京極(佐々木)家根本被官(国人領主)→浅井・今井・河毛・今村・赤尾・堀・安養寺・三田村・弓削・小野・河瀬・二階堂の12氏族。基本文献「江北記」
京極政経の家臣団
<「応仁の乱」東軍(細川方)>
⇔▽京極政経 (1453~1508)(佐々木)・六郎・大膳大夫・政高。飛騨守護家。持清の息。兄弟に勝秀、持光(政光)。1467年家宰の多賀(京極)高忠が東軍総大将(京都司令官)として軍功。西軍の六角高頼と抗争。1471年出雲守護に就任。1475年出雲衆を率いて近江入り。1476年出雲豪族・松田(備前守)氏の反乱を鎮圧。1484年尼子清定の月山富田城を奪い追放。1487年今井秀遠が高清を擁立。1488年京極高清に敗北。幕府の加勢を得て1490年高清を越前に追う。1499年上坂家信により政高(政経)は出雲に追われる。出雲・隠岐守護兼任。1507年東軍盟主・細川政元暗殺事件「永正の錯乱」。息に材宗。孫に吉童子丸。<東軍として、西軍の甥・高清と抗争する運命にあるようです。>
尼子(佐々木)家全盛期の勢力図。尼子家の家臣団
<出雲・隠岐守護>
京極材宗 (*~1505)吉童子丸・治部少輔・経秀。室町幕府の侍所頭人。京極政経(政高)の息。六角高頼の娘婿。足利義材(義稙)の一字を与えられる。1493年「明応の政変」に呼応し挙兵。1501年浅井直種に擁立され京極高清、上坂家信を攻撃するも敗戦。1505年高清と和議を結ぶが殺害される。息に高吉。
▽浅井直種 (*)蔵人・蔵人丞・備後守・直稙・広政。京極氏家臣。忠政の弟。1496年美濃の内紛「船田合戦」に斎藤妙純に加勢。1501年京極材宗を擁し、京極高清、上坂家信と抗争。1505年に和議。息に政種、勝政(亮政)、井演。甥に直政。
<「応仁の乱」西軍(山名方) 高清 VS 材宗>
京極高清 (1460~1538)佐々木・飛騨守・秀綱・高秀。京極勝秀の息(弟とも)。叔父・京極政経(政高)の養子。義兄弟に材宗。斎藤利国(妙純)の娘婿。1467年「応仁の乱」に六角政堯と結び東軍。家宰の多賀高忠に補佐される。1468年父の死により叔父の持光(政光)と政高(政経)の家督争いが勃発。のち叔父の政高(政経)と抗争。1472年斎藤妙椿の後援で勝利。京極政高(政経)、守護代・多賀高忠を追放。多賀昌宗、清直親子が後援し多賀高忠と抗争。1475年出雲衆の上洛に敗北。京極政高(政経)、守護代・多賀高忠、多賀経家の支配。1486年多賀宗直に追放される。1488年今井秀遠の後援で復権するも、90年に敗北。1494年越前の朝倉貞景とともに土岐家の内紛に介入。土岐政房を擁立する斎藤利国を後援。土岐元頼を擁立する石丸利光、六角高頼と抗争。1499年上坂家信に擁立され家督。1505年従兄弟・京極材宗と偽の同盟「日光寺の和議」を結ぶが、暗殺。美濃の斎藤利国(妙純)と同盟。1507年東軍盟主・細川政元暗殺事件「永正の錯乱」。息に高延(高広)、高峯、景重、実高、養子に高吉(高慶)。上平寺城主。
次男の高慶を寵愛し、長男・高延と次男・高慶の家督相続争いを引き起こす。執事の上坂信光は高慶を後援。
<京都所司代>
▲多賀高忠 (*~1486)(佐々木)・豊後守・(京極高忠)。坂田郡の多賀氏・豊後守家。京都所司代。京極高数の息(次男)。京極持清の守護代。1467年「応仁の乱」に東軍総大将として活躍。京極政光、飛騨守護代・多賀出雲(清直)、若宮氏が六角高頼と通じ離反。1472年西軍の斎藤妙椿の後詰により敗北。京極政経(政高)とともに越前落ち。1475年京極政経(政高)を擁し出雲衆を率いて近江入り。息に高家。孫に高房。下之郷城主。「<坂田郡の多賀氏は出雲守家。>
<出雲衆から尼子家が台頭。>
出雲衆→尼子経久の家臣団を参照ください。
<飛騨守護代>
多賀宗直 (*~1487)出雲守。飛騨守護代家。多賀清直の息。京極高清の守護代。京極政経と抗争。1475年六角高頼の後援で父・清直とともに高忠に破れる。1486年京極高清を追放し京極政経を擁立。1487年高清を後援する今井秀遠に討たれる。月ケ瀬城主。
▽堀 氏政 (*~1487)菅原流堀氏。坂田郡の豪族。多賀宗直の与力。1472年堀次郎左衛門は今井秀遠に敗死。1487年今井秀遠に敗北。鎌刃城主。
▽赤尾* (*~1487)多賀宗直の与力。箱根氏とともに今井秀遠に「国友河原の合戦」に敗北し戦死。<浅井氏と縁戚関係を結ぶ。>
<近江守護代> 87年、90年、99年と目まぐるしくクーデターが。
▽今井秀遠 (*)藤原秀郷流。1486年多賀宗直が主・京極高清を追放。京極政高(政経)が当主となる。1487年京極高清を擁立し、多賀宗直を追放。<赤尾・堀を撃つ。1487年頃といえば、尼子家の独立と連動しているような・・。>
多賀経家 (*)京極政経(政高)の守護代。1488年京極高清に敗北。1490年高清を越前に追う。1499年上坂家信により政経は出雲に追われる。
<近江守護>
⇔山内就綱 〈1493-〉六角・小三郎。六角家の軍奉行。幕府方に与力し、守護職を与えられる。<「半将軍」細川政元の直臣となるか。>
<京極家家臣団(反・材宗派)> 坂田郡の豪族、上坂田を支配する上坂氏。下坂田を支配する下坂氏。「京極の両坂」
▽上坂家信 (*~1521)(梶原・上坂田)・治部丞・泰貞。1499年京極政経(政高)・材宗親子を追い、高清を守護に擁立する。京極家守護代。京極高清・高延(高広)を擁立し専横。1507年東軍盟主・政元暗殺事件「永正の錯乱」。息に信光。今浜城主。<ある意味、京極家を支えた名将。1505~1521年は家信が執事で健在。京極高清の安定期。>
▽上坂貞信 (*)信濃守。上坂一門衆。伊賀守・景信の息。意信の弟。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。上坂城主。
▽上坂意信 (*)伊賀守・おきのぶ。上坂一門衆。伊賀守・景信の息。貞信の兄。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。息に正信。小谷城主。<孫・知信は井伊家に出仕。>
▽上坂* (*)掃部頭。上坂一門衆。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
<「佐和山城攻め」上坂家信 動員武将人数>
磯野員吉 (*)(梶原・上坂)・伊予守。磯野一門衆。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。佐和山城主。
▽磯野員詮 (*)右衛門大夫。磯野一門衆。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
↓▽磯野為員 (*)源三郎。磯野一門衆。員詮の息。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
井ノ口* (*)井口・宮内少輔・弾正。湖北四家のひとつ。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
(醒ケ井口一手衆)大野木、三田村、阿閉、西野。
大野木秀国 (*)(佐々木)・土佐守。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
三田村定元 (*)左衛門大夫。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
西野家澄 (*)丹波守。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
▽西野氏常 (*)與八郎。西野一門衆。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
阿閉貞義 (*)三河守。山本山城主。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
(米原口一手衆)堀、新庄、野村。
堀 頼貞 (*)能登守。菅原流堀氏。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
野村直定 (*)伯耆守。野村一門衆。国友豪族。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
▽野村定元 (*)肥後守。野村一門衆。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
新庄信家 (*)(今井)・駿河守。朝妻城主。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
(上坂本隊)
安養寺勝光 (*)河内守。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。安養寺城主。
浅見俊孝 (*)対馬守。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。尾上城主。
今井頼弘 (*)肥前守。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。今井城主。<六角氏の影響を受けやすい今井氏。>
浅井教政 (*)新次郎。丁野の豪族。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。<のち赤尾教政か。>
横山家盛 (*)掃部頭。横山一門衆。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。横山城主。
▽横山* (*)肥後守。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
千田有義* (*)伯耆守。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
▽千田* (*)帯刀。千田一門衆。有義の息。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
東野行成 (*)左馬助。湖北の豪族。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
熊谷* (*)弥次郎。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
▽熊谷* (*)新次郎。熊谷一門衆。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
伊部為利* (*)清兵衛尉。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
大橋秀元* (*)善次郎。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。のち磯野員昌に代わり磯野山城主。久政野代に讒言により排斥される。<大橋の排斥は久政失政のひとつとも。>
野一色* (*)河内守。大原氏分流。坂田郡豪族。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。<後裔の野一色助義は中村一氏の家老職。>
片桐* (*)京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。<後裔は片桐且元へ。>
富田* (*)京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。<後裔は富田一白へ。>
尾山* (*)彦右衛門。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
田部* (*)助七。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
木村* (*)京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。<後裔は木村重成へと?。>
(海赤雨の三家)
海北* (*)助左衛門。海北一門衆。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
▽海北* (*)同善右衛門。海北一門衆。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
雨森* (*)主計。雨森一門衆。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
▽雨森* (*)弥兵衛。雨森一門衆。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
赤尾* (*)與四郎。赤尾一門衆。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
▽赤尾* (*)筑後守。赤尾一門衆。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
▽赤尾* (*)孫三郎。赤尾一門衆。京極高清家臣。上坂家信に従い出陣、六角定頼と抗争。
(近江国人)
浅井忠政 (*)京極家臣。浅井家嫡流。重政の息。弟に直種。息に直政、(三田村)定政、清政。
浅井直政 (*~1540)井三郎・清三郎・備前守。浅井家嫡流。京極高清家臣。忠政の息。兄弟に定政、清政。息に政信、(赤尾)教政。娘婿に浅井亮政(叔父・直種の息)。跡職は養子・亮政が継承する。<浅井政信の息に政澄。>
▽浅井直種 (*)蔵人丞・備後守・直植・広政。浅井家庶流。兄に忠政。京極高清家臣。1496年美濃の「船田合戦」に斎藤妙純の後詰として遠征。石丸方と戦う。1501年「京極氏の内訌」に材村方。京極高清・上坂家信と抗争。1505年高清と材宗和睦。息に政種、亮政、井演、(政信)。
↑磯野為員 (*)源三郎。磯野嫡流。一門の宮沢家の離反により、浅井亮政に敗北。磯野山城主。
宮沢* (*)忠左衛門。磯野一門衆。親浅井派。為員から離反。息子は佐和山の員吉の養子となる。息に宮沢平八郎。
磯野員吉 (*)上坂・伊予守。京極高清家臣。六角氏綱との鳥居本合戦に従軍。養子に(宮沢)員宗。<浅見氏に与力して浅井家と抗争したとも。>
井口* (*)宮内。京極高清家臣。六角氏綱との鳥居本合戦に従軍。
東野行信 (*~1573)左馬助・周防守。京極高清家臣。余語庄の地頭職。行重の息。六角氏綱との鳥居本合戦に従軍。弟に(平野)行定、行春、(布施)行親、土肥行祐。息に政行。
赤尾* (*)新次郎。赤尾氏の婿・浅井庶流の賢政の息・教政を養子に迎える。
<京極守護家一族>
京極高広 (*)佐々木・高延・高峯。京極高清の息。養子の高吉(高慶)と家督を争う。浅見貞則・浅井亮政・今井・堀・三田村に擁立され家督。のち浅見貞則と浅井亮政の抗争により追放される。1525年亮政が六角貞頼に追われる。1528年浅井亮政に擁され、弟・高吉を擁立する上坂信光と抗争。1534年浅井亮政と和解。小谷城に迎えられる。
京極高吉 (1508~1581)佐々木・長門守・中務少輔・高慶・高佳。京極材宗の息。京極高清の養子。浅井久政の娘婿。武田元明は娘婿。1505年父が従兄弟・高清と同盟。1523年浅見貞則、浅井亮政ら国人に擁立された高延の反乱により、父と上坂信光とともに美濃に脱出。1528年上坂信光とともに京極高広(高延)と抗争。六角氏の後援で京極高広・浅井亮政と抗争。1560年六角氏に擁立され江北に進軍するが浅井長政に敗北。
<北近江守護代> 1524年まで
▽上坂信光 (*)京極家家老職。京極高清の臣。上坂家信の息。1521年父の死により家督。下坂秀隆とともに京極高吉(高慶)を擁立。1524年国人一揆(浅見貞則が首領)に敗北し、高清・高吉とともに尾張に落ちる。1528年高慶を擁して、京極高延と浅井亮政に挑む。
⇔▼蒲生郷可 (*~1598)上坂・左文。兵庫助の養子。浅井家臣。のち柴田家臣。のち蒲生家家臣。
⇔▼蒲生郷治 (*)上坂・源之丞。兵庫助の養子。浅井家臣。郷可の弟。のち柴田家臣。のち蒲生家家臣。
多賀貞隆 (*)豊後守・貞澄。高房の息。1535年浅井亮政と抗争。息に貞能(養子に堀秀種)。<古代豪族の末裔だと考えられる多賀氏。多賀神社の勢力を背景に力を維持していたのでしょう。>
↑(挿表)応仁の乱、諸大名の動向
<1521年国人同盟の反乱蜂起>
京極家家老 同盟一揆。(浅見・浅井・三田村・堀・今井)
浅見貞則 (*)対馬守。浅井郡の豪族。反・上坂家信の盟主。1521年京極高清の守護代・上坂家信と信光親子の専横に叛乱する。京極高広(高延)を擁立し江北に君臨するが、1525年頃配下の浅井亮政に叛乱される。息に紀伊守、対馬守。尾上城主。<息の対馬守はのちに柴田勝家の与力。><磯野氏が浅見氏の与党となり、浅井と抗争したとも。>
三田村忠政 (*)(浅井)・又四郎。浅井郡の土豪。本家の三田村定頼が幼少の為に後見。1521年京極高清(高秀)の守護代・上坂家信と信光親子の専横に叛乱する。京極高広(高延)を擁立。浅見氏の専横に浅井亮政を盟主に反抗。1525年六角定頼の「小谷城攻囲」に防戦し軍功。<息は貞政か。>
今井* (*)越前守・(秀俊?)。坂田郡新庄の領主。1521年京極高清(高秀)の守護代・上坂家信と信光親子の専横に叛乱する。京極高広(高延)を擁立。浅見氏の専横に浅井亮政を盟主に反抗。箕浦城主。<秀俊→定清(*~1561)。>
堀 元積 (*)次郎左衛門・能登守。坂田郡の豪族(10万石を領するとも)。1521年京極高清(高秀)の守護代・上坂家信と信光親子の専横に叛乱する。京極高広(高延)を擁立。浅見氏の専横に浅井亮政を盟主に反抗。鎌刃城主。地頭山城主。家老に樋口直房。息に堀秀村。<1472年今井秀遠に先祖の次郎左衛門は敗北している。羽柴秀吉、江北三郡12万石に対して、その領内の10万石???>
磯野員宗 (*)宮沢。磯野員吉の養子。宮沢忠左衛門の息。
▽小堀正房 (*)磯野家家臣。員宗に出仕。息に正次。坂田郡小堀城主。
(高島七頭) 惣領家・佐々木越中守後裔、高島家。
高島高賢 (*~1565*)佐々木・越中守・大蔵大輔。幕府奉公衆。高島七頭の惣領。1565年浅井領に侵攻するが敗北する。跡職は朽木元綱が継承する。1568年浅井と和睦し、1570年織田軍の侵攻により没落とも。<高島(佐々木)高信の後裔。>
横山* (*)(佐々木)。舟木城主。高島七頭のひとつ。
平井頼氏 (*~1565*)能登氏。高島七頭のひとつ。1552年能登殿、六角定頼の太尾山城攻めに参陣。1565年浅井領に侵攻するが敗北する。
朽木晴綱 (*~1565*)六角家家臣。高島七頭のひとつ。息に元綱。1565年浅井領に侵攻するが敗北する。
永田秀宗 (*~1565*1573)高島七頭のひとつ。1552年永田伊豆守、六角定頼の太尾山城攻めに参陣。1565年浅井領に侵攻するが敗北する。1570年「志賀の陣」に朝倉勢に加勢。1573年織田軍の侵攻により敗北。
横山* (*)高島七頭のひとつ。<湖東の横山城主の高長とは同族か?>
田中重政 (*~1565*)六角家家臣。高島七頭のひとつ。1565年浅井領に侵攻するが敗北する。<羽柴秀次の家老・田中吉政の父は重政。>
山崎* (*~1565*)兵庫頭。高島七頭のひとつ。1565年浅井領に侵攻するが敗北する。
吉武* (*~1565*)壱岐守。1565年高島七頭に従い浅井領に侵攻するが敗北する。
田屋* (*~1565*)淡路守。海津衆(饗庭・新保・田屋)のひとつ。1565年高島七頭に従い浅井領に侵攻するが敗北する。<浅井家の一門になることもあった。>
植田* (*~1565*)甚之丞。1565年高島七頭軍に参加し浅井長政と抗争。のち長政に敗れ逃亡。
≪個人的感想≫ 朽木谷の朽木氏のみは将軍家を加護した功績があるため罪を免れた様子。1565年の騒乱で伊勢や尾張、そして美濃に逃げ込んだ湖西衆がいるかもしれませんね。
『浅井家三代』 東軍方・浅井直種の系譜
▲浅井亮政 (*1491~1542)新三郎・備前守・勝政。浅井郡の豪族。浅井直種の息(直政の養子とも)、本家の浅井直政の婿養子となる。母は赤尾教政の娘とも。室に浅井直政の娘。側室に尼子氏。1521年京極高清の守護代・上坂家信と信光親子の専横に叛乱する。1523年主君京極高清(高秀)・高広(高峯)を追放する。1525年朝倉家と結んで六角定頼と争う。1531~38年にかけて六角定頼と戦い敗れたこともあるが、のちに手を結び北近江を掌握。1534年頃京極高広と和解。小谷城に迎え、江北三郡を実質的に支配する。1538年太尾山合戦。1542年に死去。田屋明政を一時養子に迎える。息に久政、高政、秀政、(政弘)。娘婿に三田村定頼、浅井忠種、六角宗能、斎藤義龍、田屋明政、井口経慶。
↑赤尾教政 (*~1518)(浅井教政)・駿河守・新二郎。浅井家庶流の賢政の息。母方の赤尾新次郎の養子。1518年箕浦表で戦死。<兄弟に亮政とも。>
<細川高国を支持する六角高頼・定頼にどのように立ち回ったが台頭したポイントと言えるのではないでしょうか。1531年細川晴元の政治となってからは、管領・細川派か、執事・三好派かで、浅井家の運命が分かれたのではないのでしょうか。>
<浅井家の当主> 1542年親六角路線、1560年親朝倉路線。
△浅井久政 (1526~1573)(尼子)・猿夜叉丸・新九郎・左兵衛尉・下野守。亮政の側室・尼子氏の息(井口経元の娘とも)。1542年家督を相続する。妹(近江ノ方:養女とする)婿に斎藤義龍。亮政の死後、京極高慶(高延)・高吉兄弟が和解し浅井家に敵対。1544年六角家に降る。1545長政誕生、室ともに六角家の人質。1549年六角義賢と「大溝合戦」。1552年菖蒲ヶ岳城の合戦。1553年地頭山合戦、今井定清と抗争。六角義賢に属す。美濃国守護、斎藤義龍は娘婿、斎藤龍興は孫。1559・60年に家老の赤尾清綱、遠藤直経、丁野若狭守、百々内蔵助に擁立された息子・長政に家督を譲り隠居。1570年長政は織田家に反抗し「小谷城籠城」。1573年落城の際に自害。息に長政、政元、政之。小谷城主。<親六角派。><田屋明政との家督相続争いがあったとも。尾張の浅井氏や駿河の浅井氏に関連するか?>
⇔↓田屋明政 (*)新三郎・石見守・浅井明政。浅井一門。高島郡海津湊の豪族。浅井清政の息。秀信、貞政、惟安の兄弟。浅井亮政の娘(鶴千代)婿。浅井久政が誕生するまで養子となる。久政誕生後、田屋氏に戻る。婿養子に(田尾)政高。梅津城主。<相続争いに敗れたとも言われているので、出奔し尾張の浅井家、駿河の浅井家に分かれて行く系統なのかもしれません>
⇔浅井長政 (1545~1573)猿夜叉・新九郎・賢政・備前守。久政の息。弟に政元、政之。近江北半の戦国大名。1545年母人質先の観音寺城に生まれる。六角重臣・平井(朽木佐々木庶流)定武の娘婿となるが離縁。1559年16歳で父に隠居を迫り、家督を相続する。南近江の六角氏勢力に対抗する。1560年「野良田の合戦」に六角氏を破る。1561年佐和山の合戦。太尾山合戦。1563年六角義治が観音寺騒動を起こし六角勢力減退。太尾山城の吉田安芸守を攻める。今井定清が磯野員昌により討たれる。愛知郡・犬上郡に勢力を伸ばす。朽木氏を従える。1566年南下し「蒲生野の合戦」に六角義治を撃破。<美濃斎藤領に出兵するとも>。1568年足利義昭の上洛軍に従う。織田信長の妹婿(お市・小谷の方)になるが1570年に敵対関係。1570(元亀元)年「姉川の合戦」に敗北。1573年朝倉家滅亡の後、織田軍の総攻撃を受け自害。浅井日向守が介錯。息に万福丸、井頼。<親朝倉派???。><1560年「野良田合戦」に朝倉式部大輔が後詰。五百兵というが、五千兵で浅井家の六千と合わせて一万一千兵だったのでは・・?。>
▽浅井政元 (1548~1573)玄蕃頭(允?)。浅井久政の息(2男)。長政の弟。内政面で長政を補佐していたとも。<姉川に活躍する玄蕃允(頭)は政澄(高信)、長政参謀の玄蕃頭(允)は政元として、別人か。>
▽浅井政之 (*~1570)石見守。浅井久政の息(3男)。長政の弟。
▽浅井治政 (*)(木村・大文字屋)・新十郎。木村茂左衛門の養子。前田利家に保護される。朝倉家旧臣・上木新兵衛の娘婿。
<1568年の上洛に従軍し宿敵六角家を倒すも、近江守護という役職や、領土を得られなかった事に不満を覚えるか。戦国大名としての道が閉ざされたと感じたのでは。近江統一という路線よりも、若狭国、越前国を喰らい尽くすくらいの目標を持っていたほうが、徳川家のように上手く織田家と付き合えたかもしれません。琵琶湖が好きだったのかなあ。>
<ふと思ったのですが、通説では、六角家の支配から独立するために1560年以前に平井定武の娘と離縁し、賢の字をかなぐり捨てて「長政」と名乗ったとか。もしくは、1568年の足利義昭の上洛に備えて同盟を結ぶために「お市」と婚姻し織田信長の「長」の字を与えられたとか。この8年間の差と「長政」の名乗りの時間差、おかしくないですか?。 六角義賢からの独立を意識したのであれば、六角氏と敵対している畿内の三好長慶政権との同盟を意識しての「長」の字なのではないのでしょうか。信長ではなく三好範長(長慶)からの一字拝領なのでは。1560年伊勢で三好の松山・松永軍が乱入してくると噂になったのは、浅井と織田の台頭の影響があったのでは?。>
清水谷・小谷(大嶽)城イメージ図
小谷山の全山と、北を流れる山田川、南を流れる田川に囲まれて、惣構えの構造が完成しているように思えます。小田原城以前に、攻略に何年もかかる難攻不落の山城が存在していたということでは。そして、信長の安土城建設の構想に、小谷城は大きな影響を与えている様に思えますが、如何でしょうか?。
古来、北陸地方に小谷城のような谷を囲む、集落囲い形山城の伝統的・形態的な纏まりがあり、佐和山城や、小谷城、飛騨の帰雲城や、能登の末森城といったところが(美濃の岐阜城[稲葉山城]も、道三時代は尾根が居館を囲む形に属すか)、このような形態で、それを超大型化したものが越前の一乗谷城なのかもしれません(平成31年3月の考え)。だとすれば帰雲城は元々が谷地形の谷底を掘り返すつもりでやれば、居館周辺から埋蔵金がでるかもしれませんね。
(挿図)近江佐和山城(惟住長秀 居城)イメージ図
尾根を曲輪として囲んだ谷を屋敷地、前面に堀・土塁、そして街道を見下ろす立地。小谷城・佐和山城ともに共通点があると考えます。城内を街道が通るのは加藤清正の熊本城にも継承されているように思えます。
観音寺城や、遠いところでは蝦夷地の松前城(移転前)も構造が似ていると思います。近江の築城術を、近江商人が若狭、日本海経由で蝦夷地まで伝えたのでは?
浅井亮政・浅井久政・浅井長政の家臣団
近江北半国<江北三郡・伊香・浅井・坂田郡>の戦国大名(1523~1573)。
1570年「反織田信長」への浅井長政の挙兵の原因は、父・久政の代からの六角氏の影響下から、
戦国大名として自立するため 越前朝倉氏をたより、その後ろ盾で北近江を制圧し、台頭できた恩と、
1568年に新興の織田家とともに将軍を擁立して上洛。上洛を果たしたものの、
「さらに近江を統一したい」という願望に反して、織田家の武将として北近江半国に閉じ込められてしまいそうな経過と、
「畿内に進出したい」という野心から尾張から美濃さらに南近江へと、どんどん進出してくるアウトドア的な信長様よりも、
越前から出てこないインドア的な朝倉義景の方が、御し易いと判断し、朝倉と結んで、織田を倒し、ふたたび「戦国大名」として「のしあがる道」を選んだんじゃないでしょうか。
六角義賢から独立した際の三好家とのパイプ役も、気になるところです。
<浅井家一門衆>
<浅井亮政の一門衆・第一世代> 1500頃生まれ。
1525年実質支配(親朝倉路線)。
浅井政信 (*~1557)大和守・新介。浅井亮政の家臣。亮政・久政の奏者。1546年海津の合戦に先陣。久政を後見。息に玄蕃允高信(政澄)。<山城守とも関連ありか?>
(直種系)
浅井政種 (*)備後守。浅井直種の息。亮政の実兄。浅井家家臣。
浅井井演 (*)越中守・いひろ。浅井直種の息。亮政の兄弟。浅井家家臣。1561年から天文年間、小谷城の対の城、横山城の守備を野村定但と勤める。浅井井伴の父。
(清政系)
浅井秀信 (*~1544*1545)新三郎・五郎兵衛・惟政。浅井清政の息。浅井亮政の側近・奏者。本願寺との取次。久政にも重用される。息に浅井親政(亮親)。
浅井貞政 (*)忠兵衛。浅井家一門家臣。浅井清政の息。秀信の兄弟。用水奉行。1537年に出家。息に盛政。
⇔↑田屋明政 (*)新三郎・石見守・浅井明政。浅井一門。高島郡海津湊の豪族。浅井清政の息。秀信、貞政、惟安の兄弟。浅井亮政の娘(鶴千代)婿。浅井久政が誕生するまで養子となる。久政誕生後、田屋氏に戻る。婿養子に(田尾)政高。梅津城主。<相続争いに敗れたとも言われているので、出奔し尾張の浅井家、駿河の浅井家に分かれて行く系統なのかもしれません>
▽海津政元 (*)田屋氏一門。浅井家家臣。海津湊の代官。海津西内城主。<長政弟の政元と名が同じなのも気になります。田屋氏との関係は回復していたのでしょうか?。>
↓▽田屋政高 (1560~1615)田尾・浅井。浅井家家臣。田屋明政の養子。田尾氏からの養子。息に直政。
浅井惟安 (*~1573)福寿庵。浅井家家臣。浅井清政の息。秀信、貞政、明政の兄弟。浅井久政の側近。小谷城福寿丸曲輪を守備。久政を介錯し自決。
(浅井久政の外戚・準一門)
井口経元 (*~1531)(富永)・越前守・筑前守・弾正忠。浅井家外戚、のち家臣。伊香郡の豪族。直経の息。兄弟に経尚、信経。叔父に経高。高時川の水利を支配。近江富永荘の領主「井頼り」職。1531年「箕浦の合戦」に従軍。浅井亮政の影武者となり戦死。息に経親、経貞。娘(阿古)婿に浅井久政、月ヶ瀬播磨守、阿閉貞征。井口城主。<織田の瀧川一益は大伴系の富永氏(近江富永荘)の子孫という説もあります。水利を司り井口という姓。>
↑赤尾教政 (*~1518)(浅井教政)・駿河守・新二郎。浅井家庶流の賢政の息。母方の赤尾新次郎の養子。1518年箕浦表で戦死。<兄弟に亮政とも。>
<浅井久政の一門衆・第ニ世代> 1520頃生まれ。
1542年家督相続(親六角路線)。
(亮政系)
浅井政弘 (*~*)新四郎。浅井亮政の息、久政の弟。天文初年頃、早世する。
浅井長頼 (*~1567)宮内丞。浅井家家臣。<浅井亮政の三男カ?。>
浅井* (*)山城守。亮政の弟とも。浅井家家臣。小谷城内に屋敷を構える。一門の最長老となるか。<亮政の息のようです。>
(直種系)
浅井井伴 (*~1573)弥太郎・木工助・井量。浅井家家臣。浅井井演の息。1542~1571年にかけて菅浦港の代官を務める。息に井規。
浅井政澄 (*~1573)玄蕃允(頭?)・高信。浅井家家臣。政信の息、もしくは浅井井演の息か。小谷城の玄蕃嶽を守備する。1570年「姉川の合戦」に第2陣を務める。織田家赤幌衆の浅井新八郎政澄とは別人。息に政重(新太郎)。
(清政系)
浅井忠種 (*)又次郎。浅井政種の息、浅井亮政の娘婿。浅井氏の宿老。
浅井亮頼 (*)新兵衛。丹波守の息。浅井家家臣。奉行職。用水争論を仲裁。1558年竹生島の祭礼を担当。
浅井忠政 (*)忠兵衛。浅井家家臣。<浅井貞政の息カ?。>
浅井* (*~1570)雅楽助。浅井家家臣。1570年姉川合戦に戦死。
(浅井久政の外戚・準一門)
井口経親 (*)井ノ口・越前守・(備前守?)。浅井家家臣。伊香郡の豪族。弟に経貞。高時川の水利を支配。井口経元の息。浅井久政の義兄弟。1531年父の戦死により家督相続。1570年「姉川の合戦」に500騎で小谷城の留守居。
▽井口経貞 (*)井ノ口。浅井家家臣。伊香郡の豪族。兄に経親。井口経元の息。浅井久政の義兄弟。
⇔阿閉貞征 (*~1582)孫三郎・淡路守・貞秀。浅井家家臣。井口経元の娘と婚姻、浅井久政・井口経親の義兄弟。1570年「姉川の合戦」に第3陣を務める。1572年7月織田軍の総攻撃が開始され、山本山城を秀吉軍に攻撃される。1573年8月織田家に臣従する。長浜城主・秀吉に出仕。近江山本山城主。<阿閉家は古代豪族時代からの近江の名門のようです。>
月ケ瀬* (*)播磨守。浅井家家臣。井口経元の娘婿。浅井久政、阿閉貞征と義兄弟。息に忠清。月ヶ瀬城主。
▽月ヶ瀬忠清 (*~1573)若狭守。浅井家家臣。小谷城と越前とを結ぶ月ヶ瀬城を守備。1573年8月阿閉氏の離反により織田信長の攻撃を受ける落城。月ヶ瀬城主。
丁野* (*)(浅井)・ようの・若狭守。浅井家家臣。1560年六角家との「野良田の合戦」に従軍し軍功。戦後、久政隠居長政擁立に動くという。<浅井家の本貫地は丁野(ようの)。>
三田村定頼 (*~1573)平兵衛。浅井郡の豪族。浅井亮政の娘(松市御前)婿。三田村忠政に後見され三田村家当主。浅井家の公事奉行を勤める。息に光頼。<養子に(大野木)国定とも。>
<浅井長政の一門衆・第三世代> 1540頃生まれ。1560年家督奪取(反六角・親朝倉路線)
↑浅井政元 (1546~1573)玄蕃頭。浅井長政の弟。浅井家家臣。<姉川の合戦に第2陣の旗頭を務めたのはどちらの玄蕃?事績不明瞭です。>
(直種系)
浅井井規 (*~1573)七郎。浅井家家臣。北近江・湖北菅浦代官。浅井井伴の息。1571年木下秀吉の守備する横山城を赤尾・宮部とともに攻撃。1572年11月朝倉義景の南下に連携し、虎御前山と宮部を結ぶ織田軍防衛線を攻撃するが秀吉隊に敗北。小谷落城の際に羽柴秀吉の手引きをするが、織田信長に誅殺される。
(清政系)
浅井亮親 (*~1573*)与次・石見守。浅井長政の側近・奏者。浅井秀信の息。最初、織田家との戦争を回避しようと努力するという。小谷落城の際、赤尾清綱とともに長政切腹の時間を稼ぎ奮闘する。捕縛され信長御前で、信長を罵倒し討たれる。息に吉政。<1571年姉川で戦死説もあり。>
▽浅井吉政 (*~1583)吉兵衛。亮親の息。浅井家家臣。1583年賤ケ岳に参陣。山路正国とともに討たれる。
(浅井家の外戚)
↑浅井政高 (1560~1615)田尾・田屋・茂右衛門・茂左衛門。浅井家家臣。海津湊の海津城主・田屋明政の娘婿。羽柴秀吉の臣。
⇔▽阿閉貞大 (*~1582)孫五郎。浅井家家臣。淡路守・貞征の息。伊香郡西阿閉の豪族。井口経親の娘と婚姻。浅井長政の従兄弟。1570年「姉川の合戦」に第三陣。1573年8月速水城の降伏により浅井家を離反。織田家に臣従する。長浜城主・秀吉に出仕。摂津天王寺在番。のち織田信長の馬廻衆に抜擢される。1582年「本能寺」変後に明智に与力。山本山城主。
▽渡辺* (*)速水・周防守。阿閉家侍大将。1573年速水城主。阿閉家から離反し木下(羽柴)軍に降る。<渡辺周防守・任の父、渡辺孝か?。任は1573年小谷城で戦死。>
大野木茂俊 (*)土佐守・秀俊。浅井家家臣。堀氏とともに美濃国境近くの豪族。1560年六角家との「野良田の合戦」に従軍し軍功。横山城を三田村国定・野村直隆とともに守備する。1570年「姉川の合戦」後に降服。<塙直政の一族である尾張の大野木氏との関連が気になります。>
三田村国定 (*~1573)(浅井・今井)・左衛門尉・左衛門大夫。浅井郡の土豪。今井定清の娘婿。浅井家家臣。1569年二条御所の造営に参加。織田重臣、佐久間・柴田と戦死者役800名の乱闘を起す。横山城を大野木茂俊・野村直隆とともに守備する。1570年「姉川の合戦」後は小谷城を守備。織田家に降服するが誅殺される。<大野木氏から三田村家への養子とも。>
<浅井家譜代家老衆> 1560年「野良田合戦」で六角家の支配を払拭。
脇坂秀勝 (*~1573)左介。浅井長政の側近。「北の脇坂」と呼ばれる。
脇坂安明 (*~1568)外介。浅井長政の側近。「南の脇坂」と呼ばれる。上洛する織田軍の先陣を勤め、観音寺城攻略戦に討死。羽柴秀吉の「賤ケ岳の七本槍」で有名な脇坂安治は長男。
⇔磯野員昌 (*1523~1578*1590)(上坂・宮沢)・丹波守・秀昌。浅井家家臣。伊香郡磯野城の土豪、磯野員吉(員宗とも)の息。叔父に員清。1560年六角家との「野良田の合戦」に従軍し軍功。1561年「太尾の合戦」に坂田郡の領主・今井定清を味方討ちしてしまう。1561年前線の犬上郡佐和山城主となり六角家に備える。1570年「姉川の合戦」に第1陣を務める。佐和山城に孤立し織田家に臣従する。のち高島郡新庄城主。織田信澄を養子とする。のちに1578年に出奔。娘婿に小堀政次、津田信澄。養子に員次。息に行信、政長。<イメージ的には上杉家の柿崎や、織田家の柴田、武田家の甘利のような猛将の属性です。>
▽小堀正次 (1540~1604)新助。浅井家家臣。正房の息。磯野員昌の娘婿。息に政一、正行。
⇔▽速水守久 (*~1615)勝太・時之・種久・種之・甲斐守。浅井長政旧臣。元・磯野員昌与力。近江長浜時代に秀吉に出仕、近習頭。1570年一柳勘左とともに木下勢鉄砲隊隊長。1571年阿閉攻略に軍功。
▽↓多胡* (*)田子。惣右衛門。浅井家家臣。高島郡の土豪。織田家に臣従する。磯野員昌与力。
▽戸田* (*)豊後守。浅井家家臣。出丸の南に屋敷を持つ。<文吾町という地名を残すか?><羽柴家家臣の戸田氏に繋がるか。>
⇔新庄直頼 (1535~1612)新三郎・駿河守。浅井家家臣。琵琶湖の要所、朝妻湊の領主。坂田郡朝妻の土豪、新庄直昌の息。1549年に父が戦死し家督。1570年「姉川の合戦」に第4陣を務める。1573年六角残党とともに西近江・新庄城籠城。浅井滅亡直前に織田家に臣従する。木下秀吉の与力。朝雲城主。<1560年初期頃は六角氏方か?><同じ坂田郡の今井家との関係がきになるところです。><湖東、坂田郡側の領主。朝妻湊を管理する豪族。>
▽新庄直忠 (1542~1620)刑部左衛門・東玉斎。浅井家家臣。新庄直昌の息。高島郡の豪族。直頼の弟。新庄城主。<1560年初期頃は六角氏方か?><湖西、高島郡側の領主>
新庄俊長 (*~1573)法泉坊。元比叡山の僧侶。宮部継潤と同門。浅井家家臣。高島郡の土豪。伊黒城主。織田家に臣従し浅井長政に討たれる。
遠藤直経 (*1531~1570)吉右衛門・喜右衛門・直継。浅井家譜代家臣。六角家との抗争に先陣大将。1559・60年に浅井賢政を擁立して当主・久政を引退させる。1568年信長接待役。武功の侍大将。大依山砦の将。「姉川の合戦」に信長本陣に突入する。
↓▽田辺* (*)(田那部?)・式部丞。遠藤主膳の娘婿。元・今井家家臣。太尾城奪還戦に今井定清戦死。遠藤直経に出仕。坂田郡長沢城主。<堀氏そして遠藤家に出仕するか?もしくは親子で同名を引き継ぐものか?。>
▽富田* (*~1570)才八。遠藤家郎党。遠藤直経の本陣突入に従う。
塩津* (*)和泉守。大依山砦を遠藤直経と共に守備。
雨森* (*)弥兵衛・(清貞?)。伊香郡雨森の豪族。浅井家家臣。赤尾・海北と並ぶ宿老。伊香郡富永荘の領主。1554年浅井久政の奏者。<安土のHPに清貞とあるので、名は清貞で確定なのでしょうか・・。>
▽雨森清良 (*)次右衛門。浅井家家臣。1570年「姉川の合戦」に軍功。
▽雨森清次 (*)勘六・藤六。浅井家家臣。兄・清良の戦死により家督。浅井家滅亡後、阿閉氏家臣。
海北綱親 (*1510~1573)善右衛門。雨森・赤尾と並ぶ宿老。浅井家の武者奉行。秀吉と対陣しつづけ、秀吉に「わが軍法の師」と言わしめた。
垣見* (*~1573)助左衛門。浅井家家臣。小谷城に籠城し浅井家に忠節。
野村* (*~1573)兵庫。浅井家家臣。1570年横山城を大野木・三田村とともに守備する。
⇔野村直隆 (*~1600)藤左衛門・肥後守・肥後入道。嶋秀親・樋口直房とは義兄弟。浅井氏旧臣、近江国友鉄砲村の支配者。1570年野村兵庫とともに横山城に入城。1571年国友城にて宮部継潤の来襲を退ける。浅井氏滅亡後は織田家に臣従。鉄砲頭。2万石。<羽柴秀吉の長浜支配が、堀秀政に譲り渡された時点で信長の直参になったのか。それとも最初から信長様の直轄地代官だったのでしょうか、謎です。>
野村* (*)孫太郎。浅井家家臣。織田家に臣従し秀吉与力。
中島直頼 (*)宗左衛門・日向守。浅井家家臣。横山城主。1568年信長接待役。1570年「姉川の合戦」に小谷城留守居役。太尾山城主。1571年対の城・佐和山落城を知り太尾山城より退去、小谷城に合流する。<元々は丁野の支城・中嶋城主か。><横山氏滅亡後の横山城主か?。>
▽中島直親 (*~1573)宗左衛門。浅井家家臣。中島直頼の息。丁野城の支城・中嶋城を守備するが、織田軍に攻撃され落城。<中嶋惣左衛門は近江一向一揆を率い武田信玄の上洛を即す。同一人物?>
⇔高宮* (*~1571)右京亮。犬上郡高宮の豪族。元・浅井家家臣。織田家に臣従する。のち丹羽長秀の与力。1570年9月摂津「野田・福島の合戦」に川口砦に在番。丹羽長秀与力。離反し本願寺に駆け込む。近江にて久徳左近に誅殺された。<1570年「姉川の合戦」に浅井方・高宮三河守あり。><朝妻の四木合戦登場の北近江の若宮氏と、元六角家臣の南近江の高宮氏。>
渡辺 任 (*~1573)周防守。浅井家家臣。孝の息。東浅井郡高田の豪族。母は今井氏。1570年「姉川の合戦」に軍功。1573年小谷城に籠城し戦死。
渡辺 統 (*~1599)甚助。浅井家家臣。任の弟。六角家との国境近くの豪族。
渡辺 * (*)半左衛門。浅井家旧臣。のち丹羽長秀家臣。1583年「賤ケ岳の合戦」に従軍。安養寺とともに湖北を水軍にて守備。<阿閉氏の与力にも渡辺氏あり。>
⇔宮部継潤 (1528~1599)孫八・善祥房。浅井郡宮部の土豪。坂田郡醒ヶ井の土豪、宮部(土肥)刑部少輔・真舜の息。出家して比叡山の僧侶となるが、宮部清潤の養子となる。浅井家家臣。宮部城主。1571年木下秀吉の守備する横山城を赤尾・浅井井規とともに攻撃。のち織田家に臣従する。木下秀吉の与力。1571年2月兵300を率いて野村兵庫助の国友城を攻撃し負傷する。1572年小谷城攻囲の宮部砦守将に抜擢される。1582年因幡鳥取城主。一時、羽柴秀次を養子とする。8万1千石。
⇔▽田中吉政 (1548~1609)久兵衛・筑後守。宮部継潤の家老。のち羽柴秀勝、秀次の家老、36万石。<高島郡の田中氏か?。><三好秀次が一時、宮部継潤の養子となることから、宮部の与力だった家臣達を自然に継承したかもしれない。>
横山高長 (*)佐々木・下野守・佐渡守。浅井家家臣。1570年に「姉川の合戦」後に横山城、1572年武曾城を織田家に攻略され降伏。武曾城、横山城主。
百々* (*~1560*)(佐々木)・内蔵助。浅井家家臣。佐和山近くの豪族。1560年六角家との「野良田の合戦」に従軍し軍功。<のちに丹羽長秀が百々館に入って、磯野員昌の籠城する佐和山城を攻囲します。>
上坂正信 (*)刑部。浅井家家臣。1560年六角家との「野良田の合戦」に従軍し軍功。<上坂家は京極家家老職の名門。惣領家は政変により追放されたので、一門庶流か?。>
下坂* (*)四郎三郎。浅井長政家臣。1572年長政から所領安堵される。小谷籠城戦に山崎丸を守備し軍功。<先祖は高島越中守家から高島郡の河内源氏系下坂氏に養子入り、坂田郡に移住する。>
下坂* (*)若狭守。浅井家家臣。坂田郡の豪族。織田家に臣従し秀吉の与力。
片桐直貞 (*)孫右衛門・肥後守・直定。小谷城では南の須賀谷守備を担当していた。息に秀吉家臣となる且元。
千田* (*)采女正。湖北の豪族。浅井家家臣。1570年西野と共に小谷城在番。小谷城で久政自害の時を稼ぐ。千田城主。
東野政行 (*~1573)左馬進。湖北の豪族。浅井久政側近。小谷城で久政自害の時を稼ぐ。息に秀行、行清、行昌。東野山城。<余語庄の地頭、左馬助行春の息か。>
▽東野秀行 (*)左馬進。浅井家家臣。政行の息。弟に行清、行昌。息に行是、行信。
西山* (*)旦右衛門。湖北の豪族。浅井家家臣。小谷城で久政自害の時を稼ぐ。
西野* (*)入道。湖北の豪族。浅井家家臣。1570年千田と共に小谷城在番。200~300騎率いる大将。
伊部* (*)清兵衛。浅井家家臣。<京極家家臣・伊部為利の後裔か?。>
<浅井家 外様・先方衆>
○浅井家と元同盟関係の領主。今井・河毛・今村・赤尾・堀・安養寺・三田村・弓削・小野・河瀬・二階堂。
○赤尾清綱 (*1514~1573)孫二郎・美作守。伊香郡木之本赤尾の国人領主。元・京極家被官。浅井家外様衆。浅井亮政の代からの重臣。雨森・海北と並ぶ宿老、「海赤雨三将」。1559・60年に浅井賢政を擁立して当主・久政を引退させる。1560年六角家との「野良田の合戦」に従軍し軍功。小谷城内にも赤尾曲輪を持つ。1571年木下秀吉の守備する横山城を浅井井規と共に攻撃。小谷落城に捕虜となり斬首される。1573年小谷落城の際、息の新兵衛は一命を助けられる。伊香郡赤尾城主。<赤尾(浅井)教政の跡職か?。浅井家三代を支える。>
▽赤尾清冬 (*)新兵衛尉。浅井家外様衆。1560年浅井長政を擁立。1561年六角氏との「太尾の合戦」に従軍。<清綱の息子だとも。>
⇔○堀 秀村 (1556~1574*1599)次郎・二郎・遠江守。元・京極家被官、多賀氏与力。浅井家外様衆。浅井家と同格の北近江の豪族。坂田郡鎌刃・長比の土豪。堀元積の息。浅井長政の旧臣。家老・樋口直房に補佐される。1570年織田家に早く臣従する。1571年浅井井規を撃退。1574年羽柴秀吉と対立し失脚。近江坂田郡鎌刃城主。手勢500有余の動員力(10万石相当の所領を持っていたとも)。のち羽柴秀長に出仕するとも。
⇔▽樋口直房 (*~1574)三郎左衛門・三郎兵衛・四郎兵衛。堀家家臣。堀秀村の家老。野村直隆とは縁戚。1570~1572年間に織田家に臣従する。木下秀吉の与力。のち江北一揆鎮圧の不手際により失脚。秀吉に誅殺される。
⇔↑田那部* (*)(田辺?)・式部丞。坂田郡の土豪。浅井家家臣。堀秀村の与力。1570年姉川合戦前後に織田家に臣従する。<遠藤家家臣の田辺式部丞は一族か?。親子か?。>
⇔久徳実時 (*)弓徳・左近兵衛。近江犬上郡多賀久徳の土豪。浅井家から六角家に離反。堀秀村の与力。織田家に臣従する。羽柴秀吉長浜時代の与力。1573年8月越前乱入「朝倉・浅井征伐」に従軍。1581年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆南方組。1582年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆南方組。親明智派。のち堀家家臣。
⇔嶋 秀現 (*)島。坂田郡の土豪。浅井家家臣。堀秀村の与力。織田家に臣従する。<今井家与力の島氏と同族か?><織田家の加賀に派遣された島兄弟は織田一族ですが、近江の嶋家とは関連ないのでしょうか。>
▽嶋* (*)島・又四郎。坂田郡の土豪。浅井家家臣。堀秀村の与力。
⇔○浅見* (*)次郎・対馬守。浅見家嫡流・浅見貞則の息。元・京極家被官。浅井家外様衆。尾上城主。小谷城に焼尾丸を持つ。(大獄のふもと焼尾砦を守備とも。)1573年8月月ヶ瀬落城後、浅井滅亡直前に降服。柴田勝家与力。息に大学助。<父も対馬守。兄に紀伊守?><京極氏への江北諸豪族の下克上の際、浅見家が盟主だった。もとは浅井と対等以上の国衆。>
▽浅見* (*)紀伊守。貞則の息。兄弟に対馬守。浅井家家臣。1546年浅井久政に従い海津表に出陣。<浅見貞則の息とも。>
⇔浅見景親 (*)大学助。元・京極家被官。浅井家外様衆。浅見対馬守・貞則の息。浅井氏の旧臣。北近江尾上城主。小谷城焼尾丸郭の守備。1573年8月織田軍に降伏。信長軍を引き入れ小谷落城に協力。柴田勝家の与力。のち蒲生氏郷に出仕する。<織田に通じますが江北の所領を没収されたことになっています。浅井家滅亡後、江北三郡は秀吉に与えられたことになっているのですが、浅井郡・伊香郡の武将配置が不明なのですが、ひょっとして秀吉の全支配ではなくて、柴田さんの与力も点在していたかもしれませんね。変後に柴田勝豊領となって、更に柴田勝家の滅亡で織田家の江北支配の歴史が消えてしまったかもしれませんね。>
⇔浅見忠実 (*)宮内少輔。浅井長政旧臣、近江(佐和山)衆。丹羽長秀の妹婿。<京極家に仕えた浅見家は元、浅井家と同格もしくはそれ以上の有力豪族。丹羽長秀さんにとって、北近江・佐和山支配の重要人物かもです。><一族の大学助・景親は柴田勝家の配下。>
今井定清 (*~1561)坂田郡新庄の領主。今井秀俊の息。元・京極家被官。浅井家外様衆。浅井家と同格の国人領主。浅井家家臣。1561年「太尾の合戦」に磯野員昌隊に味方討ちされ戦死。
○今井秀形 (*)箕浦城主。今井定清の息。1561年父・今井定清が磯野員昌家中の者に討たれ、今井家が没落する。家老の
島秀安・井戸村光慶が補佐するが、今井家は浅井氏により解体される。浅井家家臣。
島 秀安 (1503~1580)四郎左衛門・若狭守。今井家一門にして家老。のち浅井直臣となる。高島郡の土豪。浅井家家臣。織田家に臣従する。<朝妻の四木合戦に登場する島氏か?>
⇔▽島 秀淳 (*)新右衛門。島秀安の息、秀宣の弟。今井家一門にして家老。高島郡の土豪。浅井家家臣。織田家に臣従する。磯野員昌与力。<朝妻の四木合戦に登場する島氏か?>
▽島 秀宣 (*)又四郎・四郎左衛門。島秀安の息。秀宣の兄。今井家一門にして家老。高島郡の土豪。浅井家家臣。織田家に臣従する。磯野員昌与力。<朝妻の四木合戦に登場する島氏か?>
岩脇定政 (*~1572)市介・筑前守。坂田郡の土豪。元・今井家の家臣。浅井家家臣。1572年織田家に離反した堀秀村を攻撃し討死。
○今村氏直 (*~1570*)掃部助。元、浅井・浅見氏と同列の京極氏被官。浅井家家臣。1560年六角家との「野良田の合戦」に従軍し軍功。1570年「姉川の合戦」に討死。<1573年阿閉与力として山本山城を守備するとも。>
○河毛清充 (*)次郎左衛門・三河守。浅井家奉行人。
▽河毛清旨 (*)次郎左衛門。浅井家家臣。河毛清充の息。浅井氏滅亡の直前に織田家に臣従する。
↑○弓削家澄 (*~1570)六郎左衛門。浅井郡の土豪。浅井家家臣。1560年「野良田合戦」に従軍。1570年「姉川の合戦」にて討死。<六角方の結解(けつげと言われているが、弓削と読むと思います)十郎兵衛は敵対した一族か?。>
○河瀬* (*)川瀬。浅井家家臣。六角氏との前線、犬上郡・蓮台寺城主。<京極氏被官に河瀬氏。河瀬九郎。>
⇔▽河瀬宗綱 (*)(今井)・八郎兵衛尉・兵部丞。浅井家家臣。浅井家滅亡後、本願寺に出仕。のち今井に念仏道場を建立。息に富綱。近江河瀬城主。
⇔↓高野瀬秀澄 (*~1570)美作守。犬上郡の豪族。元・六角家家臣。高野瀬秀隆の息。1560年浅井方として肥田籠城。六角義賢の軍勢25000に包囲される。後詰に出動した浅井長政が「野良田の合戦」で義賢を撃破。六角家は斎藤家と再度同盟。のち六角家に帰参。1569年織田家の上洛軍に抵抗するが敗走。1570年六角義治に味方し「野洲の合戦」に討死。肥田城主。<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。高野瀬秀隆は浅井に降る。六角家と浅井家の国境に位置し去就定まらずか。>
本郷 * (*)浅井家家臣。1560年「野良田合戦」に従軍。<若狭の本郷氏の分流か?>
〇若宮友興 (*~1566)喜助・左馬助。妻は明智家臣・石川小四郎の娘。元・京極家家臣。北近江守護代家。坂田郡の豪族。<娘婿に山内一豊家臣・五藤為重。尾張の北側の豪族と近江の豪族は交易による結びつきが強いのかもしれません。>
≪個人的感想≫ 山内氏が、鯰江氏系統の毛利勝信・勝永親子と特別な関係にもある様子です。若宮氏との繋がりや、近江の侍家と山内家の繋がりは、一豊以前からの先祖間での縁戚関係があるのではないでしょうか?。
(湖西) 前線・木戸城、高島城、田中城、海津城、今津構城。
(安養寺) 木戸佐野氏菩提寺。
安養寺氏久 (*)三郎左衛門。元・京極氏家臣。東浅井郡安養寺の豪族。1560年六角家との「野良田の合戦」に従軍し軍功。息に氏秀。
安養寺氏秀 (*)三郎左衛門。浅井郡の土豪。氏久の息。1560年六角家との「野良田の合戦」に従軍し軍功。1573年阿閉与力。山本山城を守備。息に氏種。
▽安養寺氏種 (*~1606)三郎左衛門尉。氏秀の息。浅井長政家臣。織田信長との取次。お市輿入れに協力。浅井氏滅亡後、京極高次に出仕。<経世と同一人物か?。>
○安養寺経世 (*)浅井長政の旗本。1570年「姉川の合戦」に奮戦。織田軍の捕虜となるが赦免される。
⇔安養寺* (*)猪之助・猪介。浅井家旧臣。のち丹羽長秀家臣。1583年「賤ケ岳の合戦」に従軍。湖北を水軍にて守備。敗走する桑山重晴軍を立て直す軍功。5千石。
(木戸)
⇔佐野秀方 (*~1572)木戸・十乗坊・栄有法師。志賀郡の豪族。1572年織田軍に木戸城を奪取され逃亡。<佐野豊賢1348年樹下神社建立。>
▽田子氏久 (*~1573*)左近兵衛。朝倉家家臣。木戸城主・佐野秀方に替わり木戸在番。
(田中)
田中定光 (*~1573)左衛門尉。志賀郡の豪族。1573年明智光秀、中川重政、丹羽長秀により討伐される。近江比良城主(福田寺)。<1568年六角家につく田中氏あり。高島郡から追い出された田中氏が客将として前線か?>
<今津湊>
河原林* (*~1573)瓦林・弾正。織田信長軍の侵攻により敗退。高島郡今津城主。<摂津の瓦林氏は近江出身の様です(日野神社を勧請)ので今津瓦林家が本家かもしれません。>
<江北衆>
⇔赤田* (*)隼人正。丹羽長秀の娘婿(丹羽長紹の同母)。元・浅井家家臣。のち丹羽長秀の家臣。<伊勢の豪族の赤田氏の分流か。浅井家臣の(越後赤田荘系)赤田隼人正・(源ノ)隆が浅井方で「姉川の合戦」に参戦。犬上郡の豪族。小谷籠城戦に参加し戦死。八町城主。息に堅(秀吉家臣1593年没)、信濃守・興。この隼人正は赤田堅のことを指すか。>
⇔↓多賀賢長 (*)(藤堂)・信濃守・(常則)。浅井家旧臣。のち丹羽長秀家臣。藤堂嘉房の兄。のち織田信長の直参。<信長様馬廻の多賀常則と同一人物かも、とのことです。>
藤堂嘉房 (1543~1603)多賀・九郎左衛門・勝兵衛・良家・良直。浅井家旧臣。藤堂良隆の婿養子。兄とともに織田家に従う。のち丹羽長秀の与力。5千石。
▽藤堂嘉清 (1559~1600)(多賀)・喜左衛門・玄蕃頭・良政。嘉房の息。のち丹羽長秀家臣。信長直参、のち羽柴、藤堂家に出仕。
⇔入江* (*)小二郎。浅井家旧臣。のち丹羽長秀家臣。1583年「賤ケ岳の合戦」に従軍。安養寺とともに湖北を水軍にて守備。
⇔熊谷* (*)近江塩津の豪族。浅井家旧臣。のち丹羽長秀家臣。<若狭の熊谷家とは別家のようです。><1555年熊谷平次郎は敦賀疋田城を攻撃。><石田三成の婿となる熊谷直盛と関係があるかもしれませんね。>
⇔多賀常則 (*~1589)新左衛門・伊予守。浅井氏旧臣。近江犬上郡の土豪。1570年9~12月朝倉勢と近江「坂本の対陣」に従軍。1573年8月越前乱入「朝倉・浅井征伐」に従軍。1580年津田宗及茶会に富田一白とともに列席。1581年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。1581年「伊賀平定戦」に北畠信雄配下「甲賀口」従軍。1582年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。親明智派だが秀吉に早く内通する。<多賀貞能は高島郡、多賀常則は犬上郡に所領があるようです。多賀一族ややこしい。><明智殿逆心の以後、山崎古我縄手合戦の砌、(犬上郡)多賀新左衛門、久徳六左衛門に誘われ候て光秀卿方に罷りあり。『近江馬場氏由緒書』。>
⇔▽多賀常直 (1542~1617)吉左衛門。常則の息。父に従い各地に従軍する。多賀隊の副将。<多賀貞能の守護代・信濃守家は堀秀政の弟・多賀秀種が継承します。>
⇔多賀貞能 (*~1587)新右衛門・信濃守。京都所司代・近江守護代家。豊後守貞隆の息。近江高島郡に所領。のち丹羽長秀家臣。1572年江北出陣に従軍。虎御前山を守備。堀秀政の弟、多賀秀種(1565~1616)を養子とする。<浅井家の多賀常則さんとよくごっちゃになります。堀家から養子の秀種さんは兄(堀秀政)が兄ですから、もうバリバリですね。><1582年に武田家滅亡後、草津温泉に湯治の許可がでたのは、この多賀か?><明智殿逆心の以後、山崎古我縄手合戦の砌、(犬上郡)多賀新左衛門、久徳六左衛門に誘われ候て光秀卿方に罷りあり。『近江馬場氏由緒書』。><京極家の家宰・多賀高忠の子孫らしいです。>
⇔↑○多胡* (*)田子・惣右衛門。磯野員昌の与力となる。のち養子の津田信澄与力。<尼子重臣の多胡さんと親戚かも。><木戸城主となる朝倉方の田子氏か。>
<浅井水軍衆>
(塩津)湖北三津。平清盛が重盛に深坂峠に運河(大川)を曳く様に指示(完成せず)。1572年沖島・堅田・打下水軍が襲撃。
熊谷氏、三家。大膳家は秀吉に出仕。
(大浦)与請入海?1572年沖島・堅田・打下水軍が襲撃。
1445年日差・諸河の領地をめぐり菅浦湊と戦う。
(菅浦)菅浦水軍。丸子船を生み出す。
八木・公文氏。1445年大浦湊と戦う。
安養寺氏。1445年大浦湊と戦う。
(海津)湖北三津。海津衆、饗庭・田屋・新保。1572年沖島・堅田・打下水軍が襲撃。
海津政元
(今津)湖北三津。
(舟木)安曇。
(高島)清水山城主。
高島高賢 1565年長政と敵対。
(木戸)
木戸小太郎 1560年「野良田合戦」に六角義賢方で敗戦。
田中治部大夫 1560年「野良田合戦」に六角義賢方で敗戦。
(和邇)
(打下)
林 員清 織田方。1572年信長の動員により沖島水軍とともに湖北湊の襲撃。1575年信長命で越前北庄で切腹。
(堅田)
居初、馬場、猪飼氏。 のち明智光秀家臣。
<湖北十ケ寺(一向宗:真宗門徒)> 1570年9月頃 本願寺一揆蜂起。湖南、三宅・金森寺内町が連携。
①福田寺 福田覚世 (*)福田11世。浅井領江北10ヶ寺のひとつ。
②誓願寺(長沢城) 長沢氏。浅井領江北10ヶ寺のひとつ。
③福勝寺(福勝寺城) 浅井領江北10ヶ寺のひとつ。
④浄願寺 浅井領江北10ヶ寺のひとつ。
⑤順慶寺 浅井領江北10ヶ寺のひとつ。
⑥金光寺 浅井領江北10ヶ寺のひとつ。
⑦中道場(授法寺)
⑧真宗寺(増田城) 増田氏。浅井領江北10ヶ寺のひとつ。
⑨称名寺(尊勝寺城) 浅井領江北10ヶ寺のひとつ。
⑩請願寺(内保城) (誓願寺)長泉寺:蓮乗寺。浅井領江北10ヶ寺のひとつ。
⑪明楽寺 浅井領江北10ヶ寺のひとつ。⑦と入れ替わるかもしれません。
(宇津氏)反織田同盟。 1535年小野郷に関所を設置し若狭、山国庄からの海産物を掠奪。
宇津頼高 (*)右京亮。内藤家家臣。松永長頼家臣。丹波国桑田郡宇津庄の豪族。息に頼重。
▽宇津頼重 (*~1579)右近大夫。頼高の息。東丹波の国人領主。皇室領を横領する。京都北方を征服。反織田派。1573年足利義昭の御供衆。1577年織田軍を撃退。1579年明智光秀に敗北。息に頼章。
▽鳥居* (*)山国庄、公文職。宇津氏に従う。
多賀家は古代豪族時代からの近江の名門のようです。
石山本願寺の勢力圏とその他の寺院勢力。 惟住軍団が内なる敵と各地で転戦。
近江は堅田御坊、金森御坊、旧近松御坊など本願寺の拠点があり信者も根強く居た事でしょう。治安の維持も一筋縄ではゆかないのでは。
浅井長政相続時の合戦兵力
1560年「四木合戦」対六角氏の前哨戦。
六角方=朝妻城・新庄氏?
浅井方=若宮氏、島氏。
1560年「野良田の合戦」肥田城後詰軍・浅井賢政(長政)軍団、『江濃記』・『浅井三代記』
先陣五千=百々内蔵助、磯野員昌、丁野若狭守
本陣六千=赤尾美作守清綱、今村掃部助氏直、安養寺氏秀、上坂刑部正信、弓削家澄、本郷*
横槍遊軍=大野木茂俊
(援軍)
朝倉式部大輔(500兵)
<1550年代? 近江流出の人材>
<親 織田信長勢力>
村井貞勝 (*~1582)織田信長の家宰。京都所司代。
瀧川一益 (*)冨永一益。織田信長家臣。関東御番役。
伴 長信 (*~1582)太郎左衛門。近江甲賀21家のひとり。信長馬廻衆。直参御番衆。
<反 織田信長勢力>
河田長親 (*1545~1581)豊前守・貞政。近江守山出身。越後衆。上杉謙信家臣。上杉家の侍大将として織田家との前線へ。
河田重親 (*~1578)伯耆守。近江国出身。河田長親の叔父。越後衆。上杉謙信家臣。
吉江景堅 (*~1582)喜四郎・信景・資堅。越後衆。近江国出身。上杉家の侍大将として織田家との前線へ。
五十公野信宗 (*~1587)長沢・甚五郎・道如斎・三条信宗。元、能登の湯山城・長沢筑前守の家臣。上杉輝虎に召しだされ、揚北衆・新発田重家の妹婿。
小川元政 (*)右衛門・兵衛尉。近江出身。毛利家家臣。毛利家の侍大将として織田家との前線へ。