戦国大名 斎藤秀龍・義龍の家臣団

 

美濃国戦国大名、斎藤秀龍(道三)・義龍の家臣団と軍団

西軍有力者、土岐家執事・斎藤妙春(妙椿)の台頭。
1467年「応仁の乱」東軍・西軍大名の動向表↓

陪臣・斎藤妙椿(妙春は道三養子の近衛正義が名乗ったものらしいです)の「応仁の乱」幕引きの斡旋に、将軍・足利義政の激怒。しかし、実際に義政の対立者である足利義視・義材(義稙)を引き取り、
「応仁の乱」を収める実力。 信長の代「美濃を制すれば天下を取れる」とまでいわれていた富強の国、美濃。
斎藤妙椿の幻影が、後世の人々に残っていたのではないでしょうか。

    
斎藤道三(秀龍)の末子、斎藤長龍(利治)のつもり。
「態々(わざわざ)申し送り候(そうろう)意趣は、於 美濃之国大桑
  (美濃の国大桑において)、終(つい)には、織田上総介(信長)の存分に任すべく条、
  譲り状、信長に対し渡し遣わす その筈なり。」
「一子出家、九族天に生ずといへり かくのごとくととのひ候
  一筆涙ばかり よしそれも夢。
 斎藤山城ここにいたって 法華妙体の内、生老病死の苦をば、修羅場にゐて仏果を得る。
  うれしきかな。
既に明日一戦に及び、五体不具の成仏、
  疑(うたがい)あるべからず候。げにや、
「捨て々だに 此の世のほかは なきものを、 いずくかつゐの 住家なりけん」
 『斎藤道三書状』-美濃一国譲り状-(岡本良一:蔵 司馬遼太郎対談編『日本史探訪9戦国の武将たち』(角川文庫版1985年8版)

<「応仁の乱」東軍・西軍>
<1449~1473>
足利義政   伊勢貞親  細川勝元  今川範忠  山名宗全  大内政弘  足利政知   足利政氏
足利義視  北畠教具  渋川義廉・織田敏広  土岐成頼  斎藤妙椿  一色義直
<1473~1489>
足利義尚 伊勢貞親  細川勝元・斯波義敏    山名宗全    一色義遠
                 細川成之・斯波義良・吉良義真・東条国氏
                         甲斐敏光
                         今川義忠
                              京極持清  六角高頼
                     一色時家
                                        斎藤妙純  石丸利光=六角高頼
<1490~1491>
足利義視・義材(美濃・革手に11年間滞在) 
<1492~1493>             波多野時成 牧野古白
足利義材(義稙)

1493年「明応の政変」畠山政長自害。足利義材追放。
               <1493~1507>
日野富子・伊勢貞宗         細川政元          山内就綱
                      京極政経・材宗、浅井直種
                  朝倉貞景・京極高清・斎藤利国

<1493~1508>1494年足利義(義澄)将軍就任。                                  <伊豆堀越政変>
1506年六角氏綱家督継承
足利義澄:政知の息            今川氏親・伊勢長氏  →→→→   足利茶々丸
                                               伊勢長氏(早雲)
                                六角定頼
                   松平長親 ←←←←
 「如意ケ獄の合戦」後: 三好長秀 VS 北畠材親

1508年「永正の錯乱」細川政元死去。
<1509~1521>       細川高国    
足利義稙(義材)                              大内義興<1508~1518>
足利義澄                斯波義達・大河内貞綱
                         今川氏親
1518年六角定頼、家督継承。
<1521~1546>      <1508~1527>
足利義晴:義澄の息   細川高国           六角定頼          北条氏綱
                     京極高清・高慶
                         京極高峯・浅井亮政
                       <1527~1549>
1525~27年長井長弘、西村勘九郎(長井正利) → 土岐頼芸 擁立
 
足利義維:義澄の息<1527~1532>堺公方     細川晴元・細川持隆・三好元長<1532>
                                六角義賢
                      1530年長井長弘失脚、
                      1534年長井景弘失脚、 長井規秀(のち道三)、斎藤家新執事
           1538年斎藤利隆死去、斎藤家継承、長井規秀 → 斎藤秀龍(道三) →土岐頼芸追放
1544年朝倉孝景、織田信秀 VS 斎藤道三
1547年織田信秀 VS 斎藤道三
                             三好長慶<1549-1564>
足利義輝:義晴の息<1552入洛>
                                六角義治  後藤賢豊<*~1563>
1554年道三 隠居、家督は斎藤(土岐)義龍
1559年郡上郡・東常尭、遠藤胤縁を暗殺する。


美濃国守護 土岐氏 一色(足利)流土岐家。純血の土岐家は北伊勢の守護・世保氏。
北畠具教/土岐(世保)の家臣団
<「応仁の乱」西軍>
▲土岐成頼 (1442~1497)一色成頼・入道宗安。一色義遠の息。土岐持益の養子。土岐氏8世。土岐持兼の早世により、1456年斎藤利永に擁立され跡職継承。1467年「応仁の乱」に尾張の斯波義廉、織田敏広とともに西軍の将。京都に8000兵を率いて常駐。家老に斎藤利藤。利藤幼少の為後見に妙椿。1477年足利義視・義稙(義材)親子を後見する。足利義視を美濃茜部に迎える。1487年六角高頼と結び足利義尚と対立。「長享・延徳の乱」。息に土岐政房、土岐元頼。<近江の六角高頼とは関係良好の様子。息子の氏綱とは対立か。><成頼は土岐一門の饗場氏の出身という説も・・。>

▽斎藤利明 (*~1450)入道・宗円。同僚の富島氏と抗争。息に利永、妙椿(利永の息とも、養子ということか)。
▽長江高景 (*~1444)富島高景・備中守。長江重景の息。弟に景秀、元景。美濃守護代・富島氏の養子。京都土岐屋形(土岐館・土岐邸)にて斎藤氏に討たれる。<のちの長屋(金森)氏は後裔とも。尾張品野に落ちる長江氏もあり。><長屋氏が西美濃から北美濃へ領地替えされたのは乱による影響か?。>
▽長江景秀 (*~1467)富島景秀。1467年「応仁の乱」に東軍に参加し斎藤妙春と抗争。一門の長江元景、景次が戦死。景秀の曾孫の景隆が織田信長に出仕した。<高賀山神職・長屋氏は長江氏と同族とも。婚姻により縁戚関係を結ぶか?。>
▽長江元景 (*~1467)富島元景。1467年「応仁の乱」に東軍に参加し斎藤妙春と抗争。一門の長江景秀、景次が戦死。
▽長江景次 (*~1467)富島景次。1467年「応仁の乱」に東軍に参加し斎藤妙春と抗争。一門の長江景秀、元景が戦死。
▽富島* (*)(長江)・八郎左衛門。美濃国守護代家。主・土岐持益が宗円に隠居させられる。1444年京都屋形にて斎藤利明に一門・長江高景が殺害される。1446・1449年美濃国にて土岐持益、斎藤家と合戦。1450年京都にて斎藤利明(宗円)を襲撃。1467年「応仁の乱」に東軍に参加し斎藤妙春と抗争。<室町の初期には三河吉良の家老・富永、美濃土岐の家老・富島といわれてた頃があったかもしれませんね。><高景が殺害されてから兄弟の誰かが富島を継承したものでしょうか。>
≪個人的感想≫ 長江氏は滅亡した訳ではなく、尾張北部に逃れて品野城周辺で挽回しようと頑張っていた様子です。小牧に進出した信長の東美濃攻略にも長江氏の後裔が協力していたかもしれません。

(第一世代)
▲斉藤利永 (*~1460)帯刀左衛門・越前守。越前河合斎藤氏の分流。美濃守護代。斎藤利明(宗円)の息。弟に妙椿(のち養子か)。父の代に同僚・富島氏と対立。1450年父・利明(宗円)の死により家督。富島・長江氏を討伐。土岐持兼の死により、揖斐左近大夫・長江勘解由左衛門を抑えて、伊賀・稲葉氏とともに土岐成頼を擁立。息に利藤、利国「妙純」、(長井)利安。<斎藤氏の与力として伊賀(安藤)・稲葉氏が台頭するか。>
△斎藤妙椿 (1410*1411~1480)持是院・従三位法印。越前河合斎藤氏の分流。美濃国守護代・斎藤利永の息(または弟とも)。弟に利綱。利永の代に稲葉山城を根拠地とする。1467年「応仁の乱」に守護・土岐成頼を美濃を纏め後援し、西軍の将軍・足利義視を支援。義視・義稙(義材)親子は一時(11年間滞在)美濃革手城に拠る。東軍の近江京極氏と結ぶ西美濃の豪族、富島氏・長江元景を攻撃。1468年東軍の東千葉氏(東常縁の兄・東氏数)、長江氏を破る。1472年近江の西軍・六角高頼を救援。南近江の六角高頼と結び、京極家老・多賀高忠を討ち江北を平定。1473年伊勢侵攻。梅津城攻略。1474年越前に介入し甲斐八郎、朝倉敏景の和睦を仲介。1478年尾張進攻。娘婿・織田伊勢守救援、織田敏定と合戦。細川氏と結んだ信濃の木曾家豊、小笠原家長と抗争。飛騨の姉小路家の内紛に介入した。1494・95年土岐成頼・石丸利光を破る。70歳。<利藤と妙春が同一人物とも。最近の説では道三の養子・近衛正義が妙椿を意識して妙春*と名乗ったようです。道三の国盗り話といい、昔の通説が覆されていきますね。><朝倉敏景(教景・孝景)と同じく守護代から守護への脱皮を目指しての不可解な動きなのでしょうか。>
*世代差が存在し、土岐悪五郎の生年にも影響します。真相やいかに。

斎藤妙椿の横領によって、版図は尾張・伊勢、近江・飛騨の一部(京極領?)まで及んだ様です。
<斎藤家 執事・石丸(斎藤)家>
▽石丸利光 (*~1496)斎藤利光・丹波守。石丸実光の息。斎藤妙椿・妙純親子の家臣。美濃小守護代。清洲大和守・織田敏定の息・織田寛定が娘婿。1480年妙椿の死により守護代・斎藤利国(妙純)と対立、後継者争い。近江の六角高頼・蒲生氏の後援を得る。家督の土岐政房に対し弟・土岐元頼を擁立し、斎藤利国・西尾直教と対立。斎藤利藤を擁立。1495年「正法寺・船田合戦」。土岐成頼・斎藤利藤から斎藤姓を与えられた。六角高頼・織田大和守の後援を得る。1496年「城田寺城の攻防」で、六角家の後詰軍(伊庭・三雲・九里)が敗北。斎藤利国(妙純)に敗北し自害。船田城主。息に利元、利高。<織田敏定、近江守・寛定の援軍は岩倉方・織田与三郎により阻止される。>
▽石丸秀道 (*)(斎藤秀道)。石丸家一門。利光の弟。美濃の豪族。斎藤利国(妙純)・利親親子と抗争。1495年「正法寺・船田合戦」。西法寺に布陣。<石丸利光が斎藤姓を名乗ったこともあるそうなので石丸一門全員改姓してたかもしれません。>
▽石丸利元 (*~1496)(斎藤利元)。石丸家一門。利光の息。斎藤利国(妙純)・利親親子と抗争。1495年「正法寺・船田合戦」。正法寺に備え布陣。<石丸利光が斎藤姓を名乗ったこともあるそうなので石丸一門全員改姓してたかもしれません。>
▽石丸利高 (*)(斎藤利高)。石丸家一門。斎藤利国(妙純)・利親親子と抗争。1496年細川、六角、北畠の後援で土岐元頼と毘沙童子を擁し伊勢から美濃侵攻。<石丸利光が斎藤姓を名乗ったこともあるそうなので石丸一門全員改姓してたかもしれません。>
▽石丸正信 (*)(斎藤正信)。石丸利光の家臣。斎藤利国(妙純)・利親親子と抗争。1495年「正法寺・船田合戦」。<石丸利光が斎藤姓を名乗ったこともあるそうなので石丸一門全員改姓してたかもしれません。>

▽杉山* (*)石丸家家臣。石丸利光の侍大将。1495年「正法寺・船田合戦」。1495年斎藤利安・利綱兄弟の軍に敗北。<竹中半兵衛の母方・杉山氏と関連ありか?。>
▽古田* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1495年「正法寺・船田合戦」。1495年斎藤利国軍に攻撃される。<古田重則のご先祖でしょうか。>
▽馬場* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1495年「正法寺・船田合戦」。1495年斎藤利安・利綱兄弟の軍と合戦。
▽国枝為助 (*~1495)国枝第三代。石丸家家臣。石丸利光の家臣。1495年「正法寺・船田合戦」。1495年斎藤利安・利綱兄弟の軍と合戦。兄弟4人とともに戦死。跡職(4代目)は息の正助が継承。<5代宗竜(兄弟に貞次、秀守、正泰)、6代重光(兄弟に助光)。七代目に関ヶ原に西軍の政森。>
▽曽我屋* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。
▽左良木* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。
▽外山* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。
▽小里* (*)石丸家家臣。東美濃の豪族。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。
▽下石* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。 <織田信長の尾張譜代に在籍する、下石頼重は美濃からの落ち武者か。>
▽石谷* (*)源。美濃源氏。土岐氏一門。石丸家家臣。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。<のち、幕府直参の奉公衆となるか。>
▽本荘* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。
▽今峰* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。
▽田原* (*)石丸家家臣。石丸利光の家臣。1496年美濃侵攻に従軍。1496年「城田寺城の攻防」に小山表在陣。

妙椿後継争い「1494年船田合戦」
<石丸派> 細川政元に接近し美濃侵入の後援を得る。 六角=清州織田=梅戸同盟
⇔六角高頼 (*)南近江衆。1478年幕府と和睦。幕府の命に従い、斎藤利藤を支援。斎藤利国(妙純)と対立。1496年石丸利光を後援。梅戸氏に子息を送り込む。
⇔▽蒲生貞秀 (*)南近江衆。六角家家臣。日野城主。
⇔▽六角氏綱 (1492~1518)南近江衆。娘婿に京極材村。息の義政は仁木氏の養子となり、伊賀守護・仁木義政。
⇔梅戸貞実 (*)北伊勢の豪族。1496年石丸利光を後援。長野氏と抗争。のち六角高実を養子に迎える。<北伊勢の「北方一揆」棟梁。惣領は高貫⇒六角高実→実秀→*が継承するか。>
⇔織田敏定 (*~1495)清洲織田・大和守。斯波家家老職。尾張半国守護代職。1495年石丸利光を後援。岩倉の織田寛広に阻まれる。
⇔織田寛定 (*~1495)清洲織田・近江守・大和守。斯波家家老職。大和守家。尾張半国守護代職。石丸利光派。1496年石丸利光を後援。岩倉の織田寛広に阻まれる。
⇔▽織田寛村 (*)斯波家家老職。寛定の戦死により家督相続。1496年寛広と和睦。1495年石丸利光を後援。1501年斯波寛元の遠江遠征。今川氏親に敗北。
<利国(妙純)派> 京極=朝倉=岩倉織田同盟。
⇔京極高清 (1460~1538)北近江衆。斎藤妙純の娘婿。1495年石丸派の六角高頼と抗争。
⇔朝倉貞景 (1473~1512)斎藤妙純の娘婿。朝倉氏景の息。母は織田孫左衛門の娘。
⇔織田敏広 (*~1481)伊勢守・兵庫助。岩倉織田家。斯波家家老職。斎藤妙椿の娘婿。1467「応仁の乱」に西軍方。息に広高、養子に寛広。
⇔織田広近 (*)木下(犬山)城主。斯波家家老職。1467「応仁の乱」に西軍方。
⇔織田寛広 (~*1504)岩倉織田家・伊勢守。斯波家家老職。1481年敏広の跡職を継承。1481年斯波義寛に帰順し、敏定と和解。上洛。1487年六角高頼討伐軍に従軍。1495年織田敏定、寛定親子を討つ。
⇔▽津田寛近 (*)津田武永・武長。斯波家家老職。岩倉織田家分家。兄に寛広。1495年石丸利光、織田寛村と抗争。

(第2世代) もはや東軍か西軍かわかりません。
斎藤利藤 (*~1498)帯刀左衛門・越前守。斎藤利永の嫡男(斎藤利国「妙純」の異母兄)。斎藤妙椿の甥。将軍・足利義政の後援で、守護の土岐成頼と足利義視を巡り対立。妙春の死後、守護代職を巡り利国(妙純)と対立「文明美濃の乱」。土岐成頼の後援を得られず、六角高頼を頼る。利国家臣・石丸利光に追討される。1487年和睦がなり美濃守護代に復帰するが、実権は利国(妙純)が持つ。石丸(斎藤)利光と同盟。1496年「船田合戦」に利光派。敗れて隠居する。養子に斎藤利為。息に源四郎、日運和尚。孫に利春。
▽斎藤典明 (*)斎藤利永の息。斎藤利藤の弟。1495年「正法寺・船田合戦」。石丸利光に与力。斎藤利国(妙純)・利親親子と抗争。

北畠具教/土岐(世保)の家臣団
(第2世代) もはや東軍か西軍かわかりません。
斎藤利国 (*~1497)斎藤妙純・新四郎・右馬丞・持是院・入道妙純。斎藤利永の息(利藤の異母弟)。斎藤妙椿の養子。弟に利綱。越前守護・朝倉貞景を娘婿、養女(甘露寺元長の娘)の婿は尾張岩倉の織田伊勢守・寛広。1481年朝倉家と同盟。1491年越前朝倉家当主・貞景を娘婿に迎える。妙春(妙椿)の死後、守護代職を巡り斎藤利藤と対立「文明美濃の乱」。利藤に勝利する。1494年元頼と政房の家督争い。土岐成頼・石丸利光との「船田合戦」。京極高清・朝倉貞景・織田伊勢家(織田十郎)の後援で勝利。1496年「城田寺城の攻防」に京極家から後詰(浅井・三田村)。織田家から後詰(寛広与力、十郎・与三郎・又太郎)。朝倉貞景軍の後詰により勝利。家老・石丸利光を後援した近江の六角高頼を攻撃するが戦死。<1495年養女の婿・岩倉織田寛広。の一門・織田広遠の甥・織田十郎、与三郎兄弟が後詰として派遣される。>
▽西尾直教 (*~1497)兵庫助。西尾広教の息。斎藤利国の家臣。石丸利光の利国暗殺計画を阻止。土岐政頼の仲裁で直教が尾張に追放される。1495年「正法寺・船田合戦」。1496年父・妙純(利国)とともに近江に出陣。六角高頼・蒲生氏との抗争に戦死。息に秀教。<西尾家が斎藤家の執事だった時代もあったのですね。のち氏家卜全の与力。><明智の菩提寺が西教寺というのは何か理由が・・。>
▽村山利重 (*)斎藤利国の家臣。1494年石丸利光と抗争。1495年「正法寺・船田合戦」。1496年尾張岩倉救援に従軍。<越後の長尾為景に与力した村山氏との関連が気になるところです。>

(長井斉藤)
斉藤利安 (*~1530)長井長弘・藤左衛門尉・左衛門尉。土岐家家老。斎藤利永の息。斎藤利藤、利国の弟。弟に利綱。1494年利国に従い村山利重とともに石丸利光と対抗。1495年「正法寺・船田合戦」。1496年尾張岩倉救援に従軍。家宰として斎藤利良を補佐。京都の商人・松波庄五郎(西村勘九郎)を召抱える。1517年斎藤利良と抗争。1530年長井(西村)新左衛門に討たれる。息に長井甲斐守・衛安。息に利賢。革手城主。
▽長井利綱 (*)斉藤利綱。土岐家家老。斎藤利永の息。斎藤利藤、利国、利安の弟。1494年利国に従い石丸利光と対抗。1495年「正法寺・船田合戦」。兄・利安、村山利重とともに正法寺に布陣。1496年尾張岩倉救援に従軍。<斎藤利藤が実父とも。>

▽斎藤利実 (*)斎藤利国の家臣。1496年尾張岩倉救援に従軍。石丸利光と抗争。
▽斎藤基朝 (*)斎藤利国の家臣。1496年尾張岩倉救援に従軍。石丸利光と抗争。
▽山田* (*)斎藤利国の家臣。1496年尾張岩倉救援に従軍。石丸利光と抗争。<美濃源氏の山田氏でしょうか。>

 斎藤道三、義龍の家臣団 
(第3世代)西軍の六角高頼と抗争するということは東軍に転じていたか・・。
斎藤利親 (*~1497)持是院・新四郎・大納言・権律師妙親。妙椿流の斎藤利国(斎藤妙純)の息。石丸利光と抗争。1496年父・利国(妙純)とともに近江に出陣。六角高頼・蒲生氏との抗争に戦死。息に斎藤利良。
▽斎藤* (*~1519?)彦四郎。妙椿流の斎藤利国の息。1497年兄の戦死により甥・利良までの繋ぎで家督。美濃守護代職。1512年土岐政房と対立し尾張出奔。1517年斎藤利良と長井長弘の抗争に、長弘派として入国。1519年朝倉景高が土岐頼武・斎藤利良を奉じて美濃乱入。失脚する。
▽斎藤* (*)又四郎。妙椿流の斎藤利国の息。土岐政房の家老。息に大黒丸。1512年大黒丸は斎藤彦四郎と抗争。

<尾張斯波家> 遠江国遠征⇒対:今川氏親
⇔斯波義寛 (*)斯波義廉の息。1493年「明応の政変」に細川政元に降伏。1500年斯波義寛、細川政元の協力で、信濃守護・小笠原貞朝、関東管領・上杉顕定の協力で今川氏親包囲網。息に義達、娘婿に足利義澄(東軍方)。
⇔斯波寛元 (*)義寛の弟。1501弟・寛元、義雄の遠江出征。
⇔斯波義達 (*)義兄弟に足利義澄(東軍方)。1508年足利義稙の復権。斯波義達、遠江守護職を免ぜられる。

足利義昭の家臣団と軍団
<親子(兄弟)、下克上>
土岐政房 (*~1519)一色政房。土岐成頼の嫡男。弟・元頼と家督を巡り抗争。斎藤利国に擁立され家督相続。家督を嫡男・頼武より頼芸を推したことで守護代・斎藤利良と対立。1517年利良を越前に追う。弟に大桑定頼(孫に金森長近)、直頼、元頼。<1511年足利義稙の復権に、隣国近江の六角氏綱は降伏臣従。>
▽土岐元頼 (*~1496)一色元頼。土岐成頼の息(四男)。政房の弟(異母)。父・成頼の意向で、石丸利光(斎藤利三)に擁立され、兄・政房と家督を争う。1496年石丸利光とともに自害。

(第4世代)
▽斎藤利為 (*~1505)守護代嫡流家。斎藤利永流。斎藤利藤の養子。土岐三奉行家出身。成頼・政房に出仕。「船田合戦」に斎藤利国(妙純)方。合戦に敗北した利藤の跡職を継承(死亡後に利国の意向で名跡を相続か)。息に利茂。
▽斎藤利良 (*~1538)持是院・新四郎。斎藤妙椿・利国流。斎藤利親の嫡男。守護・土岐政房、頼芸と対立。1517年政房の嫡男・土岐頼武を擁立し叛乱。頼武・頼純とともに越前落ち。1521年斎藤利為の息・利茂が利良に代り守護代を継承。家宰の長井(斎藤)利安・利隆親子が実権。1525年斎藤秀龍により追放される。<跡職は近衛稙家の息・多幸丸が継承し斉藤正義。>
▽小塩良為 (*)内膳亮。斎藤利良の家臣。厚見郡本庄の豪族。のち斎藤道三に仕える。
(長井斉藤)
▽長井利隆 (*)斉藤・豊後守。長井利安(長弘とも)の息。武儀郡関城主。斎藤利良を補佐。弟・南陽房(日運上人)は鷲林山常在寺の住職。西村新左衛門(長井正利)に長井姓を与える。1530年父・長井利安(長弘)を討つ。息に隼人佐・道利。養子に長井正利。<親子相克?>

一色義貫の家臣団
 土岐成頼の家臣団

土岐頼武 (1499~*)一色頼武・美濃守・政頼・盛頼。土岐政房の嫡男。弟に頼芸、頼香、光親。越前・朝倉貞景の娘婿。1517年弟・頼芸と家督を巡り対立。1519年越前の朝倉景高に擁立され美濃に進行。「正木の合戦」、「池戸の合戦」に勝利。美濃革手城に入城。1521年斎藤利良から利茂に守護代職を移す。近江国の六角、浅井亮政の抗争に六角氏を支援。1525年土岐頼芸と対立。朝倉宗滴が浅井家の「小谷城攻囲」。朝倉景職が美濃「稲葉山城攻囲」。1535年美濃守護を解任される。息に土岐二郎・頼純(大桑城主)。<六角義賢と縁戚関係か。>
▽土岐頼香 (*)八郎。斎藤道三の娘婿。のち,道三により暗殺される。
▽土岐光親 (*)土岐頼武の弟。越前朝倉家に保護される。

(第5世代)
▽斎藤利茂 (*)帯刀左衛門尉。守護代嫡流家。斎藤利永流。斎藤利為の息。1521年妙春流・斎藤利良の跡職を継承し美濃国守護代。土岐頼武を補佐。1536年頼芸が守護となる。1538年利良の死により家督。頼武の息・頼純を後援し反・長井規秀(斎藤秀龍)。のち六角定頼の仲介で頼芸と和睦。長井規秀(斎藤秀龍)を一門に迎える。1548年頃まで斎藤秀龍(道三)と協調路線、守護代職を維持。息に毘沙徳丸。斎藤道三(長井規秀・利政)が跡職相続。
(長井斉藤)
▽長井利賢 (*~1586)斉藤利賢・右衛門尉・伊豆守。土岐家家老。斎藤利永流。斎藤利安(長井長弘)の息。蜷川親俊の娘(妹?)婿。美濃白樫城主。1530年西村(長井)新左衛門により父が討たれた。土岐頼芸の意向により蟄居。娘婿に長曾我部元親、蜷川親長。息に利忠、利次。孫に斉藤利三。

▽土岐頼純 (*~1547)一色・二郎・次郎。土岐頼武の息。母は朝倉貞景の三女。朝倉孝景の娘婿。のち斎藤道三の娘婿。叔父・土岐頼芸に守護職を奪われる。斎藤利良とともに越前落ち。1546年9月織田信秀に擁立され美濃に乱入。斎藤秀龍(道三)軍と戦う。六角定頼、斎藤利茂が土岐頼芸と和睦したため後援を失う。

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<兄弟、下克上>
土岐頼芸 (1500~1582)一色頼芸・左京太夫・美濃守。第十代美濃守護・土岐政頼の弟。六角定頼の娘婿。1525年守護代・斎藤利政(道三)により11代守護に擁立される。浅井亮政と同盟し、土岐頼武を後援する朝倉貞景と六角定頼と抗争。1525年美濃「正木口の合戦」。第二次「正木口の合戦」。1526年越前・朝倉宗滴の介入。朝倉景職が「稲葉山城攻囲」。1530年土岐頼武を越前に追放。1535年美濃守護職。1543年美濃大桑城主・土岐二郎(頼武の息)を攻撃。1544年朝倉宗滴と織田信秀の連合軍が美濃浸入。1552年義兄、六角義賢が美濃侵攻。のち1552年利政(道三)に追放され長く甲州に居住する(1551年頃信秀病死)、1582年武田家滅亡の際、稲葉一鉄に加護され美濃に戻り隠居生活。息に頼栄、頼次、頼宗、頼元。<信秀が頼芸を後援した時期もあったということは土岐家家臣美濃侍が多数、尾張に移住してきてもおかしくないですね。土田氏との婚姻関係、林や森、坂井、蜂屋、金森、市橋といった美濃を本拠とする姓をもつ家臣が弾正忠家にいるのも判る気がします。><京兆家の細川晴元との関係が家督相続に影響があったかもしれませんね。>
▽鷹司冬明 (*~1535)与十郎。1535年土岐頼芸方として、斎藤道三方の弟・鷹司政光、光政と戦い戦死。長瀬城主。
▽長屋景興 (*~1547)1547年土岐頼芸方として斎藤道三と抗争し戦死。息に景直。相羽城主。<金森長近の養子の金森可重は長屋氏出身。>
▽林 正道 (*)1548年土岐頼芸の追討軍。任務を放棄し出奔。
▽川合* (*)図書。1548年土岐頼芸の追討軍。主命に背き、土岐頼芸を逃す。<1541年「村山要害攻め」に出陣する川村図書、川島掃部助の関係者でしょうか。>

土岐頼栄 (*)猪法師・小次郎・宮内少輔・頼秀。土岐頼芸の長男。稲葉一鉄の娘婿。従兄弟に土岐頼純。斎藤道三を排除しようと、叔父・揖斐光親とともに反乱する。織田信秀の介入で和睦するが、父・頼芸により廃嫡される。息に土岐光義。
▽土岐頼次 (1545~1614)一色頼次・見松・二郎・左馬助。土岐頼芸の嫡子(次男)。母は六角定頼の娘、兄に廃嫡された頼栄。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。のち松永久秀の客将となる。息に土岐頼勝。


<美濃国の戦国大名>
 斎藤秀龍(道三)、斎藤義龍(土岐義龍)の家臣団 (1542年から美濃国主)
『立政寺文書』。後世の編纂で『美濃国諸旧記』、『美濃明細記』、『濃陽諸士伝記』が参考になる書。
▲長井正利 (*)西村・新三(左)衛門・勘九郎・豊後守。奈良屋又兵衛の娘婿。長井家家老・西村正元の養子。本巣郡軽海の住人となる。土岐家家老・長井長弘の家臣・長井利隆の跡職を継承する。斎藤秀龍(長井利政)の実父。本巣郡祐向山城主。<京都妙覚寺の法蓮房。京都の油屋の山崎屋庄五郎。武士となり松波庄五郎。西村家、長井家養子。親子二代で国盗りを完成するようです。>
畿内、伊勢家・三好家の動向。

★斎藤秀龍 (1494*1504~1556)長井利政・新九郎・左近大夫・規秀・入道道三。京都妙覚寺の僧・長井(西村)新三衛門・正利の息。土岐家家老・長井長弘に父・正利(利隆養子)が出仕する。1525年土岐頼武、家老・齋藤利良を追放。1527年土岐頼芸を美濃国主に迎える。1533年長井長弘死去。1538年齋藤家を継承。1539年稲葉山城を拠点とする。1543年土岐頼芸を擁する朝倉孝景、織田信秀と敵対。1546年土岐頼純を擁する織田信秀と抗争。1547年「加納口の合戦」。1548年朝倉・織田連合軍により和睦。1548年織田信秀と同盟し娘(濃姫)を信長の嫁に。1548年大桑城を襲撃し、頼武を討つ。1552年土岐頼芸を追放し国主となる。朝倉義景が美濃郡上郡に侵入、東常慶、一向宗安養寺の奮戦により撃退。1554年家督を嫡子・義龍に譲り鷺山城に隠居。1555年に義龍のクーデター。1556年「長良川の合戦」で義龍に敗北する。道三側2700兵。63歳。稲葉良通の姉(深芳野)婿(義龍の母)。明智光継の娘(小見ノ方)婿(濃姫の母)。<京兆家の細川晴元政権の全盛期が、斎藤道三の出世の時期と重なり合うのは偶然でしょうか。><晩節の頃、「天下人」三好長慶との関係も気になるところです。>
▽↓鷹司政光 (*)斎藤道三の弟。鷹司冬明と家督を巡り抗争。道三の後援で冬明を討つ。のち織田信秀との合戦で戦死。長瀬城主。
▽↓長井道利 (*~1571)(斎藤)・隼人正・隼人佐。長井利隆の息(養子?)、または道三(規秀・利政)の庶子(弟とも、養子か)伝わる。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。東美濃明智城攻略の総大将。金山城主。1561年義龍の死により龍興の後見人。美濃守護代。永禄7・8年、関城主。1565年織田家撃退の為に東美濃、堂洞城後詰に出陣。安桜山城主。1567年斎藤氏滅亡後は、三好家の客将。朝倉家、足利義昭に出仕。1571年三好の将として和田惟政を攻撃、摂津「白川河原の合戦」に討死。息に道勝、頼次、時利。<斎藤義龍の側近、家老。>

1554年父(道三)を隠居させ家督継承
▽斎藤義龍 (*1527~1561)土岐義龍・豊太郎・新九郎・高政・治部大輔・左京太夫。道三の嫡男。浅井久政の娘(近江ノ方)婿。土岐頼芸の御落胤とも噂される。浅井長政の義兄弟。1555年父を隠居に追いやる。1556年叔父・長井道利の後見で「長良川の合戦」に父を破る。義龍側17000兵。1557年美濃国を平定する。幕府に取り入り、妹婿に政所所司代・伊勢貞孝の息・貞良。将軍・義輝の幕府相伴衆、「義」字拝領。治部大輔任官。稲葉山(井口)城主。35歳(33歳とも)。息に龍興。<正式には一色氏を名乗っていないらしいです。一色姓は龍興の考えのようです。><義龍は、血が土岐氏であることを強調したかったのでしょう。><1552年からの新将軍・足利義輝との関わりも気になるところです。>
▼斎藤龍興 (1548~1573)一色龍興・喜太郎・右兵衛大夫。母は浅井久政の娘。浅井長政の甥。1561年に父・義龍の死去により14歳で家督。側近の斎藤飛騨守を重用し、家老・安藤守就の娘婿・竹中重治と対立。1561年「森辺(森部)の合戦」に墨俣を奪取される。1566年足利義昭の和平工作を破棄「河野島の合戦」で織田信長を破る。1567年美濃三人衆の織田家内通により国主を追われる。畿内の三好三人衆・越前朝倉家に加担し反織田信長に徹する。1573年朝倉家の滅亡の際に近江「刀禰坂の合戦」に戦死。26歳。<一色家は、かつて三河、尾張の一部、北伊勢の守護職でもあったので、信長を滅ぼして、自分がそれらの国の守護になると大義名分を欲しかったのかもしれませんね。>
 一色家勢力図、武家関係図。
≪個人的感想≫ 九州探題・一色の九州撤退と、鎌倉府の執事職、丹波の波多野(松田)氏や丹波諸豪族(片岡・革島)との関係。一色家の領内をいろんな武家が流動的に動いて、それぞれの地域に分家を輩出し、根付いて土着したものもいたと推測されます。美濃・尾張・北伊勢・三河の混沌とした状況は、まさに一色家効果だったのでしょう。
 肥前の千葉家や河尻家。千葉を祖とする大須賀(榊原)家。豊前の宇都宮(城井)家と同祖の大久保家。丹後・北伊勢守護代の石川家に、伊勢湾を地盤とする服部党や本田(本多)党。千葉家と関連深い酒井(坂井)家など、東海道の気になる系譜です。

一色義貫の家臣団
 土岐成頼の家臣団
<斎藤秀龍・義龍の一門衆>
▽斎藤義重 (*~1555)孫四郎・右京亮・龍重。道三の実子、次男。義兄の義龍に稲葉館で討たれる。
▽斎藤龍定 (*~1555)喜平次・玄蕃。道三の実子、三男。義兄の義龍に討たれる。斉藤道三の実子は出家し、四男は妙覚寺日暁、五男は常在寺日覚となる。

⇔▽斉藤正義 (*~1548)(藤原・近衛)・大納言。近衛種家の庶子。道三の養子となり、東美濃金山(鳥峰)城主。1548年土岐(久々利)悪五郎に討たれる。土岐悪五郎は森可成に城を奪取され、のち森長可に討たれる。息に(加木屋正次)<三河山岳部の三宅氏や、菅沼氏との関わりが気になる武将です。><明智・丹羽が近衛家の家司(惟)の姓を名乗るのは、この人物と先祖が関連ありだからでしょうか。>
⇔土岐頼興 (*~1583)久々利・久々里・悪五郎・三河守・三河頼興。土岐氏一門。可児郡の豪族。1548年秀龍の養子・斎藤(近衛)正義を謀殺する。1565年頃織田家に臣従。森可成の配下。1582年変後に遠山友忠と結び反乱。1583年森長可の計略により金山城にて刺客・加木屋正則(正義の孫)に討たれる。久々里城主。<1548年土岐頼武の動きと連動しての挙兵でしょうか。>

<秀龍の御由緒家>
稲葉通則 (*~1525)右京亮・備中守。土岐成頼の娘婿。土岐政房、政頼家臣。斎藤秀龍の義父。秀龍室、深芳野の父。弟に通雄、忠通、一徳、通俊、光朝(白雲)、常通、通光、通友。1525年に戦死。息に通勝、通房、通明、豊通、通廣、良通(一鉄)。娘婿に斎藤秀龍、岩手長誠、玉井若狭守、古田肥前守。小寺山城主。

 斎藤道三、義龍の家臣団 

<斎藤秀龍・義龍の直参家老衆>
1554年家臣団は主・斎藤道三を隠居に追い込み、斎藤義龍を擁立。
 1555年家臣団分裂 ★道三派 VS 義龍派
↑長井道利 (*~1571)(斎藤)・隼人正・隼人佐。長井利隆の息(養子?)、または道三(規秀・利政)の庶子(弟とも、養子か)伝わる。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。東美濃明智城攻略の総大将。金山城主。1561年義龍の死により龍興の後見人。美濃守護代。永禄7・8年、関城主。1565年織田家撃退の為に東美濃、堂洞城後詰に出陣。安桜山城主。1567年斎藤氏滅亡後は、三好家の客将。朝倉家、足利義昭に出仕。1571年三好の将として和田惟政を攻撃、摂津「白川河原の合戦」に討死。息に道勝、頼次、時利。<斎藤義龍の側近、家老。><利隆の娘婿に桑原(氏家)行隆。道利の甥に氏家直元(卜全)。>
▽長井道勝* (*)井上道勝・忠左衛門・忠右衛門。長井道利の長男。1556年「長良川の合戦」に斎藤道三を討ち取る。証拠として鼻をそぐ。のち弟・頼次とともに秀吉家臣。

<大野郡>
揖斐光親 (*~1556)(伊尾・いび・衣斐)・土岐・五郎・周防守。土岐一族。土岐頼芸の弟。反道三の重鎮。西美濃十八将のひとり。大野郡、揖斐城主。1547年土岐頼芸の大桑城とともに斎藤道三の攻撃により落城。<長江(富島)氏、揖斐氏、斎藤氏は美濃土岐家重臣として同格だったようです。>
▽揖斐光兼 (*)(伊尾・いび・衣斐)・土岐・与三左衛門。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。<光親との関係は不明。>
堀池定治 (*)備中守。1556年揖斐光親の跡職を継ぎ、揖斐城主。<義龍重臣、堀池筑後守・元盛と同一人物か。>
▽堀池元盛 (*)筑後守。斎藤義龍家臣。1564年頃稲葉良通とともに奉行人。<稲葉良通は道三方のため義龍に遠ざけられているので、時期が変のなのか。立場が見直されるべきなのか・・。>
▽堀池* (*~1582)半之丞。稲葉良通の娘婿。本能寺の変後に稲葉良通と対立し討たれる。揖斐城主。<信長配下では縁戚関係から稲葉家の与力に編成されるようです。>

<郡上郡>
⇔↓武井夕庵 (*)肥後守・直助・爾伝。土岐頼芸の側近から、道三・義龍に出仕、右筆。義龍と道三が不和となる原因を作ったとも。のち織田信長に出仕し、1575年には「二位法印」に任官。1581年京都馬揃えで「山姥」に仮装する。郡上郡城主。<同じく信長様の部下となる猪子兵助が道三の若手側近とすれば、この方は・・。><没年が1582年とするとかなりとんでもの高齢者になるような気がします・・・。>
⇔鷲見基綱 (*~1556)すみ・新藤次。美濃郡上の豪族。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<鷲見保光は義龍方に加勢し生き残る。>


<義龍六奉行>
日比野清実 (*~1561)下野守。1558~1560年にかけて義龍六奉行。1561年義龍病死直後に乱入した織田軍と「森部の合戦」に戦い討死。信長の馬廻、津島衆・恒河久蔵に討たれる。結村城主。
長井衛安 (*~1561)甲斐守。1558~1560年にかけて義龍六奉行。1560年美濃に侵入した織田信長軍を丸毛・市橋とともに撃退。1561年義龍病死直後に乱入した織田軍と「森部の合戦」に戦い討死。信長の馬廻、津島衆・服部平左衛門に討たれる。結村城主。<長井道利との関係が気になります。>
⇔野村* (*~1570)越中守。斎藤家家臣。<幕府足軽大将衆の野村越中守は別人とも。長井道利と行動を共にするなら上方に居る可能性もあり。>

<義龍側近>
小牧道家 (*)源太。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。斎藤道三の首級を盗み丁重に葬る。義龍政権の下で野木氏と対立。石河兵助に討たれる。
野木* (*)(稲葉)・次左衛門。青木重直の娘婿。小牧道家と対立。小牧道家に討たれる。

<義龍三官僚>
上田* (*)加賀右衛門。<「加賀」仲間に青木、井上。いずれかと同一人物か?。>
宇佐美* (*)左衛門尉。日根野弘就、野村越中と共に寺社対策にあたる。
⇔↑武井直助 (*)肥後守・夕庵。郡上郡の豪族。のちに織田信長の祐筆。


 斎藤秀龍(斎藤道三)の軍団
<道三方 城持小名>
↑鷹司政光 (*)斎藤政光。斎藤道三の弟。鷹司冬明と家督を巡り抗争。道三の後援で冬明を討つ。のち織田信秀との合戦で戦死。長瀬城主。
★石谷* (*~1556)対馬守。土岐一族。道三と親しく鷺山城留守居を勤める。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。義龍軍に攻囲され自害。<石丸氏家臣の子孫でしょうか。><「命やは うき名にかえじ 世の中に ながらえはずる 習ありとも」辞世。><斎藤利三を通じて明智光秀と親しくなる石谷頼辰との関連も気になるところです。>
川島唯重 (*~1556)掃部助・惟重。1541年「村山要害攻め」に従軍。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。
川村良秀 (*~1556)図書・元務。1541年「村山要害攻め」に従軍。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。
飯沼知俊 (*~1556)杢之助。1541年「村山要害攻め」に従軍。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<飯沼長継(長就の息)の一門か。1570年近江堅田で戦死する飯沼長宗あり。>
★神山義鑑 (*~1556)内記。方懸郡の豪族。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。斎藤道三に味方し、義龍軍と合戦。
★道化定重 (*)道家・助六郎。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<子孫は織田家臣となり森可成与力、瀧川一益と縁戚となる。><斎藤道三にヒョウゲ振りが認められ「道化」姓を与えられたらしい。>
★道化定常 (*)道家・彦八郎。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<のち織田信長家臣の「無双道化」道化清十郎も道三方か。>
⇔道家* (*~1570)清十郎。弟に助十郎。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。織田信長に出仕。森可成の与力。近江にて戦死。<「天下一勇士」「無双道家」。信秀家臣・道家尾張守の息。>
松原義保 (*~1556)治郎左衛門。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<丹羽長秀と関連する松原氏の一門でしょうか。>
大沢氏泰 (*~1556)主水。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。
中村秋益 (*~1556)宗助。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。
井上頼久 (*~1556)加々右衛門。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<長井道利の長男・長井道勝が井上姓を名乗るのはこの人の跡職を奪ったからか?。><加賀右衛門は青木以外にもいたということで・・。>
片桐為春 (*)縫殿助。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<片桐且元の一門か。>
大西勝祐 (*~1556)太郎左衛門。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。
⇔溝尾茂朝 (*)庄兵衛・(三沢秀次?)。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<明智光秀の侍大将として有名な溝尾勝兵衛さんとの関係が気になります。出雲国三沢氏との関連あり。>
大塚種長 (*)藤三郎。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<本能寺で戦死する大塚さんの一門か。>
桑原久明 (*~1556)十郎左衛門。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<氏家直元一門か。><本能寺で戦死する桑原さんの一門か。>
三宅信朝 (*)式部。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<明智光秀家臣の明智(三宅)秀満の一門か。><三河の三宅氏と縁戚でしょうか。>

<稲葉一門>
★林 通政 (*~1556)稲葉・駿河守・駿河入道・入道道慶・政長・正道。斎藤道三の旗頭。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。本巣郡十七条村岩崎城主。織田信長の家臣・森可成は一門・林新右衛門・通安の娘婿。一門の林八郎左衛門・通安は織田信定、信秀に出仕し息・秀貞は織田信長の筆頭家老となる。<親子で同名の通政で、父(通慶)は道三、息は義龍について親子で争うか。><林主馬・正長も道三方。甥の林主水は義龍方につく。><同世代人の新右衛門、八郎左衛門の通安は、同一人物なのでは??>
林 正長 (*~1556*)主馬。斎藤道三の旗頭。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<林 長正と同一人物か?>
⇔林 通村 (*)稲葉・佐渡守。尾張に土着する林氏。息に八郎左衛門・通安。娘婿に織田信定。孫に林秀貞。<同世代で、八郎左衛門・通安、新右衛門・通安と2人の通安がいてややこしくなります。>
⇔▽林 通安 (*)稲葉・八郎左衛門。義兄弟に織田弾正忠家の信定。甥に織田信秀。息に織田信長執事の林秀貞。<同一人物では?>
⇔▽林 通安 (*)新右衛門。室は塙義元の娘。娘婿に森可成(元・長井家家臣、のち織田信長家老)。息に森家家老の林為忠。<「稲生の合戦」に林通具を討ち森可成が信長重臣に出世するので、「林一族の争い」から可成を勘当とかで、別人としているのでは?><室は塙義元の娘、この人が原田直政の父なら、塙家を通して林=森=原田=柴田のパイプができるのですが・・。原田直政が出頭するのも判る気がするのですが。>
一柳直秀 (*)(林)・稲葉・右近。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。<羽柴中国軍の与力、一柳一門か。>
羽柴(木下)秀吉の軍団 ←詳しくはこちら


⇔猪子高就 (*~1582)兵助・兵介・高然。斎藤道三の側近、傍衆。正徳寺の会見に同席、「何を見申し候ても、上総ノ介はたわけに候。」と名言を残す。織田信清、のち信長に使え、矢部家定とともに側近として重用される。1570年「姉川の合戦」に従軍。1576年「石山本願寺攻囲」に従軍。1580年徳川家康の高天神城攻囲の陣中に検察に行く。1582年「本能寺の変」に戦死。
⇔柴田角内 (*~1556)信長公記の尾張守護代家の家人に柴田角内あり、尾張守護・斯波義統を襲撃する。その後に斎藤道三の家臣・柴田角内あり。道三息子の斎藤義龍の軍勢との前哨戦に道三軍の代表として「一騎打ち」に勝利する。<清洲織田家滅亡後に斎藤道三のもとへ行くというのも不思議。斯波・武衛家を道三が滅ぼしたくて、あらかじめ送り込んだ刺客なのか、美濃「長良川の合戦」後は登場してこないので、ここで道三に殉じたのでしょうか。柴田勝家との関係は一族?それとも別系?なのかはっきりしません。 とにかく気になる人物なのですw><明智光秀に与し、斉藤利三と縁戚である柴田氏は美濃の柴田なのではないでしょうか。明智家と縁戚である美濃の柴田とはこの角内の一門を指していて、尾張の柴田とは関係ないのかもしれません。明智と柴田の家臣である柴田源左衛門の一件も、後世の誤解から同一人物となっているのでは?>

<尾張津島>
⇔★堀田道空 (*)斎藤家の家老・側近。津島衆。1553年道三・信長の正徳寺の会見での随行者のひとり(春日丹後・猪子兵助)。尾張津島に館があり、織田信長の踊り興行が披露された。<道三没後は信長に出仕カ。>
⇔山内盛重 (*)伝兵衛。尾張岩倉衆。道三の加勢か。尾張黒田城主。<尾張岩倉家老・山内盛豊は1510~1557*1559の武将。>
⇔梶川昌宗 (*)弥三郎。尾張(三河)衆。道三の加勢か。<知多半島の水野家与力に梶川氏。1560年桶狭間に戦死した梶川高秀の息・梶川高盛は弥三郎と称する。境川の川筋を通して美濃との縁を持つか。>



 1555年家臣団分裂 道三派 VS 義龍派
<西美濃四人衆> 1567年尾張の織田信長に臣従。
<1561年~1567年までの間に独自の与力を従える小領主へと成長するか?>
<安八郡>
(稲葉・新治家)林・森・一柳は親戚。
稲葉通明 (*~1525)(林)・刑部少輔。稲葉通則の息。稲葉良通の兄。1525年に浅井家との合戦で戦死。娘婿に斉藤利三。孫に春日局。息の刑部少輔は稲葉良通の与力。小寺山城主。義兄弟に斎藤秀龍(道三)、玉井若狭守、岩手長誠、古田肥前守。
⇔稲葉良通 (1515~1588)(新治)・彦六・六郎・伊予守・一鉄・良道・通朝・長通。稲葉通則の息(6男)。道三は姉か妹の婿。元長良崇福寺の僧侶。1525年浅井亮政との合戦で兄5名の戦死により家督。斎藤道三の執事となった林通政と同族の縁で勢力を得る。西美濃三人衆のひとり。「西美濃四人衆」のひとり。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。曽根城主。1561年義龍病死。のち織田家に臣従し、1569年伊勢国北畠氏攻略に従軍。1570近江「姉川の合戦」に武功。龍興の代、与力衆に国枝家。息に貞通、重通。息・方通は不破光治の娘婿。娘婿に丸毛兼利、山村良勝、斎藤利三、堀池半之丞、国枝重元。<「雪は秦嶺に横たわり、家いずくにかあり、雪は藍関をようし、馬進まず。」-韓退之->
稲葉重通 /inaba,sigemichi(1540~1598)(新治)・勘右衛門・兵庫頭・重執。良通庶子。清水城主。老齢の父に代わり各地で奮戦。信長馬廻衆。1576年「摂津出陣」。1577年紀州「雑賀・根来征伐」に従軍。1578年播磨出陣、「神吉城攻囲」「有岡城攻囲」に従軍。1582年4月信濃飯山一揆を鎮圧に出動。<美濃・稲葉家と尾張・林秀貞の林家は河野氏を祖先とする親戚関係。>
牧村利貞 /makimura,tosisada(*~1593)稲葉・長兵衛・兵部大夫・秀光。利休七哲。稲葉重通の息。外祖父・牧村政倫の養子となる。稲葉一族から直参として信長に寵用される。信長馬廻衆。信長に父と別行動で一隊を統率することが許された織田家中きっての若手将校。1575年猪子一時とともに津田宗及茶会に出席。1576年頃から下石頼重、富田信広(一白)らと茶会を催す。1577年紀州「雑賀・根来征伐」に従軍。伊勢岩手城主。<牧村家の世話になった山内一豊との関係が気になります。>
稲葉貞通 /inaba,sadamichi(1546~1603)(新治)・彦六・右京亮。良通嫡子。1567年父とともに織田家に臣従。1569年6月頃に父から領地を譲り受ける。信長馬廻衆。1573(天正元)年「山城国槙島城攻囲」に従軍、北山城の渡辺昌を攻撃。1573年彦六・直政とともに朝倉「大づく砦攻略」先手衆。1573年「越前侵攻」に従軍。1574年「伊勢長島攻囲」に従軍。1575年「越前一揆平定」に従軍。1580(天正7)年に父から家督相続・曽根城主。老齢の父に代わり各地で奮戦する。惟任光秀に古参の家臣、斉藤利三と那波直治を引き抜かれ惟任軍団との仲が険悪となる。準織田一門(神保氏張or長住の室・信秀娘を後妻に迎える)。
稲葉 * /inaba,*(*)刑部少輔。稲葉一鉄の甥。稲葉通明の息。稲葉家一門衆。織田信長直属の馬廻衆として特別に遇される。1570年「姉川の合戦」に軍功。1580年4月安土城下に屋敷を与えられる。1582年信濃飯山の一揆に稲葉直政を救援する軍功。のち織田信孝配下。秀吉に離反する。
⇔▽那波直治 /nawa,naoharu(*)和泉守・宗治。稲葉家の家老職。明智光秀の下に一時、出奔。良通の訴訟によって稲葉家に帰参することとなる。<似た境遇の斉藤利三と深い関わりがあるようです。><1586年那波和泉守が、秀吉から美濃にて所領を与えられている。>
国枝重光 /kunieda,sigemitu(*~1584)与三兵衛・三河守。稲葉一鉄の娘婿(「戦国大名家臣団辞典」、「戦国人名事典」より)。稲葉氏与力。1561、1573年に竜徳寺に寄進。加賀守と同一人物とも。息に重元。<国枝(佐渡守・実助、1561年頃の人)との関係もよくわかりません、系図では弟とも。>
国枝古泰 /kunieda,furuyasu(*)小助・少兵衛。稲葉良通の与力。国枝一族。1561年に竜徳寺に寄進。織田信長から朝倉義景との取次ぎを依頼される。<国枝古泰(少兵衛)系図では重光の弟。><越前と何かの縁があるようです。>
▽国枝重元 /kunieda,sigemoto(*~1578)弥三郎・勝助・八郎兵衛・大和守・正則。国枝重光の息、稲葉良通の孫。稲葉家家老。1578年京都で戦死。息に重高。
▽国枝政盛 /kunieda,masamori(*)修理亮・政森。1578年兄・重元の戦死により本郷城主。のち信忠の嫡男・織田秀信の家臣。息に正近。<世代的に稲葉家の家老として活躍し、1582年に信濃飯山にて稲葉彦六(信忠家臣。稲葉直政)を救援したという国枝はこの人物と想定されます。>
▽堀池 * /horiike,*(*)新ノ丞。稲葉家与力。<堀池半ノ丞は稲葉一鉄の娘婿。>

(桑原・氏家家) 長井家と由緒。
⇔氏家直元 (*~1571)桑原・三河守・常陸介・友国・入道卜全。行隆の息。母は長井利隆の娘。妹婿に青木直守。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。1558~1566年にかけて義龍・龍興六奉行。1561年義龍病死。西美濃三人衆のひとり。「西美濃四人衆」のひとり。大垣牛屋城主・三塚城主。息に直通(直重)、行継、行広。娘婿に丸毛長照(光兼)、三沢(溝尾)為基。龍興の代、与力衆に飯沼家、西尾家(西尾光教)、種田家(種田正元)、宮川家(宮川但馬守)。<氏家姓は一色家重臣の姓。><のち秀吉配下、一柳直次も配下とも。><娘婿の三沢為基は、出雲侵攻への布石か?。尼子勝久支援の婚姻か?。>
▽桑原* (*)甚三。斎藤義龍家臣。1556年「土居口の合戦」の軍功により義龍から感状を得る。<直元の一門か。>
▽桑原* (*~1571)右近右衛門尉。斎藤龍興家臣。羽生地頭職。龍興から領家、西田原、今泉、下麻生に所領を与えられる。氏家直元の馬廻衆。1571年伊勢長島に出陣し戦死。<直元の一門か。>
▽種田兼久 (*~1571)おいだ・信濃守。弟に正元。氏家直元の馬廻衆。1561年加賀野城を攻略。1571年伊勢長島に出陣し戦死。美濃三塚城主。
▽種田正元 (*~1571)おいだ・助之丞。兄に兼久。氏家直元の馬廻衆。1571年伊勢長島に出陣し戦死。美濃今宿城主。
▽河村* (*~1571)孫兵衛。氏家直元の馬廻衆。1571年伊勢長島に出陣し戦死。
▽西堀* (*~1571)勘兵衛。氏家直元の馬廻衆。1571年伊勢長島に出陣し戦死。
▽西脇* (*)久左衛門。氏家家臣。1571年軍功に直通の感状。1582年甲斐侵攻に軍功。

(不破家)
⇔不破光治 (*)河内守・道定。5000貫の領主。安八郡の豪族。西保・北方城主。土岐家支流遠山氏庶家。不破郡南宮神社社家。兄弟に盛重、重信。甥の矢足は安藤守就の妹婿(竹中重治とも親戚)。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。1561年義龍病死。「西美濃四人衆」のひとり。柴田勝家軍団の与力。1582年頃には息子・勝光(直光)が当主。娘婿に稲葉方通。<のちに瀧川一益の屋敷に、婚姻破談の件で乱入したことがあるらしい。>
⇔不破矢足 (1542~1614)喜多村・弥次郎・十助・直吉。重信の息。叔父に光治。甥に勝光(直光)、重則。母は岩手家家老・喜多村長吉の娘。安藤守就の娘婿。1556年斎藤道三の遺書を託され織田家に使者。1558年竹中家に出仕。竹中重元家臣。1560年重治とともに稲葉山城奪取。1570年「姉川の合戦」に軍功。1578年幼少の黒田長政を匿う。<矢足は半兵衛重治が付けた名。不破直吉が正しいか?>

<本巣郡・席田郡>
(安藤家)
⇔安藤守就 (*~1582)安東・伊賀・伊賀守・日向守・守竜・道足。本巣郡の豪族。守利(定重とも)の息。室は岩手重久の娘。妹婿に不破矢足(光治とも)。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。1558~1566年にかけて義龍・龍興六奉行。1561年義龍病死。西美濃三人衆のひとり。妹婿の不破光治を含めて「西美濃四人衆」のひとり。竹中重治、遠藤盛枝、山内一豊は娘婿。北方城主。のち織田家に臣従し、1569年伊勢国北畠氏攻略に従軍。1570近江「姉川の合戦」に従軍。のち武田家に内通した罪で蟄居。1582年「本能寺の変」の際に混乱に乗じて所領回復の旗揚げをするが稲葉良通に敗れる。龍興の代、与力衆に高木家。家老に松田家。江渡城主。息に定治、守之、守宗、雅楽助・甚左衛門。
▽稲葉* (*~1582)長右衛門。安藤守就の家老。美濃本田城主。<稲葉家の一門があらゆる武門に迎えられているということでしょうか。>
▽安藤頼郷 (*)(蒲生頼郷?)。守就の弟。妹婿に不破矢足。<弟の直重が蒲生家に転仕しているとこらから、兄の頼郷も変後も生きているとすれば、蒲生家以前の詳しい事績が不明な蒲生頼郷と同一人物か。>
▽安藤郷重 (*)十蔵。守就の弟。妹婿に不破矢足(直吉)。
▽安藤直重 (*~1600)蒲生・(太郎左衛門)・七郎・将監・郷氏。伊賀定重の息。守就の弟。山内盛豊の娘婿(一豊の姉婿)。1580(天正8)年、武田家に内通した罪で蟄居。妹婿に不破矢足。<太郎左衛門という嫡流の名を継ぐのは何故か?。別人と混同され一人の事績となるか。>

安藤尚就 (*~1582)伊賀・平左衛門尉・定治・範俊。美濃衆。安藤守就の息(長男)。1567年斎藤家から離反。織田信長に従う。1569年伊勢侵攻に従軍。1577年津田宗及茶会に招待される。1579年有岡城攻略に従軍。1580年武田家に通じた疑いで失脚。1582年「本能寺の変」後に挙兵するが敗北し戦死。
⇔▽安藤守之 (*~1570)伊賀・右衛門佐・守元。美濃衆。安藤守就の息(次男)。織田信長の直参か。堅田衆を調略。1570年11月近江志賀郡堅田に出陣し、北近江での対朝倉戦で旗頭・坂井政尚と共に討死。
⇔▽安藤守宗 (*~1571)五郎左衛門。道足(守就)の息(弟、又は次男とも)。軽海(本巣郡)の住人。氏家直元とともに伊勢長島にて戦死。
⇔▽永井* (*)(安藤)・雅樂頭。安藤守就の息(4男)。息・小右衛門は竹中半兵衛家臣。
⇔▽竹中* (*)(安藤)・甚左衛門。安藤守就の息(5男)。竹中半兵衛家臣。
⇔松野一忠 /matuno,kazutada(*~1582)松田・平介。安藤家家老・松田雁助の養子。安藤守就の家臣から信長直参に抜擢される。信長馬廻衆。医術の心得があった。武名名高く、敵から常に標的にされる。本能寺に明智軍と死闘し討死。<普通美濃衆は、嫡子・織田信忠に配属されていますが(氏家卜全の与力の場合は特に)、この方は直参ですから信長様によほど目を掛けられたかと思います。1582年安藤守就の挙兵に参加した松田雁助の養子。>
今枝重直 (1554~1627)弥八。元・安藤守就の家臣。織田信忠の旗元衆。1570年「姉川合戦」に軍功。1571年「伊勢長島攻囲」に従軍。のち秀次、信雄に出仕。



 1555年家臣団分裂 ★道三派 VS 義龍派   斎藤道三、義龍の家臣団
土岐・斎藤家 譜代家老衆 西美濃十八将 『美濃国諸旧記・巻11』
<西美濃衆>
<本巣郡>(安藤家)
成吉尚光 (*)竹腰守久・新介・摂津守。竹腰重直の叔父。西美濃十八将のひとり。甥の戦死後、柳沢城主。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。1558~1566年にかけて義龍六奉行(四家老)。長井道利とともに織田家との主戦論者。本巣郡、唯腰(只越)城主。娘婿に原谷甚右衛門。息に重成。娘婿に竹中氏。<成吉も一色家と関わりがあるようです。>
▽竹腰重直 (*~1556)(成吉)・山城守・入道・道陳・道鎮・道塵。成吉尚光(竹腰守久)の甥。大垣城主。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。義龍の先陣を勤め道三勢に討たれた。息に重次。<氏家氏が跡職を継承するか。>
船木義久 (*)大学頭。西美濃十八将のひとり。本巣郡、船木の土豪。1556年「長良川の合戦」義龍側の侍大将・義龍旗本。<伊勢北畠家臣にも舟木氏あり。>
八居国清 (*)修理亮。西美濃十八将のひとり。本巣郡、八居の土豪。1556年「長良川の合戦」義龍側の侍大将・義龍旗本。
小弾正国家 (*)三郎。西美濃十八将のひとり。本巣郡、小弾正の土豪。1556年「長良川の合戦」義龍側の侍大将・義龍旗本。
那波久昌 (*)上野入道。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。<那波直治(宗治)は稲葉家家老、一時出奔し明智光秀家臣として活躍。>
軽海光顕 (*)五左衛門。本巣郡、軽海の土豪。西美濃十八将のひとり。

⇔林 道政 (*)軒林・(林道政?)・主水正。西美濃十八将のひとり。義龍側の侍大将。道三の旗頭・林通政(道慶)の甥。1556年「長良川の合戦」に斎藤道三を討ち取る。本巣郡十七条城主。<単純に槍林通政の誤記か。軒林=槍林?><林秀貞の兄が通忠という人物で、その息・通政が秀貞の養子となって1573年伊勢長島に討ち死にした通政だとすれば、先代の「槍林」は通忠のことなのでしょうか。><どこかで婚姻し津島大橋家と親戚となるようです。>
林 長正 (*~1562)玄蕃。本巣郡の豪族。林政長の息。織田軍との抗戦に戦死。美濃国十七条城主。跡職は弟の正三が継承。<林道政と同時代人とゆうことになります。同一人物?もしくは親子?>
⇔▽林 正三 (*~1573)宗兵衛・惣三。本巣郡の豪族。林政長の息。稲葉良通の娘婿。左近の孫。兄・玄蕃(長正)の死により家督相続。美濃国十七条城主。のち尾張織田家の執事・林秀貞の家臣。養子に稲葉正成。<春日局ゆかりですね。徳川家の意向で系図操作されていそうな系統です。>
▽林 正成 (1571~1628)稲葉・市助・佐渡守・正成。本巣郡の豪族。林政秀の息。母は稲葉良通の娘。稲葉重通の婿養子となり改姓し「稲葉正成」。斉藤利三の娘婿(春日局)。息に正次、正勝。美濃国十七条城主。

⇔○古田重則 (1529~1579)吉左衛門。美濃出身。播磨三木城攻めに討死。子息は丹羽長秀の婿、古田重勝。<古田肥前守は稲葉通則の娘婿で、斎藤道三と相婿。><丹羽家との重要なパイプ役。重勝は美濃本巣郡の古田織部の甥と伝わる。>
⇔○谷 衛好 (1529~1578)(福田・谷野)・大膳亮・大膳大夫。美濃出身。元美濃斎藤の臣。福田正之の息。谷野綱衛の養子。1576年石山本願寺戦に軍功。秀吉与力となり、1578年播磨平田城主。播磨三木城攻めに戦死。息に衛友。
⇔○加藤光泰 (1537~1593)作内・遠江守・景教。景泰の息。一柳可遊の娘婿。元美濃斎藤の臣。1567年伊勢桑名攻略に従軍。1570年、越前朝倉攻略「金ヶ崎の殿軍」に与力。秀吉の横山城在番期に奮戦する。1575年安土城の築城に際し街道の往還の警備奉行を務める。秀吉「黄幌衆」のひとり。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1582年「高松城攻囲」に一軍の将。秀長の補佐役。息に貞泰。<武功夜話では草創期から秀吉旗本。><遠山氏も祖は加藤。>
⇔○仙石秀久 (1551~1614)千石・(荻原)・於勝・孫次郎・権兵衛・越前守。土岐氏族。美濃出身、千石久盛の次男。荻原国満の養子。<出世の異常な早さから、もともと信長直参か。同じような立場の山内一豊は1546年生まれの5歳年上。>
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<大野郡>
↑衣斐光兼 (*)土岐・揖斐・与左衛門。西美濃十八将のひとり。大野郡、衣斐の土豪。1556年「長良川の合戦」義龍側の侍大将・義龍旗本。
郡家光春 (*)七郎兵衛。西美濃十八将のひとり。大野郡、郡家の土豪。1556年「長良川の合戦」義龍側の侍大将・義龍旗本。
相場国信 (*)相庭・掃部助。土岐一門。西美濃十八将のひとり。大野郡、相庭の土豪。1556年「長良川の合戦」義龍側の侍大将・義龍旗本。<1547年まで長屋景興が相羽城主。>
⇔山岸光信 (*)勘解由左衛門。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。西美濃十八将のひとり。大野郡、府内城主。明智光秀縁戚。<根尾氏とともに越前から美濃入りした南朝方武将の後裔。>
所 信国 (*)七郎。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。西美濃十八将のひとり。大野郡、黒野の土豪。
★高橋治平 (*)修理。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。西美濃十八将のひとり。大野郡、小津の土豪。<西三河にも勢力のある高橋一族か。>
小柿長秀 (*)四郎左衛門。西美濃十八将のひとり。大野郡、小柿城主。
松山正定 (*)杉山・刑部。西美濃十八将のひとり。大野郡、松山の土豪。<三好家と縁のある畿内の松山氏と関連ありか。>


 惟住(丹羽)軍団:浅井包囲の為の城郭連携。不破郡・池田郡の豪族が動員されていたことでしょう。
<不破郡>
★岩手道高 (*)四郎・弾正忠・信久・長誠。稲葉良通の妹婿。斉藤道三は姉婿。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。西美濃十八将のひとり。不破郡、岩手城主。1541年一時菩提山城主。1560年頃竹中重元により岩手城を奪取される。<子孫は武田家に出仕。><岩手重久の娘婿は安藤守就とも。>
★竹中重元 (*)遠江守・道治・重親。重氏の息。揖斐郡(大野郡とも)大御堂の豪族。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。西美濃十八将のひとり。1564年斎藤義龍へ謀反。1560年頃岩手弾正信久の居城、岩手城を奪取する。不破郡、菩提山城主。<竹中家と明智家も元は同じ主君の下で働いていたのですね。>
⇔▽竹中重治 (1544~1579)半兵衛・重虎。竹中重元の息。元美濃斎藤の臣・菩提山城主。安藤守就の娘婿。のち稲葉山城を攻略、浅井氏の客将となる。「軍略にかけて当代随一」。1564(永禄7)年斉藤龍興と対立し稲葉山城を奪取するが、北近江の堀家を頼り隠居する。のち秀吉の要請により織田家に出仕。1570年横山城留守居。1575年播磨三木城攻略中に陣没。家老に不破矢足。
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▽竹中重利 (*)源介。重光の息。重治の従兄弟。長松城主。
竹中重矩 /takenaka,sigenori(1546~1582)久作・彦作。斎藤氏旧臣。竹中半兵衛・重治(1544~1579)の弟。兄は西美濃三人衆、安藤守就の娘婿。信長馬廻衆。1570年「姉川の合戦」に本陣に侵入した遠藤直経を討取る武功。1582年「甲州乱入」に従軍し、信長本軍として諏訪に在陣、人数もち諸将に名を連ねる。「本能寺の変」時は美濃の自領にあり、美濃一揆により討死。<兄と違って、知略よりも武の方が得意のようです。縁戚の安藤守就のおこした一揆により討ち取られたのなら、織田政権で安藤家は捨てられ、竹中家が引き立てられた怨恨があったのかもしれませんねえ。>

<池田郡>
⇔市橋利尚 (*1513~**1560)伝左衛門・九郎左衛門。利信の息。先祖代々、池田(揖斐)郡の市橋荘の地頭。1560年長井甲斐、丸茂氏とともに美濃に侵入した織田信長軍と交戦、撃退。のち織田家に臣従。<武井夕庵、猪子兵助とともに信長様側近コースへ。><津島踊り興行に参加しているので、1560年に何故敵対関係になっているのか・・。「踊り」の頃は堀田道空屋敷にも押しかけてるので友好的な時期だったのでしょうか。>
⇔▽市橋長利 (*~1585)九郎右衛門・壱岐守・壱斎。池田郡の豪族。前田利昌の娘婿。1563年以前に信長に臣従。高木貞久、国枝古泰を調略し信長に臣従させる。1578年安土城茶会に招待される。嫡子は九郎左衛門・長勝(1557~1620)。福束城主、今尾城主。<生年に疑問があります。父・利尚の事跡との混同が激しいのではないかと思われます。>
▲国枝宗竜 (*~*1553)弥三郎・正助・大和守・守房。稲葉一徹の外祖父。西美濃十八将のひとり。池田郡の豪族。1553年まで本郷城主。<三河守⇔大和守を代替わりで繰り返します。ややこしい(汗。><大野郡にも所領があるようです。>
△国枝重次 (*)飛騨守。池田郡の豪族。国枝宗竜(正助)の息。3000貫を領する。<系図では飛騨守は宗竜の弟とも。>
⇔↑国枝重光 (*~1584)与三兵衛・三河守。池田郡の豪族。稲葉一鉄の娘婿(「戦国大名家臣団辞典」、「戦国人名事典」より)。稲葉氏与力。池田郡、本郷城主。1561、1573年に竜徳寺に寄進。加賀守と同一人物とも。息に重元。<国枝(佐渡守・実助、1561年頃の人)との関係もよくわかりません、系図では弟とも。1600年修理亮・政森が西軍に属し滅亡。>
⇔↑国枝古泰 (*)小助・小兵衛。池田郡の豪族。稲葉良通の与力。国枝一族。1561年に竜徳寺に寄進。織田信長から朝倉義景との取次ぎを依頼される。<国枝古泰(少兵衛)系図では重光の弟。><越前と何かの縁があるようです。>

<石津・海津郡>
⇔高木貞久 (*)樋口・直介・彦左衛門。道三の客将・高木貞政の息、駒野城主。安藤守就の与力。1563年織田家に臣従し、今尾城主。<近江堀氏の家老・樋口直房の息で、高木貞次の養子とも・・。『重修譜』。貞政の息・貞次の養子に貞久とも。>
⇔日根野弘就 (*~1602)(延永)・徳太郎・五郎左衛門・孫次郎・徳太郎・備前守・備中守・雄就・空石。石津郡五町の豪族。中島城主。1555年弟・和泉守とともに、義龍の弟二人を討ち取る。1558~1566年にかけて義龍六奉行。長井道利とともに織田家との主戦論者。本田城主。安藤守就と不仲。稲葉山城落城後、今川家、浅井家に出仕。1573年石山本願寺の後援を得て挙兵、その後降服し臣従する。<斎藤義龍の側近、家老。><一色家の重臣の延永姓を名乗る。>
⇔○日根野高広 (1539~1600)(延永)・徳太郎・織部正・高吉・高弘。弘就の息。石津郡五町の豪族。斎藤氏旧臣。1572~1573年は伊勢長島一揆に参加。1574年頃織田家に降服。信忠直参となる。1578年11月摂津「有岡城攻囲」に従軍。
⇔▽日根野重之 (*)(延永)・弥二右衛門・常陸介・盛就・弘継・弘隆。弘就の弟。石津郡五町の豪族。1574年に降服し信長直参に抜擢される。日根野兄弟は自分達で兜を作成し「日根野型」という笠打ちのない兜を生産した。

<安八郡>(稲葉・桑原氏家家)
⇔西尾光教 (1544~1616)小六郎・与三右衛門・豊後守。美濃国安八郡曽根城主。元、氏家直元の与力。氏家氏とともに織田家に通じ「稲葉山城攻略」に軍功。1571年5月伊勢「長島一向一揆征伐」に従軍するが、旗頭の氏家直元が戦死。その後信忠直参となる。のち多芸郡野口城主。3万石。養子に嘉教(1623年没)。<斎藤利国の家老で石丸氏と抗争した西尾直教の子孫か。><1571年氏家卜全戦死後、その遺領は信忠に与えられるという。その頃から直参か。>
飯沼長就 (*)安八郡の豪族。息に長継。
⇔▽飯沼長継 (*~1583)勘平・左衛門。安八郡の豪族。飯沼長就の息。氏家家の与力。1556年に家督、3000貫の所領を領す。織田家に臣従する。氏家直元の与力。1570年「姉川の合戦」に軍功。1571年5月伊勢「長島一向一揆攻撃」に従軍(氏家卜全討死)。1573年4~7月京都「足利義昭追放戦」に従軍。池尻城主。信忠直参となる。のちに岐阜城で戦死。<1556年「長良川の合戦」に★飯沼杢之助・知俊は斎藤道三方の武将。><1571年氏家卜全戦死後、その遺領は信忠に与えられるという。その頃から独立部隊として信長、信忠直参か。長継の父、対馬守・飯沼長就(*~1556)は安八郡池尻城主。土岐頼芸、斎藤道三に属し三千貫を領す。>
⇔○種田兼国 (*)おいだ。氏家直元の元与力。1570年9~12月朝倉軍との近江「坂本の対陣」に従軍。<1571年氏家卜全戦死後、その遺領は信忠に与えられるという。その頃から直参か。><種田正元・正安親子は1571年伊勢に卜全とともに戦死。><たねだ書いて「おいだ」と読む。>
宮川安定 (*)吉左衛門。弟に但馬守。土岐一門。舅の大垣長家と抗争。大垣城を奪取する。
⇔宮川* (*)但馬守。宮川安定の弟。氏家卜全の娘婿。氏家家の元与力。1570年卜全とともに伊勢出陣。1573年越前乱入に元美濃国主・斎藤龍興を討ち取る軍功。変後は前田家に出仕。<1571年氏家卜全戦死後、その遺領は信忠に与えられるという。その頃から信忠直参か。斎藤道三の奏者に宮川吉左衛門(安定)という人物がいる。>
▽横幕信兼 (*)氏家家与力。小野城主。<事績不明。>
後藤高次 (*)美濃斎藤家家臣。1561年(信長に通じた為?)氏家直元の与力・種田兼久により攻略され落城。息は織田信長に出仕。加賀野城主。

<多芸郡>
⇔丸茂長住 (*)丸毛・兵庫頭・兵庫助・河内守・光兼・長照。氏家直元の娘婿。多芸郡大塚の豪族。1560年織田軍の侵入に対し長井衛安・市橋とともに出陣する。斉藤龍興に美濃三人衆が反逆の際、大塚城に籠城し三人衆を撃退する。のち織田家に臣従。不破光治とともに各地に従軍する。大塚城主。
⇔▽丸茂長隆 (*)丸毛・三郎兵衛・兼利・親吉・兼顕・安職。多芸郡大塚の豪族。長住の息、稲葉良通の娘婿。織田家に臣従し、信長馬廻衆に抜擢され父に代わり各地に従軍する。

<加茂郡>
⇔井戸将元 (*)才助・斎助・頼重。加茂郡の豪族。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。麻生城主。<織田信長の馬廻衆>
↑蜂屋* (*~*1556)(土岐)。加茂郡蜂屋出身の豪族。義龍に反旗を翻し、義龍の命を受けた加治田城主・佐藤忠能により討伐される。<蜂屋一族が尾張に流れるのは、義龍との関係からでしょうか。>

<方懸郡>
村山芸重 (*)越後守。方懸郡の豪族。土岐頼芸の臣。のち斎藤家家臣。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。村山城主。

<羽栗郡>
★毛利高家 (*~1556)宮内。羽栗郡小熊の豪族。「長良川の合戦」に斎藤道三軍。<源ノ義家の子孫の系譜で、毛利広雅、日根野や、森可成とも関わりがあるかもしれませんね。>
⇔毛利長秀 (*)河内守。羽栗郡小熊の豪族。毛利高家の息。「長良川の合戦」に斎藤義龍軍。<尾張の毛利氏が参戦しているということでしょうか。それとも事績が混同されるような、毛利河内守が尾張・美濃に同時代にいたのか。>
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 斎藤道三、義龍の家臣団  本願寺顕如の軍団
<その他 「侍大将」>
原 光広 (*)(蜂屋)・紀伊守。1556年「長良川の合戦」義龍側の侍大将。<織田信長家臣、原長頼の一族か?><原氏は蜂屋・金森と同じく土岐氏族。>
加藤貞泰 (*)作十郎。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。<織田信長家臣に、羽柴秀吉の与力・加藤光泰、その息に貞泰。><光泰の父・景泰の誤記か。>
岩田光季 (*)民部丞。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。杉山正定 (*)刑部。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。
羽生長繁 (*)善助。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。
樫原治定 (*)但馬守。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。

深尾宗平 (*)下野守。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。
▽深尾重政 (*)塚本成重の娘婿。息に重良。<一門に塚本氏。>
▽深尾重良 (*)塚本小大膳の甥。織田信忠に出仕し馬廻。のち山内家家臣。
<尾張援軍?>
山田正康 (*)兵庫頭。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。<美濃尾張源氏の山田家。尾張の名家・石橋氏や、津島の梶川との関連は。><郡上に山田荘あり>
中条家忠 (*)将監。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。<織田信長に仕えて「姉川の合戦」に武功を立てる中条将監でしょうか。石川ともに西三河衆か。>信長親衛隊、黒幌衆と赤幌衆、馬廻五隊長、祐筆、奉行衆、小姓衆のページ。 TOP
石川家晴 (*)駿河守。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。<西三河衆か。><野木次左衛門を討つ石河氏か?>

<信長暗殺部隊>
小池* (*)吉内。義龍の命で上洛する織田信長暗殺を窺う。
平* (*)美作。義龍の命で上洛する織田信長暗殺を窺う。
近松* (*)頼母。義龍の命で上洛する織田信長暗殺を窺う。
宮川* (*)八右衛門。義龍の命で上洛する織田信長暗殺を窺う。
↑野木* (*)(稲葉)・次左衛門。重直の娘婿。義龍の命で上洛する織田信長暗殺を窺う。
青木重直 (*)加賀右衛門。妻は安藤氏。義龍の命で上洛する織田信長暗殺を窺う。

 1555年家臣団分裂 道三派 VS 義龍派

<東美濃衆> 1553年郡上郡にて東常慶、朝倉義景を撃退。
佐藤忠能 (*~1578)紀伊守・三省。佐藤清房の息。兄弟に秀清。永禄7・8年、美濃国加治田城主。子息・信氏(忠康)、昌信、能信。娘婿に岸信周の息・岸信房(信友)、佐藤継成。斎藤新五郎・長龍(利治)を養子とする。<斎藤道三の末子といわれるのが斎藤長龍で、龍興の弟なのが斎藤利堯ということじゃないでしょうか?>
▽佐藤信氏 (*~*1565)右近右衛門・忠康。佐藤紀伊守・忠能の息。岸家と抗争。父とともに織田陣営に転ずる。加治田城は忠能養子の斎藤長龍が相続。<歴史に埋もれた武将です。死んでしまったのか、隠居したのか・・。>
▽佐藤昌信 (*)信氏の弟。家督争いで兄・信氏を殺害。信長により追放される。家督は斎藤長龍(利治)が相続。
▽佐藤信則 (1495~1577)加治田佐藤氏一門。道三、義龍家臣。息に堅忠。
▽佐藤堅忠 (1548~1613)勘右衛門尉・駿河守。信則の息。息に継成、吉次。

<加茂郡>
⇔↓蜂屋頼隆 (*)兵庫頭。加茂郡の豪族。義龍旗元(旗本)衆。一族に原氏。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。<信長馬廻の蜂屋般若介が跡職を継承し、二代目の兵庫頭を名乗るか?。>
▽多治見光清 (*~1565)修理進・修理。1556年「長良川の合戦」義龍側の侍大将・旗本。1564(永禄7・8)年猿啄(勝山)城主。岸信周とともに主家に忠節を尽くす。1565年織田軍(丹羽長秀)に攻撃される。
肥田家鎮 (*)(諏訪)・玄蕃。義龍旗元(旗本)衆。加茂郡の豪族。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。<肥田忠政は一門でしょうか。><肥田氏の先祖は信濃諏訪氏の分流。木曽義仲にも従った。>
⇔▽肥田忠政 (*)(土岐)・玄蕃允・直勝。土岐一門。忠直の息。金森長近の娘婿。美濃米田城主。1565年織田信長に従い所領を安堵される。森可成の与力。1570年可成とともに宇佐山城を守備。彦右(左)衛門とともに宇佐山城を死守する。川辺福島城主。息に忠親。<こえだと書いて「ひだ」と読む。><肥田氏は森可成一門と、なにか係わりがあるようです。>
安江基政 (*)入道光菴。白川・佐見の領主。大山白山権現を復興する。孫に正常。野原城主。
安江正常 (*~1573)苗木遠山氏の攻撃により没落。野原城主。
★大沢正秀 (*)次郎左衛門・為泰。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。鵜沼城主。<大沢主水・氏泰も道三方。>
大沢基康 (*)1564(永禄7・8)年、宇留摩城主。秀吉の調略に従う。
▽梅村良澤 (*)鵜沼城主・大沢基康家臣。1565年仲介者として佐藤忠能の織田家恭順に貢献する。
⇔※*伊木忠次 (*不詳)香川・長兵衛・清兵衛・豊後守。丹羽長秀の娘婿。池田軍団所属。斎藤氏の旧臣。美濃国伊木山城主。織田信長に出仕し、伊木姓を賜う。のちに池田恒興に仕える。池田家の別働隊・池田元助に属し、四国征伐に従軍予定カ。のちに三木城37000石を領する。
⇔坪内利定 (1517~1609)喜太郎。国境の土豪。早くから織田家に臣従し、東美濃攻略の案内係りを勤める。のち美濃国松倉城主。
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明知定明 (*~1552)土岐定明。室は菅沼定広の娘。斎藤道三と抗争。弟に定衡。息に菅沼定政(叔父・定仙に養育される)。高山城主。<土岐氏ということで、明智と同族か。>
明知定衡 (*)土岐定衡。斎藤道三に通じる。1552年兄の高山城を奪う。<高山伊賀守と同一人物か。>
⇔▽平井光村 (*)頼母。元武田家旧臣。平井光行の息。1552年高山伊賀守の跡職を相続。遠山景行と結んで小栗氏と抗争。のち織田家に属す。高山城主。<信濃の平井氏が移住するという。>
小栗教久 (*~1552)信濃守。高山城を攻撃するも、信濃勢の援軍を得た遠山景行に敗北する。後嵩城主。
小里光忠 (*~1572)出羽守。東美濃の豪族。1534年小里城を築城「上村の合戦」に戦死。息に光次、光明。小里城主。
▽小里光次 (1534~1572)内作。東美濃の豪族。光忠の息。「上村の合戦」に戦死。弟に(和田)光明。息の光久は織田信忠の側近、1582年二条御所にて戦死。
延友信光 (*)土岐・三兵。娘婿に妻木貞徳。神箆城主。<岩村城の落城とともに武田家に臣従する延友氏あり。>
(東美濃 <恵那郡>・遠山一門) 祖は加藤景廉。
遠山秀友 (*)刑部。1556年「長良川の合戦」義龍側の侍大将・義龍旗本。
⇔遠山友信 (*~*1576)飯羽山・右衛門尉。友忠の長男とも。弟に友重、友政。1574年武田家に通じて秋山信友家臣。明知城主。
⇔遠山直兼 (*~1556)苗木・甚太郎・勘太郎。東美濃の豪族。景友の息。織田信秀の婿、織田信長の義兄弟。織田家準一門。武田家との抗争の中で病没する。1556年飛騨に侵攻し三木氏との「威徳寺の合戦」に敗北し戦死とも。娘は信長の養女となり武田勝頼の室。美濃苗木城主。<織田信忠の家臣団参照。><1556年という早くに織田家に通じていたのでしょうか。>
○遠山友勝 (*)飯羽間・右衛門佐。景友の息。1556年飛騨に侵攻し三木氏に敗北する。1556年戦死した遠山直廉の跡職を継承し苗木城主。1572年秋山信友との「上村の合戦」に敗北。1574年武田軍に離反した明知城主・飯羽山右衛門尉(遠山友信)の跡職を継承。息に遠山友忠。<孫が謀反。>
⇔○*遠山友忠 (*)(織田)・苗木・久兵衛。遠山友勝の息。信長姪の婿、織田家準一門。のち織田家に臣従し1570年9月江北に出陣し「比叡山攻囲」。対武田戦に活躍。1582年2月木曽義昌を調略する。美濃国飯場城、阿手羅城、苗木城主。息に友信、友重、友政。<国境近くのその立地から、たびたび天下分け目の表舞台に。>
▽遠山友重 (1551~1572)次郎五郎。友忠の息(次男)。1572年阿手羅城にて武田軍との抗戦で戦死。阿手羅(阿寺)城主。
⇔遠山景任 (1537~1572)(織田)・岩村遠山・内匠助・大和守・友通。遠山景前(*~1556)の息。織田信定の娘婿(信長の叔母)。東美濃の豪族。織田勝長を養子に迎える。美濃岩村城。<のち織田方拠点となるが、武田家重臣・秋山信友の調略により落城する。>
⇔遠山景行 (1509~1572)与助・入道宗叔。景保の息。室は三宅高貞の娘。息に景玄、利景。娘婿に小里光次、三宅伊通。明知城。<のち織田方拠点となるが、1574年に遠山友信が武田に内通し落城する。><明知光継の息とも。>
織田信忠の軍団 信忠主力軍 その2 川尻秀隆・金森長近の軍団

(東美濃 <土岐郡>・妻木一門)
⇔妻木範広 (*1514~1582)源二郎・藤左衛門・藤右衛門・広忠。土岐一族。明智光秀縁戚、娘が明智光秀の室。美濃国妻木城主。近江坂本城留守居。<織田信長の側室・妻木殿(明智光秀妹とされる)の関係者か。>
⇔妻木範照 (*)勘解由左衛門・(頼知?)。妻木広忠の弟。1556年「長良川の合戦」義龍側の侍大将・義龍旗本。<妻木太郎・範賢も義龍方。明智光秀は範照の娘婿とも。>
妻木範賢 (*)大学頭・太郎。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
▽妻木頼忠 (*)広忠の跡職を継承。妻木城主。
▼妻木家頼 (*)頼忠の息。1582年森氏に従い家名を存続。1600年東軍に従い田丸氏と抗争。妻木城主。

明智光綱 (*)光隆・光国。明智光継の嫡男。斎藤道三は妹婿(1533年頃婚姻か)。弟に明智光安。子息は明智光秀。戦死により明智光安が明智家惣領職を継承。
★明智光安 (*~1556)兵庫頭。明智光継の三男。斎藤道三は妹婿。明智光秀の叔父。光綱死後、光秀幼少の為に家督相続。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。義龍軍に城を攻囲され自害。明智城主。<信長の時代、遠山氏支配下の明知城ということは、1556年に奪取されたのは遠山の手勢によるものだったのでしょうか。>
明智光久 (*~1556)明智光継の次男。斎藤道三は妹婿。明智光秀の叔父。1556年斎藤道三と斎藤義龍の争いに道三側に付き滅亡。本能寺の変に先鋒を務めた明智光忠の実父。
⇔▽明智光秀 (1528~1582)十兵衛。光綱の嫡子。1556年主家の争いのため失領。<身内の妻木・山岸は義龍方。>

(東美濃 <可児郡>・岸一門)
岸 信周 (*~1565)(佐藤・孫四郎)・勘解由左衛門。佐藤信連の息。兄弟に信貞。1547年織田信秀との抗争に軍功。織田新十郎を討つ。1556年「長良川の合戦」義龍側の城主。関城主・長井道利の与力。1565年織田勢に攻略され自害。息に岸信房。東美濃堂洞城主。
▽岸 信房 (*~1565)(佐藤)・孫四郎・信友。岸信周の息。佐藤忠能の娘婿。継続して永禄7・8年東美濃、堂洞城主。佐藤氏と対立。1565年織田勢に攻略され戦死。
⇔土田秀久 (*~*1556)土岐・明智・弥平次。美濃国可児郡出身。生駒吉乃の夫。信長の生母「土田御前」の一門。1556年美濃国主・斎藤道三が戦死。東美濃の争乱に戦死。<下総守・秀久の息に政久とも。><1565年織田信長の美濃侵攻後は土田城には親戚の生駒道寿が城主となる。><のちに三宅弥平次に明智弥平次を称させる事は、信長に対して親戚であることの光秀のPRでしょうか。>
⇔斉藤利三 (1534~1582)内蔵助。美濃国白樫城主。伊豆守利賢の息。母は明智一族の娘。元稲葉良通の臣。良通の兄の娘婿。主家を出奔し、光秀に仕える。四国土佐国の戦国大名・長曽我部元親と縁戚。丹波国黒井城主。織田信長から稲葉与力に戻るか切腹するように命ぜられる。1582年本能寺直前には進退窮まっていた。娘は後に春日局。<窮鼠、猫を咬む??稲葉良通の妹婿とも。><「今度謀反随一也」『言経卿記』><この人の系統を「斉」の字で区別しようかなあ・・。>

北美濃 <郡上郡> ・東氏勢力圏
鷲見保光 (*)すみ・大学助。領地は越前・飛騨国境に接する。斎藤家家臣。1556年「長良川の合戦」義龍に従う。
▽鷲見* (*)すみ・藤三郎。織田家に出仕し伊勢攻めに軍功。信長の感状を与えられる。
(遠藤一門)
遠藤盛数 (*~1562)西遠藤家。遠藤氏宗家。常慶の養子(娘婿)となり家督。息に慶隆。郡上八幡城主。
遠藤胤縁 (*~1559)東遠藤家。遠藤胤好の息。本家の遠藤(東)常堯に暗殺される。
⇔○遠藤胤俊 (1546~1570)紀四郎・新右衛門・大隈守。胤縁の息(長男)。1559年父・胤縁は遠藤常堯に暗殺される。祖父・胤好の後見で家督。遠藤盛枝(慶隆)の八幡城を奪取し、西遠藤家と抗争。長井道利の仲介により敗北。織田信長に出仕し坂井政尚の与力。1570年近江にて戦死。木越城主。

⇔○佐藤秀方 (*~1594)六左衛門・隠岐守・秀信・正秋。佐藤清信(秀信)の息、金森長近の姉婿。1569年伊勢「大河内城攻囲」、1570年8~9月三好三人衆の「野田・福島城攻撃」に従軍。1570年9~12月朝倉軍との近江「坂本の対陣」に従軍。1575年「長篠の合戦」に従軍、金森長近とともに鳶巣山城を奇襲。美濃国鉈尾山城主。1578年9月斉藤長龍与力として飛騨出征。飛騨平定戦に参加し、飛騨国荻原諏訪城主。2万石。「本能寺の変」に際して金森長近、日根野弘就と連絡を取る。のち信孝に仕える。親秀吉派。<父も六左衛門(*~1570)と称す。><加治田城主の佐藤家との関係不明。>
織田信忠の軍団 信忠主力軍 その2 川尻秀隆・金森長近の軍団

⇔↑武井直助 (*)肥後守・夕庵。郡上郡の豪族。のちに織田信長の祐筆。
「天下の奉行衆」←詳しくはこちらのページへ。


 斎藤道三、義龍の家臣団 
<義龍旗元(旗本)衆>
田原安久 (*)式部。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
高山光俊 (*~1552)伊賀守。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。小栗氏と抗争。高山城主。<安藤と同じ伊賀守。>
土居光宣 (*)右京亮。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。<南北朝時代に美濃に来た河野一族か。ということは稲葉一門か。>
本庄光元 (*)民部少輔。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。<本城氏と関連ありか?。>
一色頼栄 (*)土岐頼栄・宮内少輔。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。<龍興が一色氏を正式に名乗るのは、母がこの人物の一門とか、室がこの方の娘という関連かもしれませんね。>
土岐頼重 (*)小次郎。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
鷲巣光龍 (*)六郎・光竜。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
曽我屋家治 (*)内蔵丞。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
池田信政 (*)又太郎。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
蘆敷長正 (*)右京亮。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
⇔↑蜂屋頼隆 (*)兵庫頭。義龍旗元(旗本)衆。一族に原氏。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。<信長側近の蜂屋頼隆本人とは思えないので、美濃に残った一門の誰かと混同されているのでしょうか。><美濃蜂屋氏は道三方で滅びたとされますが、義龍方で生き残った一族もいたということでしょうか。>信長親衛隊、黒幌衆と赤幌衆、馬廻五隊長、祐筆、奉行衆、小姓衆のページ。 TOP
金山勝長 (*)治郎左衛門。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
八居国清 (*)修理亮。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。<美濃の「修理亮」。>
大桑定雄 (*)次郎兵衛。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
小里頼長 (*)出羽守。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。<東美濃の豪族。>
荻原国繁 (*)孫次郎。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
郡家光春 (*)七郎兵衛。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
猿子国基 (*)主計。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
牛牧光久 (*)右京亮。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
外山頼安 (*)修理。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
外山光之 (*)頼母。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
今峰光次 (*)源八。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
落合家氏 (*)掃部介。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
福光頼国 (*)蔵人。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。
深沢定政 (*)三郎左衛門。義龍旗元(旗本)衆。1556年「長良川の合戦」義龍方として従軍。

《個人的感想》 斎藤義龍が、母の深芳野と土岐頼芸の関係を意識していたのなら「土岐義龍」、美濃の土岐家は土岐成頼が一色家からの養子なので、一色姓を名乗るのも判るのですが、ものの本では義龍は一色とは署名を遺していないとか・・。じゃあ、龍興が一色を姓としたことになりますよね。
 龍興重臣達の改姓ぶりをみると、桑原→氏家、日根野→延永やら。全盛期の一色重臣の名乗り(三方・石川・武田など)ではなく、義教に一色義貫が討たれてから、1442・1444年に京都で反乱を起こした一色旧臣の名乗りのような気がします。
 誅殺された理由は関東公方の側近・一色時家を三河に匿ったからとかですが、氏家や延永氏は、若狭もしくは関東公方配下のどちらの重臣だったことでしょう。
 織田信長に対抗する為なのでしょうけど、龍興やその側近は、どこの、いつの一色家を意識していたのでしょうね。
 父・義龍は足利義輝の相番衆として室町幕府に忠実だったはずですし。わざわざ、幕府に反抗した氏家・延永の姓をつけた理由がわかりません。龍興は世間に何をPRしたかったのでしょうか・・。



 飛騨国要所図
<第2世代>
(中美濃 <武儀郡>・佐藤一門)
⇔★斎藤長龍 (*~1582)新五郎・利治。道三の末子、または義龍の息とされる。加治田城主・佐藤忠能の養子となる。1565年11月織田信長から知行2180貫を安堵される(武儀郡・加茂郡)。1567年加治田城主の佐藤紀伊守の跡職。1578年濃尾の兵を率いて越中に乱入、神保長住を救援し上杉の将・河田長親を破る。本能寺の変に、二条御所で織田信忠とともに死亡。

(上美濃 <郡上郡>・遠藤一門)
⇔▽遠藤慶隆 (1550~1632)西遠藤・新六郎・但馬守。1562年家督相続。母は道三・弟の長井道利と再婚する。室は安藤守就の娘、竹中重治と義兄弟。後織田家に臣従し、1570年「姉川の合戦」に従軍。朝倉義景・武田信玄に内通する。1575年「長篠の合戦」、1582年「甲州乱入」に従軍。
⇔○遠藤胤安 (*~1587)東遠藤・吉左衛門。斎藤氏旧臣、胤縁の次男。兄・遠藤胤俊が1570年11月近江堅田において戦死し、家督相続。親信孝派。
⇔▽遠藤胤基 (1548~1593)東遠藤・大隈守。斎藤氏旧臣、胤縁の三男。1571年「比叡山焼き討ち」に従軍。親信孝派。

根尾* (*~1582)右京亮。根尾谷の豪族。織田信長に従い越前侵攻。越前小山に所領を得る。1582年「本能寺の変」に戦死。息に宗胤。<徳山、山岸、山本、伊自良氏と共に南朝方武将の後裔。のち金森氏の一門衆。>
織田信忠の軍団 信忠主力軍 その2 川尻秀隆・金森長近の軍団
織田 信長の子飼衆/kogaisyuu


 尾張国要所図
 1547年に織田軍敗北。
<同盟者・尾張衆> 1562~63年7月信長「小牧山(火車輪)築城」、本拠地を隣接させ美濃へ圧力。
(楽田織田)
織田寛貞 (*)筑後守・寛真。1549年1月織田信秀から離反。尾張楽田城主。<息子・織田忠寛(津田一安)は安土の留守居を任されるほど信頼されています。信長様は以外に義理堅い?>
⇔▽織田忠寛 (*~1576)津田・掃部介・一安。筑後守・寛真の息。北畠信雄の家老、勢南奉行として権力を振るうが、私利に走り誅殺される。
(犬山織田)
織田信清 (*)(犬山)・津田・十郎左衛門・下野守・鉄斎。尾張犬山城主。織田信康(*~1534)息。室は織田信秀娘(犬山殿)、織田信長の義兄弟。1549年1月織田信秀から離反。1558年信長の織田信安攻略に協力するが、1561年「軽海の合戦」に弟・勘解由左衛門が戦死。1562年織田信長から離反し斎藤家と同盟。1564年竹中重治の稲葉山城占領の混乱に乗じた織田信長軍により黒田・小口城を奪取される。和田・中嶋の離反から甲斐の武田家の下に落ちる。犬山の中島・和田の両家老は信長直参となる。犬山城主。妹は織田信張の室。<息子・織田信益は安土の留守居を任されるほど信頼されています。信長様は以外に義理堅い?>

 斎藤道三、義龍の家臣団 

<他国衆>
⇔赤座長兼 (*~1582)七郎右衛門・永兼・入道紹意。越前新渡城主・赤座筑前守の次男。斉藤龍興・和田維政の元家臣。弟・助六郎。岩倉・織田信安の娘婿とも。1569年1月足利義昭の拠る本圀寺を守備。三好三人衆との「六条の合戦」に武功。以後は信長の家臣となり、1570年「越前侵攻」に従軍。1575年11月信忠に仕える。1579年前田玄以とともに美濃不審火の始末で信長馬廻衆・井戸将元を誅殺。信長より越前に所領を与えられる。1582年2月「甲斐乱入」に従軍。1582年6月二条御所で討死。<美濃で失領して(斎藤龍興軍に居たから?)、畿内での軍功が認められ出世した武将。明智光秀と似た境遇です。信忠軍団ながら越前に所領という珍しいケースです。茶の湯の造詣が深く津田宗及の茶会に度々出席。信忠軍団では佐久間信栄さんと趣味友になれたでしょう。>


<美濃の織田勢力>
(大垣)
⇔織田寛継 (*)播磨守・信辰。織田家一門。清洲三奉行、織田寛故の息。藤左衛門家の分家。1543年(1546?)織田信秀に従い、最前線の大垣城を守備。1547年斉藤軍に攻囲され、織田信秀の援軍は破れる。
⇔毛利広雅 (*~1563)掃部助。元・斎藤家家臣。1537年織田信秀と音信。織田家に通じる。のち美濃大垣城主。
▽毛利広盛 (*~1616)小三郎・掃部助。1563年織田信長から忠節を賞される。<伊勢長島一揆中江砦に森小一郎あり。一族か?。>
<織田信長の家臣となる森可成、野々村正成、坂井政尚も、美濃征服以前に織田を頼って美濃から尾張に流れてきたらしい。><加賀の別喜広正の与力、のち信長馬廻衆となる島兄弟が美濃出身らしいのですが『織田信長合戦全録』谷口克広)、織田一門とつながりがあるということは信秀によって大垣に配置された織田播磨守(藤左衛門家)の一門だったりしたのでしょうか。>

メモ
<1568年織田信長再編 西美濃三人衆の軍団>(地域的まとまり重視?)
柴田勝家の軍団
(稲葉一鉄軍団)
与力 国枝三河守(重光カ)・重元、堀池半之丞。
    牧村利貞、那波直治、(斉藤利三)。
(氏家卜全軍団)
与力 飯沼長継、西尾光教、宮川但馬守、種田正元、(一柳直次?)。
  西堀・河村・桑原。
(安藤守就軍団)
与力 高木貞久、今枝重直、松野一忠。

2016年10月02日