人に成長。><長忠を追放して信興が勝頼により惣領に抜擢されたようです。>
⇔▽小笠原長忠 (*~*1582*1590)与八郎・弾正少弼・氏義・氏助。東遠江国人。遠江国高天神城主。織田信長に降伏、徳川家に臣従し有力な旗頭、1570年「姉川の合戦」に従軍。1572年武田家に降服。駿河に所領を与えられる。武田家滅亡後、後北条家客将。<今川家にとって強力な外様国人に成長。><信興は別人のようですが・・。晴信・義信ならわかりますが勝頼から「信」の字を与えられることはないような気がします。><北条家との特別な関係があってこその強気の独立や「姉川合戦」の参戦とすれば、織田と北条はこの頃から何か盟約が・・。>
⇔▽小笠原信興 (*~*1582*1590)与八郎・氏儀。元・今川家臣。遠江国人衆。小笠原氏興の息。初期旗頭。1568年織田・徳川家に通じる。1574年武田家に降伏臣従。駿河庵原・富士郡に転封される。1582年北条領に出奔。遠江馬伏塚城主。惣領・長忠を追い出し、のち遠江高天神城城主は岡部長教。<信興は別人で、長忠の死により親武田派の小笠原信興が跡職を継承したとも。『信長公記』では与八郎が惣領を追い出し武田に降った事になります。自分的には公記を尊重すべきかな。><武田に従い「信」の字を与えられたらしい。晴信・義信ならわかりますが、勝頼が信をあたえるでしょうか・・。穴山信君の与力という意味合いとか。>

▲興津久信 (*)美濃守。道信の息。朝比奈泰盛りの娘婿。1514年二俣長富、富塚久行、斎藤正盛と六所大明神に鐘奉納。息に正信。孫に泰秋、親久、信綱、親行。娘婿に庵原政盛。
⇔興津清房 (*)彦九郎・左衛門尉。国人領主。駿河横山城主。興津盛綱の息。遠江馬伏塚城主。「桶狭間」には従軍せず留守居。のち徳川に臣従。<太原雪斎の母親は興津氏。>


 遠江 譜代家老衆
<遠江中部>
天野秀藤 (*)安芸守・虎景。1536年反乱した堀越貞基を討伐。遠江笹峰城主。息に景泰、景貫。
⇔天野景貫 (*)小四郎・宮内右衛門・藤秀。遠江国犬居城。遠江中央国人領主。天野秀藤(虎景)の息。1565年惣領家(兄)・天野景泰が今川家に背き跡職を与えられる。1547年の三河侵攻に従軍。1568年徳川家康の「遠江乱入」に反抗。1569年徳川家の遠江侵攻に抵抗。のち武田家、北条家に出仕する。北条氏直のもとで常陸国・佐竹義重との合戦に軍功。大叔父に景義、景房。<義元死後にも天野家が分裂か。1536年当時、天野虎景は遠江領主・堀越貞基を滅ぼせるほどの軍事力を持つ。>
天方通季 (*~1545)山城守。遠江中央国人。1545年頃死去。遠江国天方城主。
⇔天方通興 (*)三河守。刑部少輔・通直の息。遠江中央国人。1545年頃家督継承。1568年徳川家康の「遠江乱入」に反抗。1569年徳川家の遠江侵攻に降伏する。遠江国天方城主。<天方通季の一門か。通興は天方通直の息らしい。>
▲二俣昌長 (*)近江守。遠江社山城主。のち二俣城を築城。1514年今川氏親の意向で米倉城主。1529年中尾生城主。<遠江国人・横地藤丸は家臣の松井・二俣氏に擁立され再興を謀るが失敗。横地元国は武田家に出仕。関係ありか?> 徳川家康の軍団

▲松井宗能 (*)(横地?)・山城守。今川氏親の家臣。1513年堤城主。息に松井貞宗。<遠江国人・横地藤丸は家臣の松井・二俣氏に擁立され再興を謀るが失敗。横地元国は武田家に出仕。関係ありか?>
△松井貞宗 (*)(横地?)。松井宗能の息。息に信薫、信宗。
松井信薫 (*~1529)(横地?)・左衛門・山城守。松井貞宗の息。松井家は元・横地家家老職。1514年二俣昌長の跡をうけて、堤城主から二俣城主。弟に宗信。
松井宗信 (*~1560)(横地?)・郷八郎(五郎八?)・左衛門佐。遠江中央国人。松井貞宗の息。弟に因幡守。今川譜代家老。飯尾連竜の妹婿。朝比奈信置とは相婿。1529年兄・信薫の病死により家督。1547年三河医王山に出陣。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。子息・宗恒が家督継承。遠江二股城主。<1548年「小豆坂合戦」の惣左衛門は息子・宗恒? 1565年松井宗親が氏真により誅殺されます。>
▽松井宗恒 (*)(横地?)・八郎・山城守。宗信の息。遠江中央国人。松井家は元・横地家家老職。1548年「小豆坂の合戦」に従軍、殿軍を務め上げた。1565年「遠州錯乱」に飯尾氏とともに反乱。のち氏真に降伏。1568年徳川家康の「遠江乱入」に反抗。遠江二股城主。<庶流の宗保の子孫が江戸幕府幕臣。><のち中根正照が二俣城主。>
松井* (*)惣左衛門。1547年三河「田原城の攻略」に軍功。義元より感状を得る。

▲勾坂政久 (*)勾坂城主。遠江中央国人。今川氏親の家臣。1514年斯波義達、井伊直平の「三獄城攻略」に、朝比奈泰以に従い先駆け。
勾坂長能 (1491~1566)六右衛門・六郎五郎。勾坂城主。政久の息。遠江中央国人。今川氏親の家臣。1514年斯波義達、井伊直平の「三獄城攻略」に、朝比奈泰以に従い先駆け。1535年中尾生城主。
⇔▽勾坂* (*)向坂・六郎左衛門・式部・常陸介。1570年「姉川の合戦」に朝倉の勇士・真柄十郎を討つ武功。井伊直政の与力、のち追放されるという。



 遠江 譜代家老衆
<遠江西部> 吉良家臣、飯尾家をとりこむ。 1516年曳馬城を攻略し飯尾賢連を城主とする。
朝比奈泰長 (*~1562)紀伊守・氏泰。遠江朝比奈家庶流。朝比奈時茂の息(次男)。兄に親孝。弟に朝比奈元智。1561年三河に乱入し西郷正勝、西郷元正親子を討伐。月ケ谷・五本松城を奪取。松平元康と抗争。息に泰充、真次。遠江宇津山城主。<子孫は江戸幕府幕臣。>
▽朝比奈泰充 (*~1563)朝比奈泰長(氏泰)の息。三河西郷氏討伐に従軍。父の病死後、弟の真次により害される。遠江宇津山城主。
▽朝比奈真次 (*)紀伊守。朝比奈泰長(氏泰)の息。本多忠俊の娘婿。1563年真次は兄を殺害し遠江宇津山城主。

△飯尾賢連 (*)善四郎・善左衛門。元・西条吉良家臣。西遠江国人。飯尾長連の息。1516年今川家に離反し、斯波派の大河内貞綱を討ち引馬城主。
飯尾為清 (*)善六郎。元・西条吉良家臣。西遠江国人。飯尾賢連の弟。飯尾家は兄・賢連の代に大河内貞綱を討ち引馬城主となった。1516年連歌師・宗長と交流。蒲原氏に代わり駿河蒲原城主。
▽飯尾乗連 (*)善四郎・豊前守。西遠江国人。遠江引馬城。飯尾賢連の息。1560年今川氏真に所領を安堵される。娘婿に朝比奈信置。
▼飯尾連龍 (1531~1565)善四郎・豊前守。元・吉良家臣。西遠江国人。遠江引馬城。飯尾乗連の息。松井宗信、朝比奈信置は妹婿。1565年「遠州錯乱」に松井氏とともに反乱。1565年今川氏真に徳川への叛意ありとして誅殺される。<祖父・飯尾賢連は東条・吉良義堯の家臣として遠江支配に協力。>

▲大沢基房 (*)左衛門佐。元・吉良家臣。西遠江国人。1504年伊勢長氏の侵攻により降伏。今川家臣となる。今川氏親の家臣。遠江志津城主。小笠原春儀とともに籠城。
⇔△大沢基相 (*)治部少輔。元・吉良家臣。西遠江国人。遠江堀江城。1504年伊勢長氏の侵攻により降伏。今川家臣となる。
⇔大沢基胤 (1535~1614)左衛門佐。元・吉良家臣。西遠江国人。大沢基相の息。遠江堀江城。1568年徳川家康の「遠江乱入」に反抗。1569年徳川家に臣従。

浜名政明 (*)三郎・兵庫助・備中守。浜名城。西遠江国人。息に政国。
浜名重政 (*)三郎・肥前守。浜名政国の息。1568年徳川家の遠江侵攻により、今川氏真とともに没落。西遠江浜名城主。
熊谷直近 (*)(高力)。遠州豊根熊谷氏。遠州浜名郡の豪族。熊谷実長の息。兄に直安。宇利城主。子孫は徳川家臣の高力氏。
▽後藤真泰 (*)九郎。浜名氏家臣。日比沢城主。

⇔松下之綱 (1538~1598)加兵衛。元・南近江六角家臣。1555年三河に移住する。今川義元に出仕し、遠江国頭陀寺城主。木下秀吉を一時召抱えた。1583年遠江久野城主。
⇔▽松下清景 (*)源太郎・源左衛門。之綱の一門。井伊直親の室(奥山親朝の娘)の再婚者。連れ子を養子に迎える(のち井伊直政)。後に井伊家家老。養子に(中野)一定。
⇔孕石元泰 (*~1581)主水佑・和泉守。讃岐守・光尚の息。遠江国小笠郡の領主。のち武田家に臣従し、山県昌景配下。1580年遠江国高天神城の落城で自害。<今川家で人質生活を過ごしていた、徳川家康を苛めていた為、死を覚悟していたとも。>
⇔都築秀綱 (*)惣左衛門。元・今川家臣。遠江国の豪族。秀景の息。碧海郡坂左右城主。1566年今川氏真から所領を安堵される。1568年戸田忠次に降服臣従。本多忠勝与力。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1575年「長篠合戦」従軍。息に為政。


 遠江 譜代家老衆
(西遠江・外様国人衆) 井伊谷、柿本、引馬、堀江、作久、宇津山城。 斯波家臣・井伊家を弾圧。新野家をとりこむ。直平は斯波義達とともに敗北。1536年堀越今川氏と結んで駿河今川に反抗。
井伊直宗 (*~1554)井伊直平の息。三河「田原城の攻略」に戦死。息に直盛。
井伊直満 (*~1545)彦次郎・信濃守。井伊直平の息(三男)。井伊直宗の弟。1545年井伊家老・小野道高の讒言により今川義元に誅殺される。
井伊直義 (*~1545)平太郎・大膳亮。井伊直平の息(四男)。井伊直宗の弟。1545年小野道高の讒言により今川義元に誅殺される。
井伊直元 (*)刑部少輔。井伊直平の息(五男)。井伊直宗の弟。

▽井伊直盛 (1506~1560)虎松・信濃守。遠江国人。井伊谷城。国人領主、井伊直宗の息。父・直宗は1554年「三河田原城攻略」に戦死。1560年「桶狭間」に先陣として出陣、戦死。叔父・直満の後見で、従兄弟の直親が家督継承。
井伊直親 (1534~1562)肥後守。遠江国人。井伊直満の息。1544年信濃に逃亡。奥山親朝の娘婿となる。1560年惣領家の直盛が戦死したため、家督継承。1562年小野道好の讒言で、謀反発覚。徳川に通じた罪で、今川氏真の命で朝比奈泰朝に謀殺される。遺児(松下虎松)は新野親矩に養育され、井伊直政となる。
▽奥山親朝 (*)娘婿に井伊直親。
<井伊家は南朝勢力の子孫で、同じく南朝の津島社家・大橋氏と縁戚関係に有り、大橋家を通じて熱田千秋(藤原)、中根、河口、大河内、長田氏と縁が有ります。宗良親王を奉じた信濃の豪族、香坂・諏訪・仁木氏とも交流があったのでは。>

【井伊直虎】 (*~1582)女地頭。直盛の娘。井伊直親と婚約。井伊直政の養母。叔父に新野親矩。1563年飯尾連竜の謀略で曾祖父・井伊直平が死去。家督を継承するが、1568年小野道好に井伊谷城を奪われる。1570年飯尾氏を滅ぼし復帰。井伊直政を養育する。
▽中野直由 (*~1564)井伊家家老。今川氏の合戦に従軍。1564年新野親矩とともに戦死。
▽井伊直成 (*~1572)井伊家一門衆。井伊直虎を補佐。1572年武田軍の侵攻により、「仏坂の合戦」に戦死。井平城主。
(井伊谷三人衆)
⇔近藤康用 (1517~1588)勘助・平右衛門・信用。遠江国人。元・今川家家臣。井伊谷三人衆のひとり。1568年小野氏の専横を嫌う。鈴木重時、菅沼忠久とともに徳川家に従う。息に秀用。娘婿に中川忠重。
⇔菅沼忠久 (*~1582)次郎右衛門尉。遠江菅沼氏。菅沼元景の息。鈴木重時の娘婿。井伊家家臣。1568年小野氏の専横を嫌う。鈴木重時、近藤康用とともに徳川家に従う。井伊谷三人衆のひとり。
⇔鈴木重時 (1528~1569)三郎大夫。柿本城主。東三河の豪族。鈴木重勝の息。弟に出雲守*、重俊。1568年小野氏の専横を嫌う。1568年菅沼忠久、近藤康用とともに徳川家に従う。井伊谷三人衆のひとり。1569年大沢基胤の拠る「堀江城攻撃」に戦死。息に鈴木重好、重吉。<西三河・酒呑鈴木家の分家らしい。>

(小野家) 遠江国豊田郡小野郷の領主。
⇔小野* (*)兵庫助。今川家家臣。1517年斯波義達と同盟し抵抗した井伊直平の降伏後、井伊谷に派遣される。
⇔小野道高 (*)和泉守・政直。井伊家家老。今川氏と同盟。1544年井伊当主の直満・直義兄弟の謀反を今川義元に報告。直親は信濃国に逃亡する。
⇔▽小野道好 (*~1570)但馬守・政次。政直の息。井伊家家老。親今川派。女武将・井伊直虎を擁立。1568年井伊谷城を奪取。1570年同盟者・飯尾氏が滅亡し、復権した直虎の意向で処刑される。
▽小野朝直 (*~1560)玄蕃。政直の息。政次の弟。1560年「桶狭間の合戦」に従軍し戦死。息に朝之。



 三河国要所図:伊勢早瑞が大将として、今川勢の協力で幕府政所所司・伊勢氏の年貢を横領した松平氏(伊勢氏被官)を討伐することがあった。→北条氏綱・氏康の家臣団

 三河 譜代家老衆
<三河国 城持衆> (旗頭)小原鎮実 1549年松平広忠が暗殺される。
(東三河)
↑鵜殿長照 (*)今川。今川一門衆。三河中央、西郡城城主。息に氏長、氏次。
↑朝比奈元智 (*~1581)肥後守。遠江朝比奈家庶流。朝比奈下野守・時茂の息(3男)。兄に親孝、氏泰。天野景連に代り三河に派遣される。渥美郡の戸田氏の抑えとして三河国田原城。1560年「桶狭間の合戦」に従軍。
↓朝比奈輝勝 (*)筑前守。三河吉田城代、尾張大高城代を歴任。

↑○小原鎮実 (*~1568)大原資良・伊豆守・肥前守。三河の代官。三河吉田城主。1562年堀越氏の反乱鎮圧軍。1564年二連木城の戸田重貞を討つ。1567年宇津山城主の朝比奈真次を攻撃し追う。1568年徳川家康の「遠江乱入」に反抗。高天神城に脱出するが小笠原氏助により討たれる。遠江国宇津山城主。<何故、三河の旗頭に抜擢されたのか、大原でゆけば、太原雪斎の一門なのでしょうか・・。外様として掛川城の朝比奈氏に拒絶されるというので、今川家でも複雑な立場にあった武士の様です。>
▽小原鎮宗 (*)藤五郎。糟谷善兵衛と共に登屋ケ根城に籠城。<名前的には九州豊後大友氏の家臣の系列を引いている雰囲気です。>
▽増田* (*~1567)団右衛門。小原鎮実の家老。酒井忠次軍に敗北し戦死。
▽三浦義鎮 (*~1568)右衛門佐。小原鎮実の息。1568年小原鎮実と共に高天神城の小笠原氏助を頼るが離反され処刑される。
↑○天野景連 (*)三河に派遣される。のち帰還し、三河御番役は朝比奈元智が引き継ぐ。
↑○天野景泰 (*~1565)七郎・安芸守。天野家惣領。安芸守の息。天野元景の父。1546年今川義元の命で山中(医王山)城普請奉行。1546年義元の命で東三河攻略の先陣を務め、戸田宣成の「吉田城攻略」。1547年「田原城攻囲」。安祥城主。1565年飯尾連竜とともに今川家に反乱。
↑二俣持長 (*)(横地?)・扶長。遠江国人。二俣家は元・横地家家老職。今川家三河奉行人。<中遠江の二俣城周辺の豪族が派遣されたか。>
↑▽飯尾乗連 (*~1560)善四郎・豊前守。元・吉良家家臣。連龍の父。松井宗信、朝比奈信置は娘婿。今川家三河奉行人。遠江引馬城主。
▽飯尾連龍 (*)乗連の息。三河奉行。1560年桶狭間敗戦後、遠江に撤退。遠江引馬城主。
星野秋国 (*)三河衆。室は於富の方(大河内元綱養女)。<事績詳細不明。三河に星野郷あり、行明城を築城した星野家あり。>
菅沼定興 (*)藤十郎・定顕・興望・定望・(定房・貞房)。三河衆。室は於富の方(大河内元綱養女)。<田峯菅沼氏に定信の息に定房あり。>
粟生永信 (*)将監。三河額田郡の国人。
伊東元実 (*)今川家家臣。天文年間、三河吉田城御番役。
大河内正房 (*)三河衆。駿府に屋敷を持つ。於富の方(大河内元綱養女)の老後を世話する。<あれほど今川に敵対した大河内が駿河にいるのも変です。菅沼が大河内を名乗り今川に出仕したのでしょうか。菅沼は富永も名乗っていますし、最初の頃は姓に執着がなさそうです。一門が多いからでしょうか。とゆうか、養子に送り込んで家を奪ってから菅沼姓に復帰するパターンが多いかもしれません。>


 三河 譜代家老衆
(西三河) 義元直参。
山田景隆 (*~1560)新右衛門。岡崎城主。今川家三河奉行人。東条松平忠茂を後援。織田家に近い関係の桜井・大給松平家を圧迫。<三河の山田氏?尾張の山田氏とは対立関係か。織田信忠の弓衆頭に山田氏あり。>
▽糟谷* (*)善兵衛・備前。岡崎城代。1560年桶狭間敗戦後、遠江に撤退。登屋ケ根城主。
三浦義保 (*)岡崎城代。
長田重元 (*)喜八郎。今川義元の家臣。三河国吉良大浜、羽城城主。1547年織田信長の武者初め(初陣)の標的とされる。<先祖はあの長田氏らしいです。>
大村綱次 (*)弥三郎。1549年東条吉良義安討伐に軍功。
鈴木重勝 (1503~1595)平左衛門尉。1563年今川氏真から山中・大野郷の軍功を賞される。1568年宇利荘吉田郷に進出。山吉田白倉山城主。息に重時。<井伊谷三人衆につながる鈴木氏。><1563年頃でも徳川家康さんの支配は浸透していない様子です。>


 三河 外様国人衆<山家三方衆> <前代に野田の富永忠康は吉良家家老。>
⇔▽菅沼定盈 (1543~1604)(土岐・富永)・野田菅沼定盈・新八郎・織部正・貞満。三河国野田城。東三河の豪族。菅沼定村の息。桜井家次の娘婿。1561年徳川家康に従う。遠江井伊谷城攻略に軍功。1570年「味方ケ原の合戦」後に武田軍の捕虜となる。息に定仍。<前代に野田の大宮司・富永家を継承。武門の富永家、富永忠康は吉良家家老。>
菅沼貞景 (*)長篠貞景・定景。長篠城主。東三河の豪族。
菅沼正貞 (*)長篠正貞・新九郎・伊賀守・正定。長篠城主。
⇔菅沼定忠 (*~1582)田峯菅沼・貞忠。田峯城主。菅沼惣領家。東三河の豪族。菅沼定吉の息。1561年徳川家康に出仕。1571年武田信玄に離反。のち武田勝頼に降伏。1575年「長篠の合戦」に敗戦。失領。1576年田峯城を奪取。信濃にて牧野康成に討たれる。

設楽貞直 (*)(菅沼・富永)・定直。設楽城主。東三河の豪族。定忠の叔父。1575年田峯城留守居。今泉道善とともに謀反を起し定忠を追放。1576年定忠に奪回される。
設楽貞通 (1534~1596)(菅沼・富永)・小四郎・甚三郎・越中守・定通。東三河の設楽郡の豪族。設楽貞重の息。元・今川家家臣。1563年三河一向一揆に家康方。親武田の一門・清政と抗争。1573年「野田城籠城戦」に軍功。1575年「長篠の合戦」に従軍。川路城主。<親家康派。>
⇔▽滝川助義 (*)四郎・源右衛門・定雄・貞雄・資義。設楽貞通家臣。助近の息。のち旧縁により滝川一益家臣。<瀧川一益と同じ伴氏とすれば、設楽富永・野田冨永の伴氏とも一族となる。>

▲奥平貞昌 (*)監物・定昌。今川氏親の家臣。斯波家と抗争。作手亀山城主。氏親の意向で三嶽城主。
⇔奥平定勝 (*)作手・仙千代・貞勝。三河中央国人。亀山城主。親今川派の奥平貞能の父。1546年織田家との合戦に軍功。織田信長の家督相続以降は親織田派(定勝は一貫して今川派で、弟を中心とする一族が織田に離反していたとも)。1559年鵜殿長照の為に尾張大高城に兵糧を搬入。1569年武田家に従う。<織田信長の勢力が、遠山景任を通じて奥三河まで展開していた様子です。> 武田信玄の家臣団TOP
▽日近貞直 (*)藤川・久兵衛・貞友。親今川派。1546年奥平貞能とともに織田家との合戦に軍功。1547年甥・奥平貞能とともに医王山合戦に軍功。1556年東条松平忠茂と抗争し勝利。日近城主。
⇔▽奥平貞能 (1537~1598)作手・仙千代・定能。三河中央国人。田代城主。貞勝の息。親今川派。1547年叔父・日近貞直とともに医王山合戦に軍功。父とともに一時武田家に従う。のち徳川家に出仕。


<足利一門・三河外様国人・三河守護家>  吉良家が今川家に圧倒され、家臣団は解体。1536年今川家内紛。家督争い、「花倉の乱」。

⇔吉良義安 (*~1554)東条・上野介・義康。伊勢・東条・吉良持広の養子。松平清康の妹婿。1554年今川義元に攻略され降服。<父の代では、遠江まで勢力を伸ばし飯尾・大河内家を束ねていたようです。>

⇔↓吉良義昭 (*~1563)東条。元・西尾城主。1554年兄・義安が今川家の捕虜となり吉良家督。当初、親今川派。今川義元との同盟者。1556年尾張の斯波義銀・織田信長と結び今川家に謀反。今川軍に西尾城を奪われる。1560年「桶狭間」にて義元戦死。1561年三河統一戦に松平元康に「藤波畷の合戦」に敗北。1563年三河一向一揆に旗頭として徳川家康と対立。東条城主。<1572年味方ケ原に従軍し戦死する吉良氏あり。後裔か。>
↓▽富永忠元 (1537~1561)伴・五郎・忠元。東条吉良義昭の家老職。富永忠安(忠康)の息。1561年上野城主・深溝松平好景を討つ。深溝松平伊忠と抗争。1561年「西尾城の攻防」に敗戦。続いて東条城表「藤波畷の合戦」に本多広孝・酒井正親・小笠原長常・松井忠次に討たれる。弟・徳玄も戦死。室(牟呂)城主。25歳。<吉良家の勇将。><野田社家の富永家と、武門の富永家がどこで分かれたのか気になるところです。>

⇔▽↓荒川義広 (*)(吉良義広)・甲斐守・義弘・頼持・義等・義虎・頼時。八面城主。東条吉良一門。吉良持清の息。兄に吉良持広。酒井忠尚の妹婿。徳川家康の妹婿。1539年親今川派として兄・吉良持広(義堯の息・義郷と混同か?)とその家老・富永忠安(忠康)を討つ。1563年三河一向一揆に与し反・徳川家康。1564年三河を出奔。河内国に隠居。<隣国の尾張でも荒川一族がたくさん登場してきます。1556年柴田勝家とともに三河に攻め込んだ荒川頼季も、三河に影響力を持つ荒川氏の一族でしょう。>


 三河外様国人(守護・細川家の守護代)
(戸田家) 田原・二連木。東三河渥美半島の豪族。三河細川家の旧臣。 松平信光の娘婿に上野城・戸田泰光あり。
戸田氏は細川家の守護代として、一色家の守護代の牧野氏と抗争していたのでは。
(田原)
▲戸田憲光 (*)田原戸田氏惣領。宗光の息。兄に二連木の政光。1499年父の死により家督。今川氏親の臣。東三河国人。1505年今川氏親の助力で、牧野氏の吉田(今橋)城を攻略。<東三河では牧野、戸田の両雄で凌ぎあいがあったようです。>

(吉田)
△戸田宣成 (*~1546)吉田・金四郎。東三河国人。1506年今川氏親に従い吉田城攻略。吉田(今橋)在番となる。1546年今川義元から離反し織田方、天野景泰に攻撃される。野々山甚九郎が戸田氏から離反し吉田城落城。吉田(今橋)城主。
▽大崎* (*~1546)戸田・橘七郎・金七郎。戸田宣成と同一人物とも。

(二連木)
戸田康光 (*)政光の息。弟に光忠。1541年家督。息に宣光。一門の宣成が織田家に離反した為、今川氏との関係が悪化。息に宣光。二連木城主。
▽戸田光忠 (*)兄に康光。息に忠次。
戸田宣光 (*~1560)康光の息。息に重貞、忠重。
▽戸田忠次 (*)三河一揆に一揆方。のち家康方。
⇔↓戸田重貞 (*~1564)二連木・主殿介。三河国衆。東三河国人。今川義元の臣。宣光の息(長男)。1564年今川家から離反。徳川家に臣従。二連木城。三河国吉田城の攻防、直後に死去。弟・忠重が相続。孫に康長。のちに松平準一門家。二連木城主。
▽戸田忠重 (*)重貞の弟。戸田康光(または重貞)の跡職を相続。
⇔↓戸田康重 (*)二連木。1562年今川氏真の命で牧野保成とともに酒井忠次軍を撃退。

(尾張落合)
戸田家光 (*)田原・孫次郎。松平一門。息に直光。尾張落合城主。<広忠の正月席次に現れる戸田氏か。>
⇔戸田直光 (*)家光の息。家光の跡職を相続。桜井松平氏与力。1558年品野城・桜井家次、山崎城・竹村長方と抗争。1560年藤井松平信一とともに品野城詰め。織田信長に敗北し三河に出奔する。息に直頼。尾張落合城主。
⇔戸田直頼 (*)直光の跡職を相続。桜井松平氏から独立。のち家康家臣。尾張落合城主。

 三河国守護細川氏の遺臣達が三河に散在し割拠。堺の商人たちと親しい戸田氏は元々、細川家の被官として太平洋沿岸の交易に深く関わっていた旧知の仲なのかもしれませんね。
 三河外様国人(守護・一色家の守護代)
(牧野家)東三河の豪族。戸田氏と抗争。<元は西郷家とともに一色氏・仁木氏の被官らしい。>
牧野保成 (*)今川義元の臣。1546年太原雪斎から対織田家の軍備について指示される。1562年氏真の命で戸田康重とともに酒井忠次軍を撃退するとも。
牧野* (*)牛久保・民部丞。東三河国人。牛久保城主。1556年織田信長に通じ、所領を没収追放される。
牧野貞成 (*~1566)右馬允。1556年織田信長に通じる。牛久保城主。<民部丞と同一人物?>
○牧野成定 (1525~*)牛久保・西尾・新次郎・右馬允・民部丞・政定・成貞。三河国衆。東三河国人。吉田城主・牧野出羽の家老。牛久保城主。牧野氏成の息。牧野貞成の養子。今川義元の命で家督継承。親今川派。西条吉良・西尾城主。吉良義昭の叛乱により、今川義元から城主に抜擢される。西三河国人衆。1560年「桶狭間合戦」の敗戦により失領。1566年徳川家康に降伏。酒井軍団に所属。西尾城主。<1582年までは織田信長の傘下、徳川に与力として付属していたのかもしれません。>
⇔↓○▽牧野康成 (1555~1609)新次郎・貞成・成宗。父・成定(政定)は今川義元の臣。東三河国衆。1566年に臣従。家康の「康」の字を拝領。酒井忠次の娘婿。掛川城攻略に先陣。牛久保城主。今川氏真の掛川城を攻略する際に先陣を務める。1575年「長篠合戦」従軍。酒井忠次の迂回軍所属。のち駿河衆、長窪城主。1590年「小田原攻め」に松平康重とともに先陣を勤める。<1582年織田家の武将として駿河の前線に送られた様子です。>

▽稲垣長茂 (1539~1612)藤助・平右衛門。稲垣重宗の息。牧野成定の家老。1565年成定に従い徳川家康に出仕。幼い牧野康成に代わり、牧野軍陣代。1575年遠江国「諏訪原城攻略」。諏訪原城主。<陪臣から直参へ。>


 三河外様国人(守護仁木家の守護代)
西三河守護代(岡崎・西郷家)→大草松平 元・三河守護代の家系<元は西郷家とともに一色氏・仁木氏の被官らしい。>。

西郷正員 (*~1551)弾正左衛門。三河守護代家。今川家臣。松平清康と同盟。三河八名郡の宇利城攻囲に従軍。息に孫二郎・照員、十郎左衛門・正忠、内蔵介・俊員。<野田大宮司・冨永氏の家督相続問題に介入するか。>
▲西郷正勝 (*~1562)孫三郎・弾正左衛門尉。今川義元の臣。西郷正員の息。菅沼定村の姉婿。1548年「小豆坂の合戦」に織田軍に横槍の軍功。今川義元から三河国内で三千貫の恩賞。1560年息・清員を人質に出し徳川家康に従う。1562年宇津山朝比奈氏(朝比奈泰長(泰充))と合戦し敗北、戦死。息に正元、清員、勝茂、信正。大草松平家と縁を結ぶ。娘婿に戸塚忠春。甥に野田菅沼定盈。<元・吉良家家臣で今川に離反し義元の家臣となっていた国人領主でしょうか。><大草平七は三河一向一揆の旗頭。>
△西郷正元 (*~1562)西郷正勝の息。母は野田菅沼定村の姉。1562年宇津山朝比奈氏(朝比奈泰長(泰充))と合戦し敗北、父とともに戦死。従兄弟に正好。息に義勝。<息子の義勝の奥さんは家康の側室の西郷局となる。>
▲西郷信貞 (*~*1525)(松平昌安)・弾正左衛門・信定。西三河豪族。西郷弾正・頼嗣の息。大草松平光重の息(養子?)。松平親貞の跡職を継承し岡崎城主。1524年松平清康・大久保忠茂に山中城を奪取される。その後、岡崎城を松平清康(家康祖父)に奪取される。松平清康を娘婿に迎え和睦。大草に隠居。息に昌久、娘婿に水野忠政。<大草松平昌安と同一人物か?>

▽大草松平昌久 (*~*1563)西郷昌久・平七郎・七郎。西郷頼嗣の息。元・岡崎城主。大草松平昌安の養子。父・昌安は松平清康に敗北。松平清康に居城を奪取される。吉良義昭に仕え、1563年三河一向一揆の旗頭。松平宗家の家康と対立。国外に出奔する。息・正親は今川家に出仕。大草城主。義兄弟は松平清康、水野忠政。<西郷一門は元々岡崎の領主。徳川家とは宿敵か。>
▽大草松平正親 (1512~1560)西郷・大草松平・善四郎・善兵衛・昌親。今川義元の家臣。昌久の息。1560年「桶狭間の合戦」に従軍戦死。息に康安。<大草松平三光の息とも。養子として正親の兄・三光の跡を相続という意味か?>

西郷俊員 (*~1560)内蔵介・俊雄。西郷正員の息。西郷家分流。1560年「桶狭間の合戦」に従軍戦死。<子孫は大草松平家に吸収される。>
西郷清員 (1533~1594)孫九郎・吉員。西郷正勝の息。酒井忠次の妹婿。一時、徳川家人質。兄・正元の戦死により、義勝を後見。陣代として活躍。酒井軍団に所属。弟に正時。息に家員、員重、守勝。
▽西郷家員 (*)孫九郎・弾正左衛門・員好・正員。八名郡西川城主。西郷清員の息。本家の義勝の養子。酒井軍団に所属。1571年武田家との合戦により惣領・義勝の戦死。1571年家督相続。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。

<親今川派 松平一門> 大給・(桜井)・五井・滝脇・東条・竹谷。
松平広忠 (1526~1549)千松丸・仙千代・次郎三郎。親今川(東条吉良)派。水野忠政の婿。1535年父・清康急死。桜井松平信定に追われる。家老・阿部定吉に補佐され伊勢に落ちる。東条・吉良持広の協力で縁戚の吉良家老・三河牟呂城主・富永忠安(忠康)に保護される。1537年今川義元の協力で岡崎城奪取。1543年水野信元が織田に臣従したため水野氏の妻を離縁。1545年9月三河「安祥城攻囲」、織田援軍に敗戦。1547年田原城主・戸田康光、政直親子(宗光、尭光親子とも)の謀略で竹千代が織田信秀に奪取される。1548年織田方の三河山中城主・松平重弘を攻撃。のち三河広瀬城主・佐久間全孝の刺客・岩松八弥に殺害される。24歳。息に元信(徳川家康)。<東条・吉良持広の家老・富永忠安(忠康)に保護される。>
<松平家従来の序列> 広忠期(『形原松平記』)
今川支配時代・広忠期の岡崎城正月参賀の席次(親今川義元派)。桜井松平信定の没年から1538年以前の家格の事と考えられます。
①鵜殿康孝 (*~1542)見次・(八郎三郎は誤リ?)・十郎三郎。信忠の息。清康、三木松平信孝の弟。息に康定。
②西郷定貞 (*)孫九郎。<清員の父・正勝と同一人物か。もしくは叔父の照員か。清員が叔父・照員の養子ならば名乗りは孫九郎となるか。> 
③形原松平家広 (*)又七郎。息に家忠(1548~1582)。
④大給松平親乗 (1515~1577)和泉守・源次郎。乗勝の息。母は信忠の娘。桜井松平信定の娘婿。息に真乗。
⑤桜井松平信定 (*~1538)次郎・与一・与市・内膳。長親の息。のち義春の息・定忠と席次争い。織田信定の娘婿。息に清定。娘婿に大給親乗、水野信元、長沢康忠、織田信光。<1529年尾張品野城を坂井秀忠から奪取。>
⑥東条松平義春 (*~1538)甚大郎・右京亮。長親の息。息に定忠、忠茂。
⑦長沢松平政忠 (*~1560)源七郎。息に康忠(1545~1603)。
⑧竹谷松平親善 (1485~1531)与次郎・与二郎・玄蕃允。守親の息。今川氏親の娘婿。息に清善(1505~1587)。<今川家の準一門に登用されるが順位は低い。>
⑨五井松平景忠 (*)外記。息に伊昌(1560~1601)。
⑩深溝松平好景 (1517~1556*1561)又八郎・大炊助。息に伊忠(1537~1575)、家忠(1555~1560)。
⑪ 親今川派の戸田氏
▽戸田康長 (1562~1633)孫六郎・丹波守。忠重の息。1567年父の死により家督。後見に戸田吉国。二連木城主。<世代的に無理なので数代前の丹波守のことか。本来は落合城の戸田氏か。>
≪個人的感想≫ 大給松平と滝脇松平の抗争は、今川時代からの家格の上下関係の争いか。


<親今川派 松平一門> 五井・滝脇・東条。大給・桜井は織田方から転じ直参(直接の監視下)。 徳川家康の軍団
一色家の守護代・東条(武田)国氏が反乱を起こす事があったそうですが、相次いで各豪族が自称する「東条」の姓は何か特別な意味があるかもしれませんね。
東条松平忠茂 (*~1556)松平・甚太郎。松平義春の息。義元直属。1551年兄・甚二郎(忠吉?)が今川義元に反逆。義元に擁立され家督継承。義元の将・松井忠次、山内助左衛門が与力に付属される。1552年大給松平親乗と抗争。1556年三河「日近城攻囲」に戦死。側近に平岩元重。息に家忠。
▽東条・津平松井忠次 (1521~1581)(松平康親)・左近将監。義元直属。東条松平陣代。幡豆郡津平城主。吉良氏追放後は東条城主。酒井軍団に所属。1572年「味方ヶ原の合戦」に従軍。1575年「長篠合戦」従軍。酒井忠次の迂回軍所属。のち家康の命で康親と名乗る。<陪臣から直参へ抜擢か、それとも今川家から派遣されたか。>
▽平岩元重 (*)権大夫。東条松平家臣。松平忠茂・家忠の家老。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1575年「長篠合戦」従軍。酒井忠次の迂回軍所属。

⇔↓桜井松平家次 (*~1563)監物丞。桜井松平嫡流。松平清定の息。義元直属。1545年松平広忠に敗北。与力に酒井忠尚、榊原長政。1553年東条松平忠茂と抗争。1556年今川義元は東条家を厚遇。1558年織田方の山崎城・竹村長方と抗争。1560年与力に藤井松平信一、落合城主・戸田直光を従え織田方と抗争。1560年「大高城救援」に従軍。1563年三河一向一揆に一向宗側として叛乱。息に忠正、忠吉。娘婿に菅沼定盈。<桜井松平は代々、宗家に対抗する強力な分家。><福釜家とは因縁の仲。><今川義元の松平分裂策か。>
↓大給松平親乗 (1515~1577)源次郎・和泉守。義元直属。大給松平嫡流。加茂郡大給を領する。松平乗勝の息。母は松平清康の養女(信忠娘)。桜井信定の娘婿。1530年松平清康に従い「宇利城攻略」に先陣の将。1535年「守山崩れ」に長沢松平とともに親・信定派。1552年東条松平忠茂と合戦。1555年今川義元の命で蟹江城を攻略。1556年織田方の滝脇松平乗清と合戦。石川軍団に配属。息に真乗(1553~1582)。<今川義元の松平分裂策か。>

松平維信 (*~1560)摂津守。1560年「桶狭間の合戦」に従軍戦死。
松平親将 (*~1560)兵部。1560年「桶狭間の合戦」に従軍戦死。
長沢松平政忠 (*~1560)上野介。松平親忠の息。松平清康の娘婿。1560年「桶狭間の合戦」に従軍し、父・親忠とともに戦死。息に康忠。<吉良家家老職・大河内氏と縁が深い。>
長沢松平忠良 (*~1560)五郎兵衛。政忠の弟。1560年「桶狭間の合戦」に従軍戦死。<大河内秀綱の息・正綱が長沢松平の養子に入り、子孫に松平信綱を輩出。>
滝脇松平宗次 (*~1560)喜平次。1560年「桶狭間の合戦」に従軍戦死。<松平家を分裂させて格個に直参化することで勢力を弱める動きだったのでしょう。><大給松平とは犬猿の仲。>
能見松平重吉(1498~1580)二郎右衛門。重親の息。親長の娘婿。1558年今川家に謀反した鈴木重辰の寺部城を攻略。三河一向一揆に酒井忠尚と抗争。家康嫡男・信康の具足親。息に重利、重勝。娘婿に石川康正、倉橋政範。
▽能見松平重利 (*~1560)庄右衛門。能見松平嫡流。1558年の松平元康初陣に従軍。1560年「桶狭間の合戦」に従軍。1560年丸根砦攻略に従軍。息に昌利。
高力正重 (*~1560)1560年「桶狭間の合戦」に従軍戦死。
松平家広 (*)1560年「桶狭間の合戦」に従軍。
松平親重 (*~1560)1560年「桶狭間の合戦」に従軍戦死。


 拠点白抜きが織田家城砦。紫染めが吉良一揆。
ピンク部分=織田領(1561年三河侵攻以降)。水色部分=荒川・吉良領(1563年一揆領域)。黄緑部分=松平領。オレンジ色部分は大宮司・富永家領。
薄緑・黄色部分は鵜殿・牧野・西郷などの国人領主。
(鈴木党) 元守護・中条家の被官。
足助重直 (*~1584)鈴木重直・喜三郎。足助・真弓山城主。松平清康の頃から岡崎松平家臣。1564年今川家から離反。1571年武田軍の攻勢に居城を奪われる。岡崎信康の後援で真弓山城を回復。石川軍団に配属。<井伊谷三人衆にも鈴木氏あり。>
⇔鈴木重辰 (*)日向守。高橋荘を巡り松平親忠と合戦。今川配下、のち織田家臣。日向守・重辰は清康と抗争。1558年重辰(重教)は今川家から離反。1558年義元の命を受けた能見松平重吉・岡崎松平元康の攻撃を受ける。1560年「桶狭間」の後に松平家と抗争。寺部城主。1566年佐久間信盛の攻撃で降伏臣従。のち石川軍団に配属。1572年「味方ヶ原の合戦」に奮戦。<重辰と重教は同一人物でしょうか、清康の代からなので親子のような・・。><西加茂郡の領主は、1582年までは織田信長に付属していたのかもしれません。>
⇔▽鈴木重教 (*~*1567)寺部重教。1566年佐久間信盛の攻撃で駿府に落ちる。のち駿河駿府にて戦死。寺部城主。
○青山忠門 (*~1572)喜大夫・忠義。三河青山氏惣領家。青山忠世の息。松平広忠家臣。今川義元の三河支配では今川直参。1560年「桶狭間合戦」後は徳川家康に従う。1563年三河一向一揆に岡崎城を防衛。石川軍団に配属。1572年武田軍の侵入に岩津村にて戦死。息の忠成は江戸町奉行。<織田の宿老の青山家となにかつながりが?>

 


尾張 譜代家老衆
<尾張国 城持衆>
↑今川氏豊 (*~*1540)那古屋氏豊。今川義元の弟。今川氏親の息(六男)。尾張那古屋城主。1515年今川家に降伏した斯波義達の娘婿。斯波義統の義兄弟。1536年今川家の家督争い勃発「花倉の乱」。1540年親交のあった織田信秀に居城を奪取される。駿河に帰国。
↑戸部政直 (*~1560)新左衛門。今川義元の妹婿。戸部城主。1557~1560年鳴海城主・山口教継とともに今川義元に忠誠を疑われ誅殺される。<山口教継と同一人物とも。尾張分郡守護代・一色系の人物か。><戸部一色城は一色愛智入道という人物の居城らしい。>
↓三浦義就 (*~1560)左馬助・左馬介。駿河旗頭。1551年頃から山口氏の要請により、岡部・浅井・飯尾・葛山とともに五将で尾張に出征。1551年尾張笠寺城城主。「桶狭間」に従軍。
↑⇔○岡部元信 (*~1581)小次郎・五郎兵衛・丹波守・長教・興行・真幸・元綱。岡部左京進・親綱の息。岡部正綱の親戚。1559年山口氏に代わり鳴海入城。最前線の尾張鳴海城主。1560年「桶狭間の合戦」のち義元の首級を預かる。撤兵の際に水野氏の「刈谷城攻略」。1569年武田家に臣従。駿河先方衆、遠江高天神城主となり、1581年織田・徳川軍と敢闘し戦死。息に真尭、元昌。尾張鳴海城主。
↓朝比奈輝勝 (*)筑前守。三河吉田城代、尾張大高城代を歴任。

(尾張国人衆) 1535年松平清康の尾張乱入。那古屋を強襲した織田信秀の鎮圧の為か。
丹羽氏清 (*)若狭守。氏興の息。本郷城丹羽家。もと折戸城丹羽氏。弟に本郷城主の左馬允。叔父に藤島城主・丹羽右京亮。のち1535年松平清康の「守山崩れ」後に岩崎城の荒川頼宗*から城を奪取。藤島城に息子・氏織を入れる。息に氏織。岩崎城主。<清康が荒川家から奪った岩崎城を、清康の死後に松平勢から奪取とも。>
丹羽氏職 (1497~1565)一色・源六・勘助・右近大夫・若狭守。岩崎丹羽家。氏清の息。弟に四郎左衛門。室は織田信秀の娘、織田信長の義兄弟。1535年松平清康に協力し尾張・織田信秀攻め。1541年から庶家の藤島城主・丹羽氏秀と抗争。1551年丹羽氏秀の後詰、織田信長軍を岩崎表「横山の合戦」に撃破。岩崎城主。のち家康と同盟。織田徳川清洲同盟後、信長に従う。岩崎城主。息に氏勝、上田近次、氏国。
<もと西条吉良家家臣でしょうか。>
▽丹羽氏勝 (1523~1601)一色・右近大夫・氏定・(氏貞)。岩崎丹羽家。氏織の息。1551年父・氏職とともに織田信長軍を岩崎表「横山の合戦」に撃破。守山城主・織田信次家老。1555年6月織田信次なき守山城に籠城し織田信勝軍を退ける。1556年織田信時なき守山城に籠城する。1560年徳川家に人質。度々信長と対立するが、織田徳川清洲同盟後、信長に従う。臣従後は勇猛さを買われ信長馬廻衆。1569年伊勢北畠氏の「大河内城攻囲」、1570年「姉川の合戦」、「野田・福島の合戦」に従軍。1580尾張愛知郡岩崎城主。1580年近江伊吹山(薬草園)を監督する。伊吹山を訪問した信長に家臣の落ち度があり、信長に過去の失態とともに責められ追放。のち家康と同盟。娘婿に長久手城主・加藤景常。息に氏次、氏重。
▽丹羽氏国 (*)四郎兵衛。氏織の息。息に氏政。
▽上田近次 (*)清兵衛。氏織の息。兄に氏次。弟に氏国。
▽丹羽茂昌 (*)岩崎丹羽家家老。1551年代に鉄砲隊30人を率いる。



山口重俊 (*)大内・多々良・茂俊。今川方の戸部新左衛門・政直を攻撃し戦死。尾張寺部城主。山口重勝(1547~1595)の父。孫に山口重政。
山口教継 (*~1560)左馬助・義継。織田家の侍大将。織田信秀の郎党。信長が家督相続した時点で今川家に臣従する。鳴海城主。離反し大高城、沓掛城を攻略。のち今川義元に忠誠を疑われ誅殺される。息に山口教吉。<義元から「義」の字を与えられたとも。>
大屋秋重 (*~*1532)右京亮。尾張の豪族・今川氏豊家臣。織田信秀の那古屋城奪取の混乱に、信秀により攻略される。尾張押切城主。<先祖は頼朝に従い鎌倉時代、尾張守護家。>



 


<1549年 今川軍「太原雪斎」の軍事編成>
①三河安祥城攻略戦の陣立て
一番、岡崎衆(松平玄番、松平主殿)。
二番、朝比奈。(遠江掛川)
三番、太原雪斎。
搦手、一番、鵜殿。
二番、岡部。
三番、三浦。
四番、葛山。
北口、飯尾。(遠江曳馬)
別働隊、旗頭、松井。

<雪斎軍先手=従軍・岡崎衆> 
大久保忠俊 (*)新八郎。岡崎衆。1549年太原雪斎に従い織田信広の拠点、三河国「安祥城攻略戦」に従軍。
阿部定吉 (*)大蔵。岡崎衆。1549年太原雪斎に従い織田信広の拠点、三河国「安祥城攻略戦」に従軍。
本多忠高 (*~1549)平八郎。岡崎衆。1549年太原雪斎に従い織田信広の拠点、三河国「安祥城攻略戦」に従軍。
大久保忠勝 (*)岡崎衆。1549年太原雪斎に従い織田信広の拠点、三河国「安祥城攻略戦」に従軍。
榊原* (*~1549)藤兵衛。岡崎衆。1549年太原雪斎に従い織田信広の拠点、三河国「安祥城攻略戦」に従軍。
山下綱吉 (*~1549)弥蔵。岡崎衆。1549年太原雪斎に従い織田信広の拠点、三河国「安祥城攻略戦」に従軍。
平井勝吉 (*~1549)与三右衛門。岡崎衆。1549年太原雪斎に従い織田信広の拠点、三河国「安祥城攻略戦」に従軍。

弓気多昌利 (*)七郎次郎。1549年「安祥城表の合戦」、「上野端城の攻略」に軍功。


1560年「桶狭間の合戦」に討死。佐久間家の西三河再進出。
下社の柴田家は岩崎丹羽の抑え。落合の戸田氏は品野城にて離反した桜井松平家次の抑え。
 今川義元の軍団の目的が、那古屋城の奪還(氏豊の拠点奪還)、清州城の攻囲(信長討滅)にあるとすれば、
松平清康の尾張侵入の時のように守山城から落として那古屋に行くルートもあったことでしょう。そうならなかったのは、
 信長が尾張の北側から南側まで分散して兵力を配置し、今川軍団が横に大きく広がるようにして、間延びした横線陣形に誘導していたのでしょう。
今川軍的には大軍をもってして、尾張国境の全面的なルートからでの殲滅戦により、清州からの後詰がどこへも身動きできない状況に追い込みたかったのでは。
 ところが、信長が精鋭を点の状態にして、油断した今川本陣旗本の点との直接対決に持ち込んだのではないでしょうか。
今川軍を誘導して、誘導して、本隊決戦に持ち込んだ時点で、旗元馬廻衆を鍛え上げた信長の勝利が確定していたのではないでしょうか。
戦略・戦術のかみあった「必勝」の状況を作り出した感じは、毛利元就の「厳島合戦」を模倣しているように思えます。
さすが信長様ではないでしょうか(2016.2.14)。 


<1560年 今川義元の軍団 侍大将(旗本)衆>
堀越* (*)義人。「桶狭間」に従軍。
*江尻親氏 (*~1560)民部少輔。今川家一門衆。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。
岡部長定 (*~1560)甲斐守。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。左備侍大将。
藤枝氏秋 (*~1560)伊賀守。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。前備侍大将。
朝比奈秀詮 (*~1560)主計介。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。先陣侍大将。
斎藤利澄 (*~1560)掃部介。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。<今川家の家老職、斎藤家の末流か。>
富塚元繁 (*~1560)修理亮。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。
石原康盛 (*~1560)石川・新左衛門。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。
嶋田将近 (*~1560)左近将監・左京進。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。
澤田忠頼 (*~1560)沢田・長門守。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。
岡崎忠実 (*~1560)十郎兵衛・十兵衛。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。<松平一門の親今川派、岡崎城代か。>
金井忠宗 (*~1560)主馬介。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。
長瀬長行 (*~1560)瀬兵衛・吉兵衛。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。<長谷部?>
富永氏繁 (*~1560)設楽・伯耆守。遠江の富永氏。1560年「桶狭間の合戦」に戦死。遠江国相良城主。<三河の豪族、冨永氏の一門か。相良氏が元々居住していた相良城。肥後に転封後は冨永氏のものとなった様子。相良氏は南朝の雄。遠江の南朝勢力とも依然繋がりがあったのでは。九州に富永氏が見られるのも鎌倉時代からの縁か。><後北条氏に従い関東の「青備え」となる富永氏も、伊豆土肥の富永氏も、古代大伴氏からの何か繋がりがあるのでしょう。>


<義元時代・尾張平定軍>
↑▽鵜殿長照 (*~1562)(今川長照)。尾張大高城主。鵜殿長持の息。今川義元の妹婿。1560年徳川家康が兵糧入れに入場。弟に鵜殿長忠。

(竹谷)信光流
△竹谷松平清善 (1505~1587)(今川清善・鵜殿)・与次郎・玄蕃允・備後守。親善の息。母は今川氏親の娘。鵜殿長照の異父弟。形原松平家広の娘婿。宝飯郡竹谷城主。1560年「桶狭間の合戦」に従軍。今川の敗北により家康に臣従。今川家に人質(娘)が殺害される。鵜殿長照の「上郷城攻略」。1563年三河一向一揆に隠居。1572年「味方ケ原合戦」に66歳で従軍。酒井軍団に所属。息に清宗。娘婿に石川家成。<親善の室は今川氏親の娘。>
↓○竹谷松平清宗 (1538~1606)(今川清宗・鵜殿)・玄蕃充・備後守。松平清善の息。母は形原松平家広の娘。深溝松平好景の娘婿。宝飯郡竹谷城主。酒井軍団に所属。1563年三河一向一揆に家康方。家督相続。吉田城、掛川城攻略に軍功。遠江宇津山城城主。1575年「長篠合戦」従軍。酒井忠次の迂回軍所属。のち1582年駿河衆興国寺城。息に家清。
↑▽*竹谷松平家清 (1566~1610)(今川家清・鵜殿)・(徳川)・与二郎・玄蕃頭。1581年家康の異父妹と婚姻。側室に久松氏。二重に家康と縁戚関係を結ぶ。酒井軍団に所属。のち駿河衆興国寺城。1582年甲斐平定戦では北条軍を勝沼に撃退する軍功。長久手戦では北条軍の抑えとして国境を守備する。息に忠清、清昌。

(駿河・遠江衆)
↓三浦義就 (*~1560)左馬助・左馬介。駿河旗頭。1551年頃から山口氏の要請により、岡部・浅井・飯尾・葛山とともに五将で尾張に出征。1551年尾張笠寺城城主。「桶狭間」に従軍。
朝比奈泰秀 (*)1548年搦手大将として尾張侵攻「第二次小豆坂の合戦」。
↑朝比奈泰朝 (1538~*)備中守・左京亮。遠江朝比奈惣領。掛川城主・朝比奈泰能の息。今川氏真の側近。1560年「鷲津砦攻略」。織田秀敏、飯尾定宗を討つ。
↓朝比奈輝勝 (*)筑前守。三河吉田城代、尾張大高城代を歴任。
⇔↑○岡部元信 (*~1581)小次郎・五郎兵衛・丹波守・長教・興行・真幸・元綱。岡部左京進・親綱の息。岡部正綱の親戚。1559年山口氏に代わり鳴海入城。最前線の尾張鳴海城主。1560年「桶狭間の合戦」のち義元の首級を預かる。撤兵の際に水野氏の「刈谷城攻略」。1569年武田家に臣従。駿河先方衆、遠江高天神城主となり、1581年織田・徳川軍と敢闘し戦死。息に真尭、元昌。尾張鳴海城主。
▽岡部貞綱 (*)土屋貞綱・与惣兵衛。岡部元綱の弟。今川水軍衆。孕石元成、土屋虎義は妹婿。息に岡部長綱。
加藤景秀 (*~1560)甚五郎。1560年「桶狭間の合戦」に従軍戦死。
⇔近藤景春 (*~1560)九十郎。尾張国沓掛城主。近藤伊景の跡職。一時、織田家に従う。1553年山口教継とともに今川方に離反。1560年沓掛城は義元の妹婿・浅井政敏が入る。代わりに高圃城主。「桶狭間の合戦」に従軍戦死。
吉田氏好 (*~*1560)武蔵守。今川義元の軍奉行。1560年「桶狭間の合戦」に従軍戦死。<生き残り今川氏真に仕えたとも。>
馬場幸家 (*)民部少輔。1560年「桶狭間の合戦」に従軍。
↑蒲原氏徳 (*~1560)今川・宮内少輔。今川一門衆。1549年「安祥城表の合戦」に軍功。1560年「桶狭間の合戦」に従軍戦死。息に徳兼。


(従軍 三河国人衆)
↑▲西郷* (*)松平・弾正左衛門尉。1548年「小豆坂の合戦」に織田軍に横槍の軍功。今川義元から三河国内で三千貫の恩賞。<△西郷信貞 (*)弾正左衛門。西三河豪族。岡崎城を松平清康(家康祖父)に奪取され大草に隠居。大草松平昌安と同一人物か?>
▽野々山政兼 (*~1548)甚九郎。三河碧海郡牛田領主。1546年12月吉田城の攻防で戸田家から離反し今川家に通じる。1548年尾張大高城を攻撃するが、松平広忠の援軍が遅れ戦死。<もと吉良家家臣でしょうか。もしくは戸田家家臣から今川直参に?><三河衆の先陣を務めるが広忠になぜか見捨てられた様子です。>
○牧野成定 (1525~*1566)牛久保・西尾・新次郎・右馬允・民部丞・政定・成貞。三河国衆。東三河国人。吉田城主・牧野出羽の家老。牛久保城主。牧野氏成の息。牧野貞成の養子。今川義元の命で家督継承。親今川派。西条吉良・西尾城主。吉良義昭の叛乱により、今川義元から城主に抜擢される。西三河国人衆。1560年「桶狭間合戦」の敗戦により失領。1566年徳川家康に降伏。酒井軍団に所属。西尾城主。<1582年までは織田信長の傘下、徳川に与力として付属していたのかもしれません。>
⇔↓戸田重貞 (*~1564)二連木・主殿介。三河国衆。二連木城主。今川義元の臣。宣光の息(長男)。1564年今川家から離反。徳川家に臣従。二連木城。三河国吉田城の攻防、直後に死去。のちに松平準一門。<家康を売り飛ばした戸田家(笑。>

↑▽富永忠元 (1537~1561)伴・五郎・忠元。東条吉良義昭の家老職。富永忠安(忠康)の息。1561年上野城主・深溝松平好景を討つ。深溝松平伊忠と抗争。1561年「西尾城の攻防」に敗戦。続いて東条城表「藤波畷の合戦」に本多広孝・酒井正親・小笠原長常・松井忠次に討たれる。弟・徳玄も戦死。室城主。25歳。<吉良家の勇将。>
⇔○松平元康 (1542~1616)蔵人。今川家一門衆。三河の豪族。父、松平広忠は東条吉良、今川義元の後援で旧領を回復する。父の死により失領。今川義元に養育され、関口親永の娘婿。1558年織田に通じた三河寺部城主、鈴木重辰を攻撃。広瀬城主、佐久間平兵衛を攻撃。1560年尾張大高城主。1560年丸根砦の佐久間盛重を攻略。のち独立、旧領三河・岡崎城を奪取する。親織田派。1561年父・広忠を匿った富永忠安(忠康)の息で、東条吉良家家老・富永忠元を討つ。1563年家康に改名。1566年12月徳川に改姓。「三河守」任官。1568年「遠江侵攻」。今川家を滅ぼす。<父・広忠の代に東条吉良家に大きなカリがあります。もと吉良家家臣でしょうか。>
松平元康軍、大高城攻撃後、丸根砦を強襲。本陣旗本51家、正軍69家、遊軍64家。

上記80家、従軍者のうち参部隊に一族が分かれて従軍するもの29家(松平姓は除外)。
義元の駿河重臣に列する朝比奈と三浦、今川一門の鵜殿を、義元の派遣した軍監と与力と推測すれば、
三家の指揮の下に活動した与力が抽出されると考えられます。
「単独参加豪族」としたものが、鵜殿・朝比奈・三浦の与力なのではないでしょうか。
鵜殿組:浅岡・阿部・今村・小野・高力(簗田)・柴田(芝田)・高木・中根・成瀬・新見・林・矢田・権村。
阿部後裔は江戸旗本になるか。高力は簗田氏の分家。三河の柴田氏に、水野与力の高木。織田家縁戚となる中根。吉良一揆の矢田。林氏。気になる武家が含まれます。
朝比奈組:池野・平井・青木・岩城(堀)・上野・大口・大見・大切・川上・月海・久世・芝山・進藤・遠山・氷見・蜂屋・細井・水野・村井・吉野・米津。
のちに織田信長家中に平井、青木、堀、進藤、遠山、蜂屋、水野、村井あり。
三浦組:浅見・安藤・土屋・同歳・古谷・伊藤・萩田・川切・久米・佐橋・筒井・渡切・八国・薮田。
のちに織田信長家中に安藤、伊藤、筒井あり。



 大高城に向うか、鳴海城に向うか・・。
<尾張品野城> 1519年坂井秀忠から奪取(織田家と結び平和裏に継承したかも)。
⇔○桜井松平信定 (*~*1537?)桜井・松平・内膳。松平長親の息。松平信忠の弟。親織田(西条吉良)派。守山城主・織田信光は娘婿。織田信定の娘婿。岡崎執事。阿部定吉と昵懇。1529年「岩崎城攻略」に子息・清定とともに先陣の武功。清康亡き後、清康祖父、松平長親の命で松平の盟主となり、広忠を岡崎から追放。刈屋・水野、大給・長沢の松平と婚姻関係。清康の弟・三木信孝と鵜殿康孝も従う。1537年不在時に岡崎城を奪取される。家老・石川康長、その息・石川康利、康定兄弟は殺害される。尾張品野城主。<今川から織田に乗り換えたということでしょう。>
⇔▽桜井松平清定 (*)桜井・松平・家重。信定の息。尾張品野城主。
▽桜井松平家次 (*~1563)桜井・松平・家次・監物丞。桜井松平嫡流。松平清定の息。義元直属。1545年松平広忠に敗北。与力に酒井忠尚、榊原長政。1553年東条松平忠茂と抗争。1556年今川義元は東条家を厚遇。1560年「大高城救援」に従軍。尾張品野城主。1563年三河一向一揆に一向宗側として叛乱。息に忠正、忠吉。娘婿に菅沼定盈。<桜井松平は代々、宗家に対抗する強力な分家。><福釜家とは因縁の仲。><今川義元の松平分裂策か。>
原田氏重 (*)糟谷氏の領地を継承。1550年丹波隼人佐が城主。跡職を継承。1556年織田家との抗争に大久保忠勝、忠佐、阿部忠政が後詰。酒井忠次、渡辺義綱が二ノ丸城主とも。三河福谷城主。<親重と氏重は同一人物でしょうか?もしくは兄弟か?。>
⇔原田種友 (*~1572)大蔵・藤左衛門。1561年久木城主。1572年「味方ケ原の合戦」に戦死。息に種吉。孫に種成。三河久木城主。<年代的に福谷を追われた原田氏が久木に移った気がします。>
⇔原田種高 (*)大蔵・(胤高)・重高。筑前の豪族、原田親重(親種)の息。清康、広忠に従う。のち家康に出仕。息に種政。三河明知城主。<大須賀胤高(康高)の胤の字の由来は・・・。>
▽原田種成 (*)種高の息。明知城を継承。<種政と同世代。>
▽原田種政 (1556~1628)大蔵・権左衛門。三河明知城主、原田種高の息(3男)。家康に出仕。のち榊原康政の家老。
柘植* (*)道満。<詳細不明。宗十郎と一族か?>
⇔柘植* (*)宗十郎。元・織田家家臣。今川に離反。「赤塚の合戦」に従軍。山口方。
⇔丹羽氏清 (*)岩崎氏清・一色。今川家臣。丹羽惣領家。1551年岩崎表に織田信長軍が敗北。息に氏織(氏勝)。
⇔丹羽氏織 (1523~1597)岩崎氏勝・一色・源六・勘助・右近大夫。今川家臣。丹羽惣領家。尾張岩崎城主。室は織田信秀の娘、織田信長の義兄弟。守山城主織田信次家老。1551年岩崎表に織田軍が敗北。岩崎城の荒川頼宗から城を奪取。
⇔近藤景春 (*~1560)九十郎・景治。沓掛城主。近藤伊景の跡職を継承。松平広忠家臣。のち織田信秀に従う。1559年戸部氏の調略により今川義元に降伏。今川一門・浅井政敏が入城。高圃城に退去。1560年織田軍の攻撃で戦死。
⇔篠田貞英 (*~1560*)宮口城・加納氏の跡職。1560年織田家の侵攻に猿投三宅氏の下に逃亡。息に貞方。孫に貞長。宮口城主。<中条家の城に隣接します。>

 伊勢国要所図:今川氏が伊勢に水軍を推し進めると伊勢湾沿岸の港が混乱になることもあった。
<伊勢水軍>
⇔○服部友貞 (*~1568)左京亮。うぐい浦を本拠とする服部党。尾張の豪族。織田家と抗争。長島顕正寺に帰依。1556年守山城主・織田信次の攻撃を撃退。1560年拠点・二ノ江から今川軍の「尾張侵攻」と呼応し、熱田湊に侵攻するが撃退される。1568年死去。<滝川と服部で熾烈な忍者対決でもしていたのでしょうか。>
⇔▽石橋義忠 (*)斯波義忠。尾張斯波一門。海部郡戸田庄の豪族。1561年尾張から織田信長に追われ服部党に参加。<今川義元に呼応した結果か?>

2019年04月06日