織田信康 (*~1544*1547)oda.nobuyasu・犬山・与次郎・与二郎。織田信秀の弟。木之下、犬山城主。1533年山科言継の接待。1542年「小豆坂の合戦」に従軍。美濃国境との領主で、岩倉織田家に属す。1544年「美濃出兵」に従軍、1547年再び美濃出陣、因幡守とともに戦死。中島・和田の両家老はのちに信長直参。のちに息・織田信清は出奔。その息・織田信益は安土城留守居役。犬山上は武田勝長が継承する。
<犬山城主の信康は、信秀兄弟の中でもやや独立的な動きをする家系のようです。><岩倉織田家との婚姻関係により、付家老として他家におもむく者もいたのでは。上杉謙信の養子・北條景虎の付家老として、関東遠山氏が越後入りしたような感じです。>
⇔↓織田信光 (*1525~1555)oda.nobumitsu・小幡・虎千代・孫三郎・豊後守。織田信秀の弟。1542年第1次「小豆坂の合戦」に武功。1548年第2次「小豆坂の合戦」小豆坂七本槍のひとり。信長に協力し清洲城を奪取。春日井郡守山城主。1555年家臣・坂井孫八郎に暗殺される。
<犬山に比べて比較的に弾正忠本家に忠実に活躍。清洲衆・坂井氏の恨みを買ったのかも・・。><桜井の松平信定とただならぬ関係の様子です。桜井松平全盛の頃は、那古屋の今川氏豊の両職に、織田弾正忠家と桜井松平だったりしないものでしょうか。><林秀貞の息・光時の光は、信光さんから与えられたものでしょうか。>
織田信実 (*~*1550)oda.nobuzane・四郎次郎・四郎三郎。織田信秀の弟。1542年「小豆坂の合戦」に従軍。信長家督継承以前に死没。
⇔↓織田信次 (*~1574)oda.nobutsugu・守山・津田・孫十郎・右衛門尉。織田信秀の弟。1555年守山城主。家臣・洲賀才蔵の失態(秀孝誤殺)から一時出奔するが帰参。信長に重用されている。1574年7月「伊勢長島」に戦死。
<信長にやたら重用されている。伊勢一向一揆の為に、甥・信広とともに討死。>
①織田信正 (*)oda.nobumasa・楽田・掃部頭。織田信秀の弟。
<別喜広正与力の島兄弟が信正の息といわれる。信長の庶長子にも信正(原田直政の一門、村井貞勝とも関係あり)がいるため、その存在がややこしい武将。①回目の登場。><楽田城主の藤左衛門流の織田寛貞との関わりが気になるところです。その息子・津田一安も「信正」を名乗る様ですし・・。><織田信光の息子・津田信昌の娘が苅安賀の鯰江系森氏に嫁入りしていますが、世代的におかしい。楽田の信正の表記が信昌でもよいなら、こちらの人物の娘なのでは。>
↑織田* (*~1552?)oda.?・右衛門尉。信秀異腹の弟。深田城主。1552年北守護代織田家の家老・坂井大膳の襲撃を受け、取込められる。
<犬山・織田信清の息・右衛門佐「木曽町史」と関連アリカ。伊東、小坂井が両家老か。><右衛門尉=信次という説も。>
≪個人的感想≫ 1517年に斯波義達があれだけ派手に敗北しているのに、戦国大名・今川氏親が尾張に触手を伸ばさないなんてことがあったのでしょうか?。今川氏輝の死去の混乱までは、尾張は駿河今川家の影響下にあったんじゃないでしょうか?。信秀は今川支配を覆し、斯波家を擁立した織田家のヒーローだったんじゃないでしょうか。それが本家・大和守家はおもしろくなくなってきたとかで内紛に・・・。
勝幡(津島)・末盛(熱田)織田信秀の兄弟衆でした。