戦国大名 朝倉義景の家臣団と軍団

朝倉義景の家臣団と軍団

(挿図)越前国要所図

越前朝倉家 歴代当主  ○印=当主 ▽印=配下武将 紫文字=離反者

⇔○朝倉敏景 <初代国主在位:1470~1481>(1428~1481)(八木)・日下部・小太郎・孫右衛門・弾正左衛門・教景・孝景・栄林。家景の息。弟に経景、慈視院光玖、景冬。斯波氏三家老のひとり。守護代・甲斐常治に与力。1458年堀江利真に敗北。1459年斯波義敏に勝利。1460年義廉に従い甲斐常治の息・敏光とともに遠江遠征。1471年越前守護・斯波(渋川)義廉から独立。細川勝元から越前守護職拝領。斯波家内紛に乗じて守護代・甲斐敏光を破り、越前を掌握。斯波義敏に代わって越前守護職。一乗谷を拠点に定める。本願寺蓮如に越前吉崎の寺を寄進し同盟を結ぶ。最初の戦国大名、「朝倉孝景17箇条」を制定。斯波義良(松王丸)を後援する二宮氏と抗争。黒丸城主。54歳。一乗衆5000兵を率いる。義兄弟に堀江利真。息に氏景、景明、景総、教景(宗勝)、時景、景儀、教景。

<一代で教景→敏景→孝景に3度改名。><1481年斯波義良、甲斐、二宮氏を加賀に撃退し越前制覇。><山陰の八木氏との関わり気になります。>

▽朝倉経景 (1438~1491)与三右衛門・下野守・下野入道・簾勝・足羽郡司。家景の息。敏景の弟。足羽郡を領する。54歳。息に景職。安居城主。

▽慈視院光玖 (1449~1494)建仁寺・玉岩・大野郡司・こうきゅう。家景の息。敏景の弟。足羽郡安居保を支配。1484年養子・教景が景総に殺害される。大野衆2000兵を率いる。1493年家人の杉若、久原が大将となり京都出兵。55歳。

▽朝倉景冬 (*~1495)孫四郎・修理進・修理亮・遠江守・「小天狗」・敦賀郡司。家景の息。敏景の弟。1472年頃から敦賀郡司。敦賀衆3000兵を率いる。1487年将軍・足利義尚の六角氏征伐に従軍し先陣の将。1490年足利義政の東山山荘に松を運ぶ。息に景豊。娘婿に朝倉教景、堀江景実、鳥羽景富、青蓮華近江守。

(朝倉氏景 第2世代)

⇔○朝倉氏景 <二代:1481~1486>(1449~1486)孫次郎・孫右衛門。敏景嫡男。母は朝倉将景の娘。弟に景総、景明、教景、時景、景儀、教景。室は織田氏の娘。1481年家督。甲斐氏との合戦に勝利。斯波義敏の息・斯波義良(松王丸)、二宮、甲斐一族を追放。美濃の斎藤利国(妙純)の調停で斯波(渋川)義廉と和睦。斯波(渋川)義廉の息・斯波義俊を擁立。鞍谷御所に据え斯波義良、織田敏定に対抗。越前から撃退する。1482年一乗谷大火。1484年弟・朝倉教景が兄・景総に討たれる。一乗谷を「小京都」と呼ばれる城下町に育てる。38歳。息に貞景、景宗。

<朝倉氏が義景の代に滅亡したので、かき消されてしまっているかもしれませんが、1481年に斯波義寛、織田敏定に完全に勝利したということでは?。><敗者の側の義良としては当主を引退、渋川家から養子縁組で、義寛を跡職として相続させたのではないでしょうか。それゆえに義敏は京都で「斯波家譜」なる正統記を記したのでは。> 

朝倉景総 (*~1505)孫五郎・弾正忠・元景。敏景の息(五男)。朝倉景豊は娘婿。1484年弟の朝倉小太郎・教景を殺害。朝倉家から出奔し管領・細川政元に出仕。1503年惣領家に対して謀反。同盟者の景豊が敗北したため、近江に撤退。加賀から侵攻するが敗北。能登の斎藤館に隠居。

▽朝倉教景 (*~1484)小太郎・宗勝。朝倉敏景の息。朝倉一門の叔父・慈視院光玖の養子。兄の朝倉景総により殺害される。

朝倉景豊 (*~1503)孫四郎・敦賀郡司。景冬の息。室は朝倉景総の娘。1487年将軍・足利義尚の六角氏征伐に出陣するも、斯波義寛と対立。1495年父・景冬の死により家督。1503年景総と結んで惣領家(貞景)に対して謀反。教景(宗滴)の密告で漏洩し自害。
 近江の騒乱。貞景=斎藤妙純=織田寛広=京極高清の同盟。
(第3世代)


⇔○朝倉貞景 <三代:1486~1512>(1473~1512)孫次郎・弾正左衛門。氏景の息。母は織田(孫左衛門)の娘。斎藤利国(妙純)の娘婿。氏景が早世したため、敏景の弟・慈親院光玖が後見する。1487年将軍・足利義尚の発した六角高頼追討の為、近江に遠征する。斯波義寛を擁する織田敏定と対立。1488年加賀一向一揆の動きが激しくなり、堀江景用を派遣するが、富樫政親は陣没する。1491年足利義材(義尹・義稙)の六角高頼攻めにも斯波義寛と対立。1491年管領・細川政元の越前下向を接待(東軍方へ帰参)。1493年細川政元に協力し足利義材(義稙)を追う。1494年甲斐残党蜂起。1495年美濃「船田合戦」、近江に出陣。1496年美濃「城田寺の合戦」に勝利。1498年細川政元に追われた将軍・足利義材(義稙)が越前に居す(西軍方へ)。1503年敦賀郡司・朝倉景豊討伐。1504年朝倉景総(元景)撃破。1506年加賀一揆撃退。40歳。息に孝景、景高、景郡、景紀、(波多野)道郷、景延。娘婿に朝倉景職、土岐頼武。


<足利義嗣の跡職、「鞍谷御所」渋川義俊を擁立する事で、北陸探題・足利(渋川)義俊の下に越前守護の朝倉貞景としての地位を確立し、尾張守護・斯波義寛を擁立する、尾張守護代・織田敏定の主張を退けたのでは。これは将軍・義尚が提示した現実的な妥協案だったのでは。>

(朝倉孝景 第4世代)


⇔○朝倉孝景 <四代:1512~1548>(1493~1548)孫次郎・弾正左衛門・宗淳。母は斎藤利国(妙純)の娘。弟、朝倉景高と争うが、朝倉教景(宗滴)の後見もあり朝倉家の全盛期をつくる。1516年朝倉宗滴が若狭遠征、逸見氏討伐。丹後侵入「倉梯城攻略」、延永氏討伐。1518年美濃守護代・斎藤利良が土岐頼武とともに来越。土岐頼武を婿に迎える。1519年朝倉景高、頼武を擁して美濃侵攻。1525年朝倉宗滴が近江に遠征。六角氏を後援し浅井亮政に圧力。朝倉景職が美濃稲葉山城攻囲。1527年宗滴・前波氏、細川高国の要請で上洛。1531年加賀出兵。1538年若狭守護・武田元光を後援し武田信孝を撃退。1541年朝倉景高、若狭武田氏と結び孝景に反抗。1544年宗滴、美濃遠征「稲葉山城攻囲」。妹婿に土岐頼武。娘(長女)婿に鞍谷斯波氏。


⇔▽斎藤利良 (*~1538)美濃守護代。斎藤利親の息。従兄弟に朝倉孝景。1518年叔父・彦四郎に追われ越前落ち。


⇔▽土岐頼武 (*)美濃守護。朝倉孝景(宗淳)の妹婿。1518年越前落ち。1519年孝景の支援で美濃復帰。1530年再度越前落ち。<一色家の血統でもあり、朝倉家の若狭侵入に大義名分が加わったのでは。>

⇔▼土岐頼純 (1524~1547)(朝倉)・次郎。母は朝倉貞景の娘。1518年越前落ち。1535年叔父・頼芸と対立。朝倉・六角に後援される。1536年六角定頼が離反。1539年頼芸と和議。1542年大桑落城により越前落ち。1544年朝倉宗滴と織田信秀の支援で美濃乱入。1546年頼芸から守護職を譲渡される。

▽波多野道郷 (*)朝倉道郷。朝倉貞景の息(5男)。越前波多野家を相続。息に道景。<朝倉義景の養子になっての道景か。越前にも有力な波多野家があったようです。丹羽長秀の家紋との繋がりが気になるところです。尾張の波多野はどこの地域の末裔か・・。>

 (挿図)管領・斯波家の勢力。

 


<「応仁の乱」東軍・西軍>

 


<1449~1473>
将軍家    執事     管領     大名                       関東御所
足利義政   伊勢貞親  細川勝元  今川範忠  山名宗全  大内政弘   足利政知   足利政氏
斯波義敏 甲斐常治(将久) 堀江利真 朝倉敏景(教景)<1470~1481>
足利義視               北畠教具  渋川義廉・織田敏広  土岐成頼  斎藤妙椿  一色義直
<1473~1489>
足利義尚 伊勢貞親  細川勝元・斯波義敏    山名持豊(宗全)   一色義直・義遠
                       細川成之・斯波義良・吉良義真・東条国氏
                         甲斐敏光・朝倉敏景(教景)
                         今川義忠
                              京極持清  六角高頼
                        一色時家
                                朝倉氏景<1481~1486>
 1481年斯波義良の侵攻を撃退。
足利義満の次男・義嗣の系統「鞍谷(越前)公方」を、渋川義俊が継承。
                                        斎藤利国(妙純)  石丸利光
                                   朝倉貞景<1486~1512>
<1490~1491>
足利義視・義材 
<1492~1493>                波多野時成 牧野古白
足利義材(義稙)      畠山政長
「明応の政変」
               <1493~1507>
                細川政元          山内就綱
                         京極政経・材宗、浅井長種
                         朝倉貞景・京極高清・斎藤利国(妙純)
<1493~1508>                                     <伊豆堀越政変>
足利義澄:政知の息            今川氏親・伊勢長氏  →→→→   足利茶々丸
                                               伊勢長氏(早雲)
                                1497年六角高頼、氏綱(細川政元と和睦)
                        松平長親 ←←←←
「永正の錯乱」
<1509~1521>       細川高国(義稙を擁立)   
足利義稙(義材)                              大内義興<1508~1518>
                      斯波義達(遠江守護罷免さる)・大河内貞綱
                        今川氏親、義稙を支持し遠江守護入手。
                                 朝倉孝景<1512~1548>
 細川VS大内 「大内義興帰還」
<1521~1546>      <1508~1527>
足利義晴:義澄の息   細川高国(義晴を擁立)           六角定頼          北条氏綱
                       京極高清・高慶
                         京極高峯・浅井亮政

                     <1527~1549>
足利義維:義澄の息          細川晴元・細川持隆・三好元長
                                         六角義賢
                             三好長慶
足利義輝
   朝倉義景<1548~1573>
                                六角義治  後藤賢豊<*~1563>

 足利幕府の変遷。

<管領・斯波氏と、朝倉氏のライバル甲斐氏> <越前守護:在職期間>
⇔斯波義将 <越前守護:1368‐1379>(1350~1410)治部大輔・左衛門佐。高経の4男。室町幕府三管領の筆頭。吉良満貞の娘婿。幕府管領に三度就任。細川頼之とともに三代将軍・足利義満を補佐。越前、若狭、能登、越中、遠江、信濃の守護。息に義重(義教)。
⇔▽甲斐教光 (*~1395)美濃守・のりみつ。斯波家執事。斯波家家老職。1383年頃、越前守護代職。娘婿に斯波義重。息に将教。<下野国佐野庄の藤原氏が被官化したらしい。><近江高島郡木戸城主も佐野氏。>
⇔斯波義種 〈越前守護:1387-1408〉(*)修理大夫・左衛門佐・入道道守。斯波高経の息。斯波義将の弟。加賀守護。斯波家庶流。1414年将軍・義持の勘気により失脚。息に斯波満種。
二宮* (*)加賀守護代。斯波義種の家老。
二宮氏泰 (*)信濃守護代。斯波義種の家老。1384年信濃守護代を拝名し息子・種氏を代官として派遣する。息に種氏。
▽二宮種氏 (*)1584年信濃代官として信濃平柴に下向。1388年信濃国人・村上頼国、小笠原清順、高梨朝高、長沼太郎が反乱。二宮種氏の臣・市河頼房の生仁城は落城。
▽二宮* (*)越中守・入道是随。信濃代官。
▽細川慈忠 (*)二宮種氏のあとに信濃国代官。1392年村上満信と生仁城をめぐり抗争。

⇔斯波義教 <越前守護:1398-1418>(1371~1418)斯波義重・左衛門佐・右(左)兵衛督・入道道孝。斯波義将の息。母は吉良満貞の娘。甲斐教光の娘婿。1400~1418年尾張守護兼任。<尾張・越前の侍の配置転換。>遠江・加賀・信濃守護兼任。妹婿に渋川満頼。息に義淳、義郷、特有(持輔)。
⇔斯波義淳 <越前守護:1418-1433>(1397~1434)(吉良)・左兵衛佐・入道道忠。斯波義教(義重)の息。義淳の死後に家督争い勃発。息に義豊。

<斯波義教・義淳の家臣団>
加賀島* (*)斯波氏家老。斯波義教(義重)の遠江守護代。
藤原重教 (*)藤原。斯波氏家老。1400年斯波義教の尾張守護代。<この藤原は織田か、甲斐か。>
▽甲斐将教 (*~1420)ゆきのり・八郎・美濃守・入道祐徳。斯波家執事。甲斐教光の息。斯波義教(義重)の義兄弟。斯波義淳の家老。1395年越前守護代。越前・尾張・遠江守護代兼任。斯波家家老職。息(孫?)に敏光。
▽甲斐* (*)右京亮・入道若椙。甲斐一門衆。斯波義教(義重)の家臣。尾張代官。
▽甲斐* (*)兵庫助・入道。東遠江又守護代。甲斐一門衆。斯波義教(義重)の家臣。
▽大谷* (*)豊前守・入道玄本。西遠江又守護代。甲斐一門衆。斯波義教(義重)の家臣。
▽狩野* (*)新左衛門尉。東遠江又守護代。甲斐家譜代家臣。甲斐兵庫助に代わり又守護代。
▽狩野* (*)修理亮。甲斐家譜代家臣。
織田教広 (*)藤原。斯波氏家老。斯波義教(義重)の家臣。尾張守護代。
島田* (*)遠江守・入道常栄。斯波氏家老。斯波義教(義重)の家臣。1401年斯波義将の代官として信濃守護代。

⇔斯波義敏 〈①1452-1460〉〈②1466-1471〉(1435~1508)(大野)・左兵衛佐・左兵衛督。庶流、斯波持種の息。斯波家執事・甲斐常治の専横に怒り、古河公方討伐の途中に、越前敦賀城を強襲するも敗北。将軍・義政は斯波義敏を追放。大内教弘の下に落ちる。渋川義鏡の息・渋川義廉に斯波家家督を奪われる。幕府政所執事・伊勢貞親により義政の赦免を得て越前守護復帰。1467~1477年「応仁の乱」の東軍。足利義視、畠山政長、細川勝元と結ぶ。斯波家を相続した斯波(渋川)義廉と抗争。1481年義良が越前で敗戦。弟に義孝。息に義良、寛元、義雄。
⇔斯波義良 (*)(大野)・松王丸。義敏の息。1475年甲斐敏光の越前乱入を止め、遠江守護代として遠江に派遣。1481年越前で敗退。
⇔甲斐将久 (*~1459)藤原・美濃守・ゆきひさ・入道常治。斯波氏家老。越前・遠江守護代。与力に朝倉教景。斯波義敏と抗争。甲斐将教の息。越前・遠江守護代。斯波義敏を侮り専横。斯波義敏が古河公方討伐の途中に、越前敦賀を強襲するも撃退。1458年幕府により仲裁するも応じず「越前・長禄の乱」、義敏派・堀江利真が越前に侵攻し甲斐軍を破る。息に敏光。弟に近江守*。跡職は甲斐信久が継承。
▽甲斐教衡 (*)郷衡。斯波氏家臣。敦賀郡代。甲斐将久の一門(将久は兄とも)。跡職は甲斐久衡が継承。
細江* (*)修理亮・入道。斯波氏家臣。遠江又守護代。
▽堀江利真 (*~1459)石見守。斯波氏家臣。朝倉家景の娘婿。朝倉敏景の義兄弟。斯波(大野)義敏に従い、1458年越前侵攻。朝倉将景とともに越前大半を占領し独立の動きを見せる。足利義政の命により甲斐敏光、朝倉敏景の連合軍派遣。斯波義敏は失脚し周防落ち。跡職は庶流の堀江景用が継承。1459年義敏方として朝倉将景とともに「足羽和田の合戦」に戦死。
堀江* (*)三郎右衛門・入道。斯波氏家臣。遠江又守護代。
一井* (*)遠江国人。斯波氏家臣。細江氏配下。<新田系の一ノ井氏か。>
⇔↑朝倉敏景 (*)教景。斯波氏家臣。家景の息。将軍・足利義政の引き立てにより、越前守護代・甲斐敏光を凌ぐ勢力を得る。1467-1477「応仁の乱」1471に西軍から東軍に転じる。
▽大谷久棟 (*~1464)斯波氏家臣。西遠江又守護代。甲斐一門衆。甲斐敏光・信久に従う。今川義将、井伊、原氏と抗争。
▽甲斐* (*)修理助。斯波氏家臣。1464年大谷氏に代わり西遠江又守護代。狩野七郎右衛門とともに両職。
▽狩野* (*)七郎右衛門・七郎左衛門尉。斯波氏家臣。遠江又守護代。大谷氏とともに両職。1464年大谷氏の没落により、甲斐修理助が遠江下向。のち遠江単独代官。一族の狩野加賀守に討たれる。息に狩野介。
▼狩野* (*)加賀守。斯波氏家臣。今川義忠、幕府奉公衆の勝間田・横地氏と結び、狩野七郎右衛門の息・狩野介を討つ。


⇔渋川義廉 〈1466-*〉(*)斯波義廉・治部大輔。堀越公方・足利政知の家老・渋川義鏡の息。山名宗全の娘婿。朝倉孝景の娘婿。1467-1477「応仁の乱」に西軍。足利義尚、畠山義就、山名持豊(宗全)と結ぶ。のち足利義視を擁立。追放した斯波義敏、斯波松王丸(義良)の親子と抗争。1471年越前表にて朝倉敏景・氏景親子の離反。1475-1481年越前落ち。息に義佐、義寛、義俊。弟に義堯。
▽狩野* (*~1474)狩野介・宮内少輔。斯波氏家臣。東遠江又守護代。遠江守護代職。甲斐家家臣。「応仁の乱」に西軍。のち斯波義良に従う。狩野加賀守を討伐。1474年今川義忠に見附城を攻撃される。見附府中城主。
⇔甲斐敏光 (*~1481?)斯波氏家老。越前・遠江守護代。将久(入道常治)の息。渋川義廉を擁し、斯波義敏と抗争。1459年朝倉孝景とともに、斯波義敏の将・堀江利真と抗争。1460年幕命で朝倉氏とともに関東表に出陣。「応仁の乱」に渋川義廉に従い西軍。1471年越前表で朝倉敏景・氏景親子の離反。1474年義良に従い東軍に帰順。1475年遠江下向。1476年今川義忠と抗争。義忠戦死。1478年斯波義良に従い、1479~80年越前侵攻、朝倉と抗争。越前二宮氏とともに朝倉敏景(1481:没)を圧迫。息に信久。<「応仁の乱」に西軍主力。朝倉孝景が離反し東軍。>
▽甲斐久衡 (*)斯波氏家臣。敦賀郡代。甲斐教衡の跡職を継承。
甲斐信久 (*~1472)千喜久丸。斯波氏家老。遠江守護代。敏光の息。1459年祖父・甲斐常治の跡職を継承し越前・遠江守護代。斯波(渋川)義廉を擁立し、斯波義敏と対立。父が越前表で抗争中、遠江を守備。「応仁の乱」に渋川義廉に従い西軍。今川義忠と抗争。1472年越前表にて戦死か。
▽堀江* (*)三郎左衛門尉。斯波氏家臣。西遠江又守護代。甲斐一門衆。1481年甲斐敏光とともに遠江下向。
▼堀江為清 (*)三郎左衛門。斯波氏家臣。1501年浜名郡金剛寺に寄進。
 遠江国要所図<今川家との争乱で越前や尾張に移住した人々がいるんじゃないでしょうか。>

▽斯波義俊 (*)渋川・足利。足利義満の次男・義嗣の系統「鞍谷(越前)公方」を継承。斯波(渋川)義廉の息。西軍の主力。朝倉孝景と甲斐敏光が東軍に離反。のち朝倉氏により越前に迎えられる。
<鞍谷御所・足利義嗣→嗣俊→嗣時→嗣知→嗣基>

<越前 鳥羽朝倉家>
朝倉将景 (*~1459)鳥羽将景・豊後守・弾正左衛門。斯波氏家臣。朝倉教景の息。兄に家景。1458年君主・斯波義敏と守護代・甲斐常治との抗争に義敏派。惣領・孝景と対立。1459年「足羽和田の合戦」に堀江利真とともに戦死。息に景正。娘婿に甥の孝景。
朝倉景正 (*)鳥羽景正。斯波氏家臣。将景の息。息に景忠。
▽朝倉景忠 (*)鳥羽景忠。斯波氏家臣。景正の息。
▼朝倉景富 (*)鳥羽景富。将景の孫。斯波氏家臣。景忠の息。1459年祖父の戦死により家督。朝倉孝景の弟・景冬の娘婿。

二代目当主 朝倉氏景の家臣(親衛隊・旗本衆)
前波* (*)藤右衛門尉。一乗谷近辺の土豪。朝倉家譜代家臣。<子孫は対織田戦に活躍。朝倉氏景の息・景直が前波を姓とするとも。前波家に養子入りしたものでしょうか。>
神* (*)諏訪神・左衛門尉。朝倉家譜代家臣。<織田信長の側近に西尾吉次の娘婿・神忠政がいますが、縁があるのでしょうか。>
神* (*)諏訪神・三郎兵衛。朝倉家譜代家臣。
神* (*)諏訪神・兵衛尉。朝倉家譜代家臣。
窪田* (*)入道。朝倉家譜代家臣。
半田* (*)朝倉家譜代家臣。一乗谷近辺の土豪。<敦賀郡司朝倉家に従い若狭に侵攻する半田氏あり。>
三尾野* (*)朝倉家譜代家臣。
桜井* (*)朝倉家譜代家臣。<子孫は三国湊奉行。>
大窪* (*)朝倉家譜代家臣。<三河から一揆に参加する大窪氏あり。日野勝光家臣、松平乗益が湖北の菅浦に年貢取り立てに向かい兵を動員。越前からの加勢もあったか?>
栂野* (*)隼人介。朝倉家譜代家臣。一乗谷近辺の土豪。
三輪* (*)才松。朝倉家譜代家臣。
山崎* (*)長門守。初代・朝倉敏景に従う。朝倉家譜代家臣。<子孫は対織田戦に活躍。>
笠松* (*)朝倉家譜代家臣。
中村* (*)朝倉家譜代家臣。

<氏景の府中奉行>
青木* (*)朝倉家譜代家臣。府中奉行人。
久原* (*)朝倉家譜代家臣。府中奉行人。

<朝倉家初期家臣団>
宇野久重 (*)新蔵人。丹波の出身。元荘官家。越前南條郡塚原の領主。初代・朝倉敏景に従う。「百戦百勝右に出る者無し」と賞される勇者。<子孫は堀江氏とともに三国湊奉行。>
佐々布光林坊 (*~1479)井上。朝倉家譜代家臣。丹生郡佐々牟志神社の別当家。1479年「金津の夜襲」に井上弥五郎とともに戦死。息が光林坊を継承。
鳥羽景春 (*)朝倉・右馬助・景富。朝倉一門衆。出羽守・景忠の息。朝倉景冬の娘婿。朝倉教景(宗滴)と義兄弟。息に右馬助・景忠。
△託美景統 (*~1531)朝倉家譜代家臣。越前の豪族・元在地荘官。朝倉宗滴の加賀侵攻に従軍。「手取川の合戦」に戦死。
△印牧広次 (*)藤原・新右衛門尉。朝倉家外様衆。初代・朝倉敏景に従う。1475年大野郡犬山城攻略に軍功。1496年朝倉景総に従い美濃「船田の合戦」に従軍。1513年の敏景33回忌に敏景家臣の印牧・山崎長門・佐々布(息)の三名が在命。次男・宇野景久が戦死。<青木氏とともに越前府中奉行家を務める家柄。次男は宇野久重の養子。1513年頃70余歳。>

石山本願寺の勢力圏とその他の寺院勢力。内なる敵と各地で転戦。近江は堅田御坊、金森御坊、旧近松御坊など本願寺の拠点があり信者も根強く居た事でしょう。治安の維持も一筋縄ではゆかないのでは。

三代目当主 朝倉貞景の軍事編成(1506年)
 1506年三代当主・朝倉貞景から与えられた与力。
<御名代・朝倉教景(宗滴)の軍団>(中郷)5000兵。
朝倉教景 (1474*1477~1555)朝倉宗滴・小太郎・太郎左衛門・敦賀郡司。朝倉孝景の息、二代当主・氏景の弟。朝倉景冬の娘婿。景豊の義兄弟。1503年敦賀郡司。戦国の名将軍。1506年「九頭竜河の合戦」で30万の加賀一向一揆を撃退。1528年足利義晴を擁し上洛。1531年富樫救援のため加賀侵攻。1538年若狭武田家救援。1555年加賀一向一揆との陣中に死没。79歳。「朝倉宗滴話記」は側近が彼の雑談を書きとめたもので、戦国武将の心構えが記されている。
斎藤吉用 (*~1520)民部丞。朝倉孝景の後走衆「滝谷寺文書」。1506年朝倉教景(宗滴)とともに加賀一向一揆を撃退。<貞景の代の一乗谷奉行人・斉藤隆家の息カ。>
前波吉熙 (*)藤右衛門。1484年『大乗院雑事記』に記される。一乗谷四奉行、前波景定は孫。1506年朝倉教景(宗滴)とともに加賀一向一揆を撃退。
前波吉連 (*)七郎右衛門。朝倉教景(宗滴)の内衆「朝倉始末記」。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。上田則種と共に敦賀郡奉行職を務める「西福寺文書」。子息・吉長が奉行職を継承する。
大瀬千光坊 (*)寄品大明神社家。足羽郡大瀬村。「金津夜襲に軍功」。1527年朝倉教景(宗滴)の内衆。
高間* (*)足軽大将。1506年朝倉教景(宗滴)とともに加賀一向一揆を撃退。
杉本* (*)足軽大将。1506年朝倉教景(宗滴)とともに加賀一向一揆を撃退。
萩原宗俊 (*)八郎右衛門尉。朝倉教景(宗滴)の側近。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。1555年宗滴最後の加賀出陣に従軍。<「朝倉宗滴話記」を残す。>
北村* (*)次郎五郎。朝倉教景(宗滴)の家臣。
(三段崎衆・小林衆)1506年朝倉教景(宗滴)とともに加賀一向一揆を撃退。

<朝倉景職の軍団> 朝倉貞景から与えられた与力。(鳴鹿表口・志比)3800兵。
朝倉景職 (*)虎松丸・与惣右衛門・与三右衛門・足羽郡司。敏景の弟・朝倉経景の息。足羽郡を領する。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退、鳴鹿表の守将。1517年朝倉教景の「丹後出征」に従軍、若狭高浜城代「当国御陳ノ次第」。1525年土岐頼武を後援し美濃「稲葉山城攻囲」に出征。息に景隆。孫に景健。
魚住景貞 (*)帯刀左衛門。外様衆。元・赤松家家臣の系譜。1441年赤松家の没落により越前へ。浦上宗則との交渉役を務め朝倉家の外様ながら要職。<のちの魚住景固は朝倉義景の出陣命令に従わず。>
▽魚住景宗 (*)備後守。景貞の息。朝倉貞景の代に一乗谷奉行人。1506年朝倉教景・景職とともに加賀一向一揆を撃退。1525年浅井救援に近江に出征。1538年朝倉宗滴に従い若狭武田家救援。丹後に遠征。
(窪田党・島田党)1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。
<越前坊主衆> (当国本願寺高田派) (松本口)
勝曼寺明秀 (*)本願寺派一揆と敵対関係にある一派の指導者。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。
<越前外様(河北)衆> (九頭川南岸の高木口陣)4600兵。
勝蓮華景継 (*)朝倉景継・青蓮華・右京進・又太郎。朝倉一門衆。朝倉貞景の家臣。敦賀城主・朝倉景冬の娘婿。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。坂井郡勝蓮華村の豪族。
堀江景実 (*)左衛門・三郎・石見守。越前加賀国境の豪族。朝倉景冬の娘婿。朝倉教景と義兄弟。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。<朝倉同名衆の溝江氏とは領地が隣接し、牽制しあう間柄。加賀の一揆に対しては共同して当たる関係。>
溝江景逸 (*~1574)朝倉・河内守。朝倉同名衆(一門衆)。溝江氏は1480年代に溝江郷を領する。1506年朝倉宗滴に従い加賀一向一揆を「九頭竜河の合戦」に撃退。息に長逸。<加賀衆の堀江氏と領地が隣接し、牽制・監督する間柄。加賀一揆とは共同して当たる。><1574年まで在命。長生きして宗滴の「織田信長の行く末を見たい」という願望を叶えていたということでしょう。>
佐々布光林坊 (*~1527)井上。丹生郡佐々牟志神社の別当家。加賀一揆征伐に高木口にて軍功。1527年京都での泉乗寺口合戦に、佐々布左京進、佐々布青蓮坊とともに戦死。跡職は佐々布掟蓮が継承。
<越前譜代衆> 3000兵。(中角)
山崎祖桂 (*)小次郎。長門守の息。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。
中村* (*)五郎右衛門。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。
神* (*)諏訪神・九郎左衛門。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。

(第3世代)
<貞景両家老>
前波* (*)前葉・豊前守。三奉行兼任。前波吉熙の一門。
小泉* (*)藤右衛門。元荘官家。
<朝倉三奉行> 
朝倉景梁 (*)掃部介。
青木康忠 (*)三郎兵衛尉・隼人佐・上野介。朝倉貞景、孝景の二代に出仕。府中奉行人。息に景康。<青木康延の息か。>
印牧美次 (*)新右衛門尉。外様衆。印牧広次の息。弟に弥二郎・吉広。1528年足利義晴を擁する朝倉教景に従い上洛。畠山軍との「西院口の合戦」に軍功。息に美満。
<越前三国湊奉行>
宇野* (*)新左衛門。1507年堀江中務丞とともに三国湊船警護奉行。
堀江* (*)中務丞。越前加賀国境の豪族。

朝倉孝景(宗淳)の一門衆
<一門衆 四代目当主・朝倉孝景の世代>
朝倉景高 (1496~*1543)孫八郎・右衛門大夫・大野郡司。朝倉孝景(宗淳)の弟。(土橋)景鏡の父。宗家に対抗する勢力を持つ。1519年土岐頼武を後援し、美濃に遠征「池戸合戦」。1536年大野郡穴間に一揆鎮圧に出動。大野郡司、大野城主。兄・孝景との確執から、朝倉家を出奔し若狭武田家の客将。加賀一向一揆と結び朝倉家転覆を計画するが、本願寺証如に拒絶され九州に落ちるという。跡職は景鏡が継承する。息に景鏡、在重。孫に宣正。

朝倉景隆 (*~*1570)右兵衛・足羽郡司。朝倉景職の息。敏景の弟・朝倉経景の孫。足羽郡を領する。1555年朝倉教景(宗滴)の死後に総大将を引き継ぎ、1558年の和睦がなるまで加賀一向一揆と戦う。1564年朝倉景鏡と共に総大将を務め加賀に出征。総大将争いで景紀の息・朝倉景光が自害。息に対織田信長戦に活躍する朝倉景健(四男)。1570年頃に長男・次男・三男が死去。<1570年といえば手筒山や金ヶ崎、姉川の合戦前後の抗争でしょうか。>
朝倉景延 (*)孫十郎・兵庫助。孝景弟、子息に景綱。越前織田城主。
斉藤* (*)兵部少輔。朝倉義景の室・小将局(諏訪殿)の父。1570年嫡子・愛王丸が誕生し、権勢を得る。<美濃の斎藤利国(妙純)の娘の付家老の一門なのでしょうか。>
朝倉景氏 (*~1574)1573年「刀禰坂の合戦」に戦死。
朝倉景* (*~1574)かげとお。1573年「刀禰坂の合戦」に戦死。
朝倉景行 (*~1574)1573年「刀禰坂の合戦」に戦死。
朝倉景冬 (*~1573)丹生郡三留城主。1573年「刀禰坂の合戦」に戦死。<先祖の英雄・景冬と同名。>

朝倉景紀 (*~1572*1573)孫九郎・九郎左衛門・敦賀郡司。朝倉貞景の四男、朝倉孝景の弟。名将・朝倉教景(宗滴)の養子(惣領家と血縁を近くするために)。1527年敦賀郡司。1528年足利義晴を擁する朝倉教景に従い上洛。1531年頃家督を譲られる。1563年若狭国粟屋勝久の「国吉城攻め」。1567年朝倉(土橋)景鏡と足利義昭の御前での席次争い。1570年「姉川の合戦」で先陣(対・徳川)を勤める。朝倉景鏡と熾烈な総大将争いをする。
▽上田紀勝 (*~1570)兵部丞。上田則種の息。朝倉景紀の代からの敦賀朝倉家老。敦賀郡奉行人。
▽小河吉持 (*)朝倉景紀の付家老。一乗谷からの随臣。1533年頃から敦賀奉行職。

<倉谷御所> 鞍谷渋川家
斯波嗣知 (*)嗣時の息。娘婿に朝倉義景。息に嗣基。
▽斯波嗣基 (*~1573)1573年朝倉義景の滅亡と共に鞍谷家も滅びる。
↓▽鞍谷* (*)民部少輔。佐々成政に出仕。<奥州斯波家から斯波民部少輔郷長が養子入りして越前国鞍谷氏を継承するとも>

五代目当主 朝倉義景の家臣団 越前国の戦国大名(1533~1573)。
朝倉義景 <五代:1548~1573>(1533~1573)孫次郎・左衛門督・延景。孝景嫡子、1548年五代目当主。京都風の文化を越前に移す。北陸の一向一揆と対決し、1555年加賀に出兵し半国を制圧。1560年江北の浅井長政を後援し、六角家から離反させる。1562年若狭国での「粟屋・逸見の乱」に武田義統を援助。1564年再度加賀出兵。1567年足利義秋を迎える。1568年武田元明を越前に拉致。1569年頃から織田家と対立。1570(元亀元)年浅井長政の協力で織田家の越前侵攻を撃退するが、「姉川の合戦」に敗北。1573(天正元)年「刀禰坂の合戦」に敗北。織田軍の越前侵攻を許す。朝倉景鏡の謀反にあい自害。41歳。直参の兵3800。<実子なく、朝倉景恒の息・道景を養子としたか。>

<義景の側近>
▽福岡義清 (*~1573)三郎右衛門尉・石見守・吉清。義景の奏者・近臣。1555年加賀「菅生口の合戦」に従軍。弟・福岡義澄(吉澄)は戦死。朝倉義景の側室・小宰相の局(鞍谷氏)を預かる。1573年息女二名を託されるが板倉(丸岡)で一揆に襲撃され戦死。八杉喜兵衛が本願寺に送り届ける。
▽福岡吉家 (*)1570年織田家と抗争に京都に上洛軍。
▽小林吉長 (*~1573)新介・備中守。義景の奏者・近臣。
▽高橋景業 兵300。(*~1573)甚三郎・新介。義景側近。朝倉義景の大野退去に従う。朝倉家と運命を共にする。
▽鳥居景近 兵500。(*~1573)兵庫助・与七。元荘官家。義景側近。朝倉義景の大野退去に従う。朝倉家と運命を共にする。

<一門衆 五代目当主・朝倉義景の世代>
⇔朝倉景鏡 兵1000。(1530~1574)土橋信鏡・孫八郎・式部大夫・大野郡司。朝倉景高の息。母は鳥丸冬光の娘。美濃方面担当。朝倉一門の大身、父の代から宗家に対抗する。1564年朝倉景隆とともに加賀出征。総大将争いで朝倉景光が自害。1567年足利義昭御前での朝倉一門席次抗争、対朝倉景紀。1568年、足利義昭辻警固衆。1570年「姉川の合戦」に出陣。1570年志賀坂本において、織田信治・森可成・青地茂綱を撃破。堅田でも坂井政尚を破る。朝倉景紀との総大将争いや、度々の遠征の疲弊から出陣を拒否し、1573年信長の越前進攻に呼応して当主・義景を死に追いやる。越前国大野城主。弟に在重。
⇔朝倉景健 兵1500。(1537~1575)安居景健・孫三郎・足羽郡司。朝倉景隆の息。景鏡とともに総大将格。1570年頃兄の三人が相次いで死亡し末子・景健が家督相続。1568年、足利義昭辻警固衆。1570年「姉川の合戦」には第3陣・総大将として出陣するが敗北。1570年志賀坂本において、織田信治・森可成・青地茂綱を撃破。1570年京都に浅井軍と共に駐留。1573年朝倉滅亡後は信長に属す。越前国安居城主。1574年越前一向一揆に降服。1575年信長の命で誅殺される。
⇔朝倉景綱 兵500。(*~1575)織田・兵庫頭・兵庫助。越前織田領主。義景の叔父・朝倉景延の息。1573年に信長に属す。海軍。丹生郡織田城主。
朝倉景行 兵2000。(*~1573)北庄・景行・土佐守。北ノ庄城主・朝倉景範の息。北ノ庄城主。近江刀禰坂に戦死。
鳥羽景房 兵800。(*)元・朝倉一門衆。朝倉家外様衆。<もともと朝倉家の分家です。>
青蓮華景基 兵700。(*)勝蓮華・近江守。元・朝倉一門衆。坂井郡正蓮華村在地領主。朝倉家外様衆。息に景継。<もともと朝倉家の分家です。>

 前線基地・敦賀郡・敦賀湊
朝倉景光 (*~1564)孫九郎・敦賀郡司。孝景弟・朝倉景紀の嫡男。四代・朝倉孝景の甥。名将・朝倉(宗滴)教景の孫。1557年頃家督を継承する。1562・63年若狭武田家に協力し粟屋氏の反乱を鎮圧。1564年加賀に出征。朝倉景鏡と総大将争いに敗れ自害する。<子息・道景は朝倉義景の養子となるカ。>
半田* (*)又八・又八郎。敦賀郡司・朝倉家の侍大将。1563・65年若狭に進攻する。
朝倉景恒 兵3000。(*~*1570)中務大輔・敦賀郡司。朝倉景紀の息、名将・朝倉(宗滴)教景の孫。出家するも1564年兄・景光の自害により家督。1570年織田信長の越前進攻に前線の守将となるが敗北。越前に退去するが行方不明。金ヶ崎城主。
⇔▽朝倉景盛 兵1000。(*~1574)敦賀景盛・出雲守・景亮・敦賀郡司。朝倉景尚の息。1568年足利義秋の朝倉館訪問に列座。近江方面の旗頭。1573年信長に属す。<敦賀の朝倉景冬、景豊の系統は謀反で断絶。その跡職は朝倉教景が引き継ぐ。>
▽竹内* (*)三助。朝倉出雲守・敦賀家家臣。1573年虎御前山に夜襲をかける。<松永久秀家臣、竹内秀勝の一族か?。>
▽上村* (*)内蔵助。朝倉出雲守・敦賀家家臣。1573年虎御前山に夜襲をかける。
▽織田景信 (*~1574)敦賀。朝倉景冬の息。信長に属す。<景冬の養子か?。>
▽朝倉景嘉 (*)修理亮。1568年将軍足利義昭辻警固衆。1573年浅倉家滅亡に上杉謙信を頼る。上杉家家臣。<敦賀朝倉氏が修理亮を名乗るらしい。>
▽寺田* (*)采女正。朝倉景恒の拠る金ヶ崎城の前衛。1570年若狭国佐柿城・武藤上野守を降した織田軍の攻撃を受け落城。手筒山城主。
疋田* 兵1500。(*~1570*)右近。1570年織田軍に降伏。手筒山守将。疋田城主。<疋田斎藤家?>
疋田* (*~1573)六郎三郎。織田軍の越前侵攻に栂野吉仍とともに籠城し戦死。疋田城主。<疋田斎藤家?>

(第6世代)
<一門衆 義景の次世代>
▽朝倉道景 (*~1573)彦四郎・権頭。敦賀郡司、朝倉景恒の息。名将・朝倉(宗滴)教景の曾孫。義景の跡の嫡流となる人物カ(名乗りから朝倉義景の養子カ)。近江刀禰坂に戦死。17歳。<貞景の息(5男)波多野道郷の息が波多野道景。同一人物か。景恒、義景と縁があったか。>

<朝倉家同名衆>
一門衆から格下げされ家来衆の待遇。(掃部介家、玄蕃助・越中守家が代々一乗谷奉行両職。)
朝倉景頼 (*~1573)掃部助・与七。朝倉掃部助・景梁の息。池田庄寺島城主。国人・池田家目付け。「刃禰坂の合戦」に戦死。
朝倉景連 (*)玄蕃助。名将・朝倉(宗滴)教景の実子。朝倉越中守・景伝の養子。義景の代、臣下に下り一乗谷奉行<1550~1573>。1555年宗滴最後の加賀出陣に従軍。1555年に加賀一向一揆と菅生口で対陣。<一乗谷奉行の越中守家。>
▽朝倉景胤 (*~1573)三郎。景連の息。名将・朝倉(宗滴)教景の孫。「刃禰坂の合戦」に敗走。信長に属す。のち一向一揆に降り、誅殺される。<一乗谷奉行の越中守家。>
▽朝倉景泰 (*)(織田)・七郎。景連の息。名将・朝倉(宗滴)教景の孫。信長に属す。<一乗谷奉行の越中守家。>
三段崎* 兵500。(*)権頭。朝倉同名衆(朝倉庶流)。1568年、足利義昭辻警固衆。
▽三段崎紀存 (*~*1570)勘解由左衛門。朝倉同名衆(朝倉庶流)。朝倉景紀の与力。朝倉景恒の家老として、金ヶ崎城を死守。織田家の捕虜となる。
三段崎* (*~1573)六郎。「刃禰坂の合戦」に戦死。
三段崎* (*~1570*1573)八郎左衛門尉・勘右衛門。山内一豊の顔面に傷を負わすが戦死。息・新右衛門は上杉家、後北条氏、結城秀康に出仕。
↓溝江長逸 (*~1574)大炊助。朝倉同名衆。義景家臣。溝江郷の豪族。景逸の息。1568年足利義昭の朝倉屋形御成の際に同名衆として申次。外様衆・堀江氏と領地が西に隣接し、牽制する役割を担う。堀江景忠親子謀反の際に居館が本陣となり、堀江氏の本庄館と抗争。堀江氏は加賀に落ちる。織田家に通じ、朝倉滅亡後に北ノ庄遠江守の領地を得る。1574年一揆の蜂起により自害。息の長澄は秀吉馬廻。のち井伊家に出仕。

<譜代家老衆> 景●→当主から下賜名 義景年寄衆 
山崎吉家 兵2000。(*~1573)新左衛門・長門守。朝倉家内衆。義景年寄衆。朝倉家の先鋒侍大将。1567年堀江景忠討伐に魚住景固とともに大将として加賀出陣。1568年、足利義昭辻警固衆。1570年浅井家の加勢に出陣、小谷城に山崎丸を造る。1573年第一陣として湖北出陣。弟・吉延、嫡子・吉建とともに「刃禰坂の合戦」に戦死。
▽山崎吉建 兵300。(*~1573)新左衛門・長門守。山崎吉家の嫡男。「刃禰坂の合戦」に戦死。
▽山崎吉延 (*~1573)七郎左衛門。山崎吉家の弟。「刃禰坂の合戦」に戦死。山崎長徳の父。
詫美行忠 兵2000。(*~1573)左京亮・越後守。越前の豪族・元在地荘官。朝倉家外様衆。義景年寄衆。「刃禰坂の合戦」に戦死。
栂野吉仍 兵1000。(*~1573)三郎右衛門。朝倉家内衆。義景年寄衆。疋田六郎三郎とともに疋田城に籠城し戦死。
魚住景固 兵1000。(*~1574)備後守。元外様衆。魚住景栄の息。義景年寄衆。筆頭家老・一乗谷四奉行<1571~1573>。朝倉家内衆。1567年堀江景忠討伐に山崎吉家とともに大将として加賀出陣。1568年、足利義昭辻警固衆。1573年湖北丁野(ようの)城守備。7月出陣拒否。嫡男・彦三郎とともに織田家に臣従する。鳥羽館をあたえられる。1574年富田長秀に討たれる。
前波景定 (*)藤右衛門。吉熙の孫。一乗谷四奉行のひとり<1546~1567>。朝倉家内衆。息に前波景当、吉継。<朝倉孝景の小姓に前波弥五郎、虎千代。>
▽前波景当 (*~1570)左衛門五郎・藤右衛門。前波景定の息、一乗谷奉行<1567?~1573?>。朝倉家内衆。義景年寄衆。1561年の「三里浜犬追物」に500余人を率いる。1568年足利義昭を近江に送り出した際、2000余騎を率いて警護する。1570年「姉川の合戦」に第2陣を務める。「堅田口の合戦」に討死「歴代古案」。息に勝秀(*~1620)。
↓▽前波吉継 (*~1574)桂田長俊・九郎兵衛・播磨守。朝倉家内衆。前波景定の息、景当の弟。1561年の「三里浜犬追物」に参加。1561年「曲水の宴」に参加。1571年朝倉義景から勘当される。1572年近江の陣に従軍、陣抜けし織田家に臣従する。
前波吉充 (*)七郎兵衛。朝倉家内衆。1568年三奉行連署状の一奉行のひとり「山岸文書」。前波興勝の息カ。 

<越前三国湊>
桜井元忠 兵700。(1517~1580)十郎・新左衛門。義景年寄衆。堀江氏の没落後、三国湊奉行。(三国)湊城主。朝倉義景の大野退去に従う。63歳。<元・朝倉孝景の小姓か。>
<越前府中>
青木景康 兵500。(*~1573)隼人佐・上野介。朝倉家外様衆。青木康忠の息。朝倉家府中奉行家(青木・印牧)。義景年寄衆。「刃禰坂の合戦」に戦死。
印牧景忠 (*)朝倉家外様衆。朝倉家府中奉行<1564~1573>。
印牧能信 兵600。(*~1573)弥六左衛門。木ノ目峠守将。朝倉家外様衆。勇将として讃えられる。「刃禰坂の合戦」に捕縛され、信長御前で自害。
<越前一乗谷> 一乗谷四奉行家(魚住・前波・河合・小泉)
河合吉統 兵2000。(*~1573)川合・五郎兵衛・安芸守・(宗清?)。朝倉家内衆。一乗谷奉行<1550~1573>。1556年前波景定とともに大野出陣。1572年江北出陣。1573年第一陣として湖北出陣。「刃禰坂の合戦」に戦死。
小泉長利 (*~*1564)藤左衛門。越前の豪族・元在地荘官。一乗谷奉行<1550~1562>。溝江家と縁戚。
小泉長治 (*~1574)藤左衛門。越前の豪族・元在地荘官。長利の息、一乗谷奉行カ<1567?~1573?>。朝倉家滅亡後、溝江家に寄寓するが一揆発生により行方不明。
小泉* (*~1573)四郎右衛門。越前の豪族・元在地荘官。小泉吉宗の息。「刃禰坂の合戦」に戦死。

<越前朝倉家譜代家人>
桜井景通 (*)新左衛門。1568年足利義昭辻警固衆。1573年「刃禰坂の合戦」に義景を一乗谷まで護衛する。
↓小林吉隆 兵500。(*~*1575)三郎次郎。1568年足利義昭の辻固之衆。織田家に臣従する。富田長秀与力となるが、長秀を討ち一揆に走る。<義景側近・小林吉長の一族カ。>
小林* (*~1573)六左衛門。1573年近江遠征に従い。大獄砦を守備する。信長の奇襲を受け敗走。<義景側近・小林吉長の一族カ。>
斉藤* (*~1573)刑部少輔。越前の豪族・元在地荘官。1573年近江遠征に従い。大獄砦を守備する。信長の奇襲を受け敗走。<斉藤民部丞の一門か。>
↓⇔富田長繁 兵1000。(1551~1574)弥六郎・長秀。朝倉家内衆。近江の陣で織田家に臣従する。越前征服後に府中城主。
↓⇔毛屋* (*)猪介・猪之助。富田与力。近江の陣で織田家に臣従する。<織田に出仕してからは伊勢長島一揆征伐に抜群の軍功。>
↓⇔増井* (*)甚内。近江の陣で織田家に臣従する。
窪田* 兵700。(*~1573)左近将監。朝倉家内衆。1568年足利義昭辻警固衆。「刃禰坂の合戦」に戦死。<朝倉孝景の小姓に窪田竹松。>
加藤* 兵150。(*~1573)弥三郎。朝倉義景の大野退去に従う。
土佐* (*~1573)掃部助。「刃禰坂の合戦」に戦死。
細呂木* (*~1573)治部少輔。「刃禰坂の合戦」に戦死。
伊藤* (*~1573)九郎兵衛。「刃禰坂の合戦」に戦死。
中村* (*~1573)五郎右衛門。三郎兵衛、新兵衛とともに従軍。「刃禰坂の合戦」に戦死。<朝倉孝景の小姓に中村平五郎。>
和田* (*)九郎右衛門。清左衛門とともに従軍。「刃禰坂の合戦」に戦死。
杉若* (*)越前の豪族・元在地荘官。大野衆。<紀州熊野の杉若無心と一門か?。>
三輪* (*)越前の豪族・元在地荘官。<朝倉孝景の小姓に三輪三郎。>
大町* (*)越前の豪族。
↓佐々布掟俊 (*~1574)井上・光林坊。丹生郡佐々牟志神社の別当家。佐々布掟蓮の息。朝倉氏滅亡後、織田家に出仕。1574年一向一揆の襲撃により戦死。平吹館城主。
片岡* (*)<朝倉孝景の小姓に片岡与三郎。>
桑原* (*)<朝倉孝景の小姓に桑原石松。>
小川* (*)<朝倉孝景の小姓に小川左衛門二郎。>

<越前国人衆>
真柄直隆 (*~1570)十郎左衛門。越前の国人衆。大太刀を振るう侍大将として有名「当代記」。1570年「姉川の合戦」に奮闘。徳川家康の臣・句坂式部に討たれる。<尾張、熱田神宮に奉納された大太刀は一見の価値ありです。ほとんど薙刀(なぎなた)みたいなもんです。>
▽真柄直澄 (*~1570)真柄直隆の弟。越前の国人衆。1570年「姉川の合戦」に奮闘。徳川家の句坂三兄弟に討たれる。
▽真柄隆基 (*~1570)十郎。越前の国人衆。直隆の息、親子で大太刀を振るう侍大将として有名。1570年「姉川の合戦」に奮闘するが討死。
↓乙部* (*)南部・勘解由左衛門。1573年織田軍に降伏する。1574年富田長繁の乱に一揆軍に攻撃される。志比庄東部、藤巻城主。
↓瓜生* (*)1573年織田軍に降伏する。1574年富田長繁の乱に一揆軍に攻撃される。
武曽* (*)坂井郡の豪族。
深町* (*)坂井郡の豪族。
黒坂景久 兵500。(*~1570*1572)勘解由左衛門・備中守。国人衆。加賀方面。1555年朝倉教景に従い出陣。1572年7月死没。<備中守は「姉川の合戦」に戦死とも。>
↓黒坂* (*)与七。1573年織田軍に降伏する。1574年富田長繁の乱に一揆軍に攻撃される。
山内* (*)足羽郡の国人。
↓千秋* (*)1573年織田軍に降伏する。1574年富田長繁の乱に一揆軍に攻撃される。
↓氏家* (*)1573年織田軍に降伏する。1574年富田長繁の乱に一揆軍に攻撃される。
雨夜* (*)1573年織田軍に降伏する。1574年富田長繁の乱に一揆軍に攻撃される。
池田* (*)隼人助。近江の陣で織田家に臣従する。内通が露見し義景に誅殺される。
↓千福* (*)1573年織田軍に降伏する。1574年富田長繁の乱に一揆軍に攻撃される。
↓北村* (*)1573年織田軍に降伏する。1574年富田長繁の乱に一揆軍に攻撃される。

<加賀衆>
堀江景忠 (*~1576*1579)本庄・藤秀。加賀・越前坂井郡の国人。子息に利茂。1531年富樫泰高の援軍として加賀に出征。朝倉景鏡の策謀により、一揆に内通の疑いをかけられ、能登に逃亡する。溝江長逸討伐後、織田家に臣従するが誅殺される。息に利茂。<堀江庶流の本庄氏。>
▽堀江宗親 (*~*1578)外様衆。越前朝倉家旧臣。越後に逃れる。1578年「御館の乱」では上杉景虎を支持。のち離反して景虎を自害に追い込む。以降の消息不明。
⇔↑溝江長逸 兵700。加賀方面。(*~1574)大炊助。朝倉同名衆。領地が堀江氏に隣接する。堀江親子が能登に退いてから加賀国境守備の重鎮。1570年頃から織田家に臣従する。坂井郡金津城主。息に長澄。長澄は秀吉馬廻のち井伊家に出仕。
溝江* (*~1573)左馬允。1555年滝沢寺領を押領し義景に叱責される。1573年織田家との「刃禰坂の合戦」に戦死。<溝江氏の分家か。朝倉義景に忠節。一門が分散するのは生き残りの為でしょうか。>

<元幕臣>
一色* 兵500。(*~1573)治部大輔。外様衆。元幕臣カ。1573年「刃禰坂の合戦」に戦死。<斎藤義龍が一色氏を称していますが、息子の斎藤龍興さんのことを示しているのでしょうか?>
武田* 兵200。(*)中務。<朝倉家に拉致され若狭衆の人質となった武田元明(元昭)か。越前に落ちていた武田信孝か。>
<その他の勢力>
長島大乗坊 (*)「刃禰坂の合戦」に戦死。<伊勢長島一揆勢力か。>
平泉寺玉泉坊 (*)北近江、大獄砦の対の砦、丁野山を守備。織田信長の馬廻衆による奇襲で大獄落城後、攻略される。
豊原寺西方院 (*~1573)1573年大獄砦を守備する。

朝倉家の他国経営
若狭国・北近江の同盟軍団
1562年 若狭侵攻 朝倉義景陣代
<朝倉景紀の軍団> 宗滴の養子・敦賀郡司 兵11.000人
武田義統 (*~1567)1562年逸見・粟屋氏が反乱し朝倉家に協力を求める。1565年再び逸見氏が反乱。1565年足利義輝が三好三人衆に討たれ、義昭を武田家に匿う。1567年病死。息に元明。義兄弟に将軍・足利義輝、足利義昭。32歳。
⇔▽山形秀政 (*)(武田)・山県・盛信。武田氏一門。若狭守護・武田元信の息。小浜の豪族・山県家に養子。水軍の将。1565年逸見水軍を破る。1575年7月に上洛し京都相国寺に信長に訪礼。8月「越前一向一揆征伐」に海上より従軍。
粟屋氏・逸見氏の反乱 1562・1565
⇔粟屋勝久 (*)越中守。三方郡の豪族。若狭衆。若狭・武田元明の四家老のひとり。小浜を支配。1562年守護・武田氏に反乱。1563年朝倉家敦賀郡司・朝倉景光の討伐軍と抗争。1573年織田家の越前侵攻に先陣。主・元明を保護する。佐柿国吉城主。
▽山本* (*)豊後守。粟屋家家臣。1563年朝倉家の侵入を田辺とともに兵300人で撃退する。
▽田辺* (*)半大夫。粟屋家家臣。1563年朝倉家の侵入を山本とともに兵300人で撃退する。
⇔逸見昌経 (*~1581)駿河守・入道宗全。大飯郡高浜の豪族。高浜砕導山城城主。1562年武田氏に反乱。水城、平山城を築城。1565年再度挙兵。高浜城主。
⇔熊谷直之 (*~1595)平・大膳亮・治部大夫・治部丞・直澄。三方郡の豪族。1567年朝倉家の若狭侵攻により、義統の遺児・武田元明を奪取される。1573年織田家の越前侵攻に先陣。主・元明を保護する。大倉見城主。三方郡伊崎城主。
▽小原* (*)帯刀。武田家臣。1567年朝倉家の若狭侵攻に抵抗するが敗北。義統の遺児・武田元明を奪取される。
▽野田* (*)甚大夫。武田家臣。1567年朝倉家の若狭侵攻に抵抗するが敗北。義統の遺児・武田元明を奪取される。
<のち織田家に臣従した若狭衆> 惟住(丹羽)長秀の軍団
⇔内藤勝行 (*)筑前・重政。若狭守護代。勝高の息。狭守護・武田元光の孫。義統の従兄弟。1556年武田信豊の奏者、武田四老のひとり。1575年7月に上洛し京都相国寺に信長に訪礼。8月「越前一向一揆征伐」に海上より従軍。
⇔白井勝胤 (*)民部丞。石見守・光胤の息。

<若狭国>
三方宝泉坊 (*)1573年朝倉家から離反し織田方。
<近江国>
田子氏久 (*~1573)左近兵衛尉。朝倉家同心。湖北の豪族。1573年三方の離反を義景に連絡する。

『朝倉始末記』
< 1573年 刀禰坂撤退戦・殿軍戦死者>
(夜戦)
朝倉掃部助、山崎長門守吉家、子息・山崎小次郎、七郎左衛門吉延、山崎肥後守、弟・珠宝院、御和田三郎左衛門、御和田清左衛門吉次、
鰐淵将監吉広、神九郎兵衛吉久、山内弥五左衛門、壁田図書吉澄、壁田七郎吉久、清水三郎左衛門、岩崎宗左衛門、増井五郎左衛門、
木田宗兵衛宗俊、田房十郎左衛門秀勝、西島彦五郎吉尚、鳥居与七。
(明朝) 敵=前田・佐々・福富・木下隊
朝倉三郎景胤、朝倉孫三郎景健、朝倉彦四郎、河合安芸守、詫美越後守、朝倉治部大輔、朝倉彦四郎、朝倉土佐守、一色治部大輔、窪田将監、
細呂木治部少輔、伊藤九郎兵衛、中村五郎右衛門、中村三郎兵衛、中村新兵衛、長崎大乗坊、引檀六郎三郎、小泉四郎左右門、神南宮内助、
溝江左馬允、青木隼人祐、斎藤右兵衛大輔龍興。朝倉彦四郎(犬間源三郎長吉)。
(捕虜)
印牧弥六左衛門尉。
(逃走)
朝倉三郎景胤、朝倉孫三郎景健。
(義景、大野行従者)
桜井新左衛門、平井三位(父子三人)、築山小五郎、藤田忠左衛門、加藤新三郎、鳥居兵庫助、高橋新助、山内七郎左衛門(親子)、
斎藤兵部少輔、斎藤新三郎、小川三郎左衛門(父子)、小川六郎左衛門、半田宗兵衛(父子)、今度(今藤)源三郎、九津見清右衛門、西山僧真勝、
(義景母、高徳院の従者)
窪田新右衛門、中村平五郎、石来民部丞、上田五郎右衛門、島津此人。
(大野六坊、賢勝寺行)
小川六郎左衛門、小川三郎左衛門(父子)、加藤新三郎、高橋、鳥居。
斎藤兵部少輔、今藤源三郎、九津見清右衛門、西山僧真勝。


桂田長俊の家臣団は別ページに、

2016年10月02日