戦国 伊勢の豪族と家臣団

北畠氏のライバル、土岐家↓
1360~1500年頃 伊勢守護・土岐氏 土岐嫡流の影響下。
守護所、
<伊勢土岐(世保)氏>
⇔土岐頼康  (1318~1388)刑部少輔・蔵人・左近将監・大膳大夫。美濃・尾張・伊勢、三国守護。大膳大夫・刑部大輔・入道善忠。土岐頼清の六男、土岐頼貞の孫。1342年叔父の自害により家督継承。革手城に本拠に定め、美濃国衆・斎藤氏を従える。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。貞和8月師直邸に参じる。常に足利尊氏党を貫く。1352年に尾張守護職、1360年伊勢守護職。将軍・足利義満の代に管領・細川頼之と対立。1379年斯波義将と共謀し頼之を失脚させる。息に満貞、康行(養子)。厚見郡革手城主。弟に(揖斐)頼雄、康貞、直氏、(池田)頼忠。<後醍醐天皇の側近、土岐頼員(*~1324)も蔵人の官位名。>
▽土岐頼雄 (*~1380)揖斐頼雄・出羽守・蔵人・新蔵人。頼清の息。兄・頼康の美濃支配に協力。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。息に康行、(島田)満貞。<揖斐氏は戦国時代に土岐家一門の守護者として斎藤道三に徹底抗戦。>
▽土岐頼忠 (1323~1397)土岐頼世・西池田・弾正忠・美濃守・刑部大輔・頼忠・入道真兼。西池田家。室は京極氏の娘。1389年足利義満の命で、土岐康行を討伐。1390年康行討伐に軍功。「美濃の乱」に勝利し、美濃守護〈1390*1392-1394〉。息に頼益。
土岐康行 (*~1404)大膳大夫・義行。頼康の弟・頼雄の息。頼康の養子。美濃・伊勢守護。京都代官・土岐満貞と尾張守護代・土岐詮直の対決。「尾張黒田の合戦」。康行、詮直の失脚。尾張守護を奪われる。美濃守護も失う。1391年「明徳の乱」に軍功、伊勢守護に復帰。息に康政、満康。娘婿に土岐詮直。
▽土岐満貞 (*)島田満貞・伊予守・伊豆守。頼康の息。康行の義弟。足利義満の近習。尾張守護。従兄弟の守護代・詮直と抗争。「明徳の乱」に尾張守護を失う。息に(島田)満名、木和田安達。<織田信長の台所奉行、島田秀順との関連は。三河菅沼氏とも関連有りらしいです。>
▽土岐詮直 (*~1399)肥田瀬詮直・宮内少輔。土岐直氏の息。尾張守護代。頼康・康行に出仕。1399年大内義弘の「応永の乱」に呼応して美濃で挙兵。頼益と抗争し戦死。
▽土岐康政 (*~1418)世保康政・左馬助・大膳大夫。伊勢守護家。土岐嫡流。康行の息。1399年土岐詮直とともに美濃長森城で挙兵。1404年父の死により家督。伊勢守護。1418年将軍義持の弟・足利義嗣の謀反に加担。息に持頼。
土岐持頼 (*~1440)世保持頼・大膳大夫。伊勢守護家。土岐嫡流。土岐康政の息。西池田家の土岐頼世(頼忠)に家督を奪われる。1418年足利義嗣の謀反に加担。北畠満雅と抗争。1440年将軍・義教により一色義貫とともに誅殺される。伊勢北半国の守護は一色義直が継承。息に政康。
▽土岐政康 (*~1473*)世保政康・大膳大夫。伊勢守護家。1467年「応仁の乱」の東軍に属し、伊勢で一色義直と抗争。伊勢北半国守護に復帰し国司・北畠教具と抗争。1471年長野政高と共に北畠氏と抗戦。守護職を北畠政郷に奪われる。1473年西軍の土岐成頼、斎藤妙椿と抗争。

《個人的感想》 北伊勢近辺で対斎藤道三に活躍した揖斐氏や、対織田で活躍した日根野は、地理的に、元々は世保系土岐氏の重臣だったのでしょうか・・。
 世保土岐家の家臣団が、どうやって織田家の北伊勢旗頭・瀧川一益の配下に組み込まれていったか。それも気になるところです。北伊勢に勢力を持った大木(青木)氏や、服部氏は、どこの家臣だったことでしょう。
土岐成頼の家臣団

北畠氏のライバル伊勢 一色(石川)家

北伊勢半国守護<一色家>
 一色家勢力図
一色義貫の家臣団
1450~1500年頃 三河・尾張の兵力を率いて伊勢乱入か。
⇔一色義貫 (1400~1440)兵部少輔・左京大夫・修理大夫・義範。一色満範の息。山城・若狭・丹後・三河・尾張知多郡・海東郡分郡守護。16歳で足利義持に北畠満雅討伐を命じられる。幕府四職のひとり。侍所所司代。関東公方に出仕した一族の一色時家を匿い、足利将軍・義教により追討され大和信貴山にて自害。兄弟に持範、持信。息に義直、義遠。1445年弟・持範の息・教親が丹後守護。
⇔一色義直 (1431~*1493)左京大夫・修理大夫。一色義貫の息。叔父に持範、持信。弟に義遠。丹後・三河渥美郡守護。1450年教親の死により丹後・(北伊勢?)守護。1467年「応仁の乱」に西軍。管領・細川家と対立。伊勢貞親、細川成之、今川義忠、三河守護代・東条(武田)国氏と抗争。北伊勢半国守護。1478年三河を放棄する誓書を将軍・義政に提出。息に義春、義秀。娘婿に斯波義寛。外孫に斯波義達。
▽一色義春 (1466~1484)五郎・左京大夫。義直の息。山名教豊の娘婿。足利義尚の側近。1474年東軍に帰参する。丹後守護職に復帰し、武田国信の家臣・逸見真正を討つ。1477年北伊勢半国守護。北畠政郷と抗争するも敗退。弟に義秀。
▽一色義秀 (*~1498)五郎。伊勢・丹後守護。兄の死により還俗して家督。1487年足利義尚の六角高頼征伐に従軍。1493年丹後の伊賀次郎左衛門の反乱を義直と共に鎮圧。1498年丹後にて戦死。跡職は義有が継承。
石川道悟 (*)一色家家臣。北伊勢半国守護代。1467年「応仁の乱」に東軍・土岐政康と抗争。<伊勢で敗れて、三河の石川氏へとつながるか。>

(尾張)
一色義遠 (*~1505*)吉原義清・四郎・兵部少輔・式部少輔・義清。一色義貫の息。一色義直・義春家臣。尾張知多郡守護。1467年「応仁の乱」に西軍。細川家と抗争。1477年三河守護代・東条国氏の反乱に左京大夫・義有と共に鎮圧に向う。息に義有。
▽一色義有 (*)一色義遠(吉原義清)の息。三河守護家。本家の一色義秀が丹後で戦死したため家督継承。1501年丹後に出征。管領・細川政元・澄元親子、丹後守護・武田元信と抗争。1505年丹後守護就任。1507年幕府細川軍を撃退。息に義清。
▽▽石川直経 (*)丹後守護代。丹後一色家家老。加悦・賀屋城主。1507年細川澄之と結んで赤沢朝経を討つ。同年、管領・細川政元軍を撃退。1516年一色九郎と抗争するも、加悦城を奪取される。
▽▽延永春信 (*~1517)丹後守護代。丹後一色家家老。1516年一色九郎の反乱に加わる。武田元信を救援した朝倉孝景により倉梯城を攻略され戦死。阿弥陀ヶ峰城主・倉梯城主。
 
直轄地、尾張国・美濃国。
 尾張国要所図

(三河)
▽一色政照 (*~1481)式部家。持範の息。三河国渥美郡代。一色義直の従兄弟。1466年山名宗全に従い西軍。軍勢を率い上洛中に伊勢氏配下となった戸田宗光に所領を奪取される。田原城主。
▽一色時家 (*~1477)刑部少輔。関東一色家。持家の息か。1440年本家・義貫が誅殺される。のち足利義政の命で本家・一色義直が三河守護となり守護代。1476年「応仁の乱」に西軍。細川家の家臣・東条国氏を討つ。三河国宝飯郡、長山一色城主。
▽▽波多野時成 (*~1493)秦野時成・入道全慶。一色家家老。三河の豪族。主君・一色時家を討つ。1493年牧野古白に討たれる。<波多野氏がどこからやって来たのか気になるところです。関東公方の件で南下した相模の波多野氏か、丹波の波多野氏が丹後・若狭守護の一色家に仕官して、それに従い移住してきたのか。その残党は何処へ。丹羽長秀の家紋。東北斯波家重臣・河村氏との関係が気になります。>
▽▽牧野成時 (*~1506)利成・入道古白。一色家家老。三河の豪族。のち今川氏に従う。1505年今川氏親に従い松平家を攻撃。息に信成、三成(成三とも)、信高、能成。今橋城主。

《個人的感想》 北伊勢にも石川氏、丹後にも石川氏、一色家のあるところ石川氏が派遣されるとするならば、三河の石川氏は・・。三河・阿波守護・細川成之の執事、三好家の東海道への影響力も気になるところです。三好長秀がなぜ伊勢山田に拠るのか、意味があると思います。
細川政元、高国、晴元の家臣団

伊勢平氏後裔
<北伊勢 神戸(関)譜代家老衆> 関家と同族ながら抗争。北畠材親の息・具盛(晴具の弟)が養子に入り四代目。五代・長盛は関氏と抗争。
⇔↑神戸具盛 (*)(北畠)・左衛門尉・蔵人大夫・友盛・楽三。神戸惣領五代目・長盛の息(次男)。兄に利盛。蒲生定秀の娘婿。神戸惣領七代目。六角氏旧臣。土師村福善寺の僧。兄・利盛の死により還俗し家督。1559年関盛信と同盟し、長野具藤・北畠具教軍と抗戦。長野軍を破る。1568年織田信長の三男、信孝を養女の婿養子とする。1571年信長の命で蒲生氏の日野城に退去。1582年織田信孝の四国出陣に留守居を任される。伊勢神戸城主。<祖父も(北畠)具盛、同じ名を襲名。><織田信孝が具盛の養子となっていなければ、甥の山路弾正は神戸家を相続していたかも・・。>
▽↓赤堀具之 (*)(神戸具之)・治部大輔。北伊勢三重郡の国人。神部楽三(具盛)の息(次男)。羽津・浜田氏と一揆契約を結ぶ。1559年長野具藤・北畠具教軍と抗戦。波瀬具之に赤堀城を奪取される。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。1573年長島一向一揆征伐に織田信長に人質を供出する。赤堀城主。
国府* (*)佐渡守。神戸一門。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。国府城主。
国府盛種 (*)次郎四郎。神戸一門。国府盛邑の息。国府家は神戸信孝の与力。
⇔山路正幽 (*)紀伊守。神戸家六奉行のひとり。神戸家の家老。神戸具盛の娘婿。伊勢国河曲郡の高岡城主。
⇔山路* (*~1571*)弾正少弼。山路紀伊守・正幽の息。織田家との抗戦派。のち養子の神戸信孝に粛清される。
⇔▽山路種常 (*)長尾・隼人・久之丞。高岡城主。山路紀伊守・正幽の息。のち信孝の家老、小島兵部の家臣。福島家に出仕。
峯 * (*)峰・与八郎・興八郎。神戸一門。峯八郎四郎の舎弟。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。峯家は神戸信孝の与力。

(楠木党→摂津へ)
⇔↓楠 貞高 (*~1567)楠木貞孝・定隆・(正忠?)。北伊勢衆。神戸具盛の娘婿。三重郡の豪族。1567年瀧川一益により滅亡。1568年一族は織田家に従う。息に正具(正忠?)。楠・楠山城主。<世代にズレ。貞孝→正孝→正具の事績か。>
⇔↓▽楠 正孝 (*)楠木正孝・十郎左衛門・正忠。神戸家家臣。三重郡の豪族。織田家の伊勢侵攻に抵抗。息に七郎左衛門正具。<養子に正盛?。>
⇔↓○楠木正盛 (*)十郎・盛信・(正守)。北伊勢の豪族。三重郡の豪族。貞孝の息。正具の娘婿。織田家に従った楠氏。北伊勢侵攻の案内役。1568~1569年山路弾正の拠る「高岡城攻囲」に従軍。「本能寺の変」後は信雄に従う。<三重郡楠城主・楠貞高は1567年織田家の侵攻に滅亡という。世代混乱あり。><本家の十郎は諏訪家からの養子とも。>
⇔↓▽楠木正具 (1516~1576)七郎左衛門・浄泉坊正覚。正忠の息。神戸具盛家臣。のち1556年頃は北畠具教家臣。のち上京し本願寺顕如の客将。石山合戦に参加。1576年「木津川河口の合戦」戦死。伊勢国治田・八田城主。

<伊勢楠木党> <志摩の国崎湊にも楠氏あり。>
楠木正守 (*)(水谷?)。元関家家臣、北畠氏に出仕。息に正吉。楠平尾城主。<楠木正盛と同一人物か?。>
▽楠木正吉 (*)(水谷?)。正守の息。<水谷正吉と同一人物か。>
⇔↑水谷正吉 (*)楠木。桑名郡赤須賀の豪族。<北畠家老の水谷氏と一族か。長島に籠城する水谷氏か?。>

<北伊勢 関(平)譜代家老衆> 長野家は宿敵。六角義賢と同盟。
⇔関 盛信 (*~1593)宗一・中務大輔・安芸守・万鉄。神戸氏一族。盛雄の息。六角氏家臣。叔父に盛重。弟に(小岐須)盛光、盛員。蒲生定秀の娘婿。1567年瀧川一益の北伊勢攻略から信長に長く抵抗するが、降服し赦免される。伊勢亀山城主。1582年三好信孝の「四国渡海」に親子で従軍予定。
○▽関 盛忠 (*~1574)四郎。北伊勢豪族、関盛信の嫡男。北畠家臣。1568年織田軍の侵攻に防戦に務める。信長に長く抵抗する。1574年蒲生賢秀に従い「長島一揆攻撃」に従軍するが討死という。伊勢亀山城主。弟に関一政、一利、氏俊。
関 盛光 (*)小岐須盛光。盛雄の息(2男)。北畠家臣。盛信の弟。弟に盛員(盛俊)。1568年織田軍の侵攻に防戦に務める。
⇔関 盛吉 (*)十兵衛・勝蔵・主馬・一利・盛清・盛義。関盛信の息。柴田勝豊の家老。のち蒲生氏郷の家臣。息に氏盛(一政の跡職を継承)。
⇔○▽関 一政 (*1564~1625)四郎。右近衛太夫・永盛。長門守。関盛信の息、兄・盛忠に代わり関氏家督。弟に一利、氏俊。1582年三好信孝の「四国渡海」に親子で従軍予定。のちに蒲生氏郷与力。陸奥白川城主。養子に氏盛。
⇔▽ロルテス (*)山科勝代・羅久呂左衛門・勝成。イタリア人。関一政の家臣。のちに蒲生氏郷に出仕。
鹿伏兎* (*)加太・左京佐。神戸一門。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。鈴鹿郡加太城主。鹿伏兎家は神戸信孝の与力。
六角義賢の家臣団

<伊勢古代支族の系譜> 猿田彦の後裔。
山本* (*)伊勢豪族。伊勢一宮、椿大神社神職。
宇治土公* (*)伊勢豪族。伊勢神宮内宮・猿田彦神社神職。

北畠(織田)信雄の家臣団 三好(織田・神戸)信孝の家臣団

<北伊勢国人衆> 尾張国境付近の豪族。近江六角氏の勢力圏。1568年頃から織田家の勢力伸張。
⇔田原重綱 (*~1584)伊勢浜田の豪族、田原元綱の息。赤堀氏、国原氏と一揆契約。1576年瀧川一益の攻撃を受け元綱が戦死後、家督。のち信雄に出仕、小牧の役で討死。
⇔↑赤堀具之 (*)神戸。治部大輔。北伊勢三重郡の国人。神部楽三(具盛)の次男。羽津・浜田氏と一揆契約を結ぶ。赤堀城主。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。1573年長島一向一揆征伐に織田信長に人質を供出する。
田原国虎 (*~1572)赤堀近宗・右京亮。のち瀧川一益家臣、茂福城主の山口四郎右衛門により毒殺される。羽津城主。
▽中川* (*~1575)掃部助。赤堀氏家臣。瀧川一益軍との赤堀城防衛戦にて、堀木氏とともに戦死。
▽堀木* (*~1575)信濃守。赤堀氏家臣。瀧川一益軍との赤堀城防衛戦にて、中川氏とともに戦死。
⇔千種* (*)千草。修理正。三重郡の豪族。千草城主。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。
⇔宇部野* (*)1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。
稲生* (*~1570)勘解由。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。本田党との「曾原合戦」に戦死。稲生城主。<伊勢堀江城受領に失敗。>

木曽川河口要所図
<北方(梅戸)一揆>
1453年「幕府の中立要請」幕府が、梅戸三河入道・高行親子と大木智観(北方一揆)に、
北伊勢半国守護・一色義直による伊勢泊浦代官・九鬼愛如意丸攻撃への不介入を要請。

・大木智観、多胡実久、宇佐美祐永、田能村盛仲、萱生実次、伊坂之実・満実が一揆構成。
1488年京極高清に敗北した京極家臣の京極政経、多賀経家を匿う。
1493年幕府から奉行人・諏訪貞説が北伊勢統治に派遣される。
1494年「船田合戦」に幕府の要請で、兄・政房と家督を争う土岐元頼を後援する。

六角定頼が梅戸氏に養子(梅戸高実)縁組。
1544年京都から下向した連歌師・宗長を田能村、治田、飛那井氏と接待。
一色義貫の家臣団   
六角義賢の家臣団

⇔梅戸高実 (1502~1561)六角高実。六角高頼の息。定頼の弟。北伊勢の「北方一揆」の有力者・梅戸氏に養子入り。息に実秀。梅戸城主。<北伊勢を巡り、守護・土岐(世保)家、一色家との抗争。>
⇔▽梅戸実秀 (*1537~1568)六角・次郎・左衛門大夫。梅戸一揆の党首。北伊勢48家のひとつ。高実の息(次男)。織田家の瀧川一益の伊勢侵攻に抵抗。<甲斐に逃れた六角次郎とは。>
⇔梅津* (*)(六角)・梅戸・次郎左衛門。北方一揆。員部郡郡代。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。織田信雄に出仕。<梅戸実秀と同一人物か。>
伊坂* (*)北方一揆。
萱生* (*)かよう・春日部。北方一揆。萱生城主。
大木賢仲 (*)(青木)・孫太郎。北方一揆。六角家家臣。朝倉・横瀬氏と抗争。のち織田信雄に出仕。<志摩国に大木氏あり。>
田能村仲実 (*)北方一揆。六角家家臣。のち織田信雄に出仕。
多胡* (*)北方一揆。
蘇原* (*)北方一揆。
宇佐美* (*)北方一揆。

後醍醐天皇の家臣団と軍団 南朝勢力  /godaigo-tennou
北畠(織田)信雄の家臣団 三好(織田・神戸)信孝の家臣団
北伊賀は六角氏に従い、南伊賀は北畠氏に従う豪族が多い。
<伊賀衆> 阿拝・伊賀・名張・山田の四郡に割拠する土豪。紫文字は親織田派。
⇔下山* (*~1578)甲斐守。北畠氏旧臣。伊賀衆旗頭。親織田派。瀧川雄利と同心。1578年伊賀攻めの拠点、丸山城築城。1578年第一次「伊賀の乱」前哨戦で伊賀衆の計略により討死。
⇔福地定成 (*~1582)伊予守・宗隆。北伊賀柘植三方衆。伊賀四大将のひとり。親織田派。1581年9月第二次「伊賀の乱」で、織田家に内通したことにより、他の伊賀衆の復讐の標的となる。一門に北畠信雄の家老となる柘植三郎左衛門・保重。<松尾芭蕉の先祖らしいです。>
⇔耳須具明 (*~1581)弥次郎。伊賀地頭家。河合郷地頭。親織田派。1581年9月第二次「伊賀乱入」で、織田家に内通したことにより、他の伊賀衆の復讐の標的となる。反撃にあい討死。

森田* (*~1582)浄雲。1581年織田家に降伏臣従。1582年再び挙兵。一宮城主。
北村* (*)北伊賀柘植三方衆。
田屋* (*~1581)河合郷の土豪。茶器「山桜の真壺」、「きんこうの茶壺」を提出して降伏するが誅殺された。
百田* (*)藤兵衛。長田庄の豪族。578年「伊賀の乱」の旗頭。丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
町井貞信 (*)左馬允。木興庄の豪族。伊賀12人衆のひとり。1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
阿波正高 (*)1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
富野重正 (*)1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
平松源八* (*)1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
平野善八郎* (*)1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
沼田彦七* (*)1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
森脇* (*)甚助。1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
三輪* (*)善之助。1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
出後正高 (*)1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
井上* (*)新左衛門。1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
沢村重久 (*)1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
大井* (*)源兵衛。1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
久保* (*)源八郎。1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
服部* (*)服部党。<伊勢長島一揆の海賊、服部友貞の服部党との関連が気になるところです。><津島の服部とも関連がありそうですが。>

<伊賀上忍三家> (服部党) 藤林・百地も同祖。
藤林保豊 (*)(服部)・長門守・正保。東湯船郷の領主。伊賀上忍三家のひとつ。今川義元に出仕。のち織田家に通じる。<1581年の「伊賀征伐」に協力するとも。>
百地泰光 (1512~1581)(服部)・丹波守・正西。清右衛門の息。伊賀上忍三家のひとつ。伊賀南部・東部の友生の豪族。<三太夫は孫らしい。滝野氏に裏切られた感じです。>
▼百地* (*)丹波・三太夫。城山・友生村喰代郷の領主。伊賀上忍三家のひとつ。
服部保長 (*)千賀地・半三・石見守。予野の領主。服部党。伊賀上忍三家のひとつ。伊賀中部予野の豪(阿拝郡の豪族とも)。足利義晴に出仕。息に徳川に出仕した半蔵・正成。<伊勢長島一揆の海賊、服部友貞の服部党との関連が気になるところです。><津島の服部とも関連がありそうですが。>

<鎌倉期からの伊賀の悪党と呼ばれた豪族>
黒田* (*)黒田荘の豪族。黒田悪党。
富永* (*)山田郡の豪族。富永悪党。<三河・伊勢・近江の富永とも関連がありそうですが。><大伴氏族だとすれば、瀧川一益とも繋がりが有ります。><鳥屋尾氏との関連も考えられそうです。>
馬野* (*)山田郡の豪族。馬野悪党。

北畠具教の家臣団   
足利 義昭/asikaga,yosiakiの家臣団
大和国要所図
<大和衆> 芳賀・秋山・沢・(小川)
南朝・北畠家臣団(大和宇陀郡)
秋山国堅 (*)1533年宇陀郡支配を目指し、北畠晴具に従う沢・芳野氏を攻撃。
秋山教家 (*~1563)藤次郎・遠江守。大和宇陀三人衆のひとり。秋山宗丹の息。三好家の娘婿。1558年北畠氏と抗争。1562年畠山高政に従い畿内侵攻。三好軍と「教興寺の合戦」。1563年挙兵するが敗北。父・宗丹は北畠家へ人質。神楽岡城主。<三好家と結んで松永の伊勢侵攻の噂。>
秋山直国 (*)次郎・右近将監。大和宇陀三人衆のひとり。秋山宗丹の息。秋山遠江守の弟。三好長慶の娘婿。沢氏と対立。松永久秀との抗争に敗北し大和を落ちる。1568年十市遠勝が三好家と結んだため、松永氏と結び十市家と抗争。<直国、家慶は別人とも。1579年頃に代替わりしているのでしょうか。>
⇔秋山家慶 (*~1600)次郎・右近太夫。大和宇陀三人衆のひとり。秋山宗丹の息。秋山遠江守の弟。瀧川一益の娘婿。沢氏とともに、北畠四家老のひとり。親織田派。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。瀧川一益与力。1582年伊賀一揆鎮圧に出動。1584年以降秀吉に出仕。3000石。宇陀郡松山城主。<直国は別人らしい>
▽諸木野* (*)弥三郎。秋山家家臣。1569年「大河内籠城戦」に参加。織田軍を撃退する軍功。
▽秋山* (*)萬助。1569年「大河内籠城戦」に参加。織田軍を撃退する軍功。
▽秋山* (*)志摩介・島之助。1569年「大河内籠城戦」に参加。織田軍を撃退する軍功。

⇔沢 房満 (*)隼人正。宇陀郡沢城主。秋山氏とともに、北畠四家老のひとり。1559年松永久秀家臣、高山飛騨守に沢城を奪取される。1562年畠山高政に従い畿内侵攻。三好軍と「教興寺の合戦」。北畠氏の後援で奪還。1582年伊賀一揆鎮圧に出動。

芳野* (*)春竹丸。1533年北畠晴具に秋山氏の違乱を訴える。
▽南 重綱 (*)芳野家家臣。1533年北畠晴具に秋山氏の違乱を訴える。
▽西田久延 (*)芳野家家臣。1533年北畠晴具に秋山氏の違乱を訴える。
芳野* (*)民部大輔。1562年畠山高政に従い畿内侵攻。三好軍と「教興寺の合戦」。
⇔芳野* (*)宮内少輔。

後醍醐天皇の家臣団と軍団 南朝勢力  /godaigo-tennou
紀伊守護・畠山高政の影響下。
<紀伊衆> 新宮・尾鷲・九鬼・鬼本を支配。
⇔堀内氏吉 (*)熊千代・新次郎・安房守・氏善。熊野新宮の豪族。新宮社家・熊野別当。氏虎の息。兄弟に氏高。九鬼嘉隆の娘(養女)婿。紀伊守護畠山氏家臣。三木浦の三木氏を攻略。北畠具教の要請で、伊勢長島一向一揆を救援する。新宮城主。織田家に従う。息に(新宮氏弘)行朝、重朝、氏久、(米良)道慶、氏清、氏治、(有馬)氏時。<長男・新宮氏弘は古田重然の娘婿。>

↑三鬼* (*)伊賀守。尾鷲侵攻に抵抗。北畠軍の後詰に敗北し戦死する。三鬼城主。<三木浦の領主の家系でしょう。>
鬼頭* (*)兵庫頭。尾鷲侵攻に抵抗。北畠軍の後詰に敗北し戦死する。

※↑愛洲久忠 (1452~1538)太郎左衛門尉・日向守・移香斎。熊野水軍の将。「剣聖」上泉信綱の師匠。陰流創始者。
畠山持国の家臣団
後醍醐天皇の家臣団と軍団 南朝勢力  /godaigo-tennou
八幡軍船。
<南伊勢衆> 愛洲・五ケ所。
(大湊・玉丸=田丸) →北畠氏が愛洲家に養子入りし田丸氏へ
⇔愛洲 (*)愛曽・六郎左衛門尉。南北朝の内乱に南朝方。1339年神山城の攻防に参陣。
⇔愛洲宗家 (*)弾正忠。1342年玉丸城の攻防に参陣。
⇔愛洲宗実 (*)三郎左衛門。1342年玉丸城の攻防に参陣。
↑愛洲忠行 (1450~*)伊予守。伊勢神領奉行。北畠政郷家臣。1486年山田三方衆と宇治衆の抗争に介入し神宮に兵火を持ち込む。伊勢神宮禰宜の荒木田氏経と親交がある。養子に北畠政郷の息・政勝。田丸城主。<伊勢の守護代家とも。独立的な小領主でもあったか。奥州藤原氏の与力・信夫佐藤氏のような関係でしょうか。>
愛洲政勝 (*)北畠政勝・(田丸・玉丸)。忠行の養子。田丸城主。
愛洲親忠 (*)弾正。1527年玉丸城奪還に出征。五ケ所城主。<北畠氏から奪還か。>

⇔愛洲 (*)愛曽。南朝方武将。宗良親王を迎え、北朝方と抗争。一ノ瀬城主。
(五ケ所)
愛洲* (*)愛曽。1343年五ケ所城の防衛戦に軍功。仁木氏を撃退。
愛洲国忠 (*)愛曽。1527年弾正親忠より五か所城を譲渡される。<親子か?。>
愛洲重明 (*)愛曽・治部大夫。北畠具教の娘婿。室と離縁し北畠氏と抗争。五ケ所城主。
▽久平友晴 (*)愛曽氏家臣。重明の家老。北畠氏に離反。
五ケ所教忠 (*)愛洲。治部大輔。永禄元年に北畠氏により自害。五ケ所城主。

(八幡船艦長)
↑愛洲久忠 (1452~1538)(愛曽)・太郎左衛門尉・日向守・移香斎。熊野水軍の将。「剣聖」上泉信綱の師匠。陰流創始者。息に小七郎。
▽愛洲完通 (*)小七郎。久忠の息。1564年常陸・佐竹氏に出仕。

→九鬼水軍のページ ⇔信長の年表と 信長初期家老(森 可成・坂井政尚の軍団、織田水軍)
畠山持国の家臣団


<南朝方 九鬼(坊門)氏> 伊勢志摩波切村を拠点、泊浦を支配。
九鬼隆長 (*)・掃部。四代。
九鬼光長 (*)藤原・坊門。坊門隆長(隆良?)の息。五代。息に政長、宮崎光信。<隆基と同一人物か>
九鬼政長 (*)光長の息。六代。<隆次と同一人物か?>
▽九鬼泰隆 (*)隆次の息。息に定隆、重隆。<七代は政隆とも。系譜に混乱あり。>
▼九鬼定隆 (*)宮内大輔。泰隆の息。弟に重隆。<八代に浄隆とも。>
▼九鬼重隆 (*)泰隆の息。定隆の弟。息に隆持。

<志摩衆>
『北畠物語』 英虞七人衆 <豪族同士で複雑に縁戚関係・志摩国南部の七人衆>
①相差、②(国府)三浦、③(甲賀)武田、④(波切)九鬼(川面・青山系)、
⑤青山、⑥佐治(和具)、⑦浜島。

『九鬼世系』 志摩13頭衆 ①~⑬湊 <三浦氏・和田氏が多い事は、尾張佐久間氏との一族関係に関連しそうです。伊勢御師・福井氏と佐久間氏との古くからの交流にも関連しそうです。>
①(小浜)小浜景隆、久太郎真宗の息。1569年逃亡。息に光隆。<小浜民部の跡職か?。のち駿河に逃走、駿河に一族が居るか?。>
②(楽島)安楽島、越中守。<荒島の豪族。荒島→安楽島>
③(安楽)三浦、豊後守。
④(甲賀)甲賀(武田)、雅楽助。
⑤(千賀)千賀、志摩。1569年逃亡。<知多半島の佐治氏の縁戚。>
⑥(的矢)的矢、次郎左衛門。<美作守が継承するか。>
⑦(浦)浦、豊後守。<三浦氏か。安楽の三浦豊後と同一人物か?。今浦の和田大学と同一人物とも。>
⑧(国府)国府(三浦)、内膳正。<三浦新助と同一人物か?。>
⑨(波切)九鬼(川面)浄隆、光隆、嘉隆。
⑩(越賀)越賀隼人(佐治隆俊)
⑪(和具)和具(青山)豊前。
⑫(岩倉・田城)田城左馬(九鬼澄隆?)。
⑬(鳥羽)橘宗忠(鳥羽主水?)。
<嘉隆流を本筋とするために、岩倉田城に澄隆か?>
 志摩国要所図。
<その他の志摩海賊衆>
⑭(浜島)小野田、豊後。英虞湾の豪族。
⑮(和田)和田。英虞湾の豪族。
⑯(川面)川面、権大夫。英虞湾の豪族。<波切九鬼氏と縁戚。>
⑰(鵜方)森、縫殿之助。英虞湾の豪族。
⑱(御座)御座、源四郎。
⑲(船越)舟越、左衛門。
⑳(安乗)三浦、新助。1569年逃亡。
(国崎)楠、嘉十郎。<国崎嘉十郎と同一人物か。>
(石鏡)大木、上総介。
(今浦)和田、大学。
(菅島)菅島、能登。
(神島)小久保、主水。
(伊雑)迫間、五郎左衛門。
 


 室町幕府
<「応仁の乱」の東軍勢力>
将軍職       「半将軍」         管領職         管領代          尾張          三河
足利義政<1449‐1473>                  細川勝元 細川政元
(*~1490)                         (1430~1473)
足利義尚<1473‐1489>
(1465~1489)

<「応仁の乱」以後の西軍復活時代(1490~1493)>
              (足利義視)<1490>         畠山政長
足利義材<1491‐1493>                                   1491or 93→伊勢長氏「伊豆侵攻」VS足利茶々丸

<「応仁の乱」以後の東軍復活時代(1494~1508)>
足利義澄<1494‐1508> 細川政元<1493-1507>                     細川澄元       08 松平長親VS伊勢長氏
(1480~1511)      (1466~1507)           (1489~1520)

<「西軍」再復活時代(1508~1526)>                          1509 三好長秀VS北畠材親
足利義材(義稙)<1508‐1521>               細川高国<1508-1521>  大内義興(*~1528)<1508-1518>
                                 (1484~1531)
                                              北畠晴具
1508年足利義材により斯波義達、遠江守護罷免。今川氏親に遠江守護職。
             斯波義達・大河内貞綱VS今川氏親
1518年大内義興の中国帰還。
               細川澄元<1519-1520>    
足利義晴<1521‐1526>                    細川高国<1521-1526>        北畠具教  23 松平信忠 隠居
                                             細川高国 都落ち1527~1531
1530年婿として細川高国を応援。同年、尾張の織田大和守達勝も京都に上洛。
畿内を奪還するが、1531年赤松家の裏切りで高国が細川勝元に敗北。

<「東軍」再復活時代(1527~1549)>
足利義維<1527-1546> 細川晴元<1527-1533> 細川高国・浦上村宗  ←1530 織田達勝上洛
(1511~1550)       三好元長                                       
                                                         1532 清洲織田達勝VS織田弾正
                                                             織田弾正VS松平清康(今川)

                                            六角定頼後見1546~1549、
足利義輝<1546‐1565> 細川晴元<‐1549>
(1536~1565)      三好範長(長慶)<1549->
                                            六角義賢後見1552~1553、

            三好長慶後見1558~1565年
《個人的感想》 大嶋氏の三好家との縁は1509年の三好長秀の伊勢山田への逃走に何か関連があるのでしょうか。1560年の三好家の松永・松山両大将の伊勢侵攻の噂も、北畠と三好家の悪縁によるものか、織田・今川どちらかの間者が噂をばらまき、北畠の動きを封じ込んだかでしょう。

2019年04月06日