<伊勢国司北畠氏の系譜> 赤文字・反幕府
足利幕府の変遷。
⇔北畠親房 (1293~1354)大納言・源氏長者・宗玄・覚空。淳和・奨学院別当。北畠師重の息。母は藤原隆重の娘。弟に通房、冷泉(春日)持房。後醍醐天皇の側近「三房」のひとり。世良親王の養育係り。1338年顕家が戦死。伊勢にて度会家行の協力を得る。1380年親王が没し出家。結城宗広とともに義良親王を後見して関東遠征。小田治久を頼る。1340年関ノ宗祐と伊佐氏を頼る。藤原長者の近衛経忠と対立。息に顕家、(春日)顕信、顕能、(唐橋)顕雄、娘婿に後村上天皇(義良親王)、冷泉持定。
▽度会家行 (1256~1349*1351)わたらい・村松。伊勢神宮外宮神官。南朝を支援。北畠親房と同盟。伊勢神道を大成する。
<南朝 伊勢国司> 南伊勢五郡領主(一志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・度会郡)
⇔北畠顕能 (*~1383)(中院)・正二位・南朝右大臣・権大納言・「多芸殿」。親房の息(養子で中院貞平の息とも)。顕家、顕信の弟。伊勢国司。一志郡美杉村、多気御所。野呂隆俊の娘婿。1335年伊勢一志郡多気城入城。1338年伊勢国司。1342年霧山城築城。1348年楠木正行に呼応して幕府軍を攻撃。1351年石塔頼房と抗争。1352年楠木正儀、千種顕経とともに京都侵攻。細川頼春を討つ。1354年親房の死により家督継承。1370年伊賀進攻。近江進攻。楠木正儀を追う。援軍・細川頼元軍を撃破。1371年土岐(世保)康政を破り、安濃郡を占領。息に(大河内)顕俊、顕泰。甥に顕成(顕家の息)。
▽野呂隆俊 (*)伊勢飯高郡の豪族。伊勢平氏。五箇篠山城主。娘婿に北畠顕能。<野呂越前守・伊予守戦死後、居城は安保氏が所有。><長野氏重臣、雲林院氏の家臣にも野呂氏あり。>
木造顕俊 (*)「木造御所」・北畠顕俊。顕能の息。北畠庶流。顕泰の庶兄。一志郡を領する。「応永の変」、「正長の変」に幕府軍。北畠宗家と抗争。息に俊通、俊泰(俊康)。
<南朝方 九鬼(坊門)氏> 出自は熊野別当家とも。熊野水軍の力を背景に志摩へと進出するか?。
藤原隆信 (*)九鬼隆信。九鬼(くかみ)氏祖。後醍醐天皇、後村上天皇に出仕。九鬼村(九鬼浦)を領する。息に隆治。
藤原隆治 (*)九鬼隆治・宮内少輔。九鬼氏二代。隆信の息。息に隆房。
藤原隆房 (*)九鬼隆房・刑部少輔。九鬼氏三代。隆治の息。息に隆長、(波切)隆良。
(比志賀・波切、九鬼氏) <川面氏、青山氏と結び波切を確保するか?。>
▽九鬼隆良 (*)(藤原・川面)・比志賀・(川面高義)。南朝方武将。志摩の豪族。隆房の息。兄弟に隆長。波切の川面氏の養子。1366年頃波切城主。和具の青山氏から養子を迎える。養子に隆基。
▽九鬼隆基 (*)(青山)・比志賀・隆基・(高元)。南朝方武将。志摩の豪族。隆房の息。青山氏の息、九鬼隆良の養子。息に隆次。<織田弾正忠家の重臣に青山氏あり。のち丹羽長秀の家臣にも青山氏。>
▽▽九鬼隆次 (*)(青山)・比志賀・(高継)。南朝方武将。志摩の豪族。隆基の息。
北畠顕泰 (1338~1412*)権中納言。顕能の息。兄に(木造)顕俊。弟に(除野)顕相。1392年足利義満と和睦。北朝・後小松天皇を奉じる。伊勢南五郡、大和宇陀郡を支配。騎兵1500、侍7500、小人6000兵の15000人の動員力を持つ。伊勢守護・土岐氏嫡流と抗争。1399年息・満泰とともに「応永(大内義弘)の乱」に幕府軍として参戦し軍功。満泰は戦死する。養子に俊泰(俊康)。息に満泰、満雅,顕雅。
▽北畠満泰 (*~1399)顕泰の息。足利義満を烏帽子親に元服。「応永(大内義弘)の乱」に従軍。戦死する。
▽北畠俊泰 (*~1421)「油小路殿」・(大河内)・中納言。(大河内)顕俊の息。満泰の戦死後、北畠顕泰の養子。1414年幕府方となり北畠満雅と抗争。土岐持益、仁木満長、土岐(世保)康政とともに出陣。坂内城主。息に持泰、康玄。
<木造氏> 1414年足利義持により久我氏に木造荘返還。
木造俊通 (*)顕俊の息。兄に俊泰。北畠庶流。息・雅俊が俊泰と抗争。俊泰の坂内城を奪取。1415年幕府軍に敗北。息に俊康、(坂内)雅俊、(森本)俊氏。
▽木造俊康 (*)俊通の息。息に持康。<俊泰と同一人物か。別系統か。>
1414年 「小倉宮の挙兵」
幕府方、土岐持益、仁木満長、木造俊康を攻撃。
北畠満雅 (*~1429)(満政・光雅)・左中将。伊勢国司。兄・満泰の戦死により家督。1414年南朝小倉宮の要請で、幕府から離反。雅俊、顕雅を木造・大河内両城に配する。関氏とその一族・荻野氏を従え白米城を拠点に反乱。1415年土岐持益・仁木・細川・伊勢工藤氏の幕府軍を撃退。1428年称光天皇の死去により、小倉宮を擁立。「正長の変」にて将軍・義教の幕府軍・土岐持頼、長野満高、赤松満祐、山名持豊軍に敗北し戦死。息に教具。
▽大河内顕雅 (*)(顕政・秋雅)。満雅の弟。北畠一門。一族三大将。1415年満雅に従い幕府軍を撃退。養子に親忠。1429年満雅の死により、甥・教具を後見。養子に親郷。
▽鳥尾屋重澄 (*)富永。満雅の家老。阿坂城籠城戦に白米で馬を流し、敵を欺く計略披露。伊勢富永城主。
▽坂内雅俊 (*)木造・(正俊・政俊)。木造俊通の息。飯高郡。北畠一門。一族三大将。1415年満雅に従い幕府軍を撃退。俊泰の坂内城を奪取。1415年幕府軍に敗北。息に具能。
<伊勢守護・北畠氏> 安濃郡・長野氏との抗争、伊勢外宮門前の山田三方衆との抗争。
北畠教具 (1423~1471)権大納言。満雅の息。赤松満祐の息・赤松教康を討ち幕府に忠節。1448年長野氏と抗争。1467年「応仁の乱」に足利義視を保護。東軍に属す。1468年伊勢守護・土岐政康と抗争。息に政郷、(大河内)親郷。
▽木造持康 (*)俊康の息。息に教親。<将軍・義持の一字宛がいか。>
北畠政郷 (*~1508)右近衛中将・政具・(政勝)・雅郷・逸方。教具の息。弟に(大河内)親郷。1471年父の死により家督。1479年一色義春・長野政高と抗争。1486年伊勢の宇治衆と山田衆の対立を激化させ、幕府から詰問される。息に材親、親忠、親泰、顕晴。
▽大河内親郷 (*~1495)北畠親郷・親文。教具の息。政郷の弟。1495年「国司兄弟(材親・師茂)合戦」に戦死。
▽東門院孝尊 (*)宮内大輔。教具の息。政郷の弟。跡職は兄・政郷の息・孝縁が継承する。
▽田丸顕晴 (*)政郷の息。多気郡。北畠一門。一族三大将。
木造教親 (*)持康の息。息に政宗。
※▼愛洲忠行 (*)伊予守。伊勢神領奉行。愛洲水軍惣領。北畠政郷家臣。1486年山田三方衆と宇治衆の抗争に介入し神宮に兵火を持ち込む。伊勢神宮禰宜の荒木田氏経と親交がある。養子に北畠政郷の息・政勝。田丸城主。<伊勢の守護代家とも。独立的な小領主でもあったか。奥州藤原氏の与力・信夫佐藤氏のような関係でしょうか。>
▼村山* (*)掃部助。北畠政郷家臣。1486年山田三方衆と抗争し外宮を焼く。
▼奥山* (*)二郎右衛門。北畠政郷家臣。1486年山田三方衆と抗争し外宮を焼く。
細川政元、高国、晴元の家臣団
亰兆家の変遷。
北畠材親 (1468~1517)権中納言・具方・大石御所。政郷の息。弟に大河内親忠、大河内親泰、田丸顕晴(政勝)。足利義材から「材」の字を与えられる。土岐成頼の娘婿。(細川高国の娘婿とも?)1495年木造師茂と抗争。1509年細川高国に敗北した三好長秀を討伐。愛洲氏に大湊侵攻を命じる。息に晴具、(神戸)具盛。孫に具教。娘婿に長野・宮内大輔。<1509年伊勢山田に進出する三好家との対抗上、管領・細川高国と同盟するか。義材と昵懇であったなら、細川政元・足利義澄の政権下では肩身の狭い思いをしてきたことでしょう。>
▽山室方兼 (*)北畠当主の側近。奉行。北畠具方の「方」字を与えられる。<国兼、教兼、房兼が代々当主の側近として出仕。>
▽大河内親忠 (*~1495)北畠親忠。政郷の息。兄に材親。1495年「国司兄弟(材親・師茂)合戦」に戦死。養子に弟・親泰。
▽大河内親泰 (*)秀長・頼房。親忠の弟。政郷の息。親忠の養子となり跡職を継承。北伊勢の関氏、中伊勢の長野・工藤氏と抗争。息に(坂内)具種、具良。
▽北畠師茂 (*~1495)木造師茂。政郷の息。木造政宗の娘婿。異母兄・北畠材親と抗争。1495年舅の木造政宗の後援で反乱「国司兄弟合戦」。高柳刑部少輔・方幸、大宮式部少輔・勝直、沢兵部少輔・方満、山室民部少輔・勝兼ら11人の国人が師茂派。
⇔▽神戸具盛 (*)政郷の息。神戸家養子。息に北畠長盛、利盛。<次男・治部少輔は赤堀氏の養子。>
▽木造政宗 (*)教親の息。息に俊茂。孫に具康。
※愛洲久忠 (1452~1538)太郎左衛門尉・日向守・移香斎。愛洲水軍。唐国(からくに)寧波に渡航。「陰流」の創始者。上州の剣士・上泉信綱の師。息に宗通。<若い頃は「倭寇」に参加するか?。北畠氏からの養子が愛洲家を継承。子孫は関東の佐竹氏に抱えられる。>
《個人的感想》 同じ南朝戦力として伊勢北畠氏と、宗良親王を奉じた三河・遠江の大河内家(菊一揆)が結びつくのは自然な事だとも思うのですがどうでしょう。東海の大河内家から迎えた姫との間に誕生した子が伊勢の大河内を名乗るとかないのでしょうか。
伊勢国要所図
伊勢国司 北畠具教、北畠具房の家臣団
1473年「北方一揆」・梅戸氏の要請で北畠氏の守護代・岩内顕豊が、長野氏と美濃斎藤氏を破る。
伊勢家・三好家。
▲北畠晴具 (1503~1563)左近衛中将・具国。「多気御所」。伊勢国司七世。北畠材親の息。細川高国の娘婿。弟に田丸具忠、神戸具盛(孫も具盛)。1509年父・材親は伊勢山田にて三好長秀兄弟を討つ。1521年細川高国を多気に迎える。1522年連歌師宗長を接待。1543年六角家と同盟し、土岐・長野・関氏とともに北近江の京極氏を攻略。北伊勢の長野藤定と抗争。息に具教、具親、具政。<細川高国と結び、細川晴元・三好元長と敵対。>
山室* (*)北畠氏当主の側近。奉行人。<国兼か。のち教兼、房兼が代々当主に出仕。>
北畠具教 (1528~1576)(細川)・伊勢国司八代目・左中将・権中納言。「多気御所」。伊勢大河内城主。北畠晴具の息。母は細川高国の娘。六角定頼の娘婿。「剣聖」塚原卜伝の弟子。1558年北伊勢の豪族、長野藤定の養子に具藤を送る。1560年三好家の松永・松山が伊勢侵略を伺う。1569年10月信雄(北畠具豊)を嫡男・具房の養子に迎え織田家と和睦。1572年多気郡三瀬館に隠居する。1576年織田信雄の命で暗殺される「三瀬の変」。息に具房、(長野)具藤、親成。娘婿に不破光治、津川義冬、田丸直政。
↓▽北畠具親 (*~1586)東門院・宮内少輔。北畠晴具の息。具教の弟。六角義賢の娘婿。興福寺別当東門院僧上。1577年に蜂起するが日置大膳軍に敗北。飯南郡。のち毛利氏の客将となる。伊賀の豪族、吉原氏が具親を後援したことにより、北畠信雄の伊賀侵攻の原因をつくる。1582年変後に安保直親とともに伊勢五箇篠山城に蜂起。津川義冬に敗北する。のち蒲生家の客将。
⇔↓木造具政 (*)(北畠)・兵庫頭。木造氏8世。旧北畠氏一族。北畠晴具の息(3男)、具教の弟。北畠一門筆頭。弟に具次。1568年多気御所の馬揃えにて田丸・坂内・大河内の下位に席次を置かれ、叛心。兄を見限り信長に臣従する。秋山・沢氏の攻撃を撃退。戸木城主、戸木御所。息に長政、長雄。<のち、兄・具教に反乱することで、
本意は達せられたのでしょうか。>
⇔▽北畠具房 (1547~1580)(六角)・左中将。具教の息。母は六角定頼の娘。鈴木家重の娘婿。大河内城主。1572年織田信雄に家督を奪われ隠居。1576年「三瀬の変」で助命され、瀧川一益の保護下に置かれる。のち京都にて病没。養子に織田信雄、中院親顕。<隠居の親が居て、浅井長政と似たような立場になっていたと推測されます。>
↓▽長野具藤 (*~1576)北畠・工藤・次郎・藤教。長野氏16世。北畠具教の息。安濃花岡城主。1558年長野藤定の養子となる。1559年赤堀氏との合戦に敗北。関氏とも争い敗北する。重臣・細野藤敦とも争い多芸に逃走。1569年織田信包を養子とする。1569年「大河内城攻略」に従軍。1576年織田信雄の命で田丸城で誅殺される。長野御所。<長野氏の分家は雲林院(氏井)氏。>
北畠親成 (*~1576)式部少輔・式部大輔。北畠具教の息。興福寺東門院の僧から還俗。1569年「大河内籠城戦」に参加。織田軍を撃退する軍功。和議に反対する抗戦派。1576年織田信雄の命で田丸城で誅殺される。一志郡。
北畠政成 (*~1576)左衛門督・「東御所」。北畠政勝の息。松永久秀養女の婿。一志郡美杉村。1569年織田軍の襲撃を受けるが撃退。妹婿に北畠具房。霧山城主。
▽芝山秀定 (*~1576)出羽守。東御所・北畠政成の家老。一志郡美杉村住人。大宮と並び政務奉行。1569年北畠具教の救援に向うが失敗。息に秀時。
<伊勢 北畠一門御由緒衆>
大河内具良 (*~1576)北畠・左少将・左中将。北畠家御親類衆。大河内頼房(親泰)の息。兄に坂内具種。母は北畠晴具の娘。北畠一門。大河内氏5世。1572年官位任官。1573年左中将。田丸城にて北畠信雄の臣・柘植三郎左衛門に討たれる。大淀城主。
▽大河内教通 (*~1576)北畠・相模守。具良の息。
大河内* (*)北畠・宮内少輔。北畠家御親類衆。多気城主。1569年「大河内籠城戦」に織田軍の捕虜となる。
▽森本* (*)(北畠・木造)・飛騨守。多気城守備。1569年「大河内籠城戦」に多気城を攻撃され落城。1569年船江城一揆に参加。<木造氏一門の森本飛騨守のようです。代々「飛騨守」なのでどの人物やら・・。>
(伊勢神領奉行家) 岩出城を拠点とする。
坂内房郷 (*)(北畠・大河内)・坂内御所。度会郡の豪族。親忠が大河内家を相続し、房郷は坂内家を継承。伊勢神宮と所領問題。大和宇陀の豪族・沢氏と抗争。養子に具種(親能)。
坂内具種 (*)星合親能・(北畠・大河内)・坂内御所。北畠家御親類衆。大河内頼房(親泰)の息。大河内具良の兄。坂内家の養子。息に教房、教賢、具泰、具房(具祐)。
坂内具房 (*)(北畠・大河内)・坂内御所・右近将監・具祐。北畠家御親類衆。息に具義。
▽坂内具義 (*~1576)(北畠・大河内)・坂内御所・兵庫頭。北畠家御親類衆。北畠具教の側近。織田信長に誅殺される。
▼坂内* (*~1576)千松丸。田丸城にて討たれる。
⇔藤方朝成 (1530~1597)刑部少輔・具祐。北畠一族。小森上野城主・藤方慶由の息。北伊勢の長野家と代々抗争。1569年居城にて織田軍の侵攻に備える。1569年信長に臣従し、のち織田信雄の直臣。1576年北畠具教を殺害する。伊勢陸田城主。
⇔↓▽軽 * (*)加留・左京。藤方朝成の命で1576年北畠具教を殺害する。
▽北畠具就 (*)小原。1569年織田軍の侵攻に備える。藤方氏とともに小森上野城を守備。
岩内鎮慶 (*)北畠。晴具の弟。岩内家を興す。
▽岩内光安 (*~1576)主膳正。北畠家御親類衆。1569年居城にて織田軍の侵攻に備える。伊勢岩内城主。
波瀬具之 (*~1576)蔵人・具祐。北畠家御親類衆。一志郡領主。1559年神戸家と抗争する長野家と結び赤堀氏を攻撃。赤堀氏に敗退。<永禄年間に波瀬御所が赤堀氏を攻撃。>
▽阿曽* (*)弾正忠。波瀬与力。1559年赤堀具之の赤堀城攻撃に従軍。
▽矢川* (*)下野守。波瀬与力。1559年赤堀氏攻撃に従軍。
福山* (*)北畠家御親類衆。
(北畠・愛洲家)玉丸=田丸城主。 政略婚により八幡(源氏)愛洲氏を乗っ取り。
田丸顕晴 (*)北畠・(愛洲)・左中将・田丸御所・政勝。北畠政郷(*~1508)の息。北畠材親の庶兄とも。池山伊賀守の謀反で戦死。晴具の侍大将・舟木兵部少輔が謀反鎮圧。息に具忠。<北畠政勝=愛洲政勝?。>
▽池山* (*)伊賀守。田丸家臣。弟に五郎兵衛。主・顕晴に山岡党を率いて反乱し田丸城を制圧。<五ケ所愛洲氏の田丸城奪還に連動して謀反するか?。>
田丸具忠 (*)(愛洲)・北畠・田丸御所。顕晴(材親とも)の息。信雄の代に一之瀬御所。息に直政。<愛洲具忠?。>
⇔田丸直政 (*)北畠・(愛洲)・中務少輔・具直・具政・忠昌・直息・直昌・田丸御所。北畠家御親類衆。蒲生賢秀の娘婿。北畠一族。渡会郡の豪族。志摩国境付近の伊勢国田丸・岩出城主。のち織田信雄の直臣。北畠信雄の命で北畠具教の弟・具親を討つ。5万5千石。のちに蒲生家に出仕。息に直茂。
※愛洲* (*)玉丸。北畠氏の守護代家。「明応の内乱」に材親に反乱する。一族に水軍の五ケ所氏。玉丸山(田丸)城主。
北畠(織田)信雄の家臣団 三好(織田)信孝の家臣団
<伊勢 北畠譜代家老衆>
「北畠四家老家」 沢・秋山・水谷・鳥屋尾(伴・冨永)
水谷俊之 (*)刑部少輔。松尾立野城主。外様の沢・秋山氏、譜代の鳥屋尾氏とともに北畠四家老のひとり。親織田派。北畠具房を説得し北畠信雄を養子に迎える。<長島籠城の水谷氏と一族か。とすれば、楠木党が北畠氏の家老に。>
↓鳥屋尾満栄 (*~1577)鳥屋野尾・富永・石見守。茂康の息。外様の沢・秋山氏、水谷氏とともに北畠四家老のひとり。1569年「大河内城の攻防」に主家に従い活躍。1577年北畠具親とともに蜂起。飯南郡。福本城主。<甲賀・大伴姓の富永氏とすれば、三河東条吉良家の家老職・富永忠元と遠い縁戚?>
↓▽鳥屋尾* (*~1577)鳥屋野尾・富永・右近将監。「北畠四家老家」。満栄の息。1572年上洛する武田軍と呼応。田丸城から具房の息・昌教を救出。1577年北畠具親とともに蜂起。織田信雄の攻撃をうける。伊勢富永の領主。<一門に与四郎・定恒あり。同一人物?><伊賀の富永とも関係あるかもしれませんね。>
↓吉田兼房 (*~1595)兵庫頭。北畠軍の旗頭。1577年北畠具親とともに蜂起。茂原城主。諸国流浪する。息に兼宗。
⇔井上専正 (*)味兵衛・入道教順。北畠家老家。反織田派。のち本願寺顕如の客将。<とことん織田家と戦う路線。忠臣ですね。>
大多和* (*)兵部少輔。北畠具教・具房の家臣。1569年居城にて織田軍の侵攻に備える。八田城主。
↓家城之清 (*~1577)家木・主水佑・主水正。北畠晴具・具教・具房の家臣。侍大将。天文年間(1543年?)「垂水鷲山の合戦」に従軍。長野藤定との合戦に軍功。1569年「大河内城の攻防戦」に主家に忠節を尽くし活躍。1570年「曽原城の攻防戦」にも活躍。1577年北畠具親の蜂起に従軍し「川俣の合戦」に討死。伊勢一志郡家城城主。<「槍主水」と異名をとる勇者。><舟木とともに田丸の池山氏討伐軍。>
豊田* (*~1555)五郎右衛門尉。北畠晴具・具教・具房の家臣。侍大将。飯高郡の豪族。天文年間(1543年?)「垂水鷲山の合戦」に従軍。垂水釈迦房とともに長野藤定との合戦に軍功。1555年斎宮城、智積寺城を奪取。本田美作守の鎮圧軍に敗北戦死。<九鬼嘉隆の娘婿に豊田氏あり。>
▽野呂* (*~1555)三郎。多気郡の豪族。水軍大将。1555年斎宮城、智積寺城を奪取。本田美作守の鎮圧軍に敗北戦死。
⇔奥山知忠 (*~*1576)常陸介。北畠具教・具房の家臣。本田と並ぶ軍奉行家。1568年織田軍を撃退。1569年蒲生家と抗争。のち織田家に従う。1576年北畠旧臣、信雄の命で三瀬館の北畠具教を襲撃。奥山は具教襲撃の命を放棄し出奔する。安芸郡今徳城主。<伊勢攻略に従う蒲生家と戦うとも。><遠江の奥山家とは関連があったのでしょうか。南朝方として先祖は繋がるかもしれませんね。>
<本田党> 三河本多党と関連ありか。南朝勢力として出張っていたのでは。
本田* (*)美作守。北畠具教・具房の家臣。1555年飯高郡の豊田氏、多気郡の野呂氏の一揆を鎮圧。1569年船江城にて織田軍の侵攻に備える。息に本田康親。船江城主。<康親=親泰でしょうか。>
→▽本田* (*)右衛門尉。北畠具教・具房の家臣。本田美作の叔父。1569年船江城にて織田軍の侵攻に備える。1569年船江城一揆に参加。討伐軍の稲生勘解由を討つ。<大宮氏と対決姿勢。>
中西* (*)清右衛門。北畠具教・具房の家臣。本田家与力。1555年飯高郡の豊田氏、多気郡の野呂氏の一揆鎮圧に従軍。
中西* (*)甚太夫。北畠具教・具房の家臣。本田家与力。1568年北畠具教の命で、織田家に通じた柘植三郎左衛門の娘を処刑。
高嶋* (*)次郎左衛門。北畠具教・具房の家臣。本田家与力。1555年飯高郡の豊田氏、多気郡の野呂氏の一揆鎮圧に従軍。
▽本田親泰 (*)左京佐・左京亮・親康。美作守の息。北畠具教・具房の家臣。奥山と並ぶ軍奉行家。織田家に従い、大宮家と対立。船江城主。
→林 * (*)備後守。北畠具教・具房の家臣。宇陀郡日牧出身。1569年船江城一揆に参加。
《個人的感想》 三河の本多氏がどこからやってきたのか、伊勢の本田氏との関係が気になるところです。
(大宮党 阿坂城)
大宮* (*~1569)入道・含忍斎。北畠具教・具房の家臣。芝山と並び政務奉行。1569年阿坂城にて織田軍の侵攻に備える。1569年息の大之丞・景連が木下秀吉に手傷を負わせた。「三瀬の変」に北畠政成とともに討死。伊勢阿坂城主。息に景連。<大宮党は国司兄弟合戦に北畠師茂派の中心勢力。>
▽大宮景連 (*)大之丞。入道含忍斎の息。伊勢阿坂城主。<本田氏と対決姿勢。>
大宮* (*~1569)兵部少輔。北畠具教・具房の家臣。阿坂住人。軍奉行。1569年阿坂城にて織田軍の侵攻に備える。
⇔▽遠藤* (*)五郎左衛門。北畠具教・具房の家臣。1569年阿坂城にて織田軍の侵攻に備える。秀吉の調略に呼応し、阿坂落城。
(大河内城)
天花寺* (*~1569)小次郎。北畠具教・具房の家臣。1569年曾原(蘇原)城にて織田軍の侵攻に備える。1569年「大河内籠城戦」に軍功。1569年船江城一揆に参加。1569年当主・北畠具房の出陣により敗退し戦死。
↑芝山秀定 (*~1576)出羽守。北畠政成の家老。一志郡美杉村住人。大宮と並び政務奉行。1569年北畠具教の救援に向うが失敗。
⇔日置* (*)大膳亮。日置・次大夫は弟。北畠具教・具房の家臣。北伊賀柘植三方衆。長野と並び寺社奉行。1569年「大河内城の攻防」に主家に従い活躍。のち織田信雄の直臣。北畠信雄の命で伊勢田丸城内にて、長野具藤・北畠房兼・坂内兵庫を討つ。「小牧長久手」のち徳川家家臣。細首城主。
朴木* (*)隼人正。北畠具教・具房の家臣。1569年「大河内城の攻防」に籠城軍。織田家へ和議の使者。
<安保党>
安保* (*)大蔵太夫。北畠具教・具房の家臣。「秋山宗丹討伐戦」に出陣。戦死する。
安保* (*)大蔵少輔。北畠具教・具房の家臣。侍大将。1569年「大河内籠城戦」に織田軍の夜襲を撃退する軍功。<太夫の一門か。>
安保直親 (*)北畠具房の娘婿。義兄弟に織田信雄(北畠具豊)。
磯田* (*)彦右衛門。北畠具教・具房の家臣。安保大蔵太夫とともに「秋山宗丹討伐戦」に出陣。戦死する。
<舟木党>
船木* (*)兵部少輔。北畠晴具家臣。田丸城を奪取した池山伊賀守率いる山岡党から、田丸城を奪還する軍功。
舟木光経 (*)北畠具教・具房の家臣。1569年「大河内籠城戦」に織田軍を撃退する軍功。息に光教。<美濃斎藤家にも舟木氏あり。>
舟木光長 (*)(本田)・中村光長・弥仁右衛門。北畠具教・具房の家臣。伊勢一志郡の豪族。舟木光春の息。本田左京亮の娘婿。久米城主。
《個人的感想》 世保土岐氏に関わる一族でしょうか。三河の本多氏との関わりも気になる所です。
<三河由緒家> 対岸の国・三河
長谷川藤直 (*)三十郎。北畠家臣。具教の息で長野家養子の長野具藤の家臣。娘婿に徳川家康。息に重吉、藤継、藤広。
▽長谷川藤広 (1566~1617)左兵衛。北畠家臣。長野具藤の家臣。伊勢一志郡の豪族。徳川家康は妹婿。のち長崎奉行、堺奉行。<今川重臣の長谷川氏といい、織田家重臣の長谷川といい、なかなかに盛業する名です。>
服部* (*)民部少輔。北畠具教・具房の家臣。侍大将。1569年蒲生軍と抗争。1569年「大河内籠城戦」に参加。七栗一色城主。<伊勢と三河のつながりある名字の侍は、伊勢にあるという吉良家の領地の代官を勤めていた家系ということなんじゃないでしょうか。>
榊原* (*)刑部少輔。榊原氏経の息。北畠具教・具房の家臣。伊勢榊原城主。息・三左衛門は長野信包の与力。伊勢と三河のつながりある名字の侍は、伊勢にあるという吉良家の領地の代官を勤めていた家系ということなんじゃないでしょうか。>
⇔木俣守時 (*)楠木・(盛時)。三河にて徳川家に出仕。息に守勝。
三河国要所図
一色義貫の家臣団 細川政元、高国、晴元の家臣団
<家老衆>
⇔長野* (*~1584)工藤・左京進・左京大夫。北畠具教・具房の家臣。小倭の豪族。日置と並び寺社奉行。長野一門から北畠直参に。北畠信雄に仕え、1579年第一次「伊賀乱入」に一手の将。「小牧・長久手」に家所氏に討たれる。山田野城主。<三瀬左京と同一人物とも。長野(工藤)氏の分家は雲林院(氏井)氏。>
山崎* (*~1563)左馬助。北畠具教の侍大将。長野氏との抗争に大将として派遣される。分部与三衛門・光高を討ち取るが、細野藤敦に討たれた。<生駒家長の息・善長を養子に迎える山崎兵部少輔は一族でしょうか。>
山崎* (*)大炊亮。侍大将。1569年蒲生軍と抗争。<北畠家臣に山崎国通あり、一門か?。>
阿曽* (*)弾正忠。侍大将。1569年蒲生軍と抗争。
三瀬* (*)蔵人。侍大将。1569年蒲生軍と抗争。
穂方* (*)民部少輔。北畠具教・具房の家臣。伊勢一志郡の豪族。
片穂久長 (*)日向守。北畠氏家臣。奉行衆。
⇔野呂* (*~1569)左近将監。北畠家老家。1569年「大河内籠城戦」に参加。北畠具教に織田家との和議を進言。織田家に呼応し誅殺される。<北畠水軍衆を率いる野呂氏の一門か。><先祖が反乱し本田氏に討伐されている。>
蔵田行俊 (*)喜右衛門。北畠具教・具房の家臣。1569年「大河内籠城戦」に参加。織田軍を撃退する軍功。和議に反対する抗戦派。
→潮田* (*)長助。北畠具教・具房の家臣。1569年蒲生家と抗争。反織田派。1569年船江城一揆に呼応して四五百(日)森城(のち松阪城)に籠城。四五百森城主。<蒲生軍と戦闘する。>
→岸江* (*)又三郎。北畠具教・具房の家臣。侍大将。1569年蒲生軍と抗争。1569年船江城一揆に呼応して四五百森城(のち松阪城)に籠城。
→星合直藤 (*)左衛門尉。北畠譜代家臣。奉行衆。1569年船江城一揆に呼応して四五百森城(のち松阪城)に籠城。<大河内(星合)親泰の一門でしょうか。><具教の娘婿・堀江教賢が星合を名乗るとも。>
田原元綱 (*~1569)浜田城主。北畠具教・具房の家臣。瀧川一益に攻撃され戦死。息に重綱。
大嶋* (*)讃岐守。北畠具教・具房の家臣。反織田派。一門の豊後守とともに伊勢長島一向一揆に参加。<伊勢長島で武名高い、大嶋親祟は阿波三好家からの浪人。どういう関係か気になります。>
石丸有定 (1547~1631)孫次郎・半斎。北畠具教・具房の家臣。伊勢中村の豪族。石丸有次の息。1568年織田家に降伏臣従。信雄家臣。<斎藤家の執事・石丸氏の生き残りか?>
川方* (*)(木造)・隼人佐・隼人佑。木造一門。北畠具教・具房の家臣。1584年「小牧・長久手」に参陣。伊勢川方城主。
真柄孝吉 (*)修理。<越前、真柄氏は分家か?。傭兵か?。>
江見* (*)駿河守。<瀬戸美作、江見氏と一族か?>
小菅* (*)備前守。
堀内光経 (*)北畠家臣。大河内城の攻防戦に軍功。
中村光長 (*)北畠家臣。久米城主。<尾張中村との関係は。>
※↓五ケ所教忠 (*)愛洲。治部大輔。永禄元年に北畠氏により自害。五ケ所城主。<本家の愛洲氏は北畠からの養子が継承。子孫は佐竹氏に流れる。五ケ所家も関東に脱出するか。>
⇔鳥羽成忠 (*)監物。伊勢志摩の豪族。北畠晴具に従う。九鬼氏を破り志摩13頭を統率。息に成忠。鳥羽城主。
「三瀬の変」
<具教、隠居後の側近衆>
松田之信 (*~1576)(幕府政所松田氏?・波多野氏)。北畠具教の側近。1576年長野左京亮、加留左京進の軍勢により三瀬御所にて討たれる。
上杉頼義 (*~1576)(藤原氏)。北畠具教の側近。1576年長野左京亮、加留左京進の軍勢により三瀬御所にて討たれる。
南部教長 (*~1576)(南朝・甲斐南部氏後裔?)。北畠具教の側近。1576年長野左京亮、加留左京進の軍勢により三瀬御所にて討たれる。
奥村秀長 (*~1576)(尾張海部郡奥村氏?)。北畠具教の側近。1576年長野左京亮、加留左京進の軍勢により三瀬御所にて討たれる。
松永之光 (*~1576)(山城松波?)。北畠具教の側近。1576年長野左京亮、加留左京進の軍勢により三瀬御所にて討たれる。
棘木秀隆 (*~1576)(とげき)。北畠具教の側近。1576年長野左京亮、加留左京進の軍勢により三瀬御所にて討たれる。
北條教光 (*~1576)(中先代・北条氏後裔?)。北畠具教の側近。1576年長野左京亮、加留左京進の軍勢により三瀬御所にて討たれる。
大垣秀教 (*~1576)(美濃大垣氏?)。北畠具教の側近。1576年長野左京亮、加留左京進の軍勢により三瀬御所にて討たれる。
大橋長時 (*~1576)(尾張津島大橋氏?)。北畠具教の側近。1576年長野左京亮、加留左京進の軍勢により三瀬御所にて討たれる。
安藤定勝 (*~1576)(美濃安藤氏?)。北畠具教の側近。1576年長野左京亮、加留左京進の軍勢により三瀬御所にて討たれる。
斎藤森清 (*~1576)(幕府政所斎藤氏?)。北畠具教の側近。1576年長野左京亮、加留左京進の軍勢により三瀬御所にて討たれる。
設楽義教 (*~1576)(三河設楽富永氏?)。北畠具教の側近。1576年長野左京亮、加留左京進の軍勢により三瀬御所にて討たれる。
鬼頭通方 (*~1576)(紀伊鬼頭氏?)。北畠具教の側近。1576年長野左京亮、加留左京進の軍勢により三瀬御所にて討たれる。
北畠具教の家臣団
室町戦国期吉良由緒家
足利 義昭/asikaga,yosiakiの家臣団
北畠具親の軍団 1577年に蜂起。反織田の北畠残党。
北畠具親 (*~1586)東門院孝憲・宮内少輔。興福寺東門院院主。北畠晴具の息。六角義賢の娘婿。1576年兄の死により興福寺を脱出。1577年挙兵。伊勢飯高森城に籠城。敗北し毛利家を頼る。1582年「変」後に伊勢に安保直親とともに挙兵、五箇山城籠城。津川義冬に敗北する。吉原左京亮の下に寄寓。のち蒲生家臣。
芝山秀時 (*)小次郎。芝山秀定の息。北畠家重臣の家系。反織田派。北畠具教の側近。北畠具親家臣。北畠一門殺害事件に、奈良に具親の救出に向う。
大宮吉守 (*)多気丸・主膳。北畠具教の側近。北畠具親家臣。北畠一門殺害事件に、奈良に具親の救出に向う。<大宮党は、本田党と対決姿勢。>
大久保* (*~1576)清左衛門。北畠具教の側近。北畠具親家臣。<三河と関連がありそうな名前です。>
松井* (*~1576)新九郎。北畠具教の側近。北畠具親家臣。弟・新次郎とともに戦死。<清州町人・松井氏、遠江の松井氏、関連ありでしょうか?。>
鳥屋尾* (*~1576)石見守。北畠家重臣。北畠具親家臣。反織田派。具親の挙兵に呼応。
家木* (*)家城。北畠家重臣。北畠具親家臣。反織田派。具親の挙兵に呼応。
峯 * (*)北畠家重臣。北畠具親家臣。反織田派。具親の挙兵に呼応。<神戸一門峯氏の分流か。>
森 * (*)北畠家重臣。北畠具親家臣。反織田派。具親の挙兵に呼応。<本願寺派の長島の森氏か。><志摩の鵜方氏も森氏と関連あり。>
栗谷* (*)三瀬谷の豪族。北畠具親家臣。具親の挙兵に呼応。
唐櫃* (*)三瀬谷の豪族。北畠具親家臣。具親の挙兵に呼応。
菅野* (*)北畠具親家臣。具親の挙兵に呼応。
谷 * (*)北畠具親家臣。具親の挙兵に呼応。
三田* (*)北畠具親家臣。具親の挙兵に呼応。
三竹* (*)御獄。北畠具親家臣。具親の挙兵に呼応。
<小倭七人衆>
川股* (*)北畠具親家臣。具親の挙兵に呼応。一志郡の豪族。小倭の七人衆のひとり。
波瀬* (*)北畠具親家臣。具親の挙兵に呼応。一志郡の豪族。小倭の七人衆のひとり。
<その他 国人衆>
波多瀬実徳 (*)多気郡の豪族。北畠具親家臣。具親の挙兵に呼応。波多瀬城主。
山副実有 (*)十六兵衛。波多瀬一門。実徳の叔父。具親の挙兵に呼応。北畠具親家臣。
六呂木実忠 (*)室木・十之右衛門。波多瀬一門。実有の弟。具親の挙兵に呼応。北畠具親家臣。
大内山* (*)但馬守。反織田派。具親の挙兵に呼応。北畠具親家臣。<大内山氏は、赤羽氏と対決姿勢。そして勝利。>
<伊勢神宮・山田三方会合衆>
足代・山田・高向・河井・北・榎倉(村山)。
足利将軍家=藤波家(伊勢神宮祭主)河辺氏(宮司)荒木田氏(内宮)渡会氏(外宮)
織田信長=福井大夫・上部大夫
秀吉=上部大夫
(惣官)
藤波朝忠 (1498~1570)伊勢神宮惣官職。伊忠の息。息に康忠。
藤波康忠 (*)伊勢神宮惣官職。朝忠の息。息に慶忠。
(内宮)
荒木田守武 (1473~1549)伊勢神宮内宮禰宜。園田守秀の息。母は荒木田氏経の娘。兄に守晨。連歌師としても活躍。
福井* (*)勘右衛門尉。伊勢神宮御師。1560年「桶狭間合戦」に勝利した織田信長の戦勝を祝う。織田家家老・佐久間信盛と交流。
福井* (*)大夫。伊勢神宮内宮、御師。北畠家家臣。織田家の専属御師となるが、堤氏の台頭に反織田派。伊勢神宮参拝の織田信長を襲撃。<山田三方会合衆・外宮御師の福島氏と同時期に謀反?。>
上部貞永 (1529~1591)渡会・孫太郎・宗次郎・二郎右衛門・越中守・上部大夫。伊勢神宮外宮権禰宜・御師。永元の息。親織田派。信長に遷宮の後援を依頼する。秀吉の世に山田代官。
(外宮)
榎倉武則 (*)掃部。伊勢外宮神職。岡本番屋の件で北畠氏と対立。「宮川合戦」に敗北。外宮に籠城し正殿ととも炎上。
蔵田国定 (*)修理進。北畠氏の勘気を得て、堤氏に職を奪われる。<上杉謙信との関係から失脚か。「青芋」の流通に深く関わる商人豪族のようです。>
堤 * (*)伊勢神宮外宮、御師。親織田派。蔵田家の失脚により北畠御師。親織田派。伊勢神宮参拝の信長を接待。<蔵田氏は越後上杉氏の直臣となる。「青芋」取引を統括。御師は広く戦国大名と交流していたということでしょう。>
福島* (*)末尊。伊勢神宮外宮、御師。伊勢山田三方衆のひとり。息子を討つ。
⇔福島* (*)新四郎。伊勢神宮外宮、御師。伊勢山田三方衆のひとり。日根野弘就の要請で、伊勢長島一向一揆を海上から支援したため、織田信長に攻撃される。
北 之親 (*)監物。親織田派。織田家の後援で息の末長が福島家に養子入りし、跡職を継承。
北 末長 (*)福島末長・鍋次郎。親織田派。九鬼氏の推薦する福島庶子を廃し家督を継承する。
≪個人的感想≫ 三好長秀が伊勢の山田で討たれるのは、伊勢に三好家の地盤があったということでしょうか・・。
三好長慶の家臣団 <三好長慶の先祖が伊勢に逃れ戦死>
<伊勢大湊・浜七郷> 角屋・長谷川・吉川
⇔吉川平吉 (*~1580)親織田派。信長に出仕。日本海水軍。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。防己尾城の攻略戦に戦死。<平助と混同されているんでしょうか。>
⇔吉川平助 (*)伊勢神宮の門前湊として栄えた伊勢大湊(二見浦)の船奉行。親織田派。信長に出仕。日本海水軍。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1582年「本能寺の変」に際しては徳川家康を三河へ逃す。<平吉の跡職か。>
⇔▽吉川* (*)三蔵。平助の弟。親織田派。信長に出仕。紀伊国新宮北山の代官。1588年一揆に攻撃される堀内氏善を救援。
↑長谷川藤直 (*)三十郎。北畠家臣。具教の息で長野家養子の長野具藤の家臣。娘婿に徳川家康。息に重吉、藤継、藤広。
↑▽長谷川藤広 (1566~1617)左兵衛。北畠家臣。長野具藤の家臣。伊勢一志郡の豪族。徳川家康は妹婿。のち長崎奉行、堺奉行。<今川重臣の長谷川氏といい、織田家重臣の長谷川といい、なかなかに盛業する名です。>
<北畠・志摩水軍>
↑野呂実高 (*)越前守・将監。北畠水軍衆。五箇篠山城主。北畠家から離反した志摩水軍討伐大将。志摩水軍との合戦に戦死。
⇔向井正重 (*)北畠水軍衆。今川家に出仕。のち武田家に出仕。息に政勝、正綱。
鳥羽宗忠 (*)橘・主水。鳥羽成忠の息。1568年北畠家から離反。北畠家の討伐軍、野呂将監を破る。反織田派。妹婿に九鬼嘉隆、小浜景忠。跡職は九鬼守隆が相続した。鳥羽城主。
⇔小浜景忠 (*)民部少輔・久太郎。鳥羽成忠の娘婿。宗忠の義兄弟。反織田派。九鬼氏に敗北し、三河に逃亡。1571年武田氏に迎えられる。のち徳川家家臣。
千賀* (*)志摩。反織田派。九鬼氏に敗北し、三河に逃亡。
⇔向井政勝 (*~1579)伊兵衛。向井正重の息。反織田派。1571年武田氏に迎えられる。駿河持舟城の抗争で戦死。
浦* (*)豊後。志摩13地頭。反織田派。九鬼嘉隆軍に攻撃され戦死。<浦氏の祖は九鬼氏とも。ならば同族の勢力争い?。田城、浦、波切で抗争か?>
的矢* (*)美作。反織田派。九鬼嘉隆軍に攻撃され戦死。
▽加茂* (*)左衛門。的矢湾の豪族。
⇔越賀* (*)隼人・(佐治隆俊)。越賀党。志摩・越賀水軍の長。降伏し九鬼嘉隆の家臣。
⇔青山* (*)和具・豊前。和具党。志摩・和具水軍の長。1569年降伏し九鬼嘉隆の家臣。
<九鬼党>
⇔↑九鬼浄隆 (*~1560)宮内少輔・きよたか・入道浄明。九鬼定隆の息(長男)。嘉隆の兄。北畠氏と結んだ志摩七党に攻撃され戦死。田城城主。息に澄隆、光隆、嘉隆。<政隆の跡職を継承するか?。>
⇔▽九鬼澄隆 (*~1584)弥五郎・すみたか。浄隆の息。叔父・嘉隆の後見で田城を奪還。織田氏に仕え、1568年嘉隆が「大河内城攻囲」に従軍。1584年に急死。跡職は光隆が相続。田城城主。
⇔九鬼光隆 (*)左馬允・伊豆允。織田信長に出仕。弟・嘉隆とともに伊勢湾の海賊平定に軍功、大野、内海の海賊を討つ。波切城主。息に恒隆。
⇔九鬼嘉隆 (1542~1600)(波切・川面)・右馬允・大隈守。伊勢志摩の海賊、志摩七人衆のひとつ九鬼(くかみ)氏一門。九鬼定隆の次男、浄隆の弟。妻は橘宗忠の娘。三鬼氏、堀内氏の抗争に最初三鬼氏を応援。のち縁戚となった堀内氏に転じる。娘婿に堀内氏善。鳥羽城主。
▽川面* (*)右近。九鬼嘉隆家臣。嘉隆の一門衆。
→九鬼水軍のページ ⇔信長の年表と 信長初期家老(森 可成・坂井政尚の軍団、織田水軍)
<三鬼党>
⇔三鬼* (*)三木。紀伊水軍。三木浦の海賊衆。熊野に進出した新宮の堀内氏善に敗北。
北畠(織田)信雄の家臣団 三好(織田)信孝の家臣団
<伊勢 木造譜代家老衆> 分家に坂内・森本・川方。
木造俊茂 (*)(北畠)・左中将。木造政宗の息。叔父に親方。兄弟に康親。1528年に木造城を築城。養子に北畠具政。
⇔↑木造具政 (*)(北畠)・兵庫頭。木造氏8世。旧北畠氏一族。北畠晴具の息(3男)、具教の弟。北畠一門筆頭。弟に具次。1568年多気御所の馬揃えにて田丸・坂内・大河内の下位に席次を置かれ、叛心。兄を見限り信長に臣従する。秋山・沢氏の攻撃を撃退。戸木城主、戸木御所。息に長政、長雄。
▽木造具康 (*)(北畠)・左衛門佐・大膳・中将。北畠一族。具政の庶子。柘植宗時は義兄弟。戸木城主。
⇔▽木造長政 (*~1604)(北畠)・左衛門佐。北畠一族。具政の息。柘植宗時は義兄弟。織田信雄配下。戸木城主。のちに福島正則に出仕。
⇔柘植宗時 (*~1579)三郎左衛門・保重。元、木造氏家老。妹婿に木造具康。永禄12(1569)年、木造家を織田に臣従させる。第一次伊賀乱入で伊賀衆の計略により討死。
田上* (*)玄番正。柘植氏と並び木造氏家老。
▽森本具俊 (*~1584)(北畠・木造)・飛騨守。森本俊信(俊栄?)の息。叔父の飛騨守・俊成の跡職を継承。木造氏一門。1584年「小牧の役」に主家に従い従軍し討死。息に俊貞。
▽海津* (*)喜三。木造氏家臣。鉄砲衆。1568年秋山、沢氏の攻撃を撃退。
▽牧 康信 (*)木造氏家臣。伊勢牧城主。1584年蒲生軍と抗争。<斯波家一門に牧氏あり。>
北畠(織田)信雄の家臣団 三好(織田・神戸)信孝の家臣団
1467年「応仁の乱」に東軍方。 大和の沢・秋山氏、北方の関氏と抗争。
<北伊勢 長野(工藤)譜代家老衆> 1562年頃から北畠具教の内政干渉
1473年美濃斎藤氏と結び北方一揆・梅戸氏を攻撃。1510年桑名乱入。
1540年六角義賢に敗北し北伊勢・桑名から撤退。
長野藤定 (1526~1562)源次郎。幕府直参衆。「伊勢三家」のひとつ。伊勢安濃郡の豪族。長野稙藤の息。1543年北畠晴具と衝突。「垂水鷺山の合戦」に引き分け。1558年北畠具教と和睦。<河内武者の赤備えを中核とする。><『勢州四家記』に此の両家は「足利将軍の侍なり」とあるので(幕府奉公衆)として将軍直轄の立場にあるようです。>
▽分部光高 (*~1558*1569))(細野)・四郎次郎・左京亮・若狭守。細野氏の庶流。長野家家老。養子に分部光嘉。娘婿に長野大和守・藤定。親織田派。1564年11月伊勢方面の情報を信長へ流し賞される。川北長郷とともに主・北畠具藤を追放。伊勢安濃津「葉野(羽野)の合戦」に北畠具教の侍大将・山崎左馬助により討たれる。
↑▽長野具藤 (*~1576)(北畠)・次郎・藤教。北畠具教の息。安濃花岡城主。1558年長野藤定の養子となる。1559年赤堀氏との合戦に敗北。関氏とも争い敗北する。重臣・細野藤敦とも争い多芸に逃走。1569年織田信包を養子とする。1569年「大河内城攻略」に従軍。1576年織田信雄の命で田丸城で誅殺される。長野御所。
⇔細野藤敦 (*~*1577)工藤・九郎右衛門・壱岐守・守清。長野一門工藤氏。長野家家老。細野藤光の息。母は峯道正の娘。1543年「垂水鷺山の合戦」、1559年関氏との「塩浜の合戦」に北畠・長野具藤に従い出陣。1568年織田家に対して抗戦を主張。1569年当主・長野具藤と対立し追放する。織田家に従うが、長野信包の隙をつき長野城を奪取。瀧川一益の息・八麿を養子に迎え和解。1580年長野信包に安濃城を攻略され、蒲生家の客人となる。安芸郡美里村、伊勢安濃城主。<長野(北畠)具藤に忠節。のち秀吉に出仕し伏見城留守居とも。>
⇔分部光嘉 (1552~1601)四郎次郎・与三右衛門・左京亮・政寿・昌寿。細野藤光の次男。分部光高の養子。細野氏の庶流、長野家家老。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。1568年織田家に対し和平派で、長野信包を当主に迎える。1570年上野城普請奉行。1580年上野城主。
中尾* (*)駿河守。細野氏一門。神戸城主。<中尾権頭も降伏。一族か?。>
⇔▽中尾* (*)新左衛門。北伊勢衆。1568年主・北畠具藤を追放、長野信包に臣従する。1576年織田信長から忠勤を賞される。のち秀吉に出仕。1600年に失領。
川北藤元 (*)河北。北伊勢衆。伊勢長野家譜代の臣。親織田派。
⇔川北長郷 (*)河北・ニ介・内匠助。北伊勢衆。伊勢長野家譜代の臣。親織田派。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。分部光嘉とともに主・北畠具藤を追放。1568年長野(織田)信包を擁立し織田家に臣従する。1576年織田信長から忠勤を賞される。<豊臣秀吉の家臣に河北算三郎あり、1592年肥前名護屋に在陣。一門か。>
草生* (*)民部少輔。北伊勢衆。長野氏一門。長野氏家臣。信包与力。安芸郡草生城主。
家所* (*)三河守。長野氏一門。信包与力。安芸郡家所城主。
⇔雲林院祐基 (*)氏井・出羽守。長野氏一門。伊勢庵芸郡の豪族。織田信長側近の矢部家定は縁戚。1580年長野信包と対立し出奔。織田信長直参に呼び戻される。1582年「本能寺の変」時、安土城にて留守居。安芸郡氏井城主。息に兵部少輔(瀧川一益の娘婿)。娘婿に矢部家定。<伊勢工藤一族の両家督として、長野氏とともに併存する。足利将軍の直轄軍(幕府奉公衆)のようです。><水軍で有名な野呂氏が参加に加わる様子です。>
⇔雲林院祐光 (*)(瀧川)・兵部大輔。出羽守・祐基の息。瀧川一益の娘婿。義兄弟に矢部家定。長野信包により追放される。のち信長直参に復帰。息に藤高、公藤。
▽野呂* (*~1580)長門守。雲林院家の家老。1580年長野信包により討たれる。<北畠氏に従う野呂水軍衆と一門か。>
⇔乙部藤政 (*)北伊勢衆。長野氏一門。長野氏家臣。1546年少仁坊に屋敷を安堵。1557年乙部10人衆とともに伊勢参宮の山科言継を接待。1568~69年織田の伊勢侵攻に備え渋見城築城。<乙部政直は、のち信包与力。>
北畠具教の家臣団
伊勢平氏後裔
<北伊勢 神戸(関)譜代家老衆> 関家と同族ながら抗争。北畠材親の息・具盛(晴具の弟)が養子に入り四代目。五代・長盛は関氏と抗争。
⇔↑神戸具盛 (*)(北畠)・左衛門尉・蔵人大夫・友盛・楽三。神戸惣領五代目・長盛の息(次男)。兄に利盛。蒲生定秀の娘婿。神戸惣領七代目。六角氏旧臣。土師村福善寺の僧。兄・利盛の死により還俗し家督。1559年関盛信と同盟し、長野具藤・北畠具教軍と抗戦。長野軍を破る。1568年織田信長の三男、信孝を養女の婿養子とする。1571年信長の命で蒲生氏の日野城に退去。1582年織田信孝の四国出陣に留守居を任される。伊勢神戸城主。<祖父も(北畠)具盛、同じ名を襲名。><織田信孝が具盛の養子となっていなければ、甥の山路弾正は神戸家を相続していたかも・・。>
▽↓赤堀具之 (*)(神戸具之)・治部大輔。北伊勢三重郡の国人。神部楽三(具盛)の息(次男)。羽津・浜田氏と一揆契約を結ぶ。1559年長野具藤・北畠具教軍と抗戦。波瀬具之に赤堀城を奪取される。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。1573年長島一向一揆征伐に織田信長に人質を供出する。赤堀城主。
国府* (*)佐渡守。神戸一門。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。国府城主。
国府盛種 (*)次郎四郎。神戸一門。国府盛邑の息。国府家は神戸信孝の与力。
⇔山路正幽 (*)紀伊守。神戸家六奉行のひとり。神戸家の家老。神戸具盛の娘婿。伊勢国河曲郡の高岡城主。
⇔山路* (*~1571*)弾正少弼。山路紀伊守・正幽の息。織田家との抗戦派。のち養子の神戸信孝に粛清される。
⇔▽山路種常 (*)長尾・隼人・久之丞。高岡城主。山路紀伊守・正幽の息。のち信孝の家老、小島兵部の家臣。福島家に出仕。
峯 * (*)峰・与八郎・興八郎。神戸一門。峯八郎四郎の舎弟。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。峯家は神戸信孝の与力。
(楠木党→摂津へ)
⇔↓楠 貞高 (*~1567)楠木貞孝・定隆・(正忠?)。北伊勢衆。神戸具盛の娘婿。三重郡の豪族。1567年瀧川一益により滅亡。1568年一族は織田家に従う。息に正具(正忠?)。楠・楠山城主。<世代にズレ。貞孝→正孝→正具の事績か。>
⇔↓▽楠 正孝 (*)楠木正孝・十郎左衛門・正忠。神戸家家臣。三重郡の豪族。織田家の伊勢侵攻に抵抗。息に七郎左衛門正具。<養子に正盛?。>
⇔↓○楠木正盛 (*)十郎・盛信・(正守)。北伊勢の豪族。三重郡の豪族。貞孝の息。正具の娘婿。織田家に従った楠氏。北伊勢侵攻の案内役。1568~1569年山路弾正の拠る「高岡城攻囲」に従軍。「本能寺の変」後は信雄に従う。<三重郡楠城主・楠貞高は1567年織田家の侵攻に滅亡という。世代混乱あり。><本家の十郎は諏訪家からの養子とも。>
⇔↓▽楠木正具 (1516~1576)七郎左衛門・浄泉坊正覚。正忠の息。神戸具盛家臣。のち1556年頃は北畠具教家臣。のち上京し本願寺顕如の客将。石山合戦に参加。1576年「木津川河口の合戦」戦死。伊勢国治田・八田城主。
<伊勢楠木党> <志摩の国崎湊にも楠氏あり。>
楠木正守 (*)(水谷?)。元関家家臣、北畠氏に出仕。息に正吉。楠平尾城主。<楠木正盛と同一人物か?。>
▽楠木正吉 (*)(水谷?)。正守の息。<水谷正吉と同一人物か。>
⇔↑水谷正吉 (*)楠木。桑名郡赤須賀の豪族。<北畠家老の水谷氏と一族か。長島に籠城する水谷氏か?。>
<北伊勢 関(平)譜代家老衆> 長野家は宿敵。六角義賢と同盟。
⇔関 盛信 (*~1593)宗一・中務大輔・安芸守・万鉄。神戸氏一族。盛雄の息。六角氏家臣。叔父に盛重。弟に(小岐須)盛光、盛員。蒲生定秀の娘婿。1567年瀧川一益の北伊勢攻略から信長に長く抵抗するが、降服し赦免される。伊勢亀山城主。1582年三好信孝の「四国渡海」に親子で従軍予定。
○▽関 盛忠 (*~1574)四郎。北伊勢豪族、関盛信の嫡男。北畠家臣。1568年織田軍の侵攻に防戦に務める。信長に長く抵抗する。1574年蒲生賢秀に従い「長島一揆攻撃」に従軍するが討死という。伊勢亀山城主。弟に関一政、一利、氏俊。
関 盛光 (*)小岐須盛光。盛雄の息(2男)。北畠家臣。盛信の弟。弟に盛員(盛俊)。1568年織田軍の侵攻に防戦に務める。
⇔関 盛吉 (*)十兵衛・勝蔵・主馬・一利・盛清・盛義。関盛信の息。柴田勝豊の家老。のち蒲生氏郷の家臣。息に氏盛(一政の跡職を継承)。
⇔○▽関 一政 (*1564~1625)四郎。右近衛太夫・永盛。長門守。関盛信の息、兄・盛忠に代わり関氏家督。弟に一利、氏俊。1582年三好信孝の「四国渡海」に親子で従軍予定。のちに蒲生氏郷与力。陸奥白川城主。養子に氏盛。
⇔▽ロルテス (*)山科勝代・羅久呂左衛門・勝成。イタリア人。関一政の家臣。のちに蒲生氏郷に出仕。
鹿伏兎* (*)加太・左京佐。神戸一門。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。鈴鹿郡加太城主。鹿伏兎家は神戸信孝の与力。
六角義賢の家臣団
<伊勢古代支族の系譜> 猿田彦の後裔。
山本* (*)伊勢豪族。伊勢一宮、椿大神社神職。
宇治土公* (*)伊勢豪族。伊勢神宮内宮・猿田彦神社神職。
北畠(織田)信雄の家臣団 三好(織田・神戸)信孝の家臣団
<北伊勢国人衆> 尾張国境付近の豪族。近江六角氏の勢力圏。1568年頃から織田家の勢力伸張。
⇔田原重綱 (*~1584)伊勢浜田の豪族、田原元綱の息。赤堀氏、国原氏と一揆契約。1576年瀧川一益の攻撃を受け元綱が戦死後、家督。のち信雄に出仕、小牧の役で討死。
⇔↑赤堀具之 (*)神戸。治部大輔。北伊勢三重郡の国人。神部楽三(具盛)の次男。羽津・浜田氏と一揆契約を結ぶ。赤堀城主。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。1573年長島一向一揆征伐に織田信長に人質を供出する。
田原国虎 (*~1572)赤堀近宗・右京亮。のち瀧川一益家臣、茂福城主の山口四郎右衛門により毒殺される。羽津城主。
▽中川* (*~1575)掃部助。赤堀氏家臣。瀧川一益軍との赤堀城防衛戦にて、堀木氏とともに戦死。
▽堀木* (*~1575)信濃守。赤堀氏家臣。瀧川一益軍との赤堀城防衛戦にて、中川氏とともに戦死。
⇔千種* (*)千草。修理正。三重郡の豪族。千草城主。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。
⇔宇部野* (*)1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。
稲生* (*~1570)勘解由。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。本田党との「曾原合戦」に戦死。稲生城主。<伊勢堀江城受領に失敗。>
木曽川河口要所図
<北方(梅戸)一揆>
1453年「幕府の中立要請」幕府が、梅戸三河入道・高行親子と大木智観(北方一揆)に、
北伊勢半国守護・一色義直による伊勢泊浦代官・九鬼愛如意丸攻撃への不介入を要請。
・大木智観、多胡実久、宇佐美祐永、田能村盛仲、萱生実次、伊坂之実・満実が一揆構成。
1488年京極高清に敗北した京極家臣の京極政経、多賀経家を匿う。
1493年幕府から奉行人・諏訪貞説が北伊勢統治に派遣される。
1494年「船田合戦」に幕府の要請で、兄・政房と家督を争う土岐元頼を後援する。
六角定頼が梅戸氏に養子(梅戸高実)縁組。
1544年京都から下向した連歌師・宗長を田能村、治田、飛那井氏と接待。
一色義貫の家臣団
六角義賢の家臣団
⇔梅戸高実 (1502~1561)六角高実。六角高頼の息。定頼の弟。北伊勢の「北方一揆」の有力者・梅戸氏に養子入り。息に実秀。梅戸城主。<北伊勢を巡り、守護・土岐(世保)家、一色家との抗争。>
⇔▽梅戸実秀 (*1537~1568)六角・次郎・左衛門大夫。梅戸一揆の党首。北伊勢48家のひとつ。高実の息(次男)。織田家の瀧川一益の伊勢侵攻に抵抗。<甲斐に逃れた六角次郎とは。>
⇔梅津* (*)(六角)・梅戸・次郎左衛門。北方一揆。員部郡郡代。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。織田信雄に出仕。<梅戸実秀と同一人物か。>
伊坂* (*)北方一揆。
萱生* (*)かよう・春日部。北方一揆。萱生城主。
大木賢仲 (*)(青木)・孫太郎。北方一揆。六角家家臣。朝倉・横瀬氏と抗争。のち織田信雄に出仕。<志摩国に大木氏あり。>
田能村仲実 (*)北方一揆。六角家家臣。のち織田信雄に出仕。
多胡* (*)北方一揆。
蘇原* (*)北方一揆。
宇佐美* (*)北方一揆。
後醍醐天皇の家臣団と軍団 南朝勢力 /godaigo-tennou
北畠(織田)信雄の家臣団 三好(織田・神戸)信孝の家臣団
北伊賀は六角氏に従い、南伊賀は北畠氏に従う豪族が多い。
<伊賀衆> 阿拝・伊賀・名張・山田の四郡に割拠する土豪。紫文字は親織田派。
⇔下山* (*~1578)甲斐守。北畠氏旧臣。伊賀衆旗頭。親織田派。瀧川雄利と同心。1578年伊賀攻めの拠点、丸山城築城。1578年第一次「伊賀の乱」前哨戦で伊賀衆の計略により討死。
⇔福地定成 (*~1582)伊予守・宗隆。北伊賀柘植三方衆。伊賀四大将のひとり。親織田派。1581年9月第二次「伊賀の乱」で、織田家に内通したことにより、他の伊賀衆の復讐の標的となる。一門に北畠信雄の家老となる柘植三郎左衛門・保重。<松尾芭蕉の先祖らしいです。>
⇔耳須具明 (*~1581)弥次郎。伊賀地頭家。河合郷地頭。親織田派。1581年9月第二次「伊賀乱入」で、織田家に内通したことにより、他の伊賀衆の復讐の標的となる。反撃にあい討死。
森田* (*~1582)浄雲。1581年織田家に降伏臣従。1582年再び挙兵。一宮城主。
北村* (*)北伊賀柘植三方衆。
田屋* (*~1581)河合郷の土豪。茶器「山桜の真壺」、「きんこうの茶壺」を提出して降伏するが誅殺された。
百田* (*)藤兵衛。長田庄の豪族。578年「伊賀の乱」の旗頭。丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
町井貞信 (*)左馬允。木興庄の豪族。伊賀12人衆のひとり。1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
阿波正高 (*)1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
富野重正 (*)1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
平松源八* (*)1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
平野善八郎* (*)1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
沼田彦七* (*)1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
森脇* (*)甚助。1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
三輪* (*)善之助。1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
出後正高 (*)1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
井上* (*)新左衛門。1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
沢村重久 (*)1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
大井* (*)源兵衛。1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
久保* (*)源八郎。1578年「伊賀の乱」に丸山城に奇襲をかける。1579年第一次「伊賀乱入」に北畠軍を撃退。
服部* (*)服部党。<伊勢長島一揆の海賊、服部友貞の服部党との関連が気になるところです。><津島の服部とも関連がありそうですが。>
<伊賀上忍三家> (服部党) 藤林・百地も同祖。
藤林保豊 (*)(服部)・長門守・正保。東湯船郷の領主。伊賀上忍三家のひとつ。今川義元に出仕。のち織田家に通じる。<1581年の「伊賀征伐」に協力するとも。>
百地泰光 (1512~1581)(服部)・丹波守・正西。清右衛門の息。伊賀上忍三家のひとつ。伊賀南部・東部の友生の豪族。<三太夫は孫らしい。滝野氏に裏切られた感じです。>
▼百地* (*)丹波・三太夫。城山・友生村喰代郷の領主。伊賀上忍三家のひとつ。
服部保長 (*)千賀地・半三・石見守。予野の領主。服部党。伊賀上忍三家のひとつ。伊賀中部予野の豪(阿拝郡の豪族とも)。足利義晴に出仕。息に徳川に出仕した半蔵・正成。<伊勢長島一揆の海賊、服部友貞の服部党との関連が気になるところです。><津島の服部とも関連がありそうですが。>
<鎌倉期からの伊賀の悪党と呼ばれた豪族>
黒田* (*)黒田荘の豪族。黒田悪党。
富永* (*)山田郡の豪族。富永悪党。<三河・伊勢・近江の富永とも関連がありそうですが。><大伴氏族だとすれば、瀧川一益とも繋がりが有ります。><鳥屋尾氏との関連も考えられそうです。>
馬野* (*)山田郡の豪族。馬野悪党。
北畠具教の家臣団
足利 義昭/asikaga,yosiakiの家臣団
大和国要所図
<大和衆> 芳賀・秋山・沢・(小川)
南朝・北畠家臣団(大和宇陀郡)
秋山国堅 (*)1533年宇陀郡支配を目指し、北畠晴具に従う沢・芳野氏を攻撃。
秋山教家 (*~1563)藤次郎・遠江守。大和宇陀三人衆のひとり。秋山宗丹の息。三好家の娘婿。1558年北畠氏と抗争。1562年畠山高政に従い畿内侵攻。三好軍と「教興寺の合戦」。1563年挙兵するが敗北。父・宗丹は北畠家へ人質。神楽岡城主。<三好家と結んで松永の伊勢侵攻の噂。>
秋山直国 (*)次郎・右近将監。大和宇陀三人衆のひとり。秋山宗丹の息。秋山遠江守の弟。三好長慶の娘婿。沢氏と対立。松永久秀との抗争に敗北し大和を落ちる。1568年十市遠勝が三好家と結んだため、松永氏と結び十市家と抗争。<直国、家慶は別人とも。1579年頃に代替わりしているのでしょうか。>
⇔秋山家慶 (*~1600)次郎・右近太夫。大和宇陀三人衆のひとり。秋山宗丹の息。秋山遠江守の弟。瀧川一益の娘婿。沢氏とともに、北畠四家老のひとり。親織田派。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。瀧川一益与力。1582年伊賀一揆鎮圧に出動。1584年以降秀吉に出仕。3000石。宇陀郡松山城主。<直国は別人らしい>
▽諸木野* (*)弥三郎。秋山家家臣。1569年「大河内籠城戦」に参加。織田軍を撃退する軍功。
▽秋山* (*)萬助。1569年「大河内籠城戦」に参加。織田軍を撃退する軍功。
▽秋山* (*)志摩介・島之助。1569年「大河内籠城戦」に参加。織田軍を撃退する軍功。
⇔沢 房満 (*)隼人正。宇陀郡沢城主。秋山氏とともに、北畠四家老のひとり。1559年松永久秀家臣、高山飛騨守に沢城を奪取される。1562年畠山高政に従い畿内侵攻。三好軍と「教興寺の合戦」。北畠氏の後援で奪還。1582年伊賀一揆鎮圧に出動。
芳野* (*)春竹丸。1533年北畠晴具に秋山氏の違乱を訴える。
▽南 重綱 (*)芳野家家臣。1533年北畠晴具に秋山氏の違乱を訴える。
▽西田久延 (*)芳野家家臣。1533年北畠晴具に秋山氏の違乱を訴える。
芳野* (*)民部大輔。1562年畠山高政に従い畿内侵攻。三好軍と「教興寺の合戦」。
⇔芳野* (*)宮内少輔。
後醍醐天皇の家臣団と軍団 南朝勢力 /godaigo-tennou
紀伊守護・畠山高政の影響下。
<紀伊衆> 新宮・尾鷲・九鬼・鬼本を支配。
⇔堀内氏吉 (*)熊千代・新次郎・安房守・氏善。熊野新宮の豪族。新宮社家・熊野別当。氏虎の息。兄弟に氏高。九鬼嘉隆の娘(養女)婿。紀伊守護畠山氏家臣。三木浦の三木氏を攻略。北畠具教の要請で、伊勢長島一向一揆を救援する。新宮城主。織田家に従う。息に(新宮氏弘)行朝、重朝、氏久、(米良)道慶、氏清、氏治、(有馬)氏時。<長男・新宮氏弘は古田重然の娘婿。>
↑三鬼* (*)伊賀守。尾鷲侵攻に抵抗。北畠軍の後詰に敗北し戦死する。三鬼城主。<三木浦の領主の家系でしょう。>
鬼頭* (*)兵庫頭。尾鷲侵攻に抵抗。北畠軍の後詰に敗北し戦死する。
※↑愛洲久忠 (1452~1538)太郎左衛門尉・日向守・移香斎。熊野水軍の将。「剣聖」上泉信綱の師匠。陰流創始者。
畠山持国の家臣団
後醍醐天皇の家臣団と軍団 南朝勢力 /godaigo-tennou
八幡軍船。
<南伊勢衆> 愛洲・五ケ所。
(大湊・玉丸=田丸) →北畠氏が愛洲家に養子入りし田丸氏へ
⇔愛洲 (*)愛曽・六郎左衛門尉。南北朝の内乱に南朝方。1339年神山城の攻防に参陣。
⇔愛洲宗家 (*)弾正忠。1342年玉丸城の攻防に参陣。
⇔愛洲宗実 (*)三郎左衛門。1342年玉丸城の攻防に参陣。
↑愛洲忠行 (1450~*)伊予守。伊勢神領奉行。北畠政郷家臣。1486年山田三方衆と宇治衆の抗争に介入し神宮に兵火を持ち込む。伊勢神宮禰宜の荒木田氏経と親交がある。養子に北畠政郷の息・政勝。田丸城主。<伊勢の守護代家とも。独立的な小領主でもあったか。奥州藤原氏の与力・信夫佐藤氏のような関係でしょうか。>
愛洲政勝 (*)北畠政勝・(田丸・玉丸)。忠行の養子。田丸城主。
愛洲親忠 (*)弾正。1527年玉丸城奪還に出征。五ケ所城主。<北畠氏から奪還か。>
⇔愛洲 (*)愛曽。南朝方武将。宗良親王を迎え、北朝方と抗争。一ノ瀬城主。
(五ケ所)
愛洲* (*)愛曽。1343年五ケ所城の防衛戦に軍功。仁木氏を撃退。
愛洲国忠 (*)愛曽。1527年弾正親忠より五か所城を譲渡される。<親子か?。>
愛洲重明 (*)愛曽・治部大夫。北畠具教の娘婿。室と離縁し北畠氏と抗争。五ケ所城主。
▽久平友晴 (*)愛曽氏家臣。重明の家老。北畠氏に離反。
五ケ所教忠 (*)愛洲。治部大輔。永禄元年に北畠氏により自害。五ケ所城主。
(八幡船艦長)
↑愛洲久忠 (1452~1538)(愛曽)・太郎左衛門尉・日向守・移香斎。熊野水軍の将。「剣聖」上泉信綱の師匠。陰流創始者。息に小七郎。
▽愛洲完通 (*)小七郎。久忠の息。1564年常陸・佐竹氏に出仕。