戦国大名 六角義治の家臣団と軍団

南近江・六角佐々木家、六角定頼、義賢の家臣団

京極秀満の挙兵。
1467年「応仁の乱」東西両軍の大名家の動向↓

六角高頼、1475年に京極高清、多賀清直・宗直、土岐成頼、斎藤妙椿、斯波義廉の援軍を得て、
京極政経、多賀高忠を破り1478年「近江守護職」を得る。

六角(近江守)家の家臣団
 近江国守護大名家

<六角家 歴代当主>
六角久頼 (*~1456*57)近江守。六角満綱の息。1445年守護・持綱が弟の時綱により討たれ、1447年幕府の命で久頼は還俗し、久頼が時綱を討伐し家督。家臣代表の伊庭満隆の補佐を受ける。のち京極持清・政高親子と近江守護職を争う。1456年10月京極持清の圧力により自害。8代将軍・足利義政の命で一門の政堯が家督。息に高頼。

六角時綱 (*~1447)持綱の弟。比叡山が後援する国人衆一揆に擁立され、父・満綱や兄・持綱と対立。1444年兄・持綱に反乱。久頼により討たれる。息に政堯。

▽六角政堯 (*)佐々木・四郎・(政高)。時綱の息。1458年幕府が高頼(亀寿丸・行高)を追討し家督継承。1460年重臣・伊庭満隆の息を討つ。1460年将軍・義政の命で逆に家督を廃止される。1467年「応仁・文明の乱」に京極氏と結び東軍。1492年政堯の養子・虎千代(虎夜叉)が守護補任される。<同時代の京極政経が同名の「政高」を名乗る為、佐々木政高の事績が重複したりややこしい事になってるかもしれませんね。それに高頼と名乗る一門のライバルが正統となるために敗者の政高の名を「尭」に変えたりするかもしれません。「高」は当時加冠の際に与えられた意味のある偏諱の名なのでしょう。>

六角政信 (*)佐々木・四郎・雅延。持綱の息。叔父・時綱は父の仇。政堯追放後は高頼が家督を相続し、その後見。将軍・義政に重用される。「応仁の乱」に最初西軍。のち東軍。六角高頼と抗争。

(第2世代) 1487年「鈎(まがり)の陣」9代将軍・足利義尚を撃退。


 1475年六角行高(高頼)は、京極高清、多賀清直・宗直、土岐成頼、斎藤妙椿、斯波義廉の援軍を得て、幕府軍・京極政経(政高)、多賀高忠を破り1478年「近江守護職」を得る。

六角高頼 (*~1520)亀寿丸・四郎・右兵衛・大膳大夫・行高・入道。久頼の息(政頼の息とも)。鎌倉・古河公方足利成氏の娘婿(山名持豊の娘婿とも)。1456年元守護家・持綱の息・政信、持綱弟・時綱の息・政尭と家督を争う。8代将軍・義政により擁立された政堯と家督争い。1458年幕府から追討される。1460年政堯の家督が廃止され、六角惣領を相続。山内政綱、伊庭貞隆が補佐。1467年「応仁・文明の乱」に西軍。1469年京極持清が近江守護に任命される。京極家守護代・多賀高忠と抗争。1478年前将軍・足利義政が家督相続を許可。京極持清の死により一国支配。1487年六角高頼部下の幕府領横領に9代将軍・足利義尚「六角征伐」、「観音寺城落城」。両職に山内・伊庭氏。甲賀谷潜伏、義尚病死のち一時和睦。1491年第10代・足利義稙(義材・義尹)の追討を受ける。甲賀谷潜伏。1492年各守護内衆連合軍、織田・浦上・逸見氏に「愛知河原の合戦」に敗北。1492年政堯の養子・虎千代が守護補任される。1493年「明応の政変」管領「半将軍」・細川政元が山内就綱を守護に補任。美濃斎藤家の後援で山内軍を撃破。1494年土岐家の内紛に介入、石丸利光を後援。越前の朝倉貞景、京極高清、斎藤利国(妙純)と抗争。北畠政郷と同盟し撃退。1497年美濃土岐家の内紛に介入し京極高清と対立。京極軍を撃破。細川政元と和睦、1498年北陸からの足利義稙軍を近江坂本で撃破。1502年反乱した重臣・伊庭貞隆を攻撃するが「半将軍」・細川政元の介入により敗北。1506年氏綱に家督を譲り隠居。1508年足利義高(義澄)を(伊庭氏が?)保護。1511年義澄派の伊庭氏、九里氏を破り細川高国を後援。高国、大内義興が擁する足利義稙に従う。1514年浅井亮政の援助で伊庭氏の反乱。1516年守護代「伊庭貞説の反乱」。1518年隠居、定頼が家督継承。息に氏綱、定頼、(大原)高保、(梅戸)高実、(和田)高盛。娘婿に足利義澄、今出川季孝、京極材宗。養子に土岐成頼の息(2男)。59歳。

↓▽山内政綱 (*~1491)宮内大輔。六角家一門衆。山内勝綱の息。当主・六角高頼を補佐。1467年「応仁の乱」に軍功。当主・高頼に代わり「御名代」として軍事指揮権。1487年第9代将軍・足利義尚の「六角高頼征伐」に対しても旗頭として六角軍を率い幕府軍と敢闘。1491年足利義稙(義材)の第二次「六角征伐」に、大津園城寺に呼び出されて将軍・義材(義稙)に謀殺される。

↓▽山内就綱 (*~1506*)六角・小三郎・宮内大輔。六角家一門衆。政綱の息。1491年父の死により家督。幕府軍の攻撃により近江から脱出。1493年幕府管領・細川政元により近江守護に補任されるが、斎藤家の後援を得た旧主・六角高頼に敗北し失領。1502年伊庭貞隆の反乱に参加。のち高頼と和睦し復帰。

⇔▽梅戸* (*)(田光・富田)・民部少輔・(高貫?)。伊勢豪族。伊勢平氏の後裔。北伊勢の豪族。「北方一揆」の首領。六角高頼の息・高実を養子とする。梅戸城主。千草氏、春日部氏と同盟し北畠氏と抗争。

⇔大原高盛 (*~1537*1548)(六角)・次郎・中務大輔・高保。六角高頼の息(3男)。大原備中守政重の養子。実子の高方が早世。養子に義賢の息・義定の息・高賢(賢水)。一門庶家に金綱。<義賢の息・高定を養子としたとも。高定が養子に出てから本家に呼び戻されてややこしくなるか?><大原氏の継承が六角次郎の系譜のはじまりか。>

<甲賀・伊賀衆>「鈎の陣」参戦、甲賀衆53家。夜襲勲功21家。
▽望月* (*)出雲守。1487年「長享の乱」に六角高頼に与力。甲賀衆を率いて将軍・義尚の陣所・真宝館を襲撃。

(夜襲21家) 望月・伴・和田・大原・上野・内記・美濃部・池田・山中・服部・岩室・大野・鵜飼・大川原・隠岐・神保・頓宮・佐治・滝・高峰・芥川。

(甲賀53家残り32家)
三雲・多羅尾・大山・牧村・小川・岩根・上田・高野・葛木(かつらぎ)・杉谷・新庄・黒川・野田・上山・長野・杉山・饗庭・大窪・山中・野田・針・夏見・平子・倉治・小泉・鳥居・宮島・儀峨・青木・高山・八田・山上。
 亰兆家の変遷。

(第3世代)
六角氏綱 (1492~1518)(鎌倉足利)・亀寿丸・四郎・近江守。高頼の嫡男。母は足利成氏の娘。将軍・足利義澄の妹婿。足利政知(義澄の婿とも)の娘婿。義植に追われた足利義澄を近江岡山城に迎える。1502年伊庭貞隆を攻撃するが幕府管領・細川政元の介入により敗北。1506年細川政元の跡職争い澄之、澄元の対立に上洛。細川家の抗争に戦傷。1516年「伊庭貞説の乱」は弟・定頼が鎮圧。病気の為、27歳で死去。息に六角義実、定頼(養子か?)、(義久?)。娘婿に二条晴良、京極材宗。

▽六角定頼 (1495~1552)慈照院承亀・四郎・吉侍者・弾正忠・弾正少弼・管領代。高頼の息(次男or三男)。氏綱の弟。1499年京都相国寺・慈照院に出家。1506年父の隠居と兄・氏綱の戦傷により家督。1511年伊庭氏を破り細川高国を支持。1516年「伊庭貞隆の乱」鎮圧に軍功。1518年兄・氏綱に替わり家督を継承し六角氏惣領。1520年細川澄元に敗北した高国を後援し上洛「江口の合戦」に軍功。10代将軍・足利義稙に近侍。細川政賢を討つ。細川高国とともに12代将軍・足利義晴を保護。1522年蒲生秀紀の音羽城を攻撃。
 1525年京極高清の家老・浅井亮政と合戦。小谷城攻囲中に伊庭貞説の反乱。1527年細川晴元・足利義維の上洛により、細川高国・足利義晴を近江に保護。1530年播磨で挙兵した細川高国に呼応。高国派の内藤彦七を後援。晴元方の木沢長政と抗争。1531年同盟者・細川高国が切腹。1532年堺公方政権が崩壊。足利義晴、細川晴元と結び、山科本願寺焼き討ち。1534年浅井亮政が江北の盟主に。「箕浦河原の合戦」に浅井軍を撃破。1537年足利義晴により近江守護。1537年「法華一揆征伐」に上洛。
 京極家の高広(高延)、高吉(高慶)の家督争いに浅井亮政の擁立する京極高広を「太尾山合戦」に破り、1538年佐和山城を攻略。1542年亮政死去。田屋明政・浅井久政の家督争い。1544年久政室を人質。浅井家を後援。細川晴元と三好長慶の対立に和睦を仲介。1546年義晴により管領代(準管領職)任命。若狭武田氏と京極家との関係改善の縁組を仲介。将軍・足利義晴を後見。「細川氏綱の乱」に足利義晴・義輝(義藤)親子を保護。細川晴元を後援。1549年観音寺城下で楽市。1552年に死去するまで35年間六角家を纏める。娘婿に細川晴元、土岐頼芸、北畠具教、武田信豊。<1518年高頼の本格隠居により、勇躍歴史の英雄に躍り出る。>

⇔▽梅戸高実 (1502~1561)六角高実・孫九郎・左衛門尉・左近大夫。六角高頼の息。定頼の弟。北伊勢の「北方一揆」の有力者・梅戸氏に養子入り。息に高宗、実秀、高資。養子に(土岐)光高。<北伊勢を巡り、守護・土岐(世保)家、一色家との抗争。>

⇔土岐頼芸 (*)六角定頼の娘婿。斎藤道三に美濃を追われ、六角家客将。妹婿に六角義賢(承禎)。

⇔▽新庄直昌 (1513~1549)(藤原)・蔵人。湖西の豪族、今井氏分流。近江高島郡、新庄城主。直寛の息。室は久我氏の娘。1538年父の死により家督。坂田郡朝妻城を築城。細川家の内紛に六角氏の先陣として派遣される、細川晴元配下の将・三好政長と前線を維持。三好長慶との「江口の合戦」に戦死。近江朝妻(湖東の朝妻湊)城主。息に直頼、直忠。<新庄は代々、武者働きの家系なのでしょう。><藤原秀郷流で蒲生家と同族ということになります。>

⇔武田信豊 (1514~1556*)彦二郎・伊豆守・治部少輔。若狭守護職。元光の息。六角定頼の娘婿。息に義統、信方、信景、信由。

⇔▽武田義統 (1526~1567)(六角)・彦二郎・伊豆守・大膳大夫・信統。母は六角定頼の娘。室は足利義晴の娘。1556年家臣・粟屋勝久の反乱鎮圧。1561年逸見政経の反乱。朝倉義景の後援を得て鎮圧。1566年足利義秋が若狭に訪問。息に元明。

<六角(佐々木)近江守家一門衆>
六角義秀 (1532~1569)修理大夫。六角嫡流家。六角氏綱の息。叔父・定頼が家督継承。1553年足利義輝と三好長慶の合戦に負傷し隠居。従兄弟の義賢が惣領職。のち織田信広の娘婿(丹羽長秀とは義兄弟ということに)。息に六角義郷。<六角家を倒した織田信長様に再び擁立され、六角嫡流か。細川昭元、畠山昭高等と同様の貴種コレクト扱いか。名族が織田家に従うことで天道は我にということを証明したのでしょうか。>

▽六角義郷 (*~1623)近江守・左兵衛佐・義康。母は織田信広の娘。足利義昭の養子となる。

▽矢島* (*)越中守。六角家家臣。近江野洲郡守山の豪族。1566年甲賀の和田維政館から矢島少林寺に足利義秋(義昭)を迎える。のち義昭は西近江に侵攻した三好長逸の圧力で越前に移る。<足利義昭の庶子が矢島秀行と名乗るそうですが・・、なにか恋物語があったんでしょうか。><源義朝と関係の深かったの近江源氏・八島氏と何か縁があって将軍を迎えることとなったのでしょうか。>

↓▽永原重隆 (*~1550)太郎左衛門・越前守。六角家家臣。1537年「法華一揆の乱」に進藤貞治とともに上洛。延暦寺と法華宗の抗争を調停。1540年細川晴元の後詰に上洛。1550年六角義賢に従い「久米田の戦い」に参陣。松永軍に敗北し戦死。勝軍地蔵山城主。<強敵・松永氏の前に散る。>

↓▽永原重澄 (*~1561)安芸守。六角家家臣。六角義賢に従い、畠山高政の後詰として、1万兵を率いて出陣。「地蔵山の攻防」で松永軍に敗北し戦死。北白川・勝軍山城主(1546年足利義晴が改収増強)。<宿敵・松永氏の前に散る。>

▽三雲定持 (*~1570)三郎左衛門・対馬守。行定の息。六角家家臣。1561年「地蔵山の攻防」に弓衆300兵を率い松永軍を撃退。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。1570年六角義治に味方し「野洲の合戦」に討死。息に賢持、成持。<1525年六角定頼の動因に従う譜代家。>

《個人的感想》 六角家が嫡流・近江守家、分家・弾正家で分かれていたというのは、予想してなかったので新鮮です。ありえなくないですよね。京極・六角で分かれているし、それが更に細かくなっても。要はその時期の実力者は誰?ってことで。
 織田信秀も器量で国を束ねてましたし。
六角家の崩壊が早かったのも、近江の国人領主の独立的な感じを束ねるのが至難の業だったからでしょう。

織田信長も、近江国人からなる「安土衆」を束ねる事が容易でなくて、本能寺の兵力不足となってしまったのでしょうか・・。

<「応仁の乱」東軍・西軍><1449~1473>
足利義政   伊勢貞親  細川勝元  今川範忠  山名宗全  大内政弘  足利政知   足利政氏
足利義視  北畠教具  渋川義廉  土岐成頼  斎藤妙椿  一色義直
  山名持豊の家臣団と軍団
<1473~1489>
足利義尚 伊勢貞親  細川勝元・斯波義敏    山名宗全    一色義遠
                 細川成之・斯波義良・吉良義真・東条国氏
                         甲斐敏光
                         今川義忠
                              京極持清  六角高頼
 1475年京極高清、多賀清直・宗直、土岐成頼、斎藤妙椿、斯波義廉の援軍を得て、京極政経、多賀高忠を破り1478年「近江守護職」を得る。
                     一色時家
1487年「長享の乱」「鈎の陣」1489年足利義尚死去。
<1490~1491>
足利義視・義材 
<1492~1493>             波多野時成 牧野古白
足利義材(義稙)
               <1493~1507>
                細川政元          山内就綱
                      京極政経・材宗
                  朝倉貞景・京極高清・斎藤利国
<1493~1508>                                     <伊豆堀越政変>
足利義澄:政知の息            今川氏親・伊勢長氏  →→→→   足利茶々丸
                                               伊勢長氏(早雲)
                                六角定頼 vs 伊庭貞隆
                   松平長親 ←←←←
1508年覇者・大内義興の上洛。足利義材、管領・細川高国の時代。
斯波(一色)義達、遠江守護職罷免。今川氏親、遠江守護。
<1509~1521>       細川高国    
足利義稙(義材)                              大内義興<1508~1518>
                   斯波義達・大河内貞綱
                         今川氏親
1518年大内義興、中国山口に帰還。
<1521~1546>      <1508~1527>
足利義晴:義澄の息   細川高国           六角定頼          北条氏綱
                     京極高清・高慶
                         京極高峯・浅井亮政
1530~31年細川高国、畿内奪還戦。赤松政祐の裏切りにより敗北。
               <1527~1549>
足利義維:義晴の弟   細川晴元・細川持隆・三好元長
                                六角義賢 1552年家督相続。
                            三好長慶
足利義輝:義晴の息   細川晴元
                                六角義治  後藤賢豊<*~1563>
 
湖北との国境の豪族、今井氏・堀氏・新庄氏・河瀬氏・高野瀬氏・多賀氏などは六角家の力が弱まれば独立傾向にあり。
1563年「観音寺騒動」で、多くの国衆が離反。
東軍の戦奉行、六角家家宰、山内政綱。

 

<近江守、旧守護代家 佐々木一門衆> 目賀田・井河・楢崎・蒲生・伊庭ほか。
目賀田* (*)(佐々木)。比牟礼八幡宮神職。南北朝期。南近江守護代。目賀田山(のち安土)領主。目賀田城主。<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。分家に三井氏。>

▽目加田清綱 (*)(佐々木)・摂津守・綱清。比牟礼八幡宮神職。六角義賢の代の当主。事績不明。目賀田山(のち安土)領主。目賀田城主。<後藤氏の被官・杉山藤八に追われ比牟礼八幡宮神職を奪われる。>

▽目賀田忠朝 (*)1537年近江比牟礼(日触)神社の札配布の件で六角義賢と交渉。目賀田山(のち安土)領主。目賀田城主。

▽目賀田貞政 (*)のち織田家臣。1576年目賀田山(安土山)を信長が接収。息に堅綱。孫に堅政(織田家臣)。
(嶬峨) 甲賀53家のひとつ。1487年越前守軍功。

⇔嶬峨* (*)(佐々木)・越前守。南近江守護代。甲賀五十三家のひとつ。六角義賢、義治、織田信長に出仕。甲賀郡嶬峨城主。<のちの蒲生家臣に儀峨忠兵衛あり。>

⇔山内信詮 (*)(佐々木)・五郎左衛門尉・備中大夫判官・定詮。南北朝期。六角時信の息。六角氏頼の出家により、2歳の千寿丸を後見する。近江守護。息に義重。<六角氏の「救世主」的な武将。子孫は建部氏。><「判官」、丹羽長秀と同じ五郎左衛門尉。先例を踏襲していたのか・・。>

⇔↑山内政綱 (*~1491)(佐々木)・宮内大輔。六角家一門衆。山内勝綱の息。当主・六角高頼(亀寿丸・行高)を後見・補佐。1467年「応仁の乱」に軍功。当主・高頼に代わり「御名代」として軍事指揮権。1487年第9代将軍・足利義尚の「六角征伐」に対しても旗頭として六角軍を率いる。1491年足利義稙の第二次「六角征伐」に、大津園城寺に呼び出されて将軍に謀殺される。<信詮の活躍を踏襲して「六角氏の救世主」。>

↑山内就綱 (*)(佐々木)・宮内大輔。六角家一門衆。政綱の息。1491年父の死により家督。幕府軍の攻撃により近江から脱出。1493年幕府管領・細川政元により近江守護に補任されるが、斎藤家の後援を得た旧主・六角高頼に敗北し失領。

馬淵公綱 (*)(佐々木)。南北朝期。南近江守護代。

馬淵義綱 (*)(佐々木)。南北朝期。南近江守護代。

馬渕宗綱 (*)(佐々木)・山城守・山城入道。佐々木一族。馬淵氏は元守護代家。蒲生郡馬淵庄(現・近江八幡市)を領する。宗綱の娘婿は蒲生定秀。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。小堤城山城主。

↓▽馬淵建綱 (*)(佐々木)・兵部少輔。馬淵氏は元守護代家。蒲生賢秀は従兄弟。親後藤派。1563年「観音寺騒動」に当主・義治から離反。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。小堤城山城主。<尾張織田家の侵攻に滅亡とも。><京極高次家臣に馬淵氏あり。>

(六角守護代家)
伊庭満隆 (*)(佐々木)。六角久頼・政堯の家老。近江守護代。高頼、政堯の家督争いを誘発し六角家の実権を握る。1460年嫡男を主・六角政堯により殺害される。幕府の裁定で当主は高頼に代わる。跡職は行隆が継承。息に貞隆。

伊庭行隆 (*~1468?)(佐々木)。六角高頼の家老。「応仁の乱」に東軍。観音寺城留守居。京極持清・勝秀親子と抗争。1468年落城。息に貞隆。<1468年から行隆に代わり当主は貞隆か。>

伊庭貞隆 (*~1520)(佐々木)・六郎・出羽守。南近江守護代。神崎郡伊庭の領主。伊庭満隆の息。山内政綱とともに六角高頼を補佐。1465年8代・足利義政の息「義尚の誕生祝い」に上洛し挨拶。1467年「応仁・文明の乱」に西軍。1487年第9代将軍・足利義尚の「六角征伐」撃退に軍功。1491年足利義稙の第二次「六角征伐」撃退に軍功。1495年六角家の旗頭として美濃に遠征。1502年宗家・六角高頼が伊庭領を攻撃。細川政元の後援で赤沢軍とともに六角高頼を攻撃。1507年細川政元の死により、将軍・足利義澄が伊庭家を頼る。1511年義澄派の岡山城主・九里信隆が高頼に討たれる。1514年九里浄椿と共に「伊庭の乱」。義澄の死後に六角惣領家からの圧迫。1516年六角氏綱に反乱。度々主家に謀反する。息に貞説。岡山城を失う。

▽伊庭貞説 (*)(佐々木)。伊庭貞隆の息。1514年九里信隆の息・浄椿と結んで反乱。近江岡山城に籠城。1514~16年北近江の浅井亮政と結び六角氏と抗争。1520年岡山城落城。1525年九里三十郎を擁立し、六角定頼に反乱「岡山城奪取」。「黒橋の戦い」に敗北。

楢崎賢道 (*)(佐々木)・太郎左衛門尉。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

能寺忠広 (*)野寺。六角定頼の臣。観音寺奉行衆。後藤高雄とともに奉行。跡職に忠行。

▽能寺忠行 (*)野寺。六角定頼の臣。観音寺奉行衆。忠広の跡職を継承。後藤高雄とともに奉行。

(水茎岡山城)
九里信隆 (*~1514)くのり・備前守。将軍・足利義澄を岡山城に保護。足利義稙の追討令で管領・細川高国、京極高清、六角氏綱に攻囲されるも、伊庭貞隆が救援。将軍・義晴は岡山城で誕生した。水茎岡山城主。<将軍が逃げ込む家柄・・・。>

▽九里浄椿 (*~1514)くのり。信隆の息。伊庭貞隆、貞説親子と結んで反乱。高頼に暗殺される。水茎岡山城主。

▽九里宗恩 (*~1525)くのり・伊賀入道・宗忍。後藤氏の被官・杉山藤三郎に討たれる。与力に西川又次郎。

《個人的感想》 足利義澄を保護する九里氏。和田惟政のところに逃げ込んだ足利義昭みたいなものでしょうか。しかし、管領・細川氏の軍勢を一土豪がしのげるとは思えません・・。守護代・伊庭じゃなくて何故、九里。九里氏って、マイナーすぎますけど実は近江で伊庭氏以上の実力者なのでは?。
若狭に向って九里街道などあるので交易に関わる一族(近江商人)だったのでしょうか?
 伊庭と九里、山中と仁木、六角嫡流に逆らう反抗勢力のようです。

<1525年 軍代・六角定頼(~1552)の軍事編成>
 1525(大永5)年、対浅井亮政戦 守=佐々木一門、殿=朽木氏。守護代家。
1525年「小谷城攻略」浅井亮政を美濃に落とす。

先陣 佐々木五郎 <朽木殿>
右翼軍 進藤・高野瀬・山崎・永田(刑部)・目賀田・池田・後藤・三雲・上城
左翼軍 三井・平井・下笠・楢崎・三上・永原
後詰 田中 <朽木殿>・横山 <朽木殿>・山崎<朽木殿>・馬淵
    堀(佐々木能登守)・永田(佐々木伊豆守)・永田(佐々木能登守)

1531年「六角定頼湖北出陣」浅井亮政を攻撃
<箕浦城(今井合戦)>今井秀俊自害。

<鎌刃城(堀氏投降)
1538年「湖北出陣」京極高清の死により。盟主を失った浅井家を攻撃。
永田伊豆守・佐々木能登守参陣。
1541年「太尾山(米原山)城の戦い」城主・米原氏と浅井久政を破る
1543年「地頭山の合戦」浅井久政を破る。久政室、観音寺城に人質。

<六角義賢(1552~1561隠居)の軍事編成>
1560年「野良田の合戦」浅井長政の独立、肥田城・高野瀬秀隆の離反。『江濃記』・『浅井三代記』
六角軍2万2千兵。
先陣=蒲生右兵衛大夫定秀・(結解十郎兵衛)・永原太郎左衛門重興・進藤山城守賢盛・池田次郎左衛門景雄
第二陣=楢崎壱岐守・田中治部大夫・木戸小太郎・和田玄蕃・吉田重政
本陣=六角義賢・後藤賢豊・(平井・和田和泉守)

1563年「観音寺騒動」六角義治、後藤賢豊親子を暗殺。
六角義治=(実行犯)種村三河守・建部日向守。
<1563年後藤派、浅井家に離反>
永田賢弘・三上常安・池田景雄・平井武定・進藤賢盛・後藤高安。

1560年「野良田合戦」、1565年「浅井長政の湖西討伐」高島・朽木家の敗北。
(高島七頭) 惣領家・佐々木越中守後裔、高島家。 安曇川河口舟木湊・南の勝野湊・北の木津湊に勢力。
高島高賢 (*~1565*)佐々木・越中守・大蔵大輔。幕府奉公衆。高島七頭の惣領。1565年浅井領に侵攻するが敗北する。跡職は朽木元綱が継承する。1568年浅井と和睦し、1570年織田軍の侵攻により没落とも。<高島(佐々木)高信の後裔。>

横山* (*)(佐々木)。舟木城主。高島七頭のひとつ。<湖東の横山城、横山氏は一族か?。新庄氏の様に琵琶湖を挟んで両方に勢力を持ち湊をおさえているかもしれません。>

平井頼氏 (*~1565*)能登氏。高島七頭のひとつ。1552年能登殿、六角定頼の太尾山城攻めに参陣。1565年浅井領に侵攻するが敗北する。

朽木晴綱 (*~1565*)六角家家臣。高島七頭のひとつ。息に元綱。1565年浅井領に侵攻するが敗北する。

永田秀宗 (*~1565*1573)高島七頭のひとつ。1552年永田伊豆守、六角定頼の太尾山城攻めに参陣。1565年浅井領に侵攻するが敗北する。1570年「志賀の陣」に朝倉勢に加勢。1573年織田軍の侵攻により敗北。

田中重政 (*~1565*)六角家家臣。高島七頭のひとつ。1565年浅井領に侵攻するが敗北する。<田中吉政の父が田中重政ですが同姓同名の人物でしょうか。>

山崎* (*~1565*)兵庫頭。高島七頭のひとつ。1565年浅井領に侵攻するが敗北する。

吉武* (*~1565*)壱岐守。1565年高島七頭に従い浅井領に侵攻するが敗北する。

田屋* (*~1565*)淡路守。海津衆(饗庭・新保・田屋)のひとつ。1565年高島七頭に従い浅井領に侵攻するが敗北する。<浅井家の一門になることもあった。>

植田* (*~1565*)甚之丞。1565年高島七頭軍に参加し浅井長政と抗争。のち長政に敗れ逃亡。

木戸秀氏 (*)越前守・佐野十乗坊。六角のち浅井に出仕。反織田。1573年織田軍(丹羽・中川・明智)により攻撃される。木戸城主。

田子氏久 (*)左近兵衛。朝倉方。1574年織田軍(丹羽・中川・明智)により攻略される。木戸城主。

田中定光 (*)左衛門尉。1574年織田軍(丹羽・中川・明智)により攻略される。田中(比良)城主。


≪個人的感想≫ 朽木谷の朽木氏のみは将軍家を加護した功績があるため罪を免れた様子。1565年の騒乱で伊勢や尾張、そして美濃に逃げ込んだ湖西衆がいるかもしれませんね。


<軍代・六角弾正忠家(義賢、義治)の家臣団>

(第4世代) 近江南半国の戦国大名(1550~1568頃) 1560年浅井長政の独立。
六角義賢 (1521~1598)左京大夫・入道承禎。定頼の息。能登守護・畠山義総(義綱の娘?)の娘婿。土岐頼芸の娘婿。1540年伊勢千草城攻略に初陣。1549年管領・細川晴元に従い上洛。三好長慶と戦う。山城北白河、山城五条に出征。将軍・義輝、三好長慶の和睦を仲介。1552年定頼没後、家督継承。浅井久政の攻撃を「太尾山の合戦」に撃退。浅井方の地頭山城を攻略し、浅井久政に勝利。家老・平井定武の娘婿に浅井賢政(長政)を迎える。将軍・足利義輝を保護。三好家と抗争。1556年斎藤義龍と同盟。1556・57年伊勢柿城の沼木氏を討伐。家督を嫡子・義弼(義治)に譲渡。1558年三好長慶を圧倒し和睦を結び、細川晴元・足利義輝を上洛させる。
1559・60年浅井長政(賢政)の独立。斎藤義龍娘と六角義治との縁組に反対し斎藤家との同盟破棄。浅井方の高野瀬秀澄の「肥田城攻略」に、後詰の浅井長政に「野良田の合戦」で大敗。美濃斎藤家と同盟を復活。佐和山城を奪取するが磯野員昌に攻略される。1561年紀伊国の畠山高政と同盟し細川晴之を擁立し上洛。1562年に反三好同盟者の畠山高政・湯川直光・根来衆と泉州「久米田の合戦」に三好義賢を討つ。義賢(実休)の死後出家し入道承禎。1562年42歳で隠居。三好長慶により細川晴元が摂津富田普門寺に幽閉される。紀伊の畠山高政と結び三好長慶と抗争。京都を占拠するも、足利義輝は八幡に避難。1563年重臣・後藤賢豊誅殺の「観音寺騒動」で国衆と抗争、三雲城に退去。1566年浅井長政の南進に「蒲生野の合戦」に敗北。1567(永禄10)年重臣から提出された六角「式目」を承認。当主の独断専行を制約される。1568年足利義昭の上洛に甲賀に逃れる。1570年信長に降伏。息に義治(義弼)、義定、娘婿に畠山義綱。
姉妹の婿、義兄弟に細川晴元、土岐頼芸、北畠具教、武田信豊。<土岐家との同盟重視。>

↓▽離相庵将鶴 (*)三井・入道。六角家家臣。「六角氏式目」に署名。<武門からの出家僧も重臣会議に関わる様子です。>

↓▽真光寺周揚 (*)池田・入道。六角家家臣。「六角氏式目」に署名。<武門からの出家僧も重臣会議に関わる様子です。>

⇔▽浅井久政 (*~1573)亮政の息。1544年妻(阿古)と息子(猿夜叉)を観音寺城に人質に出す。1553年小谷に帰還。1560年家臣・赤尾氏を中心とする政変で、息・長政が浅井家当主となり隠居。実権を無くす。

1562年三好義賢を討ち、六角氏全盛期。

(第5世代)

六角義治 (1545~1612)佐々木・四郎・右衛門尉・義弼・義堯。六角義賢の息(嫡男)。1557年家督。1560年足利義輝の意向で伊勢貞良が仲介し、斎藤義龍娘との縁組を進めるが父・義賢の反対で破談。浅井家との「野良田の合戦」に敗北のち義龍娘と婚姻し同盟。1562年父の隠居により正式に惣領相続18歳。1563年「観音寺騒動」に後藤賢豊・又三郎親子を誅殺する。蒲生氏の日野城に退去。1566年浅井長政の南進に「蒲生野の合戦」に敗北。1567(永禄10)年重臣から提出された六角「式目」を承認。当主の独断専行を制約される。1568年織田信長の上洛軍に攻撃され、「観音寺城退散」により拠点を失う。甲州に落ちる。1582年武田家滅亡に逃亡。1574年狛修理亮を通じ武田勝頼、上杉謙信と同盟。甲賀衆・黒川氏に指示を発している。のち秀吉に出仕。<父に反して斎藤家との同盟重視。><弟・義定に家督が移ったそうですが、1574年時点でも織田家と戦う意思があるようです>

↓▽狛 * (*)修理亮。狛丹後守の弟。六角家家臣。六角義治の側近。1574年2月武田勝頼、上杉謙信への同盟の使者。

↓▽木村* (*)筑後守。六角義治の重臣。1570年織田信長からの上洛催促の使者を受ける。<信長に信頼された安土町奉行の木村家との関係が気になります。><明智光秀、羽柴秀吉家中に存在する木村家へと繋がるか。>

↓▽種村* (*)三河守。六角家家臣。六角義治の側近。六角義治の命で後藤賢豊親子を討ち取る。

↓▽建部* (*)日向守。六角家家臣。六角義治の側近。六角義治の命で後藤賢豊親子を討ち取る。

六角義定 (1547~1620)佐々木・大原・次郎・義貞。六角義賢の息(次男)。大原高保の養子。息に高賢、高和。<高和は江戸幕府旗本。><梅戸氏を相続した六角氏にも次郎あり。武田勝頼養女の婿で甲斐恵林寺に逃亡した六角次郎とは・・。>

⇔六角賢永 (*)佐々木・中務大夫。六角一門衆。1568年甲賀の黒川氏に保護され、辻和泉守とともに甲斐国に落ちる。

⇔六角* (*)若狭守。六角義賢の長男(庶子?)。柴田勝家に出仕。<義賢の庶長子か。北庄留守居の小島若狭守と同一人物なのでしょうか?(出身地が違う・・)><事績もよくわかりません。>

⇔武田信景 (*~1582)若狭・五郎・右衛門佐。若狭守護・武田信豊の息。兄に義統。母は六角氏。六角次郎とともに甲斐武田家で客将身分。1582年武田家滅亡の際に恵林寺にて捕縛される。


<六角家守護代 蒲生氏>
(第3世代)
蒲生秀紀 (*~1522*1525)太郎・藤兵衛・刑部大輔。蒲生秀行の息。貞秀の跡職。弟・高郷と家督を巡り対立。1522年当主・六角定頼は高郷を擁立。日野音羽城主。

蒲生高郷 (*)左衛門・入道。貞秀の息。秀行の弟。室は佐治左馬允の娘。1522年六角定頼の後援で、惣領家の蒲生秀紀と抗争。1525年音羽城から退去した秀紀を鎌掛城にて暗殺。中野城主。49歳

(第4世代)
蒲生定秀 (1508~1579)藤十郎・左(右)兵衛大夫・下野守・入道。蒲生高郷の息。母は佐治左馬允の娘。馬淵宗綱の娘婿。1522年叔父・蒲生秀紀を毒殺し家督を継承。六角定頼に従い各地を転戦。1531年浅井亮政と「箕浦河原の合戦」に武功。浅井亮政を撃退する。1539年定頼に従い上洛。1540年三好長慶との合戦に活躍。1558年に出家。1559年浅井久政を攻撃。1561・62年六角義賢を補佐して上洛。京都の治安維持に務める。1564年小倉氏の内部抗争に介入し制圧。1566年浅井と通じた六角家反乱分子との「蒲生野の合戦」に参陣。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。息に賢秀。72歳。娘婿に神戸友盛、美濃部上総介、小倉三河守、池田忠知、関盛信、豊臣秀吉。<名が同じ定秀ということで鯰江定秀と事績が混同されている部分があるのかもしれません。>

(第5世代)
⇔蒲生賢秀 (1534~*)(馬淵)・右兵衛大夫・左兵衛大夫。蒲生定秀の息。後藤播磨守(但馬守とも)の娘婿。1560年「肥田城攻略」に従軍。「野良田の合戦」に敗戦。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。1568年の織田軍の上洛に抵抗。のち降服し織田家に臣従する。伊勢亀山の関氏、伊勢岩出の田丸氏と同盟。柴田勝家与力。娘婿に布施藤兵衛、関一政、田丸直政、小倉左衛門。

▽岡 清長 (*)蒲生家譜代家臣。
▽岡 重政 (*)蒲生家譜代家臣。
▽町野繁仍 (*)蒲生家譜代家臣。秀長の息(次男)。室は蒲生氏郷の乳母。息に幸和。
▽町野幸知 (*)蒲生家譜代家臣。<幸和とは別人のようです。>
▽福西宗長 (*)吉左衛門。

▽蒲生郷安 (*~1600)赤坂・赤佐・赤座・隼人・四郎兵衛。六角氏家臣。のち蒲生家家臣。蒲生氏郷の側近。切支丹。<赤座といえば越前の。>
▽蒲生郷貞 (*~1614)上野田・主計助。六角氏家臣。1568年日野中野城主。のち蒲生家家臣。
▽蒲生* (*)儀峨・忠兵衛。三河守の息。六角氏家臣。のち蒲生家家臣。<元、守護代家の儀我氏?>
▽蒲生頼郷 (*~1600)横山・喜内・真令。六角氏家臣。のち蒲生家家臣。
▽小倉行春 (*~1614)作左衛門。六角氏家臣。のち蒲生家家臣。蒲生賢秀の娘婿。娘婿に南部利直。<信長室「鍋の方」の小倉の分家でしょうか。>
▽結解* (*)(弓削)・湯気・十郎兵衛。六角氏家臣。のち蒲生家家臣。浅井家との抗争に百々内蔵介を討つ軍功。のち蒲生家家臣。<尼子家臣にも湯とかいますし・・。>
▽種村* (*)伝左衛門。六角氏家臣。のち蒲生家家臣。<種村家の生き残り>

菅 秀政 (*)六左衛門。南近江甲津畑の豪族。伊勢三重郡との境界を守備。親信長派。蒲生賢秀や布施藤九郎と共に1570年織田信長の千草峠越えに尽力する。

《個人的感想》 第二の佐々木道誉となって、足利尊氏・佐々木高氏コンビ成立のように、同じ年生まれの織田信長の良きパートナーになってほしい感じの蒲生賢秀さんでした。安土城留守居を頼むという事は、信長様にとって細川幽斎よりも信頼できる人物だったんじゃないでしょうか。
しかし、本能寺の変の対応として、リーダーシップを発揮して六角家旧臣を糾合し、直ちに光秀討伐の大将になる機会もあったように思えるのですが、そうならない所が「野心がない」と信長様に信頼される部分だったのかな?と思えなくもないです。
二代目世代では、足利義詮を守って死んだ道誉の息子のように、織田信忠と蒲生氏郷の仲も信頼で結ばれた姿をみたかったものです。
人と人のめぐり合いなども、なんとなく、歴史は踏襲されているようでおもしろいです。

義賢・義治の代(六角六宿老) 六宿老の合議制に代わりつつあったらしい。
三雲成持 (*)六角六宿老のひとり。<賢持ではない名乗り。>
後藤秀勝 (*)六角六宿老のひとり。<賢豊ではない名乗り。>
蒲生賢秀 (*)六角六宿老のひとり。
平井定武 (*)六角六宿老のひとり。
目賀田綱清 (*)六角六宿老のひとり。
進藤貞治  (*)六角六宿老のひとり。


<六角(近江守家)譜代家老衆>
<南近江国衆> 鏡・大原・青地・山内・馬淵ほか。
(青地)
青地道徹 (*)(佐々木)・入道。南近江国衆。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<養子の蒲生(青地)茂綱、母方の馬淵家の血を引き継いでいるのなら、蒲生でも佐々木氏一門ということで青地氏も継承できるということでしょうか。>

⇔青地茂綱 (*1530~1570)蒲生・勝兵衛・駿河守・式部少輔。南近江国衆。蒲生定秀の息、蒲生賢秀の弟。青地(入道・道徹)長綱の娘と婚姻し養子となる。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。蒲生家とともに織田信長に臣従。宇佐山城主、森可成とともに朝倉軍との戦闘に討死。妹婿に神戸具盛。

⇔▽青地元珍 (1560~1633)(蒲生)・千世寿・四郎左衛門・内匠助。南近江国衆。蒲生氏縁戚。六角氏旧臣。織田家に臣従する。父・茂綱は森可成の与力で1570年朝倉氏と戦い森可成と共に討死した。佐久間信盛の与力。粟太郡の土豪。

(永田)湖西の豪族。六角氏に従軍するのは朽木一族としてか。それとも独自の活動か。<1563年後藤賢豊派、浅井家に離反>
⇔永田賢弘 (*)佐々木・備中守・入道。南近江国衆。1563年後藤賢豊派、浅井家に離反。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

⇔永田景弘 (*~1582)長田・佐々木・刑部少輔・正貞。高島郡佐々木氏の庶流、高島七頭の永田氏の分流の系統。南近江国衆。蒲生郡の土豪。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。1570年5月に信長から中島郡、中郡の所領を安堵される。織田家に臣従し、中川重政の与力に配属される。<舎弟・九里氏の跡領を信長から保証されるというので、弟は戦死したか。永田氏は琵琶湖の水運に関係していたという。>

(平井) <1563年後藤賢豊派、浅井家に離反>朽木佐々木氏分家。北近江に影響力を持つようです。
平井高好 (*)(佐々木)・右兵衛尉。南近江国衆。高島郡佐々木氏庶流。粟田郡平井に居住する。六角定頼の家臣。息に定武。

⇔平井定武 (*)(佐々木)・(兵衛尉?)・加賀守。南近江国衆。高島郡佐々木氏庶流。高好の息。六角定頼・義賢の家老。粟田郡平井領主。1537(天文6)年本願寺への使者。娘婿に浅井長政(賢政)を迎えるが破談。親後藤派。1563年「観音寺騒動」に当主・義治から離反。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署(兵衛尉?)。息に高明。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。><「観音寺騒動」に怒り浅井側に離反するちうことなので娘が長政に離縁される必要はなかったのでは?。長政には側室の子も数人いるようですし、復縁したのでは?>

▽平井高明 (*)(佐々木)・弥太郎。南近江国衆。高島郡佐々木氏庶流。定武の息。粟田郡平井領主。六角家家臣。親後藤派。1563年「観音寺騒動」に当主・義治から離反。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。義兄弟に浅井長政(賢政)。

浅井賢政 (1544~1573)猿夜叉・備前守・浅井長政。浅井久政の息。1544年母とともに六角家へ人質となる。1553年観音寺から帰還。平井定武の娘婿。1560年妻を離縁して独立。<浅井長政は、六角家の宿敵・三好家と結ぶことで、六角家の影響下から脱することが出来たのでは? 長政の「長」は信長の長ではなく、三好長慶の一字宛行なのでは?>

(三上) <1563年後藤賢豊派、浅井家に離反>幕府奉公衆に三上近江入道あり、独立性強し。(三神、大和の三輪氏と同族か?)
三上士忠 (*)栖雲軒。定頼の代の奉行人。布施・宮木氏と共に奉行衆。<三上頼安の入道名とも。>

三上頼安 (*)越後守。幕府奉公衆兼、定頼の代の奉行人。<高頼の代に三井右兵衛大夫・高就が北近江高島郡の知行を与えられる。子孫か。>

▽三上恒安 (*)越後守。南近江国衆。幕府奉公人・越後守頼安の息。六角家家臣。1563年後藤賢豊派、浅井家に離反。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

鏡* (*)佐々木・加賀美・各務・(井上)・兵部少輔。南近江国衆・鏡荘の領主。六角家家臣。中山道鏡宿の豪族。1568年織田信長の上洛に降伏。近江星ケ崎(星ケ峰)城主。<六角分家。一門に安養寺、沢田、山河、長岡氏あり。>

大原高賢 (*)佐々木・民部・右近大夫・賢水。一門衆。南近江国衆。大原高保の養子。義定の息。坂田郡大原荘の領主。六角家家臣。<六角義賢の次男・義定が相続か。>

山内* (*)佐々木。一門衆。南近江国衆。六角家家臣。<守護代山内家は建部氏に改姓。>


<六角譜代家老衆>
<南近江国衆> 戦死者の多い永原家は軍(いくさ)奉行の家でしょうか。
↑△永原重隆 (*~1550)太郎左衛門・越前守。重泰の息。六角家家臣。六角定頼の側近。1532年六角定頼の「山科本願寺攻略」に旗頭。1537年「法華一揆の乱」に進藤貞治とともに鎮圧軍として上洛。1539年浅井亮政との対陣にも従軍。1540年細川晴元の後詰として進藤貞治とともに上洛軍。芥川城受け取りの奉行。1550年六角義賢に従い「久米田の戦い」に参陣。松永軍に敗北し戦死。勝軍地蔵山城主。

↑永原重澄 (*~1561)安芸守。六角家家臣。六角義賢に従い、畠山高政の後詰として、1万兵を率いて出陣。「地蔵山の攻防」で松永軍に敗北し戦死。北白川・勝軍山城主(1546年足利義晴が改収増強)。

永原重興 (*~1562)越前守。六角家家臣。重隆の息。弟に久重。六角義賢の侍大将。1560年浅井家との「野良田の合戦」に従軍。1562年三好軍との「久米田の合戦」に先陣。松永軍に敗北戦死。

▽永原重虎 (*)越前守・(太郎左衛門)。重興の息。六角家家臣。1560年「肥田城攻略」に従軍。「野良田の合戦」に敗戦。親後藤派。1563年「観音寺騒動」に当主・義治から離反。1568年織田家の侵攻に隠居。

⇔永原重康 (*)越前守。野州郡の土豪。六角家家臣。のち織田家に臣従する。佐久間信盛与力。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。><永原遠江守の件で誅殺されるか。>

↓永原* (*~1570)遠江守。六角家家臣。1570年六角義治に味方し「野洲の合戦」に参加。

<「六角の両藤」のひとつ進藤> <1563年後藤賢豊派、浅井家に離反>
進藤長久 (*)山城守。野洲郡の豪族。六角高頼の臣。

△進藤貞治 (1497~1551)山城守。六角家家臣。野洲郡の豪族。進藤長久の息。六角定頼の側近。12代将軍・足利義晴と細川晴元の和睦の取次ぎ。1537年「法華一揆の乱」に永原重隆とともに上洛。延暦寺と法華宗の抗争を調停。1540年細川晴元の後詰として永原重隆とともに上洛軍。野洲木浜城主。息に賢盛。<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

⇔進藤賢盛 (*~*1583)山城守。六角家家臣。六角の両藤と讃えられる重臣。進藤貞治の息。観音寺奉行衆。親後藤派。粟太郡の土豪。1560年「肥田城攻略」に従軍。「野良田の合戦」に敗戦。1563年後藤賢豊派、浅井家に離反。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。織田家に臣従する。佐久間信盛与力。反明智派。木浜城主。<織田家のなかでは初期に佐久間与力として、信長様直参でなかったぶん、後藤家のほうが信長様に重用されるようになっていたのかもしれません。>

<「六角の両藤」のひとつ後藤> <1563年後藤賢豊派、浅井家に離反>婚姻関係から北近江に影響力をもつようです。
後藤* (*)左衛門。六角定頼の家老。1525年伊庭貞説の観音寺城攻撃を撃退。

後藤高雄 (*)六角定頼の臣。観音寺奉行衆。後藤氏一門。被官に杉山藤三郎。1525年「黒橋口の合戦」に九里・西川氏を討つ。1531年浅井家との「箕浦の合戦」に軍功。

後藤賢豊 (*~1563)重左衛門尉・但馬守。六角家家臣。羽田荘の領主。義賢の筆頭家老。六角の両藤と讃えられる重臣。観音寺奉行衆。1562年六角義賢とともに上洛。大徳寺の警固等京都に治安を維持。1563年専横が過ぎると新当主・義治に観音寺城で討たれる(千種家との縁組などで当主の不興を買うか?)。娘婿に蒲生賢秀。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

▽千草* (*)後藤・三郎左衛門。六角家家臣。北伊勢の豪族。千種家の養子。賢豊の息(弟とも)。忠治の実子・又三郎と家督を争う。伊勢三重郡千草城主。

▽後藤* (*~1563)又三郎・壱岐守。六角家家臣。後藤賢豊の嫡男。1563年当主・義治により、専横が過ぎると父・賢豊とともに観音寺城で討たれる。義兄弟に蒲生賢秀。

⇔▽後藤高治 (*~1589)喜三郎・高安・定豊・戸賀十兵衛。六角家家臣。1563年「観音寺騒動」により壱岐守の跡職。1563年後藤賢豊派、浅井家に離反。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。織田家に臣従する。親明智派。蒲生家に出仕する。<父・兄を亡くした後、よくぞここまで家を再興したとおもいます。><信長に出仕した、1569年頃たぶん若いと思います。>

《個人的感想》 六角氏に六奉行なるものがあったとすれば、斎藤家もそれを真似ていたとうことでしょうか。信長も五奉行=六奉行みたいな側近衆を形成していますいし、当時の戦国大名の政治スタイルなのかもしれませんね。


<六角(弾正忠家)譜代家老衆>
 永禄10年三上・後藤・進藤・蒲生ら重臣14氏20名が「式目」起草、六角当主に承認させる。
<六角弾正忠内衆> 永原・池田・布施・狛・山中・三雲・望月・黒川・三井・神崎・新村・瓦薗・河井・横山。

(三雲氏) 甲賀53家のひとつ
三雲定持 (*~1570)三郎左衛門・対馬守。行定の息。六角家家臣。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。1570年六角義治に味方し「野洲の合戦」に討死。<1525年六角定頼の動因に従う譜代家。>

▽三雲賢持 (*~1566)新左衛門尉。六角家家臣。三雲定持の息、1566年浅井長政に破れ討死。息に賢春。

▽三雲成持 (*~1603)豊左衛門尉。六角家家臣。1566年兄・賢持の討死し家督。三雲城主。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。六角家滅亡後は浪人。1584年北畠信雄に出仕。息に成長。

(三井氏) 鯰江氏と由緒あり。
↑三井将鶴 (*)離相庵。六角家家臣。親後藤派。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

三井治秀 (*)新五郎。六角家家臣。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。

(山中氏) 1487年「鈎の陣」軍功。山中十郎・山中民部少輔の2家あり。
⇔↓山中俊好 (*)春好。六角家家臣。山中貞俊の息。甲賀郡中惣の伴・美濃部とともに柏木三家と称される旗頭。1549年兄・大和守久俊の死後、家督。1574年頃には織田家に臣従。甲賀衆。

⇔↓山中長俊 (1547~1607)吉内・橘内・山城守。六角家家臣。山中為俊の息。長光寺城主の柴田勝家与力となり、のち柴田家の家老職。丹羽長秀、堀秀政に歴仕。秀吉に祐筆として迎えられる。

(布施氏) 観音寺騒動で後藤氏側。
布施公雄 (*)淡路守・淡路入道。六角家家臣。親後藤派。1566年、義治に不信を抱き篭城。寄せ手の大将・三雲賢持と抗戦する。親後藤派。1566年反六角「蒲生野の合戦」参陣。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署受取人。息に公保。<式目を受け取り狛丹後守とともに六角家臣団を纏める。>

▽布施* (*)三河守。1563年「観音寺騒動」に小川孫三郎と共に反乱。布施山城に籠城し三雲賢持軍を退ける。

⇔▽布施公保 (*)藤九郎・忠兵衛。六角氏旧臣。蒲生賢秀の娘婿。1570年旧主六角義賢との「落窪の合戦」に参陣。伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1578年8月安土相撲に奉行、相撲披露。のち蒲生家の与力から、信長直参馬廻衆。親明智派。<蒲生勢力、侮れませんねえ。>

(池田氏)<1563年後藤賢豊派、浅井家に離反>
↑池田景世 (*)真光寺周揚。六角家家臣。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

⇔池田景雄 (1528~1597)池田秀雄・弥次郎・孫次郎・次郎左衛門・伊予守。六角家家臣。親後藤派。蒲生郡の土豪。小井城主。1560年「野良田合戦」に従軍するが敗戦。1563年後藤賢豊派、浅井家に離反。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。織田家に臣従する。1573年「槙島城攻囲戦」に従軍。1575年明智光秀の与力として「越前一揆平定」に従軍。天正3年まで柴田勝家与力、以降佐久間信盛与力。親明智派。朝鮮に陣没。<1572年武田信玄の上洛に旧主・六角義治と連絡をとっていたようです。>

⇔▽池田高祐 (*)池田秀氏・孫二郎・伊予守・。六角家家臣。蒲生郡桐原村池田の土豪。池田景雄(秀雄)の息。のち藤堂家に出仕。

(狛氏)コマ
狛 * (*)駒・丹後守。弟に修理亮。六角家家臣。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署受取人。<「駒殿」の呼称からすれば朽木系佐々木氏?。>

↑▽狛* (*)修理亮。狛丹後守の弟。六角家家臣。六角義治の側近。1574年2月武田勝頼、上杉謙信への同盟の使者。

(望月氏) 甲賀21家のひとつ。
⇔↓望月吉棟 (*)六角家家臣。義治に親しく、病気の見舞いを受ける。甲賀中惣衆。1569年織田家と三好三人衆との戦況を義治に報告している。のち織田家に臣従。信長から宿の手配を依頼される。<信濃の望月氏とも繋がりがあるようです。武田に追われ行き来があったのでは。><宇都宮家も九州、四国、下野で後継ぎが絶えれば、残ってる家から養子など、助け合って家を残しているので、武家は支配地の距離に関係なく、一族間で緊密な交流があったのではないでしょうか。>

(黒川氏) 甲賀53家のひとつ。黒川久内軍功あり。
黒川* (*~1573)修理進。近江甲賀郡黒川の豪族。六角義治の家臣。甲賀郡中惣衆。義治の側近・狛修理亮と連絡し、元亀争乱に六角氏勢力として一揆とともに蜂起する。1573年の一揆に参陣。伊勢国境の豪族。

黒川* (*)玄蕃佐。近江甲賀郡黒川の豪族。六角義治の家臣。甲賀郡中惣衆。黒川城を築城。のち秀吉家臣。紀州雑賀攻めに失脚。八左衛門が継承。

新村* (*)近江の豪族。六角家家臣。1570年の野洲一揆に参陣。
河井利康 (*)駿河守。近江蒲生郡の豪族。六角家家臣。1570年の野洲一揆に参陣。
▽河井* (*)新左衛門。六角家物頭・康明の息。信長により遺領が津田一安、佐治美作守に宛がわれる。
▽河井* (*)公左衛門。六角家物頭・康明の息(3男)。のちに蒲生家家臣。
横山* (*)近江の豪族。六角家家臣。
瓦薗* (*)近江の豪族。六角家家臣。
神崎* (*)近江の豪族。六角家家臣。

南近江国人領主
(建部氏) 建部日向守、後藤賢豊親子を襲撃。
建部賢文 (1522~1590)六角家家臣。建部秀昌の息、兄は秀治。のちに書家として大成する。箕作城主。

建部* (*)日向守。1563年六角義治の命で後藤賢豊親子を襲撃。

建部秀明 (*~*1568)源八郎。六角家家臣。1568年織田信長の上洛軍に対して、六角義治に忠節を尽くし徹底抗戦し落城。観音寺城の前衛・箕作城主。

⇔建部寿徳 (1536~1607)与八郎・内匠頭・高光・秀栄。六角家家臣。蒲生郡の土豪。織田家に臣従する。中川重政の与力。・丹羽与力。守山にて500石を与えられる。変後、秀吉に出仕。<じいさんっぽい名前ですが、丹羽・羽柴世代。>

(宮木氏)
宮木重祐 (*)対馬守。六角氏家臣。

宮木賢祐 (*)右衛門尉。六角氏家臣。観音寺奉行衆。1551年浅井攻略に太尾城に留守居。1557年義賢の伊勢征伐に軍備を整える。のち織田家、豊臣家に出仕。<秀吉家臣の堅甫とは別人とも。>

宮木堅甫 (*)右兵衛。六角氏家臣。息に正重、文利、豊盛。<賢祐とは別人らしい。>

宮木豊盛 (1554~1620)長次郎・丹波守。六角家家臣。賢祐の養子。豊臣家の直轄地代官、朝鮮に渡航。徳川家に出仕。秀忠の伽衆。

(山崎氏)
⇔山崎片家 (1547~1591)堅家。六角氏家臣。後藤賢豊の嫡男が娘婿。親後藤派。織田家に臣従する。安土城二の丸在番衆。本能寺の変ののち惟任勢でありながら、秀吉のもとでも「秀」字を与えられ、世渡り上手です。><想像してたよりも以外に若い。>

⇔山崎家盛 (1567~1614)与市・左馬介。六角家家臣。

⇔山崎頼久 (1570~1609)右京進・長俊・忠頼。六角家家臣。山崎片家の息。宮木豊盛の養子となる。秀吉に仕え1587年北野大茶会の奉行。

(山岡氏) 佐久間信盛・原田(塙)直政の軍団
山岡景之 (*)六角家家臣。息に景隆、景佐、景猶、景友。

⇔山岡景隆 (1525~1584)美作守。山岡景之の嫡男。六角氏家臣。山岡氏惣領、瀬田(勢多)城主。江南の旗頭。粟太郡の豪族。1569年頃から織田家に臣従し、伊勢北畠氏「大河内城攻囲」に従軍。柴田勝家の与力。1571年12月より粟太郡を支配する佐久間信盛の与力。信長の宿泊宿。1571年「比叡山焼き討ち」に従軍。1573年8月越前乱入「朝倉・浅井征伐」に従軍。1573年7月足利義昭の与力(実弟)山岡景友を撃破。1577年紀州「雑賀・根来征伐」に従軍。1581年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。反明智派。柴田勝家と懇意。瀬田城主。

山岡景佐 (*)六角氏家臣。景之の息(2男)。1569年頃から織田家に臣従。

山岡景猶 (*)六角氏家臣。景之の息(3男)。1569年頃から織田家に臣従。

⇔▽山岡景宗 (*)孫太郎・修理亮・景昌・景広。六角家家臣。山岡景隆の嫡男。信長に父と別行動で一隊を統率することが許された織田家中の若手将校。山岡隊の副将。1576年摂津「石山本願寺攻囲」に従軍し天王寺砦を守備。1581年「伊賀平定戦」に堀秀政配下「信楽口」従軍。1582年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。のち徳川家に出仕。

⇔▽山岡景友 (*)三井寺・光浄院・暹慶・道阿弥。六角家家臣。景之の息(4男)。 1572年足利義昭により上山城半国守護に任じられる。還俗して八郎左衛門。

(高野瀬氏) 肥田城主、1560年浅井家に離反。
高野瀬頼定 (*)頼貞。愛知郡の豪族。光頼の息。弟に定季。六角義賢に従い、畿内の合戦に戦死。肥田城主。息に秀隆。

高野瀬秀隆 (*~1574)修理大夫・備前守。頼定の息。六角氏家臣。犬上郡の豪族。1560年浅井長政方に離反。六角義賢軍の攻撃に籠城戦「野良田合戦」に発展。織田家に降伏臣従。1574年「越前一向一揆」討伐に戦死。息に秀澄、隆景、定隆、隆英。肥田城主。

↓↑高野瀬秀澄 (*~1570)美作守。犬上郡の豪族。高野瀬秀隆の息。1560年浅井方として肥田籠城。六角義賢の軍勢25000に包囲される。後詰に出動した浅井長政が「野良田の合戦」で義賢を撃破。六角家は斎藤家と再度同盟。のち六角家に帰参。1569年織田家の上洛軍に抵抗するが敗走。1570年六角義治に味方し「野洲の合戦」に討死。肥田城主。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。高野瀬秀隆は浅井に降る。><実は定季の子孫とかで、秀隆とは分家の別流か。>

(吉田氏) 戦国なのに御長寿の家系です。
吉田重賢 (1463~1543)(佐々木)・太郎左衛門・上野介・出雲守・重長。六角氏家臣。日置流弓術を相伝する。これに改良を加え吉田流弓術を興した。81歳。息に重政。川守城主。
▽吉田重政 (1484~1569)(佐々木)・出雲守。重賢の嫡子。吉田流弓術を相伝する。六角家を一時出奔。朝倉義景に出仕。のち帰還し六角義賢を養子に迎える。84歳。息に重高、重勝。川守城主。<1560年野良田合戦に従軍は無理か?。一門のうちの誰かが従軍するか。>

吉田* (*)安芸守。1561年浅井長政の将・磯野員昌に太尾山城を攻略される。太尾山(米原山)城主。

吉田重光 (*)六角氏家臣。1568年箕作城に籠城し織田軍と戦う。

吉田* (*)新介。六角氏家臣。1568年箕作城に籠城し織田軍と戦う。

(小倉氏) 分家が乱立していたようです。信長と縁があるのは八尾山城主の小倉氏。
小倉実隆 (*~1564)(蒲生)・三河守・左近将監。蒲生定秀の息(3男)。小倉家惣領・小倉実光の養子。兄弟に蒲生賢秀、青地茂綱。1555年義賢の命で北伊勢に乱入し、千草忠房(忠治)を降す。1564年小倉分家の実秀を攻撃するが戦死。息に実資、行春。佐久良城主。

▽小倉実資 (*)(蒲生)。実隆の息。

▽小倉行春 (*)(蒲生)・作左衛門・行隆・良清。蒲生賢秀の娘婿。息に行光、行実。

▽速水* (*)勘六左衛門尉。蒲生郡の豪族。小倉氏与力。実隆に従い小倉分家の実秀を攻撃。和南城を攻略し小倉源兵衛を討つ。

▽寺倉* (*)蒲生郡の豪族。小倉氏与力。実隆に従い小倉分家の実秀を攻撃。
小倉実秀 (*~1564)小倉・右近大夫・右京大夫・賢治。小倉西家。東近江の蒲生郡佐久良庄の豪族。実隆の戦死により蒲生定秀が介入し抗争。1564年主・六角義賢と対立し自害。息に実治。山上城主。

⇔小倉実澄 (*~1570?)右京亮・実房。神崎郡御園庄の豪族。六角家臣・高畑源十郎の娘(実澄死後に信長室・お鍋)婿。1570年越前から撤退する織田信長を先導する。六角家と抗争し蒲生定秀軍に攻略され戦死。八尾山城主。息に甚五郎、松寿。<室は奥政景の仲介で「お鍋の方」として織田信長の側室に迎えられる。><蒲生定秀が小倉氏を襲って、お鍋ノ方が放浪することになっていますが、安土から日野へ保護する様な親しい間柄であることから推測すると、実は鯰江定秀との誤りで、蒲生氏恭順の際に人質としてお鍋ノ方は信長に差し出されたのではないでしょうか?>

⇔▽小倉松寿 (*~1582)準織田一門。信長室、鍋ノ方の連れ子。近江六角氏の旧臣、小倉実澄(信長に内通したため討たれた)の息。1570年母と共に城を落ちる。のち信長に出仕。本能寺に駆けつけ奮戦し討死する。直参御番衆。<運命の不思議/鍋の方は、自分を一度は追った蒲生氏に、変の際は加護される。>

(多羅尾氏) 甲賀53家のひとつ。1487年多羅尾平内軍功あり。
⇔多羅尾光俊 (1514~1609)四郎兵衛・四郎右衛門・道賀。近江甲賀信楽の豪族。六角氏旧臣。1574年多聞山城城番をつとめる。変事、徳川家康の伊賀越えに協力する。<伊賀・甲賀が滅ぼされたといいますが、果たしてそうなのでしょうか。信仰や旧縁で相容れなかった、反抗的な土豪が滅んだ、または追放されただけかと思います。><河内の多羅尾常陸とは別系統。>

⇔▽多羅尾光太 (1552~1647)彦一・彦市・久右衛門・左京進。近江甲賀の豪族、多羅尾光俊の息。1581年「伊賀平定戦」に堀秀政配下「信楽口」従軍。多羅尾隊の副将。変事、徳川家康の伊賀越えに協力する。<河内の多羅尾常陸とは別系統のようです。>

(田中氏) 朽木氏と単独で抗争できるほど強力。高島郡に勢力を持つ田中氏。勝野湊周辺。
田中* (*)治部大夫。六角氏家臣。1560年浅井家との「野良田合戦」に第2陣の将。1568年織田家の上洛軍に対して六千兵で籠城。箕作城が先に落城したのを見て退去。和田山城主。

(楢崎氏)
楢崎賢道 (*)太郎左衛門。六角氏家臣。六角氏式目に署名する重臣。

楢崎* (*)壱岐守。六角氏家臣。1560年浅井家との「野良田合戦」に第2陣の将。

(和田) 甲賀21家のひとつ。1487年和田伊賀守軍功あり。1560年和田和泉守を救援するために義賢が突撃命令。
和田* (*)玄蕃。六角氏家臣。1560年「野良田合戦」に従軍。

和田* (*)和泉守。六角氏家臣。1560年「野良田合戦」に従軍。宇曽川を渡河し浅井軍を攻撃するが反撃にあう。

和田* (*)嘉助。近江の豪族。六角家家臣。織田軍の上洛軍を6000の軍兵にて迎え撃つ。和田山城主。<佐々木一族の和田氏が築城するという。田中が城主となっているのは年齢が若かったためか。>

≪個人的感想≫ 楠・和田党は伊勢にも多く進出しているので注意。

南近江国人領主
(小川) 甲賀53家のひとつ。1487年小川孫十郎軍功あり。
小川* (*)伯耆守。六角氏旧臣。近江神崎郡小川の豪族。息に祐忠。

小川* (*)孫三郎。1563年「観音寺騒動」に布施公雄に従い反乱。布施三河守とともに布施山城に籠城する。

⇔小川祐忠 (*~1601)孫一郎・土佐守。六角氏旧臣。近江神崎郡小川の豪族。一柳直高の娘婿。1571年織田軍に小川城を攻撃され降服。柴田勝家の与力となる。1581年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。1582年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。親明智派。のち柴田勝豊家臣。1583年4月勝豊死後、秀吉家臣。小牧長久手に兵250動員。のち伊予今治に7万石を領する。関ヶ原に失領。息に光氏、祐滋。<本能寺の変ののち惟任勢でありながら、秀吉のもとでも出世し世渡り上手です。><ひょっとして若いかもしれません。>

⇔青木* (*)玄蕃允。六角氏旧臣。1581年「伊賀平定戦」に堀秀政配下「信楽口」従軍。<青木所右衛門・一重が渥美一族と因縁が深いことから、渥美玄蕃允とも呼べるような気がします・・(妄想)。>

⇔平野* (*)土佐守。元・六角家臣。1573年4~7月京都「足利義昭征伐」に従軍。1573年8月越前乱入「朝倉・浅井征伐」に従軍。1581年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。1582年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。近江福島城主「近江輿地志略」。<平野姓といえば秀吉配下の平野長泰(彼の父は船橋枝賢の息子で、後北条氏家臣・平野万作の養子となった平野長治)と関連する一族か?>

↑木村* (*)筑後守。六角義治の側近。1568年足利義昭・織田信長の上洛に、協力要請の使者の取次。

高畠* (*)源十郎。近江野洲郡北里の土豪。六角家家臣。娘婿に小倉実澄。外孫に小倉松寿。<織田信長と縁が繋がります。>

種村貞和 (*)近江の豪族。六角家家臣。義弼の側近。観音寺奉行衆。後藤・平井・布施と奉行を務める。

種村* (*)三河守。六角家家臣。義治の命で建部日向守とともに、後藤賢豊親子を襲撃。

木戸* (*)小太郎。六角家家臣。1560年「野良田合戦」に従軍。<関東公方の側近で関東の有力者・木戸氏の一門なのでしょうか。六角氏と関東足利家に何か繋がりがあると面白いですね。><湖西高島の木戸城主、佐野氏のことか?>

<伊勢衆 六角派>
<梅戸党> ほぼ六角氏が乗っ取り。
⇔梅戸高実 (1502~1561)六角高実。六角高頼の息。定頼の弟。北伊勢の「北方一揆」の有力者・梅戸氏に養子入り。息に実秀。梅戸城主。

⇔梅戸実秀 (*1537~1568)六角・次郎・左衛門大夫。梅戸一揆の党首。北伊勢48家のひとつ。高実の息(次男)。織田家の瀧川一益の伊勢侵攻に抵抗。<甲斐に逃れた六角次郎とは。>

<蒲生党>
⇔関 盛信 (*~1593)宗一・中務大輔・安芸守・万鉄。神戸氏一族。盛雄の息。六角氏家臣。叔父に盛重。弟に(小岐須)盛光、盛員。蒲生定秀の娘婿。1567年瀧川一益の北伊勢攻略から信長に長く抵抗するが、降服し赦免される。伊勢亀山城主。1582年三好信孝の「四国渡海」に親子で従軍予定。

⇔神戸具盛 (*)(北畠)・左衛門尉・蔵人大夫・友盛・楽三。神戸惣領五代目・長盛の息(次男)。兄に利盛。蒲生定秀の娘婿。神戸惣領七代目。六角氏旧臣。土師村福善寺の僧。兄・利盛の死により還俗し家督。1559年関盛信と同盟し、長野具藤・北畠具教軍と抗戦。長野軍を破る。1568年織田信長の三男、信孝を養女の婿養子とする。1571年信長の命で蒲生氏の日野城に退去。1582年織田信孝の四国出陣に留守居を任される。伊勢神戸城主。

⇔赤堀具之 (*)(神戸具之)・治部大輔。北伊勢三重郡の国人。神部楽三(具盛)の息(次男)。羽津・浜田氏と一揆契約を結ぶ。1559年長野具藤・北畠具教軍と抗戦。波瀬具之に赤堀城を奪取される。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。1573年長島一向一揆征伐に織田信長に人質を供出する。赤堀城主。

⇔▽千草* (*)後藤・三郎左衛門。六角家家臣。北伊勢の豪族。千種家の養子。賢豊の息(弟とも)。忠治の実子・又三郎と家督を争う。伊勢三重郡千草城主。

<鯰江(森)党> 尾張苅安賀。
↓▽鯰江貞春 (*)森・毛利・備前守・定春。六角氏家臣。貞景の息。貞景とともに1568年観音寺城から落ちた六角義賢を迎える。元亀争乱に六角氏勢力として「百済寺・鯰江城攻防戦」。六角義治を擁して一揆とともに蜂起する。のち秀吉に出仕し毛利に改姓。養子に弟の政次、高次。

⇔森重高 (*)十郎左衛門・(政次?)。<蜂須賀家と縁あり。高次の兄・政次と同一人物説あり。>

⇔▽森高次 (1528~1597)毛利高次・鯰江・九郎左衛門・入道法水。兄弟に鯰江貞春、貞景、三井秀邦、鯰江定興、政次。織田信昌の娘婿。瀬尾小太郎の娘婿。尾張海東郡苅安賀に移住。織田信長に出仕。息に重政、高政、吉安。

⇔森重政 (1551~1597)兵橘・兵吉・豊後守。高次の息(重高の息か?)。蜂須賀正勝と行動を共にする。<高次の養子説あり。>

⇔森高政 (1559~1628)鯰江・瀬尾・勘八・民部大輔・伊勢守(友重?)。高次の息。木曽義昌の娘婿。1582年秀吉の与力。毛利輝元から毛利姓を与えられる。母は瀬尾小太郎の娘。豊臣秀吉家臣。朝鮮の役に一手の大将。軍功を上げる。兄弟に重政、吉安。

≪個人的感想≫ 尾張苅安賀の地にも六角氏は進出し、鯰江(森)氏の与力として、尾張浅井家の新八郎政澄の祖も、苅安賀の地にやって来ていたのでは・・。


六角氏残党
<1568年以降の反 織田信長勢力>
1570年4月織田軍金ヶ崎に敗退。六角牢人一揆蜂起。落窪「野洲川の合戦」六角氏再興をかけて、柴田・佐久間軍との合戦。 (六角側:三雲・高野瀬・永原・乾) 1572年「金森の合戦」に一揆勢力は鎮圧される。

永原* (*~1570)遠江守。六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。1570年六角義治に味方し「野洲川の合戦」に参加。織田軍との「野洲川の合戦」に先陣の将。<織田政権下では、永原一族は佐久間信盛の与力を経て、直参として迎えられず没落していく様子です。反抗したことが尾をひいたのでしょうか。>

高野瀬秀澄 (*~1570)美作守。六角氏家臣。犬上郡の豪族。高野瀬秀隆の息。1560年浅井方として肥田籠城。六角義賢の軍勢25000に包囲される。後詰に出動した浅井長政が「野良田の合戦」で義賢を撃破。六角家は斎藤家と再度同盟。のち六角家に帰参。1569年織田家の上洛軍に抵抗するが敗走。1570年六角義治に味方し「野洲川の合戦」に先陣の将。討死。肥田城主。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。高野瀬秀隆は浅井に降る。>

乾 * (*~1570)六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に先陣。
新村* (*~1570)六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に遊軍。<譜代の臣。>
↑種村* (*~1570)六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に遊軍。<種村三河守の一門か?>
↑河井* (*~1570)六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に遊軍。<譜代の臣。>
三上* (*)伊予守。六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に本軍。合戦中に離反し織田方に転ずる。<幕府奉公衆・三上氏の一門か。>

(甲賀衆)
↓美濃部* (*)六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に敗北。義賢とともに落ちる。<甲賀衆。1487年美濃部源五軍功あり。>

望月* (*)六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に敗北。義賢とともに落ちる。<甲賀衆。1487年「鈎の陣」に出雲守軍功。甲賀21家。><望月吉棟の一門か。>

三雲* (*~1570)三郎左衛門。六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に敗北。戦死(義賢とともに落ちるとも)。<甲賀衆。1487年三雲新蔵人軍功あり。>

1571年「近江一向一揆」。<本願寺から派遣された軍事指導者。>
⇔↑小川祐忠 (*)孫一郎・孫市。六角氏家臣。一向一揆と結び反乱。志村落城を見て降伏し織田家に臣従。小川城主。<甲賀衆。1487年小川孫十郎軍功あり。>

志村資則 (*)筑後守。六角氏家臣。一向一揆と結び反乱。織田軍の総攻撃を受け逃亡。志村城主。

川那辺秀政 (*)六角氏家臣。一向一揆と結び反乱。金ケ森城、安土常楽寺城主。<石山本願寺から派遣された侍大将とも。一向宗の在地の豪族のような気もしますが。><1570年信長は常楽寺で相撲大会を開催するのでその時は敵対していなかったか。>

1573年近江志賀郡、高嶋郡、西近江「木戸・田中城攻防戦」。南近江「百済寺・鯰江城攻防戦」。「甲賀石部城攻防戦」。

<鯰江党> 近江百済寺とともに反織田家。
鯰江為貞 (*)為定。息に貞景、氏秀、貞治、貞種、貞豊。

鯰江貞景 (*~1573)三井・満介・貞秀(定秀)。六角氏家臣。為貞(為定)の息。兄弟に氏秀、貞治、貞種、貞豊。1568年観音寺城から落ちた六角義賢を迎える。元亀争乱に六角氏勢力として「百済寺・鯰江城攻防戦」。六角義治を擁して一揆とともに蜂起する。息に貞春、貞景、貞興、秀国、政次、高次。<小倉氏征伐の件など、蒲生定秀と事績が混同されている事も考えられます。>

↑▽鯰江貞春 (*)森・毛利・備前守・定春。六角氏家臣。貞景の息。貞景とともに1568年観音寺城から落ちた六角義賢を迎える。元亀争乱に六角氏勢力として「百済寺・鯰江城攻防戦」。六角義治を擁して一揆とともに蜂起する。1573年柴田軍の前に落城、脱出する。のち秀吉に出仕し毛利に改姓。養子に弟の政次、高次。

↑黒川* (*~1573)修理進。甲賀郡黒川の豪族。六角義治の家臣。甲賀郡中惣衆。元亀争乱に六角氏勢力として一揆とともに蜂起する。伊勢国境の豪族。<黒川氏のもとに六角親子が逃げ込んだという。><1487年黒川久内軍功あり。>

倉垣* (*~1573)六角氏家臣。元亀争乱に六角氏勢力として一揆とともに蜂起する。
↑木村* (*~1573)六角氏家臣。元亀争乱に六角氏勢力として一揆とともに蜂起する。
石部家清 (*~1573)六角氏家臣。元亀争乱に六角氏勢力として、義賢を擁して一揆とともに蜂起する。「甲賀石部城攻防戦」。
↑三雲成持 (*~1573*1603)六角氏家臣。定持の息。1566年兄・賢持は佐和山の戦いに戦死。兄の死により家督。元亀争乱に六角氏勢力として、義賢を擁して一揆とともに蜂起する。「甲賀石部城攻防戦」。
↓山中長俊 (*)甲賀衆。六角氏家臣。元亀争乱に六角氏勢力として、義賢を擁して一揆とともに蜂起する。「甲賀石部城攻防戦」。1574年頃には織田家に臣従。
↓山中氏俊 (*~1573)六角氏家臣。元亀争乱に六角氏勢力として、義賢を擁して一揆とともに蜂起する。「甲賀石部城攻防戦」。

《個人的感想》 これだけ度々一揆がおこせるとは、けっこう忠臣達がいた感じですね。里見八犬伝なみの六角氏再興物語があったりして。
尼子の山中幸隆といい、六角残党といい、復活した京極氏といい、佐々木系はしぶといですね(汗。
織田が尼子残党に手を貸したように、上杉家や武田家、毛利家も手を貸していたりするかもですね。

甲賀国衆(六角家の同盟者) 敵対→親三好党=内貴、望月、大野。
甲賀53家(甲賀郡中惣) 有力者望月一門、海野氏・根津氏・滋野氏。
↑望月吉棟 (*)六角家家臣。

望月* (*)出雲守。1487年鈎の陣所を襲撃し九代将軍・足利義尚を負傷させる。
(53家)六角高頼を支持し、9代将軍・足利義尚撃退に軍功。
 嶬峨氏。

柏木三家(山中・伴・美濃部)  柴田勝家の軍団
⇔↑山中俊好 (*)春好。山中貞俊の息。甲賀郡中惣の伴・美濃部とともに柏木三家と称される旗頭。1549年兄・大和守久俊の死後、家督。1574年頃には織田家に臣従。甲賀衆。
⇔↑山中長俊 (1547~1607)吉内・橘内・山城守。山中為俊の息。六角氏旧臣。長光寺城主の柴田勝家与力となり、のち柴田家の家老職。丹羽長秀、堀秀政に歴仕。秀吉に祐筆として迎えられる。
⇔↑山中氏俊 (*~1573)元亀争乱に六角氏勢力として、義賢を擁して一揆とともに蜂起する。「甲賀石部城攻防戦」。
⇔伴ノ長信 (*)太郎左衛門。織田信長の家臣。<瀧川一益とのパイプ。 瀧川一益の軍団>

南山六家(大原・和田・上野・高峰・池田・滝<多喜>)
⇔和田惟政 (*)甲賀の豪族。和田宗立の息。足利義昭の側近となり、摂津三守護のひとり。
⇔中村一氏 (*)多喜・滝。親織田派。瀧川一益の縁戚。

北山九家(黒川・頓宮・大野・岩室・芥川・隠岐・佐治・神保・大河原)
大野* (*)親・三好家。
<大河原氏といえば初代ガンダムの・・。>

荘内三家(鵜飼・内貴・服部)
内貴* (*)親・三好家。

《個人的感想》 瀧川一益の先祖が近江大伴氏族の富永分流とすれば、伴氏の流れで三河設楽の牛頭天神神職・富永氏や、その配下の瀧川氏とは縁戚。三河の富豪・松平家が台頭する中で、徳川家康が先祖の恩を棚上げし、吉良家家老の富永一族を追い落とす消したい過去がある様子です。江戸時代300年でいろんな情報は意図的、もしくは無意識に変容しているかもしれません。
岩室家も気になります。織田信秀の室は岩室殿ですから。

伊賀国衆(六角家の同盟者) 国人一揆、伊賀平楽寺を本拠。
(北伊賀)北朝幕府方。1487年北伊賀衆六角氏と同盟。
(南伊賀)南朝方。1428年南朝・北畠満雅と関氏同盟。


<伊賀守護>
仁木義視 (*)長政・入道友梅。伊賀守護家。1571年伊賀復帰。織田家に従属。1578年北畠信雄の敗退後に国衆の一揆により追放される。

下山* (*~1578)甲斐守。北畠家臣。伊賀旗頭家。親織田派。丸山城を修理改築。第1次「伊賀侵攻」に呼応。
福地定成 (*~1582)伊予守・宗隆。先祖は柘植三方衆。伊賀四大将家のひとつ。1581年9月織田家に第2次「伊賀侵攻」に呼応。1582年「本能寺の変」後の伊賀一揆で襲撃される。一門に北畠信雄の家老となる柘植三郎左衛門・保重。<松尾芭蕉の先祖らしいです。>

耳須具明 (*~1581)弥次郎。伊賀地頭家。河合郷の豪族。1581年9月織田家の第2次「伊賀侵攻」に呼応。織田家に内通したことにより、他の伊賀衆の復讐の標的となる。反撃にあい討死。

(柘植)
日置* (*)北伊賀の豪族。柘植三方衆。1428年南朝方・関家と抗争。1487年六角高頼と同盟。<平ノ宗清の子孫とも。>
福地* (*)北伊賀の豪族。柘植三方衆。1428年南朝方・関家と抗争。1487年六角高頼と同盟。
北村* (*)北伊賀の豪族。柘植三方衆。1428年南朝方・関家と抗争。1487年六角高頼と同盟。

(服部党) 藤林・百地も同祖。
藤林保豊 (*)(服部)・長門守・正保。伊賀上忍三家のひとつ。東湯舟郷の豪族。今川義元に出仕。のち織田家に通じる。<1581年の「伊賀征伐」に協力するとも。>

百地泰光 (1512~1581)(服部)・丹波守・正西。清右衛門の息。伊賀上忍三家のひとつ。伊賀南部・東部の友生の豪族。<三太夫は孫らしい。滝野氏に裏切られた感じです。>

服部保長 (*)千賀地・半三・石見守。伊賀上忍三家のひとつ。伊賀中部予野の豪(阿拝郡の豪族とも)。足利義晴に出仕。息に家康に出仕した服部半蔵・正成。<家康に出仕した服部氏は三河在住の分家のようです。><1560年に今川義元に呼応して海から尾張沿岸を攻撃した服部党との関係が気になります。>

(親北畠・反織田)
小波多* (*~1581)おばた・小幡。1581年「伊賀征伐」に親子ともに戦死。
高畠* (*~1581)1581年「伊賀征伐」に兄弟ともに戦死。東田原城主。
高畠* (*~1581)1581年「伊賀征伐」に戦死。西田原城主。
吉原* (*~1581)1581年「伊賀征伐」に戦死。吉原城主。1577年北畠具親を支援し戦争の発端をつくる。
多気* (*~1581)瀧。小倭七人衆。1577年北畠具親を擁立して挙兵。
川俣* (*~1581)小倭七人衆。1577年北畠具親を擁立して挙兵。
三瀬* (*~1581)小倭七人衆。1577年北畠具親を擁立して挙兵。

(伊賀国衆)
植田光次 (*)伊賀12人衆のひとり。「伊賀征伐」に柘植三郎左衛門を討つ軍功。1582年以降は秀吉に出仕するとも。
田屋* (*~1581)1581年「伊賀征伐」に戦死。河合城主。<浅井家の分流、海津の田屋氏と関連するか?>
岡本* (*~1581)1581年「伊賀征伐」に戦死。
高屋* (*~1581)1581年「伊賀征伐」に戦死。国府城主。
糟屋* (*~1581)1581年「伊賀征伐」に戦死。壬生野城主。上服部党。<越後上杉家の糟谷と関連ありか?>
竹野谷* (*~1581)荒木・左近。1581年「伊賀征伐」に戦死。木興城主。下服部党。
⇔滝野吉政 (*~1602)十郎。滝野貞清の息。1581年「伊賀征伐」に総大将。柏原城にて降伏し赦免され北畠信雄に出仕。1582年変後は一揆に追われ伊勢に逃れる。柏原城主。

(六角義賢直属)
盾岡道順 (*)伊賀崎道順・楯丘。伊賀盾岡出身の中忍家。百々氏の離反に百々館に潜入し放火。
城戸* (*)音羽ノ城戸・弥左衛門。信長を2度狙撃。逃亡に成功する。
下柘植木猿 (*)上月・佐助。伊賀国下柘植に所縁のある忍家。伊勢田倉城を襲撃。
下柘植小猿 (*)上月。伊賀国下柘植に所縁のある忍家。

《個人的感想》 服部党がやはり気になります。伊勢桑名周辺で服部友貞率いる海賊が尾張沿岸を荒らしまわりますが、何か縁があるんじゃないのでしょうか。徳川への仕官は、「本能寺の変」以降なんじゃないのかなあ~。
 もしくは柘植三郎左衛門達の柘植党や、瀧川一益に繋がる伴党が織田家の中では優勢で、駄目だとおもって三河に移ったとか・・。

<1550年代? 近江流出の人材>
<親 織田信長勢力>
村井貞勝 (*~1582)織田信長の家宰。京都所司代。
瀧川一益 (*)織田信長家臣。関東御番役。
服部正成 (*)半蔵。
岩室重休 (*)長門守。
高畠* (*)
堀部宗氏 (*)佐々木・六角。六角分家。尾張国の春日井郡比良郷に移住。織田信秀に出仕。息に(森川)氏俊。
⇔伴ノ長信 (*)太郎左衛門。織田信長の家臣。<瀧川一益とのパイプ。 瀧川一益の軍団>

<反 織田信長勢力>
河田長親 (*1545~1581)豊前守・貞政。近江守山出身。越後衆。上杉謙信家臣。上杉家の侍大将として織田家との前線へ。
河田重親 (*~1578)伯耆守。近江国出身。河田長親の叔父。越後衆。上杉謙信家臣。
吉江景堅 (*~1582)喜四郎・信景・資堅。越後衆。近江国出身。上杉家の侍大将として織田家との前線へ。
五十公野信宗 (*~1587)長沢・甚五郎・道如斎・三条信宗。元、能登の湯山城・長沢筑前守の家臣。上杉輝虎に召しだされ、揚北衆・新発田重家の妹婿。<結局は織田方に傾いたのに「本能寺の変」で立場が危うくなりました。>
小川元政 (*)右衛門・兵衛尉。近江出身。毛利家家臣。毛利家の侍大将として織田家との前線へ。<信長様の側近まで上り詰めた一揆の指導者、小川祐忠との関係が凄く気になる武将です。本能寺とも関わりがあったりして・・。>

その他流出の人材
⇔森高政 (*)鯰江。高次の息。羽柴秀吉家臣。織田家を代表して中国大返しの人質。毛利輝元から毛利姓を与えられる。母は瀬尾小太郎の娘。豊臣秀吉家臣。朝鮮の役に一手の大将。軍功を上げる。兄弟に重政、吉安。
甲賀53家のうち
鳥居・大窪・服部・佐治・服部・鵜飼・

2016年10月02日